1999.7.6 桜ヶ丘病院.新宿.東京.
「オ兄チャン!」
ICU前に駈けてきた龍麻に、マリィが叫びながら飛びついてきた。
「マリィ、醍醐の様子は!?」
「ワカンナイ、マリィ、ワカンナイヨ……!」
完全にパニックになっている。とても話を聞ける状態ではない。
先ほど自宅にいた時に高見沢舞子からの電話を受け、慌てて雨中の新宿を桜ヶ丘まで来たのだが……
ICUの前は静まり返っており、時折聞こえる空調の音以外は物音一つしない。9時半頃から降り始めた雨の音も、ここまでは届かないようだ。
この状況で一人待っていたマリィの心細さは手に取るように伺える。
高見沢の電話に曰く、醍醐が重傷を負わされた、と。
彼女も急いでいたらしくその時はそれ以上聞けなかったのだが……
と、廊下をパンプスの足音がこちらに向かって来た。
「比良坂!」
ふとそちらを見ると、桜ヶ丘病院看護婦見習い、比良坂紗夜がこちらへ厳しい足取りで向かってくる所だった。
「あ、龍麻さん! すいません、マリィちゃんをお願いします!」
「アイツは、醍醐は大丈夫なのか!?」
「まだ何とも言えません。ただ、危険な状況だとしか……すいません、話は後で!」
いつもは穏やかに微笑んでいる比良坂の顔が、見た事も無いほど厳しく引き締まっている。
その気迫とも言える勢いに飲まれて、龍麻は黙ってICUに入る彼女を見送った。
「オ兄チャン、醍醐オ兄チャンが、醍醐オ兄チャンが……!」
胸にしがみついて泣きじゃくるマリィを優しく撫でながら、龍麻はICUのドアを睨み付けるしか出来なかった。
「龍麻、来ていたか!」
やがて間もなくICUから岩山院長が姿を見せた。
その表情は厳しい。
「先生、醍醐は!」
「まだ治療中だ。余裕が無い。ちょうどいい、お前はとりあえず、美里と ――― 如月とアランと言ったか、四神の二人に連絡を取ってくれ。助けが要る。それと龍山老師もだ。急げ!」
「は、はい!」
弾かれるように駆け出し、公衆電話まで行く。今となっては希少価値が出ているであろう、昔懐かしいダイヤル式のピンク電話だ。テレホンカードも使えない。
ポケットから小銭入れを取り出し、葵の家のナンバーをダイヤルする。
数回のコール音の後、電話が取られる。
「……あ、夜分遅くにすいません、緋勇と申しますが、美里さんのお宅でしょうか?」
『龍麻?』
心配そうな、だが何処か安堵したような美里葵の声が受話器の向こうから龍麻の耳に届く。
「美里か?」
『ええ、どうしたの、こんな時間に?』
「すまないが、今すぐに桜ヶ丘に来てくれないか? 時間が無いんだ」
『桜ヶ丘に?』
聡い葵は、それだけで何かただならぬ事があったと悟ったものらしい。
声が一転して緊張する。
『まさか、マリィに何かあったの!?』
「いや、マリィに大事はない。けど、醍醐が重傷を負っているんだ。危険な状態らしい。岩山先生が、美里達の助けが要る、って……今話している時間も惜しいんだ」
『分かったわ、すぐに行く』
「じゃあ、これから迎えに行くから、準備だけしておいて……」
『ううん、タクシーで行くから大丈夫。龍麻はマリィの側にいてあげて。不安がるといけないから……』
あの頃と何ら変わっていない、彼女の気丈な優しさに龍麻は甘える事にした。
「わかった。でも、気をつけろよ?」
『ええ。それじゃ、すぐに行くから』
美里との電話を切り、続けざまに如月へ連絡を取ろうと、再度小銭を取り出す。
携帯電話を持たない自分を少々恨めしく思いつつ硬貨を入れ、如月骨董点の番号をダイヤルしようとした時、背中に何か柔らかいものがぶつかってきた。
ダイヤル途中の指を止めて首だけ振りかえり、背中にしがみつく少女に声をかける。
「……マリィ?」
「オ兄チャン、マリィ、マリィどうしよう……醍醐オ兄チャンが、マリィのせいで……!」
醍醐の怪我はそれ程にひどいのだろうか。マリィはまだパニック状態のまま、ひたすらに泣き続けている。
受話器を戻し、振り返ってそっと膝を曲げ、マリィと視線の高さを合わせて、龍麻は優しく言った。
「でもマリィ、マリィのせいと言っても、それは醍醐がマリィをかばって、という事だろう?」
おおよその見当はつく。恐らくは敵 ――― 弓部か? ――― がマリィを狙い、そこに居合わせた醍醐がマリィをかばって怪我をした、という所か。
優しいマリィの事だ、それを自分のせいだと思いつめるのも無理はない。
だが、諭すような龍麻の言葉に、マリィは一層激しく首を振って答えた。
「違ウ! 違ウノ、マリィが、マリィがやったの……!」
「マ、マリィ……?」
あまりに激しいその言いように、龍麻は逆に言葉を失った。
半狂乱とも言えるほどに激しく泣きながら、マリィは少しずつ、その時の様子を龍麻に漏らし始めた。
1999.7.6 白波児童公園.新宿.東京.
「はじめまして、醍醐先輩」
テレジア中学校最寄りの児童公園。
メフィストを探して公園に入った醍醐とマリィは、眼前に現れた青年と対峙していた。
「本来は、そちらのお嬢さんだけを招きたかったんですがね……まあ、せっかくいらして下さった先輩をもてなさないというのも不調法でしょう。せめて精一杯、おもてなしをさせて頂きますよ」
青年は、中性的な美貌にふわりとした笑みを浮かべて、あくまで穏やかに言い放った。
対称的に醍醐の精悍な顔は引き締まる。
この穏やかな顔の青年は、マリィをおびき寄せた、と言った。そして、自分の名を知っている。更には自分を先輩と ――― 真神の卒業生だと知っている。
「……貴様、何者だ?」
マリィをかばうように立ったままさりげなく半身になり、いつでも飛び掛かれる体勢を取って醍醐が問う。
空気が重いのは、雨雲のせいだけではないだろう。
「貴方の後輩ですよ。つい先日から、ね」
「俺とマリィに何の用だ?」
青年の軽口を無視し、続けざまに質問をかぶせる。
背後ではマリィが意識を集中させているのが分かる。
「人に逢いに行った時、ドアが開かなかったらどうします?」
「なんだと?」
「普通はドアを開けますよね。だけど開かない。鍵がかかっているか、つっかえ棒がしてあるか……」
「おい、何を言っている?」
「でもどうしてもその人には逢わなくてはいけない。だったら……」
「答えろ!」
青年の、穏やかな口調に耐え兼ねたのか、醍醐が大声を上げる。
次の瞬間、その右肩に15cmほどの長さの刃物が突き立っていた。先程、マリィをかばった時に刺さった場所のすぐ横だ。
「くッ……!?」
「鍵を壊すか、ドアを破壊するしかないですよね」
思わず苦鳴を漏らす醍醐に構わず、青年は変わらずゆったりと続ける。
肩に突き立った刃物を見る。暗器の一種か? だとすれば中国武術……いずれにせよ、醍醐ほどの武道家にそれと悟らせず投擲し、命中させるその力量はかなりのものであろう。そして、先程と同じく、冷気を伴う痛み。もしや術も使うのか?
突き立ったままのそれを引き抜き、息吹による錬氣を行って体内に氣を巡らせる。
「何を考えてのことかは知らんが……俺はともかく、マリィまでも陥れようという魂胆が気に入らん」
「本気にさせてしまいましたか。やはり、今ので仕留められなかったのは痛いなぁ……」
真剣勝負の場とは思えない茫洋とした声が青年の口からこぼれる。
小銭が足りなくてジュースが買えない、といった風なのんびりとした口調だ。
「だけど、良いんですか?」
「なにがだ」
「……人間のままの本気で?」
「!?」
醍醐が目を見開く。
――― こいつ、何処まで知っているんだ!?
その驚きが走るよりも速く、青年の姿がぶれる。
今まで、醍醐の視線をぶれさせた使い手は、幾人かいる。だが。
蓬莱寺京一のような閃光の如き激しい動きではない。
壬生紅葉のような陽炎の如き刹那の動きではない。
緋勇龍麻のような歌舞の如き流麗な動きではない。
つまるところ、武術家としての動きではない。ただ、姿がぶれた。
体動によるものであれば、醍醐は反応できたろう。だが、青年の動きは醍醐の反応し得る所ではなかった。
――― 右!
だがそれでも、本能と言うべきか醍醐はギリギリの所で反応し、急所を狙って飛来した暗器を弾き落とす。
そのことに安堵する間もなく青年は巧みに位置を変え、こちらへ暗器を放つ。
躱し切れぬものでもないが、その同一直線上にはマリィがいる。躱すのではなく暗器を防がねばならない。
――― このままでは埒があかん!
意を決し、急所をかばったまま青年との間合いを詰める。
自然相手の暗器を防ぐのは辛くなるが、数撃を食らっても自分の間合いに引き込めば勝てると踏んだのだ。
迷うことなく猛然と突っ込んでくる醍醐に、青年が立て続けに投擲する。
躱す事も弾く事もせず両の腕に受けながら間合いを詰める。
だが、青年は慌てた様子も無く、一言呟く。
「臨」
その呟きと同時に大地から光の柱がわき上がる。いつのまに張っていたものか、青年の周囲には無数の符が配置されている。
符が形成する結界に、醍醐は足を止める。
「ち……!」
「慣れない体術なんか、使うものじゃないですね。疲れちゃいましたから、ちょっとズル休みします」
「俺が、休ませると思うか?」
「休めますよ。この結界を破るのはほぼ無理ですからね」
「そうとも限らんさ……!」
相手も《力》を使うのであれば躊躇の必要はない。
丹田に氣を溜める。
全身のチャクラをイメージする。
変わるのでは無い、戻るのだ。
「おおおおおおおおーッ!」
氣が、そして肉体が変質していく。否、戻っていく。
本来の有るべき姿、西方の守護聖獣・少陰白虎の宿星に相応しい姿に。
その氣も、肉体も、質量すら感じさせる威圧感も、白虎と化した醍醐はまさに人知を超えた《力》を持っていると言える。
氣は充実ぶりを現すように、マリィの目にも鮮やかな純白のオーラとなって全身をあまねく覆っている。
かつては悩み、恨み、憎みさえしたこの《力》も、今では自分の一部と受け止めている。
「いくぞ!」
鍛え上げられ、そして氣に覆われた指が猛虎の爪と化して振るわれる。空気をも引き裂く爪は、果たして青年の創り出した結界をいともたやすく引き裂いていた。
だが、そのまま爪が青年を襲うよりも一瞬だけ速く、青年はその場から飛びのいている。
「素晴らしい……さすがは四神の一、まさしく千里を駆ける猛虎の猛々しさ!」
「こうなった以上、後悔は病院のベッドの上でするんだな!」
先程に倍する勢いで醍醐が肉薄する。
青年が懐に手を差し入れ、符を取り出し、打つ。打たれた符は瞬く間に燃え上がり、火の玉と化してそのまま醍醐の進路を遮るように中空に静止する。
「邪魔だッ!」
蟲を払うように醍醐が左手を振り、火の玉を払いのける。
掌に凄まじい激痛が走る。が、その痛みを無視して更に迫る。
青年の両手が素早く印を組む。と同時にその姿が霞み、醍醐の前から消える。
「小賢しい!」
かなり高等な術なのであろうが、白虎と変生した醍醐の前には笑止なまやかしに過ぎない。吐き捨てるように叫び、何も無い空間に氣の塊を放つ。
青白い燐光が醍醐の掌から迸り、空中の一点で爆ぜる。
醍醐と氣が爆ぜた一点の延長上にこちらに掌を突き出した青年が姿を現す。
その顔には、今までの憎らしいまでの余裕はない。
「く……」
「さっきまでの威勢はどうした!」
続けざまに醍醐が勁を放つ。
手にした符でその勁を弾くものの、青年の顔は厳しいものに変わっていた。
「やはり、僕の術では弾くのが精一杯ですか……」
「俺とて、腐っても四神の一人だ。貴様如き、得体の知れぬ輩に負けてやる理由はない!」
「では……こういうのはどうです?」
青年が、一つ指を鳴らす。
またなにか術を!?
警戒する醍醐の足元から凄まじい勢いで光柱が吹き上がる。
これまた醍醐の足元に、いつのまにか配されたのか6枚の符があった。
1本、また1本。
囲むようにそれらの光が5本わきあがった時、醍醐の動きは封じられた。
「がぁぁッ……!?」
身を縛る重圧感に、思わず醍醐が声を漏らす。
動けない。いかなる作用によるものか、醍醐の身体はまさに指一本たりと動かせなくなっていた。
「術師との戦いの最中、前しか見えない愚かな獣は足元をすくわれるんですよ。痛手を与えるだけが、術ではありません。さて……」
光の檻の中で固まっている醍醐を捨て置いて、青年がマリィの方へと向かう。
「この人は放っておいても死にますから、先にお嬢さんを仕留めましょうか」
「……マ、マリィだって……シシンの一人なんだからァッ!」
それまで恐怖にすくんでいたマリィだが、醍醐が囚われるに至って勇気を振り絞った。
青年の体が紅蓮の炎に包まれる。
「く…………!」
「醍醐オ兄チャンを、放して!」
「……この程度の炎で、脅迫ですか?」
炎に包まれたままの青年が、軽く右手を振る。それだけで、身を包む炎が斬り払われる。青年の体には焦げ痕ひとつついていない。
「ソ、ソンナ……」
「期待外れだな…………朱雀の化身というからもう少し期待していましたよ」
青年の手から暗器が放たれる。
意識を集中して炎を放ち、暗器を空中で弾く。醍醐のように素早く躱す事も、手で受ける事もマリィには出来ない。
「へぇ、一応その程度の事は出来るんですね」
心から感嘆した表情で青年が呟き、歩を進める。
「でも、近い間合いで放たれても、弾けますか?」
「こ……来ないデ……イヤァァ!」
怯えきり、相手も見ずに炎を放つマリィ。
だが、その炎のほとんどは青年に当たらなかったし、当たった数発の炎も青年の手にした符によってかき消されていた。
「無駄ですよ。今の貴方の炎じゃあ、僕の髪の一筋すら燃やせない」
恐い。この人、恐いヨ……!
マリィは心底怯えきっていた。だが、今彼女を守ろうとしてくれた醍醐は囚われ、他に彼女が頼るべき人はいない。優しい義姉も、その仲間も、そして ――― 彼も。
だが、義姉と、義姉と同じぐらいに優しい青年の顔を思い浮かべた時、マリィの身体から震えが消えた。
――― マリィだけが逃げてちゃダメなんダ……醍醐オ兄チャンもそうしたように、マリィも戦わなくちゃ!
忌まわしい《力》。マリィから本当の両親と、幼少の思い出を奪い去った憎らしい《力》。
だが、その《力》のおかげで彼女の今大切な人達を護る事が出来た。
今一度、勇気を出して……戦う時だ!
キッと青年を睨み付け、マリィは意識を高める。
かつては怒りによってのみ顕現した《力》。自らの意志で使う事など、考えもしなかった《力》。
「Yeahhhhhhhhhhhhh!!」
マリィの小さな身体から、圧倒的な氣の奔流が巻き上がる。
紅蓮の氣はひとたび四散し、収束する。
そして、マリィは変生した。
四神の一、南方の守護聖獣・老陽朱雀の宿星に相応しい姿に。
金色の光を放つ双眸。
緋色の光が形成する背の翼の作用か、その身体はわずかながらも宙に浮いている。
「マリィだけが傷つかないわけにはいかナイ……マリィも戦ウ!」
「く……これが、朱雀……なるほど、凄まじい氣だ……」
だが、青年の顔は引き締まりはしたものの穏やかな笑みを失ってはいない。
「Fire!」
マリィが炎を放つ。
恐ろしく収束された高密度の炎が空気を灼き、青年へと走る。
「オン!」
青年が印を組み、瞬時に結界を形成してその炎を受け止める。
炎と結界の一瞬の均衡は、すぐに崩れた。
青年が後方へと弾き飛ばされる。
「Burn out! Go along!!」
間髪入れず放たれる炎。広範囲に放たれた炎は、躱す事すらできまい。
青年は態勢を直すと同時に符を打ち、周囲に水気の壁を形成する。
壁が炎を防ぐ一瞬の隙に再び符を打ち、転移する。
だが、今のマリィの瞳は猛禽のそれに等しい。刹那の間もおかずに青年の位置をとらえる。
転移後の、不安定な姿勢。これを待っていた!
「It’s final!! Go to blazes!!」
満を持して放つ、最大最強の炎が青年を襲う。
躱しようの無いタイミング。弾く事も適わぬ威力。
だが、青年の顔には不敵な笑みが浮かんでいた。
流れるような動作で懐から一枚の符を取り出し、自らに迫る炎に向けてかざす。
いかなる手段を持ってしても、今のマリィの炎は防ぎ得ない様に思えた。
だが、事もあろうか、マリィの炎は細く、更に収束され、青年がかざした符に吸い込まれてゆく!
「エェッ!?」
いかに堅牢な結界といえども打ち破るつもりで放った炎がこともなげに吸収されたのを見て、マリィの瞳が驚愕に見開かれる。
そして。
「ぐぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
光の結界に囚われた醍醐の口から凄まじい絶叫が響き渡った。
「醍醐オ兄チャン!?」
慌ててそちらに視線を向けるマリィ。
何と、結界の内には紅蓮の炎が充満している!
「そんな、ナンデ!? ナンデ!?」
マリィは直感した。あの炎は、今まさに自分が放ったものだ、と。
「僕の力じゃあ、白虎の肉体を滅ぼす事は出来ませんからね」
立ち尽くすマリィに、青年が優しく声を掛ける。
「本気になった四神を傷つけるのがかなうのは、その中心に座する黄龍か ――― 五行の理に基づいた宿星。つまりお嬢さんだけなんです」
「ヤメテ! お願い、醍醐オ兄チャンを助けて!」
「それは無理ですよ。だって、今醍醐先輩の身体を焼いているのは、僕じゃない……朱雀の化身・マリィ美里、貴女の放った炎なんですから」
「イ……イヤ…………」
「結界の中に転移符の出口となる符を置いておいたのにも気付かず、考え無しに炎を放った、貴女のせいで彼は焼かれていくんですよ」
「イヤアアァァァァァァァァァァッ!」
半狂乱となり、その場に崩れ落ちるマリィ。
青年はそのマリィの肩を優しく叩き、闇の中へと消えていった。
おりしも降り始めた雨が、マリィの小さな肩を濡らしていく ―――
1999.7.6 ICU前.桜ヶ丘病院.新宿.東京.
「マリィが……マリィが醍醐オ兄チャンを……」
蒼い瞳から滂沱と涙を流しながら、半ば放心状態となって独白を続けるマリィを、龍麻はただ抱き締めていた。
きつく、だがこれ以上無く優しくマリィを抱き締めながら、龍麻の瞳には激しい憤りの炎が宿っている。
――― 弓部……僕は、貴様を許さない……
まだ見ぬ《敵》を龍麻は今、はっきりと認識していた。
「大体の事情は分かった……龍麻、今回の事は、君のミスだな」
相変わらずのポーカーフェイスで、如月翡翠が言い放つ。
10数分後、桜ヶ丘には龍麻とマリィの他に、美里葵、如月翡翠、アラン蔵人、雨紋雷人、そして桜井小蒔の姿があった。
岩山女医の指示通りに葵と如月、アランを呼んだ後、龍麻は雨紋にも連絡した。すでに雨紋は少なからずこの事件に関わっているのだから、むしろ知っておいた方が良い。
小蒔は葵が呼んだものらしい。龍麻から連絡が来なかった事に腹を立てているが、事情を聞くに連れて言葉を失っている。
ただ一人、醍醐の師である白蛾翁こと新井龍山老師だけは連絡がつかなかった。
「如月サン、そりゃねえだろ? いくら龍麻サンだからって、そこまで目を配らせちゃいられねえよ!」
雨紋が声を荒げるが、如月は逆に厳しい視線を雨紋に向ける。
アランはといえば、常の軽口を叩く事もせず、腕を組んだまま黙っている。
「そういう事を言っているんじゃない。常に僕らを護れなんて言うものか。だが、龍麻。君は先日襲われた時、何故僕らに知らせてくれなかった?」
如月の、感情の起伏の感じられない、だが確かに怒っている声を掛けられ、龍麻は視線を逸らす。
その二人のやり取りを、ソファに座って膝の上でマリィを寝かしつけた葵が心配そうに見守っている。
「……それは……」
「言わなくても分かる。大方、僕らに迷惑を掛けたく無い、というのだろう?」
「そ、それは違う!」
「だとしたら、自分でせめて敵の正体なりと掴んでから、という所か」
「う………………」
「君のその優しさは尊ぶべき、愛するべきものだ。だから皆君を慕い、君についてくる。だが、その君が僕らを信じてくれなくてどうする? 僕らは君にとって護らねばならないだけの存在か? 君と共に戦い、考え、歩む事は出来ないのか!?」
「……………………」
「……すまない、きつく言い過ぎた。だが、覚えておいてくれ。君の優しさは最大の美点であると共に、最大の弱点にもなり得るんだ。特に、今回のような敵には、ね。あえて言わせてもらうよ龍麻。今回の事件は、君が僕らにもっと早く知らせてくれていたら、あるいは防げたかもしれない。その事は覚えておいてくれ」
「……本当にすまない……」
「悪いのは龍麻だけではありませんよ」
突然廊下に響いた品の良い、だが何処か威圧するような声に、全員が一斉に声のした方を向く。
「御門クン!?」
真っ先にその名を呼んだのは小蒔だった。
「御門……なんでここに?」
「何で、とはご挨拶ですね、龍麻」
冷淡な微笑みを崩さない御門の言葉を、如月が補った。
「僕が呼んでおいたんだ。どうせ君はあまり大勢に声を掛けないだろうからね」
「まったく。たまたま時間があったから良いものの……とは言え、今回の不始末は私にも責任がありますからね」
「? どういう事?」
先程の如月とのやり取りの間、心配そうに龍麻を見つめていた小蒔が問う。
「先日、龍麻に呪がかけられていました。まあ、とはいえ四神と黄龍が成す結界を破れるほどのものではなかったのですが」
「しゅ? しゅって……呪い!? ひーちゃん、大丈夫なの!?」
場所もはばからず小蒔が大声を上げ、心配そうな視線を龍麻に向ける。周囲の皆も、声こそ出さなかったが同様の視線を龍麻と御門に向ける。
「言ったでしょう、結界を破れるほどの呪ではなかった、と。それでも若干の影響が出ていたので、それは祓い落としましたが」
「それで、御門サンにも責任がある、ってのはどういうこったい?」
「予想されるべき事を予想し得なかった事です。敵が……まあ、十中八、九弓部でしょうが、弓部が龍麻を狙うのであればまずその周囲を守護する四神から排除しようとするでしょう。私とした事が、うかつにもその事に考えが至りませんでした」
御門がそう言った時、ICUから岩山院長の巨体が姿を現した。
心なしか、その顔は青ざめている。
「おや。龍麻、連絡はつけたようだね。他にも色々といるようだが……」
「先生、醍醐は!?」
「微妙だ。表皮の治療は滞りなく済んだが……」
そこまで言って、ふとマリィに目をやる。
泣き疲れたのか、緊張の糸が切れたせいか、義姉の膝に頬を乗せて眠っているマリィを見て岩山女医は言葉を継ぐ。
「……原因が尋常の炎ではないからな。氣の巡りがズタズタになっている。いまは高見沢と比良坂がもたせているが……このままでは、正直保証は出来ん」
「そんな……何とかならないんですか!?」
「何とかするために、こうやって顔を出した。龍山のじいさんがいないのは辛いが、御門と言ったね。あんたなら代わりは充分務まる。やっておくれかい?」
「でなければ、夜分遅くにここまで来ません。不本意極まりますがね」
「では、病院周囲の氣の流れを止めてくれ」
「止めるのですか?」
「ああ。余計な干渉を防ぎたい。出来るか?」
「愚問ですね。どれだけ止めていますか?」
「治療が終わるまでだ」
「分かりました。アランさんに手伝っていただきましょう」
「ボクが? ボクはフースイについてあまり詳しくないヨ?」
「そんなことは知っています。雨が降っているから水気が強まっているので、木気をもつ貴方に流そうというだけの事です」
「オーライ、分からないけど分かったヨ!」
二人が連れ立って外へと出て行く。
その背を見る事も無く、岩山は矢継ぎ早に指示を出す。
「桜井、お前は雨紋と一緒に病院周辺を見張れ。敵が来る可能性もある。美里は ――― そのままマリィを寝かせてやれ」
「僕はどうしますか?」
「如月と龍麻にはしてもらう事が……」
岩山院長がそう言いかけた時、ICUのドアが開いて比良坂紗夜が姿を現した。
「先生、来て下さい! 心停止です!」
「なに! いかん、龍麻、如月、来い!」
空気が一瞬で緊迫する。
「今、高見沢さんが何とか繋いでいますけど、効果が薄くて……!」
そう言う比良坂の顔にも、憔悴の色が濃く出ている。
廊下を早足に歩きながら岩山が龍麻と如月に説明する。
「簡単に説明するぞ。今醍醐の体内は氣の巡りが寸断されている。これを正しく直す術は、今の醍醐の身体にはない。だから龍麻から醍醐へ、醍醐から如月へと氣を流し、その巡りを尋常のものにする。いいか?」
「氣を流す……って、先生、僕は劉みたいに活勁は使えませんよ!?」
「この際構わん。荒療治になるが、微弱な勁を放て。心停止の際に使う電気ショックのようなものだと思え」
「はぁ……」
「なんだその気の抜けた返事は! 人命がかかっているんだぞ!」
「は、はい!」
岩山に叱咤され、龍麻と如月はICUのドアをくぐった。
前に戻る
次を読む
話数選択に戻る
SS選択に戻る
茶処 日ノ出屋 書庫に戻る
店先に戻る