1999.7.5 夜.浜離宮恩寵庭園.中央区.東京.
「…………ふむ?」
世にも珍しい事が起きていた。
陰陽師の東の棟梁にして御門家八十八代目の当主、御門晴明が自身の託宣の結果に首をかしげたのだ。
もしもこの場に彼の数少ない ――― と言うかほぼ唯一の ――― 悪友がいれば驚きつつも揶揄したであろうが、その人物は今は日本にいない。
「何とも……奇妙な卦が出たものですね」
そう言いつつも、もう一度託宣を視ようとはしない。
そのあたりは自らの力量に絶大な自負を持っている御門らしいと言えばらしい。
「仕方ありませんね……明日にでも、様子を見に行くべきですか」
誰にとも無く、そう呟いた。
1999.7.6 早稲田大学前.新宿.東京.
照り付ける日差しの中、緋勇龍麻は浮かない顔で歩いていた。
つい先日自分達を襲って来た異形のもの ――― 唐栖亮一によれば、魑魅 ――― のことについて思いを巡らせている、のではない。
変な寝方をしたのか、今朝から左手首から先が微妙に痺れているのだ。
龍麻も武を学ぶものとして、人体の急所は心得ているつもりだ。つまり、何処をどうすれば人間の身体が壊れるか、という事を。
それはまた、とりもなおさず自分の体に受けたダメージも適確に把握できるという事になる。その龍麻が、この左手の痺れの原因を計り兼ねていた。
利き手ではない事だし、多少痺れる程度で動かすのに支障も無かったので今朝から気にも留めていなかったのだが、流石に今日の講義を全部終えても痺れが引かないとなると多少気になる。
寝違えたと言うには奇妙な感覚だし、大体龍麻は寝相が良い方だ。今まで手首に限らず、身体の筋を寝違えた事など無い。
それに痺れの小ささに比較してまだ消えていないのが気になる。今朝方気にしなかったのも、この程度の痺れならばすぐに消えるだろうと踏んだからなのだが、痺れは一向に消えない。かといって痺れが大きくなる事も無く、ずっと左手の感覚がぼやけたような状態のままなのだが。
「……ちょっと神経質かな」
改めて考えてみれば、たかが手の痺れだ。今朝の型稽古も滞りなく行えたし、体内の氣の巡りにも支障はないのだ。
唐栖に言われた言葉が気になっているのかもしれない。
――― 古い呪術師の血筋が、新宿に向かって動いた。
自惚れるわけではなく、唐栖の忠告はもっともだと思った。この街 ――― 新宿で、自分とその仲間は呪術師・陰陽師・魔道師の類に狙われる可能性は大きい。
真神学園卒業式の後、仲間の内の一人、御門晴明が言っていた言葉を思い出す。
――― 龍麻、貴方は……いえ、貴方を含めた私達は、今現在この街でかなり大きい『力』を持つ集団として認識されています。自覚が無くとも、そのしてのけた事はあまりに大きすぎるからです。色々な輩が色々な手を使って接触してくるでしょうが、ゆめゆめ油断無きよう。
この『接触』の中に攻撃的な意味も含まれている事を、言外に御門は言っていたのであった。
確かに、黄龍の器足る自分と、その四方を守護する四神の宿星、陰陽会東の棟梁に、更に菩薩眼の娘 ――― 単なる技術・戦闘能力で言えば龍麻に勝るとも劣らぬ猛者も揃っている。こうして改めて考えると、その手の筋からは注目を集めて当然だな、と思う。
にもかかわらず今までそういった事象が無かったのは、龍麻らがあの戦いの後、努めて裏側の世界に接触しようとしなかったからであろう。無論、御門や壬生のように元々そちら側に深く関わっていた者を除いてだが。
だが、一つには御門の力もあるらしい。これは後になって村雨から聞いた話だが、東の棟梁としての権限をフルに生かして龍麻たちに無用な接触をさせないように取り計らってくれたらしい。御門自身にその事を言ってもとぼけるであろうから、礼も言えないでいたのだが。
『説曹操・曹操就到』という言葉をふと龍麻が思い出したのは、昨夜寝る前に読んだ三国志演義のせいだろうか。
「お久しぶりですね、龍麻」
静かに龍麻の横に止まった黒いロールスロイスの後部座席から、上品な、だが何処か皮肉めいた声が龍麻を呼んだ。
「……御門?」
「こうして偶然会えたのです。よろしければお送りしますよ」
あくまで超然と、声の主、御門晴明は言った。
――― 偶然、ね。
こと御門晴明に限って、およそ偶然と言う言葉がからむ事はないだろうに、ぬけぬけとそう言い放つ事にらしさを感じて、龍麻は唇の端に苦笑を浮かべた。
「ありがとう。でも、これから待ち合わせなんだ」
「では、その場所まで送りましょう。それとも炎天下を汗にまみれて歩く趣味をお持ちでしたか?」
素直に乗れ、って言えばいいのに……
器用なのか不器用なのか、いまだに図りかねるこの一風変わった友人の、だがその部分こそを龍麻は愛するべきものと感じていた。
「いや、じゃあお言葉に甘えるよ。駅前のGlassっていう喫茶店なんだけど」
「わかりましたね? それにしても、卒業以来 ――― ですか」
前半の言葉は運転手に投げかけ、隣りに乗り込んだ龍麻に愛用の扇子を手の内で弄びながら御門が言う。
「そう ――― だね。何人かとはあれからも逢ったんだけど、御門はいつも忙しそうだから」
「易でも始めたのですか?」
「へ?」
「連絡もせずに私が忙しいと知っているようでしたので」
龍麻は爆笑した。
心の中で、だが。
「いや、ごめんごめん。逢いたくなかったわけじゃないんだよ、ホント。でも御門は浜離宮の管理で忙しいと思ったから、さ」
「心外な。私にとって、あの庭園を創り出す事など忙しい内には入りません」
「ごめんってば。でもそうだね、その内またみんなで逢いたいな。秋月君や芙蓉は元気?」
「秋月様に変わりはありません。最近は不逞の輩も影を潜めていますからね。芙蓉も、無論相変わらずです。そちらはお変わりありませんか?」
「ああ、僕らも別に ――― 」
「本当に、何もありませんか?」
気軽な世間話にしては、いやに真剣なその視線に、龍麻は思わず言葉を飲みこんだ。
「…………いや、そうだね。そういえば、今朝から左手が痺れているんだけど」
「左手が? 見せて下さい」
言われるままに左手を御門に差し出す。
手首、掌、二の腕と、いっそ滑稽なほどに入念に調べる御門。
「……大事はないようですね。ですが、この痺れは自然には回復しませんよ」
「え?」
「この痺れは呪によるものです」
「しゅ? しゅって……呪? 呪法の事?」
「まあ、そうとらえて頂いて、問題はありません。しかし私が偶然来て良かった。今、痺れを外します」
あくまで今日の出逢いを偶然と言い張る御門に、内心苦笑しながらも龍麻は同時にその眼力に驚嘆と感謝をしていた。
按摩師のように左腕を何ヶ所か突く御門。ツボでも経絡でもないのだが、奇妙な感覚が龍麻の左腕を襲った。
「…………これで良いですよ。呪は祓いました」
「あ、ホントだ……痺れが取れてる」
左手を軽く開閉させる。今朝から靄がかかったようだった感覚が、嘘のように消えている。
「恐らくは二流以下の呪術者が不完全な術式でかけたのでこういった中途半端な結果になったのでしょうが、本来であれば左半身が壊疽して腐り落ちていたでしょうね」
「……恐い事をさらりと言わないでくれる」
「しかし、この程度の呪にかかるのはあなた自身の宿星に対して無礼というものですよ。無意識の内に返して頂きたいですね」
「そうすれば、御門が『偶然』来てくれなくても済むしね」
「…………どういう意味でしょうか」
「感謝してるって事さ。ありがとう、御門。助かったよ」
「礼など不要です。さあ、着きましたよ。桜井さんがお待ちではないのですか?」
「いや、小蒔はまだ来てないはず……ッてなんで小蒔と待ち合わせてるのを知ってるんだ!? 視たの?」
「……それほど私は暇ではありませんよ。貴方が待ち合わせる人間の中で、最も可能性の高い方を言っただけです」
「そ、そうなの? まあいいか。そうだ、久し振りなんだし、御門も逢っていかない?」
「遠慮させて頂きましょう。私もそこまで野暮ではありませんし、それに桜井さんは私を苦手に思ってらっしゃる様ですからね」
「そうなの? じゃあ、またその内逢おうよ」
「考えておきましょう」
車を降りる龍麻を見もせず、相変わらずの調子で御門が言う。
その御門に、降りる間際、ふと思い出したように龍麻が言った。
「そうだ。弓部、って知ってるかな」
「……なんといいました?」
「弓部。古い呪術師の家系らしいけど」
「何処でその名を?」
「昔の知り合いから、ちょっとね」
「…………芦屋や賀茂、九条などと共に呪法師・陰陽師の世界ではそれなりに知られていた家ですね。それがなにか?」
「うん、いや……まだはっきりとは分かっていないんだ。なにか分かれば連絡する」
「そうですか。それでは、私はこれで」
滑るように走り出す車を見送って、龍麻は軽く左手を開閉させてGlassへと入って行った。
1999.7.6 車中.新宿.東京.
「弓部……おとなしく下野の地でくすぶっていれば良いものを……なにを思い違えたのやら」
龍麻を送った後、車中で御門が誰にともなく呟く。
運転手は無言だ。そういう風に躾られているのか、はたまた御門の打った式という事もありうる。
「しかし……私の託宣を上回るとは、見捨てておけないですね」
そう、昨夜御門自身が出した託宣には、龍麻 ――― 黄龍の器が狙われる、と出たのだ。
だがその呪力は一流と呼べるものではあるが、四神が完全に機能している今、黄龍を傷つける事は到底かなわない程度の代物だ、と出ていたのだ。
それゆえ、御門は警告もせずに翌日見に行く程度にとどめておいたのだが……
「少々、見誤ったかもしれません……」
不完全とはいえ、龍麻に呪による影響を与えているのだ。
一般の学生である龍麻の出身地、本名、血液型、生年月日を知る事は難しくない。つまり、呪をかける事自体はほぼ誰にでも出来るという事だ。
しかし、龍麻は黄龍の器という非常に強い宿星を持ち、更にはその四方を守護する四神の宿星の持ち主も、龍麻と心を通わせ、無意識の内に相互に補助しあい、龍麻を護っている。
そう、黄龍と四神はただいるというだけだけで何物にも勝る結界を形成しているのだ。その結界を破って龍麻に呪をかけ、効果を現すのは御門にも難しい。
だがそれよりも。
龍麻にはこの自分、東日本最大の陰陽組織・土御門の棟梁にして御門家現当主の御門晴明がついているのだ。
その事は陰陽の世界には既に知らしめてある。あざといやり口だが、示威効果はある。
それにもかかわらず龍麻に呪をかけたということは。
「……土御門を舐めているとしか思えませんね。弓部程度の術師が……」
御門の端正な顔に、酷薄な笑みが浮かんだ。
それだけで、車内の気温が零下に下がったようだった。
1999.7.6 真神学園屋上.新宿.東京.
「なんの御用ですか、犬神先生?」
二限目と三限目のあいだの休み時間、犬神杜人教諭に屋上に呼び出され、弓部道治はそれでもふわりとした笑顔を中性的な美貌にたたえて言った。
「僕、そろそろ次の授業が始まるんですが……」
「俺のクラスの弓部鏡……あれはお前の妹だな?」
「ええ、1−Aですよね。それがなにか?」
「……弓部の家が、この新宿へいまさらなにをしに来た?」
「と、言われましても。僕ら兄妹はただの転校生ですけど」
「おふざけはもういいだろう。俺とてこの世の表だけを見て生きているわけではない。答えろ。弓部の家は、なにを企んでいる?」
「困ったな……」
普段の犬神を知る者が見れば目を剥くに違いない、真剣なその問い詰めに、道治は本当に困った顔をしてみせた。
「弓部の家、弓部の家、と言われましても。僕らは、僕らの意志でここに来たんですから」
「……なに?」
「……頭の固い老人達にはついていけない、そういう事ですよ」
道治の目の光が変わった。
そうと感じる前に犬神が走る。
後ろへ。
道治の手が閃く。
いつのまにかその指に挟まれた無数の釘が宙を飛び空気を裂いて犬神を追う。
弾丸もかくやという勢いで飛来したその釘をことごとく弾く犬神。
すべての釘の軌道を変え、今度は犬神が前方へ走る。
再び閃く道治の手。
釘が飛んだ。
犬神の足元に。
「くッ!?」
釘がアスファルトを貫くと同時に犬神の動きが止まる。
釘は犬神の身体に触れてはいない。ただ、犬神の影を縫いとめていた。
「影縫いか……小賢しい術を」
「小賢しくても、話す時間は稼げますからね。銀の釘、高くつきましたが、役には立ったようです」
「……なにを話すと言うんだ?」
「僕らのする事に干渉しないでいただきたい。それだけです」
「ふん………」
道治の言葉を聞きながら、身体に力を入れてみる。
まったく動かない。略式の術でこれほどの効果を犬神に与えるとは……弓部の名は伊達ではないという事か。
だが、所詮は大して複雑な術ではないし、それに現在の月齢も犬神に味方している。
無理矢理術による呪縛を引き千切る事も出来るが、あえてそれはしなかった。道治の話を聞いてみよう、と言う気になったからだ。なにしろ、自分に害意があるのならば既に何がしかの手を打っているであろうから。
「お前らのする事とはなんだ?」
「それは言えません」
「話にならんな」
「先生の敵になるつもりはありませんよ」
「つもりはない、か。ものは言いようだな」
「ですが、先生はこの学園を……旧校舎を見ていなければならないのでしょう?」
「………………………………」
危うい所で、驚愕の感情を表に出さずにすんだ。
――― こいつ……何処まで知っている?
「手を貸せ、とは言いません。無視しろ、とも。ですが僕らが真神に、旧校舎に手を出さない限り、見て見ぬふりをしてはいただけませんか?」
「そうしない場合、俺を殺す、か?」
「そんな不可能な事は言いませんよ。ですから、僕に出来る事をします」
「なに?」
いぶかしむ犬神に構わず、道治が懐から符を取り出す。犬神が見た事も無い書式で書かれたその符に、自らの薬指を噛み切って血を塗り、指で弾いて放つ。
地面に落ちると同時に符が青白い炎を上げて燃え上がる。
一瞬にして符が燃え尽きると、周囲に異様な空気が漂う。
瘴気だ。
そしてその瘴気の中に、無数の異形の気配も。
常人には到底感じ取れないその気配を、だが犬神は当然のように感じ取っていた。
多い。かなりの数だ。これだけの数の異形を同時に使役できるとは……いや。
「………………結界か」
「御明察。流石ですね。僕の力では、これだけの魑魅を使役できませんから。魑魅を封じてある結界と繋いだだけです」
「で、この魑魅どもをどうすると?」
あくまで冷静に犬神が問う。数こそ多いが、この程度の魑魅であれば何百かかって来ようと犬神の敵ではないのだから。
だが、次に道治が言った言葉には、犬神も冷静ではいられなかった。
「この符を、既に校内のいたるところ仕込んであります」
「!?」
「僕が使役するか僕か鏡のどちらかが死ぬと符は発動します。いつでも。授業中でも、ね」
「そういう事か……」
「解呪されてしまえばそれまでですが、無理に解呪すると発動しますよ」
「……お前達が旧校舎に手を出したかどうかの判断は、俺が下す。言っておくが、俺にとっては旧校舎の方が重い。全生徒を犠牲にしても護らねばならない程に、な」
「心得ておきましょう。僕たちも、先生を相手にするほど余裕はありませんからね」
そこまで言って、道治が指を一つ鳴らす。
床に刺さって犬神の影を縫いとめていた釘が砕け散り、犬神の身体は自由を取り戻した。
それと同時に周囲を覆っていた瘴気が消え、異形 ――― 魑魅の気配も消える。
「それでは、授業が始まりますので失礼します」
1999.7.6 JR新宿駅前.新宿.東京.
「すっかり遅くなってしまったな……」
リアル系プロレス団体・RWAの練習生、醍醐雄矢は腕時計を見ながら呟いた。
西新宿にある、白蛾翁の異名を取る彼の師匠の家に挨拶に行った帰りだ。入門して以来久々に休みを取れたので、卒業以来の挨拶を、と向かったのだが意外と話し込んでしまった。
早く帰らなければ寮の門限に間に合わない。おまけに、空が曇り始めて空気が重く湿って来ている。
――― まったく、天気予報とはあてにならんものだな……
傘を持ってこなかった事を嘆くが、まあ寮に帰るまでは天気ももつだろう。
切符を買うため駅構内に入ろうとした時、聞き覚えのある、特殊なイントネーションの声が聞こえた。
「今の声は……」
ふと、声のした方を見る醍醐。
その目に、夜目にも鮮やかなブロンドが映るのにさほど時はかからなかった。
「マリィ?」
呟くより早く歩き出していた。
彼女、マリィ・クレア ――― 今は苗字が変わっているが ――― はかつて醍醐達と共に戦った仲間であり、妹のような大事な存在だ。
そして、醍醐にとっては宿星によって結ばれた内の一人でもある。
「マリィ、どうしたんだこんな時間に?」
「アッ、醍醐オ兄チャン!」
声を掛けた醍醐を見付けたマリィが人のあいだを縫って駆け寄ってくる。
かつての戦いの頃、彼女は薬によって強引に成長を止められていた。狂った組織の手によって。
だが今は桜ヶ丘病院の名医・岩山女医の手になる治療で少しずつではあるが年相応の肉体を取り戻しつつある。彼女が今通っているテレジア中学ではかなり背が大きい方になっているぐらいだ。
とはいえ、今はマリィのような娘が一人で出歩いて良い時間ではない。そろそろ20時になろうというのだ。
その事を問う醍醐に、マリィは蒼い瞳にうっすらと涙を浮かべながら答えた。
「あのね、メフィストがいなくなっちゃったノ」
「メフィストが?」
「ウン、学校から帰る時に、急に駆け出していっちゃって……」
「そうか。美里に連絡はしたのか?」
「ウウン、マリィ、お金持ってないから電話できなかったノ。すぐに見付かると思ったシ……」
「ふむ……少し待っていろ」
そう言い置いて、醍醐が公衆電話に走る。
小銭を取り出して手帳を開き、美里家に電話する。
「夜分遅くすいません。美里さんの……ああ、美里か。俺だ、醍醐だ。うむ、実はマリィがな……」
電話で事情を説明して戻る醍醐をマリィが不安げな目で迎える。
「今、美里には連絡を入れておいた。心配していたぞ」
「ゴメンナサイ……」
「俺に謝る事じゃないな。さて、それよりも行こう」
「デモ、メフィストが……!」
「だから、メフィストを探しに行こう」
「エッ?」
「美里には、メフィストを探してからマリィを家に送ると伝えておいた。まずははぐれた所から、もう一度探すとしよう」
「……サンクス、醍醐オ兄チャン」
1999.7.6 テレジア中学校前.新宿.東京.
「メフィストー!」
周囲の住宅に迷惑にならないよう、だがそれでも大き目の声でマリィが叫ぶ。
醍醐もそのマリィの後について歩きつつ、猫がいそうな場所を覗いたり鳴き声が聞こえないかと耳を澄ませてるのだが一向に黒猫はその消息を現さない。
「……おかしいな。メフィストがマリィからそんなに離れるとも思えないんだが……」
マリィに常に寄り添っていたあの猫がマリィから離れていくという事自体醍醐には奇妙に感じられるというのに、そのマリィの呼び掛けにも応える様子が無い。
「マリィ、この近所に公園はあるか?」
腕時計が9時を廻った頃、ふと思い付いて醍醐が尋ねる。
「エ? ウン、あんまり大きくないケド、児童公園ならあるヨ」
「そこに行ってみよう。猫は案外、そういう場所にいる事がある」
「ア、そうなんだ! さすが醍醐オ兄チャン!」
一瞬、なにがさすがなのかな、と考える醍醐。
よもや白虎→虎→猫科→猫という事ではないだろうが、と害の無い事を考えつつ、マリィの案内で公園へと移動する。
その公園は、確かにマリィの言っていた通りあまり広くはなかった。
だが人気が無いので、案外いるかもしれない。
と、公園内に踏み込んだ時、醍醐は何だか奇妙な感覚に襲われた。
それは一瞬の事であったが、なんとも形容し難い……なんだったのだろうか。
「…………まあ、いいか」
駆け出してしまったマリィを追い掛けて、醍醐も公園内を駆けていく。
鉄棒、滑り台、砂場、ジャングルジム……児童公園にお約束の遊具を縫って歩くが、目的の黒い猫は見付からない。
これは見誤ったかな、と醍醐が思った時。
「アッ! メフィスト!」
マリィの声が響く。
見れば、公園中央の木の枝の中ほどに見覚えのある黒猫がいた。
「やれやれ、どうやら降りられなくなったようだな」
一つ溜め息をついて、木の下に駆けていったマリィを追って醍醐も軽く走り出す。
と ―――
「伏せろマリィ!」
絶叫と同時に醍醐が駆ける。
その声に反応するもきょとんとした顔でそこに立ったままのマリィを突き飛ばす。
「キャアッ!?」
突き飛ばされて悲鳴を上げるマリィ。
そのマリィをかばうように、醍醐が立ちはだかる。
「マリィ、怪我はないか!?」
「ウ、ウン。デモなにが ――― 」
そう言いかけたマリィの目に、醍醐の右腕に突き立った細長い棒のようなものがうつった。
「醍醐オ兄チャン、それって……!」
「大丈夫だ、心配するな。だが、なにかがいる……気をつけろ」
そう言った醍醐の右腕には、キンキンと冷気を伴う痛みが走る。
これは恐らく、水気か。自分は白虎の化身、つまり金気であるが故にさほどダメージとはなっていないが、もしも火気を持つ朱雀の化身であるマリィがこれを受けたら……
背中にマリィをかばいながら周囲に油断なく氣を走らせる。
敵の場所と、示威の意味も込めて。
だが、意外にも敵はあちらから姿を現した。
「はじめまして、醍醐先輩」
突然、醍醐の眼前に見慣れた服装の青年が現れる。
あの服は……真神学園の制服か?
「本来は、そちらのお嬢さんだけを招きたかったんですがね……まあ、せっかくいらして下さった先輩をもてなさないというのも不調法でしょう。せめて精一杯、おもてなしをさせて頂きますよ」
青年は、中性的な美貌にふわりとした笑みを浮かべて、あくまで穏やかに言い放った。
1999.7.6 桜ヶ丘病院.新宿.東京.
「ふう…………」
院長室で、岩山たか子が一つ息をついたのは9時半を少し廻った所だった。
夜勤の空き時間に書類の整理をしていたのだ。
本来であれば院長たる彼女の仕事ではないのだが、万年人手不足の桜ヶ丘の事、仕方ないのだ。
もっとも、万年人手不足なのは桜ヶ丘に限った事ではないのだが ―――
「おい、高見沢 ――― 」
珈琲を、と言いかけて、今彼女には休暇を与えてある事を思い出した。高見沢舞子だけではなく、比良坂紗夜にも休暇を与えてしまっている。
普段から陰日なた無く誠心誠意を込めて働いている彼女らへ、ちょっと早い夏休みを贈ったのだ。
「やれやれ、いない時にわかるもの、か……」
誰にとは無しに呟いて、ロビーの横の自動販売機に向かうため重い腰を上げる。
そろそろロビーのコーヒーも飲み飽きたねえ、と思いながらドアのノブに手をかけた時。
RRRRRRRRRRRR!
けたたましい音を立てて、院長室の古めかしい黒電話が鳴った。
険しい顔で引き返し、受話器に手をかける。
この部屋 ――― 院長室直通の電話のナンバーを知っているのはごくかぎられた人間だけだ。しかも、その人間には非常時以外は使うなと厳しく言い渡してある。
イヤな予感にかられて、受話器を取った。
「もしもし、岩山だが」
『アッ、たか子先生!』
「マリィか?」
自らが主治医を努める少女の緊迫した声が受話器の向こうから聞こえてくる。
思わず緊張するが、その事を患者に知られては医師として失格だ。医師が患者に与えるものは絶対の信頼と安心感でなくてはならない。その事を、彼女は研修時代の恩師に叩き込まれている。
相手を落ち着かせ、安心させる声で尋ねる。
「何があった。まず、落ち着いて話すんだ」
ぶっきらぼうに聞こえる物言いだが、この声が不思議と患者を落ち着かせる事を経験から彼女は知っていた。
が、その声もマリィを落ち着かせる事は出来なかったようだ。
まさしく絶叫と言うに相応しい声で電話の向こうのマリィが叫ぶ。
『大変なの! 醍醐オ兄チャンが、醍醐オ兄チャンがッ!』
そのマリィの声を聞いて、岩山は心の中で溜め息をついた。
どうやら今夜の珈琲はお預けになりそうだ、と。
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