第壱話 異形








1999.7.2      新宿.東京.



「ここにいたのか」
「…………兄さん」

取り壊しの進むビルの屋上で、線の細い青年が同じく細身の娘に話し掛けた。
どちらも16、17歳程度だろうか。青年の方は年相応の背格好だが、娘の方は青年とほぼ同じ背丈 ――― 同年代の少女から見ればずば抜けた長身をしている。

「街を見ていたのか。この街はいいな。見惚れるのも解るよ」
「………………………………」

青年の声に娘は答えず、視線を再び街に向ける。
初夏、と言う語感から想像される爽やかさを微塵も感じさせない重く垂れ込めた雲が、生暖かい湿った風と共に肌に不快感を与える。
だが陽気に関わらず、この街は変わらぬ営みを見せている。
道を行く人、人、人。

「そろそろ戻ろう。一雨来る」
「………………はい」

優しく促す青年に、娘は素直に従ってその後について歩き出した。
屋上から出るドアをくぐる直前、娘は一度だけ振り返り、街に一瞥をくれた。





1999.7.3      新宿.東京.



いつもの喫茶店、いつもの席、いつもの時間。
緋勇龍麻はこの一月ほど、ほぼ毎週この店の同じ席に座り、本を開きながらアイスティーを飲んでいる。
ただそうしてそこにいるだけなのだが、龍麻の持つ洗練された容姿、不思議な雰囲気は人目を惹かずにはいられない。
もっとも、ウェイトレスや常連の女子高生が熱っぽい視線を送っていたのは最初のうちだけで、今は半ば憧憬の、半ば諦めの視線を送るのみとなっている。
それというのも ―――

かららん!

涼しげな音を立ててドアにつけられていたベルが鳴り、来客を告げる。

「ひーちゃん、おまたせ!」

元気、という単語を擬人化したような少女が龍麻の前の席に着く。
龍麻と同じ真神学園の卒業生、桜井小蒔だ。今は警察学校に通っている婦警のタマゴである。
そう、言うまでも無く彼女こそが龍麻に対する視線に諦めの因子を含ませた原因だ。
高校時代から変わらず快活なその姿にこの上なく優しい微笑を送り、龍麻は本を閉じた。

「外、暑かったでしょ。なにか飲む?」
「ウン、えーと……あ、すいません、アイスレモネードとパンプキンパイ下さい」

通りかかったウェイトレスに小蒔が注文し、はたはたと手で顔を扇ぐ。

「もー、ヤんなっちゃうよ。なんでこんなに蒸し暑いのさ」
「仕方ないよ、まだ梅雨空けてないからね」
「でも、いっそ雨が降ればちょっとは涼しくなるのに……」
「雨が降ったら降ったで、また文句言うのは小蒔でしょ?」
「む〜……ひーちゃんのイジワル」
「あははっ。そうだ、来週の日曜にでも、泳ぎに行こうか?」
「えッ、ホント!?」
「新聞屋さんからプールのタダ券貰ったからさ。どうかな?」
「行く行く! じゃあ、今日のお買い物は水着ねッ!」
「さ、早速行くの?」
「だって、ボク今年はまだ水着買って無いんだもん。いいでしょ?」
「そりゃ、今日1日は小蒔に付き合うつもりだったしね。僕は構わないよ」
「ありがと!」

やがて運ばれてきたパンプキンパイを実に幸せそうに口に運ぶ小蒔を見つめながら、龍麻もアイスティーのお代わりを注文する。
外はあいにくの曇り空だが、今日の夕方から天気は回復するというし、いよいよ夏本番到来といった所か。
ぼんやりとそんな事を考えつつ、目の前でもぐもぐとやっている向日葵のような笑顔の恋人に目をやり、龍麻はまた顔がほころぶのを自覚した。





「うーん、これも可愛いし、でもこっちも……これは色が……」

小蒔と交際をするようになって、龍麻はこの世の真理を一つだけ悟ったと思う。
女性の買い物にかける情熱は、古今東西の別無く男の理解の届く所では無い、と。
などと哲学ぶっては見るものの、所詮惚れた弱みで眉根を寄せて悩んでいる姿も可愛いと思ってしまう辺り世話はない。

「ねーひーちゃん、これとこれ、どっちが良いかな?」

今日6度目の質問だが、龍麻は決しておざなりに答える事はしない。護らなければならないものがあるからだ。
いささか大仰に構えながら小蒔の示した二つの水着を見て、龍麻はちょっと引いた。

「そうだな、って……小蒔、そんなの着る気……?」
「え? ヘンかな?」
「ヘンじゃないけど、それはちょっと……過激すぎないか?」

小蒔が手にしているのは衣類というよりもほぼ布キレというのに相応しい代物だった。

「そうかな? ひーちゃんはこういうのキライ?」
「い、いや、キライじゃない、ケド……」

龍麻とて男だ。
加えて言うのなら、若くて健康な男子である。
その男子としての本能と、恋する者として当然の独占欲が心の中で葛藤する。

――― 2人きりでなら構わないんだけど、って2人きりでプールに行けるはずも無いし……

「さ、さっきの方が似合うんじゃないかな?」
「そっか。じゃ、アレにしようかな〜」

――― 僕って……負け犬?

先ほど小蒔が目に留めていた幾分おとなしめの、無難な水着を提案した龍麻は心の内で自分の負け犬っぷりをののしっていた。





「すっかり付き合わせちゃってゴメンね」

あちらこちらの店をまわったため、小蒔のお眼鏡に適う水着を購入した頃には既に辺りが暗くなり始めた。
が、それでもいつのまにか空を覆っていた重苦しい雲は何処かへ消えてしまい、空は見事な朱色に染まっていた。
アスファルトから照り返す暑熱が蒸し暑さを増すが、小蒔の機嫌は良いようだった。

「あ、そうだ。ひーちゃん、晩御飯どうする?」
「ん? そうだね、何処かに食べに行こうか?」
「ん〜、それもいいんだけどさ……作りに行ってあげようか?」
「え、いいの? 先週も作ってもらったのに」
「いいの、ボクが作りたいんだから」
「それじゃあ、お言葉に甘えてお願いしようかな。あ、でも材料何も無かったな……」
「なら、食材を買ってから帰ろッ。何食べたい?」
「うーん、そうだね。暑いから、逆にしっかりしたもの食べたいな」
「鍋焼きうどんとかチゲ鍋とか?」
「いや……さすがに鍋物はちょっと……」
「よう! 龍麻サンに桜井サンじゃねえか!」

他愛も無い事を真剣に話している2人に、声がかかった。
金色に染めた頭髪は天をつき、その身に纏った神代高校の制服は原形をとどめぬほど形を変えている。だがけして野卑ではなく、洗練されたセンスを感じさせる。
そして右手に携えた、布に包まれた細長い棒状の代物 ――― 渋谷区神代高校3年、雨紋雷人だ。

「あれ、雨紋じゃないか。久しぶりだね」
「雨紋クン、久しぶり!」

龍麻と小蒔が親しげな微笑みを浮かべる。
雨紋は龍麻らと同じく『力』を持つ者で、去年のあの闘いの時には最も頼りになる仲間の一人として龍麻らと共に闘った戦士の1人だ。
その襟の徽章を見て、龍麻が冗談っぽく口を開く。

「あれ? 無事に3年になれたんだ?」
「そりゃないぜ龍麻サン、久々に会った可愛い後輩への第一声がそれかよ?」
「そうだよひーちゃん、あの京一ですら卒業は出来たんだから」
「いや、蓬莱寺サンと比べられるのも嬉しくねえンだけど……」
「あははっ。今ごろ京一の奴、くしゃみしてるんじゃないかな?」

ダシに使われた、今は日本にいない親友の事を思い、龍麻は懐かしい顔をする。

「ところで雨紋、まだ槍を持ち歩いてるのかい?」
「ああ、これはたまたまだって。さっきまで師匠ン所で稽古してたからよ」
「師匠? 我流じゃなかったんだ、雨紋の槍術って……」
「言ってなかったっけか? まあ、道場構えてるわけじゃねえしな。一見ただのおっさんだけどよ、強さは本物だぜ」
「へぇ……一度会ってみたいな」
「そういえば師匠も龍麻サンの事を話したら一度会いたいって言ってたな。良ければ今度紹介するよ」
「うん、是非会ってみたい。頼むよ。新宿にいるんだ?」
「ああ、まあな。で、おふたりさん、今日はどうしたンだい? って聞くまでもなくデートか」
「ヤだもう、雨紋クンったら!」
「まだ照れてるのかよ、桜井サン……まあいいや。ンじゃ、オレ様は邪魔にならない内に退散するかな」
「邪魔だとかそう言うんじゃないってば!」
「はいはい、ッと、そうだ。龍麻サン達、明日6時からヒマかい?」
「え? 僕は空いてるけど……小蒔は?」
「ウン、明日は午後から弓の稽古があるけど6時までには終わるし、ボクも空いてるよ。なんで?」
「いや、実は明日、渋谷のLINDAってライブハウスでライブやるンでよ。良かったら見に来てくれねえかな、って」
「行く行く! ね、行こうよひーちゃん!」
「雨紋のライブか。いいね、僕も聞きたいし」
「そうか! じゃあ、絶対来てくれよな。入り口には、2人の名前言えば通れるようにしとくからよ」
「え、悪いよそんな。他のみんなはお金払って聞いてるんだし……」
「いーのいーの。オレ様が聞いて欲しい人間からは、金は取らねえ事にしてるンだ。そンじゃな!」





1999.7.4      渋谷.東京.



「ゴ、ゴメンひーちゃんッ!」

待ち合わせの時間に遅れる事20分、小蒔が息せき切って現れた。
よほど急いできたのか、手には袋に包まれた弓を持ったままだ。

「ううん、僕は良いけど、どうしたの?」
「稽古中に怪我人が出ちゃって……軽い怪我だったんだけど、病院まで付き添っていたら遅れちゃって……ゴメン」
「そうか、大事無いなら良かった。それじゃ、行こうか。そろそろ雨紋のライブ始まるし」
「ウン!」

LINDAといえば渋谷では多少は知られたライブハウスなのだが、龍麻も小蒔もそういったことには疎いので詳しい場所を知らない。
だが、街行く若者に尋ねると2人目が詳しい場所を知っており、無事辿り着く事が出来た。
地下への階段を降りる前から、凄まじい熱気が感じられる。だが不思議と不快感はなく、精神を高揚させる熱気だ。

「盛り上がってるみたいだね」

小蒔がそういうのもうなずける。この日は雨紋らのバンド、CROWの他にも2つほどのバンドが入っているはずで、その彼らのステージで充分に盛り上がっているであろう事がドアの外からも伺えた。
入り口の前で立っていた係りの者らしい若者に声をかける。

「CROWの雨紋の知り合いの緋勇だけど……」
「あ、聞いてます! そろそろCROWの出番なんで、中盛り上がってますよ! どうぞ!」

分厚い鉄製のドアを開くと、中から音と熱気と人の氣がこぼれ出てくる。
圧倒されるようなその氣を心地よく全身に受けながら中に入る。
既にフロアは満員で、ぎゅうぎゅう詰め状態だ。小蒔と万が一にもはぐれないよう、無意識の内にしっかりと手を繋ぐ。
龍麻たちが入ってから間もなく、それまで仄かにホールを照らしていた原色の照明が消え、それに合わせて客の声も潜まる。
皆が皆、知っているのだ。
これから始まる、恍惚の時が近づいている事を。

「……It’s Show Time!」

肺腑を抉る突然の大音声と共に眩い照明が目を灼き、轟く和音が耳を撃つ。
超高速で刻まれるビートが鼓動を貫き、不似合いな美しい旋律が絶妙な調を奏でる。
やがてステージの中央に直立する雨紋の唇から爆音のような旋律に乗って歌が紡ぎ出される。
否、雨紋の声が、すべての音を支配していた。
そう、間違いなく支配していた。
会場内のすべての音と、その音に恍惚と酔いしれるすべての人間を、雨紋の声が、今。





「すッ…………ッごかったね、雨紋クン!」

すべての演奏が終わり、控え室へ向かう途中、小蒔が興奮覚めやらぬ様子で龍麻に語り掛けていた。

「ああ、僕も雨紋のライブは初めて見たけど、圧倒されちゃったな。あれだけの人間を集めるのも解るよ」
「CD、出してないのかな?」
「どうかな? 出しているのなら欲しいけど……」

すっかりファンになった2人がそんな事を言いながら控え室のドアをくぐると、タオルで汗を拭きながら雨紋が出迎えた。

「よう、来てくれてたンだな! どうだった、オレ様達のステージは?」
「最高だったよ!」
「うん、来て良かった。ありがとう、雨紋」
「へへッ、よせよ、礼なんて。龍麻サン達には、でっけえ借りがあるんだしな……」
「え?」
「あ、いや、こっちの事。それより、これから時間あるかい? どっかいかねえか?」
「え? メンバーのみんなはいいのかい?」
「本当はメンバーで打ち上げのつもりだったンだが、みんな明日早くから予定が入っててよ」
「ボク達は平気だけど、キミも明日は学校だろッ?」
「固い事は言いッこなし。久々に会えたんだし、軽く一杯……」
「おいおい高校生」
「未成年がそんな事言ったら逮捕するぞッ!」
「まァまァ……ムードの良い店だから、デートスポットの参考に、さ」

後半を龍麻にだけ聞こえるように雨紋が言い、龍麻もそれにつられて、

「……ま、まあ、そういう事なら……ちょっとだけ行こうか、小蒔?」
「ひーちゃん〜……まあ、良いか。でもお酒はちょっとだけだよッ!?」
「よし、なら善は急げだ!」
「……善かなァ……」





ライブハウスの熱気から解放されると、熱帯夜といえども風は冷涼に感じられる。
軽く延びをしながら雨紋が言う。

「ふゥー……オレ様は、本当はウィスキー党なんだが、やっぱこの季節はビールが呑みたいね。ぐいッと」
「雨紋……お前、さてはしょっちゅう呑んでるな?」
「ンだよ、龍麻サンだって呑まないわけじゃないだろ?」
「残念でした、僕はお酒はほとんど呑まないよ」
「え、そうなのか? なんか意外だな。強そうに見えるのに……」
「良く言われるんだよな、それ……なんでそう見えるのかな?」
「ま、逆に見られるよりはいいンじゃねえか?」
「ところで、雨紋クン。ギターは解るけど、なんで槍を持ってるのさ?」

自身が弓を持っている事は棚に上げておいて、小蒔が問う。

「ン、ああ。実は時間が空いたら龍麻サンと手合わせを、って思ってさ」
「え? 僕と?」
「あの頃何度か修練として仕合ったけど、一本も取れないままだったからな。オレ様もちっとは上達した所を見てもらおうかな、ってね」
「僕は良いけど……」
「けどまあ、とりあえず今夜はゆっくり呑もうぜ」
「だーからお酒はちょっとだけだ、ッて……」

小蒔が言葉を切る。
龍麻と雨紋も、自然と周囲に目を走らせる。
奇妙だ。まだ遅いとは言えない時間なのに、何故渋谷の街から人の気配が消えている? 何故車の音がしない? そして、人の気配の代わりに感じられる、この気配は……

ざざッ!

何も言わず、雨紋が手にした槍の袋を剥ぎ、小蒔は弓を取り出して素早く弦を張る。その間、龍麻は油断無く周囲の氣を探る。

「参ったね……久し振りに龍麻サン達と会ったら、これか」
「おいおい、人を疫病神のように……」
「逆さ。退屈しなくて……済む!」

強められた語気と同時に雨紋の槍が一閃する。
ナニかがその穂先に捉えられ、地面に叩き付けられる。

「これは……なんだ!?」

鼠とリスと蝙蝠を足したモノに、無理矢理人間の姿を取らせた ――― あえて形容するのなら、そう言えば良いのだろうか。

「ひーちゃん、前ッ!」

小蒔の叫びに応じて前を見ると、いまし方雨紋が叩き落としたものとはまた別のナニかが疾走してきた。
その奇妙な動きに本能的な嫌悪感を抱きつつ、まずは見極めるべく凝視する。

「ッ…………!」

数々の修羅場をくぐり抜けてきたはずの龍麻が、思わず後じさった。
それだけ陰惨なものが、龍麻に向かって駆けてきている。
人の頭部に蜘蛛の足を生やしたようなモノ、が顔を上に向けてニタニタと笑いながらこちらへ向けて走ってきている。
ともすれば悪趣味な冗談とも取れる光景だが、残念ながら笑って済ませられる状況ではない。
サッカーボールほどの大きさのそれはかなり速い速度で迫る。躊躇していては危険な間合いになる。
体内の氣を練る。
氣を勁と成し、掌に集約する。
龍麻の手に紅蓮の炎が宿る。

「たあッ!」

そこから放たれた炎が地を這い、異形の怪物を薙ぎ払う。

ブジュゥッ!

いやな音を立てて、怪物が焼け爆ぜる。
炎が効くかどうかは疑問だったものの、これ以上間合いを詰められては自分はともかく背後の小蒔に危険が及ぶと判断したため、中間間合いで仕留められる巫炎を放ったのだが、どうやら功を奏したようだ。

「龍麻サンッ! まだまだ来るぜッ!」
「やだもう、なんだよこれッ!」

雨紋と小蒔の声が聞こえる。
いまし方仕留めた二体の他にも、有象無象の怪物がこちらへ迫ってくる。
そのいずれも、見るからに嫌悪感を誘うような姿をしている。

「く、やるしかないのか!」

どうやら戯れに紛れ込んだ魔物ではないようだ。
本格的に迎え撃つため、龍麻は改めて体内の氣を高める。
異形の群れがこちらに迫るのを見て、龍麻は叫んだ。

「僕が突っ込む! 雨紋は援護を! 小蒔は仕留め損ねたのを頼む!」
「任せとけ!」
「オッケー!」

あの頃と同じ呼吸が、瞬時に出た。
敵の配置、味方の戦力を適確に判断し、最も効率の良い陣形と作戦を取る龍麻の指示は神懸かり的とも言えるものがある。
仲間も皆、いつしかその龍麻の指示に全幅の信頼を寄せるようになっていた。
皆の要であり、中心である龍麻は自身の重要性を分かっていないかのように自ら死地に飛び込むが、それも後方からの支援を信頼しているからだ。

「ふッ!」

鋭い呼気と共に龍麻が踏み込み、異形の中心に発勁を放つ。
こじ開けた隙間に躍りこみ、縦横に拳を振るう。
本音を言うとあまり素手で触れたくはなかったが、この際贅沢は言っていられない。手甲を持ってこなかった不運を心の中でほんの少し嘆きながら、それでもなるべく拳撃ではなく勁を放つ事によって異形を斃していく。
龍麻の拳の届かぬ位置から襲い来る異形は、絶妙のタイミングで雨紋の槍が叩き落とす。
からくも槍の制空権から逃れた異形に、小蒔の放った矢が突き刺さる。
3人の組んだ陣形は完全に機能しており、このまま行けば異形の怪物は程なく全滅する ――― はずだった。

「お、おい龍麻サン、どういうこったよこりゃあ!?」

雨紋が怒鳴るのも無理はない。
先程から数えるのも嫌になるほどの異形を斃したというのにその数は一向に減らず、むしろ増え続けているのだ。

「僕も聞きたい! く、これは、一体……!」

絶対に変だ。
仮に、この異形が何者かに召喚されたとしよう。
そうであればこれだけの数の異形を、これだけ短時間にこの場所に集中して使役するのは至難 ――― と言うかほぼ不可能であるはずだ。あの天才陰陽師・御門晴明や、鬼才・裏密ミサですらも。
かといってこれだけの異形が自然発生したなどとは余計に考えにくい。
幻術? それも、恐ろしく高度な。
視覚だけでなく、痛覚、嗅覚、聴覚に至るまで完全に近い形で騙しうる幻術も、高度の術者ならば可能だろう。
右手の人差し指を立て、自分の太股の痛点を貫く。動くのに支障はないが非常な激痛を生む痛点だ。
いくら巧妙な幻術であれ、幻術自身が与えたのでない痛みを受ければ解けるはず……が、周囲の異形は相変わらず蠢いたままだ。

「幻術じゃないのか……!?」
「龍麻サンッ、このままじゃヤバイぜ!」

雨紋の言う通り、このままではジリ貧だ。いたずらに体力を消耗していくだけでは、いつかやられてしまう。
なにかきっかけが欲しい。些細なもので良い、現状を打ち破るきっかけが……!
ふと目の端になにか黒い物を捉えたのは、鍛え上げられた龍麻の視力があればこそだったろうか。

――― 羽根?

黒い羽根が、一枚。
虚空をひらひらと舞い落ちてきた。
異形のモノの羽根か?
いや、見た所黒い翼を持つ異形はいない。
では何故?
そう思う間に、もう一枚、黒い羽根がひらひらと舞い落ちる。
もう一枚、もう一枚。

――― どこから?

頭上を見上げる。
中空の一点、ただ一点に、奇妙な空間のよじれが見えた。
黒い羽根 ――― 鴉の羽は、そのよじれから舞い落ちてきていた。

「そこかぁッ!」

その一点に向かい、龍麻は渾身の勁を放つ。

「ひーちゃん!?」

突如として何も無い ――― ように見える ――― 空間に勁を放つ龍麻に、小蒔が驚きの声を上げる。
雨紋も声こそ上げなかったものの、同様に驚愕の色を隠そうともしない。
が、その驚愕の色は半瞬の後には更なる驚きに覆される事になる。

ぴっ……しぃッ……!

分厚いガラスが歪んだような音を立てて、龍麻の勁を受けた中空の一点にヒビが入り、そして砕け散った。
そしてその砕けた空間から舞い下りる、黒い影。

「やれやれ……ようやく気付いてくれたか、と言うべきか、よく気付いたと言うべきかな」
「か……唐栖!?」

驚愕に目を開いたまま雨紋が呼んだその青年は、紛れも無くかつて闘った唐栖亮一であった。





「説明の時間が惜しい……今は現状を何とかしよう」

驚いたままの雨紋と小蒔に構わず、唐栖が一つ指を鳴らす。
同時にその身に纏った黒のロングコートの下から数十もの黒い影が飛び出し、異形のモノに襲い掛かる。
黒き羽根を持つ、唐栖の友人達 ――― 奇しくもその名と同じ賢鳥、鴉の群れだ。

「こいつらには、皆役目がある……闇雲に倒すだけじゃだめなのさ」

誰にとも無く、唐栖が言う。

「倒される時に仲間を召喚するもの、倒されるたびに相手の強さを測り、少しずつそれに近づくよう新しい仲間に伝えるもの、そして ―――」

異形をついばむ鴉の内の一羽が、短く鋭く鳴いた。

「 ――― 倒されると、この結界を破るもの」

その呟きに合わせるように、鋭い鳴き声が響いた一点に鴉が集い、嘴が異形をついばむいやな音が響く。

「鍵を仕留めれば、結界も ―――」

唐栖の言葉が終わらぬ内に、周囲の空気が一変した。

「 ――― 解けると言う次第さ」

人の気配。車の音。
周囲はいつのまにかいつもの渋谷に戻っていた。

「唐栖……どういう事か、聞かせてくれるかい?」

驚きの余り言葉を失ったままの小蒔と雨紋に変わり、いくらか冷静な龍麻が唐栖に尋ねる。

「……場所を変えよう。いずれにせよ、ここじゃあ人目につく……特に、そちらの2人はね」

唐栖に揶揄するように言われた2人は、慌ててそれぞれ構えていた得物をしまい始めた。





1999.7.4      代々木公園.渋谷.東京.



「先ほど、君たちが捉えられていたのは一種の結界さ」

人気のいない代々木公園に入ると、唐栖が静かに語り始めた。

「あの結界の中では魑魅どもはそれこそ無限に湧いて出てくる。鍵となる一匹を倒さない限りは、ね」
「魑魅? あの異形の化け物か?」
「呼び名はどうでも良いのだろうがね。術師に使役される、下等な物の怪さ」
「で、何故あの結界内にお前は入れたンだよ?」
「雨紋は気付かなかったのかい? 僕が、外から結界内に干渉した部分に、そこの彼が衝撃を加えてくれたからさ」
「干渉……?」
「いくら頑強な結界でも、内と外から同時に強い『力』を加えれば綻びを生じさせる事は出来る。人一人がすり抜ける程度の綻びは、ね」
「理屈は分かった」

まだ要領を得ていないようだが、それは無理矢理押しやる事にした雨紋が、唐栖の胸座を掴む。

「お前、今まで何処に行っていたンだ!? 今何処にいるンだ!? 今、なにをやっているンだ!? 1年以上も音信無しで……何故急に俺達の前に現れた!?」
「変わらないな、雨紋……」

掴まれた手を跳ね除けるでもなく、あくまで静かに唐栖が続ける。

「まず最初の質問。最初に君らと戦ってからずっと、僕は君たちの戦いを見てきた。気取られないようにね。いや、もしかしたら君たちの仲間の何人かは僕に気付いていたのかもしれないが。そして次の質問。これには答えられない。理由は次の質問の答だ。今僕は、裏の世界で暮らしている。『力』を使ってね。そして最後の質問 ――― 警告さ」
「警告?」

それまで腕を組んだまま、静かに、だが油断無く唐栖を見つめていた龍麻がゆっくりと口を開く。

「一体どういう事だ?」
「旧友と、その認めた男に対してささやかだが恩返しのつもりさ」

こちらも静かに、雨紋の手をそっとほどきながら、唐栖が答える。

「これから起こりうる事を知らせに、ね」
「話が見えない。一体、何を警告するのか、まずそれを言ってくれないか」
「弓部 ――― と言う家を知っているかい」
「ゆんべ? いや、聞いた事はない」
「まあ、そうだろうね。古い呪術師の家系さ。その祖は ――― まあそれは良い。ともあれ、その弓部の家が動いた、という情報が入ったんだ。新宿に向かって、という情報がね」
「新宿に ――― ?」
「僕が手に入れた情報はそれ以上でもそれ以下でもない。だが、古い呪術師がこの新宿に向かった、と言うだけでも裏の世界では一波乱の種となりうる。そこで、呪術師の類に最も目をつけられそうな君たちに警告を、と言うわけさ」
「で、その弓部という呪術師が僕らになにをしてくると? なにを目的として?」
「それは解らない。残念ながら。だが、気をつけるに越した事はない、と言う事さ」

言い終わると同時に、唐栖の周囲に黒い羽根が舞う。あたかも風に舞う花びらのように、その羽根は縦横に舞い始める。唐栖の周囲だけに。

「少し、喋り過ぎた……それじゃあ、もう会う事も無いだろう。せめて死なないよう、気をつけてくれよ」
「ま、待てよ唐栖ッ!」
「雨紋……久々に君に会えて良かったよ。旧友よ、願わくば災禍が君を避けて通らん事を……」
「おいッ……!」

やがて漆黒の羽根は完全に唐栖の身を包み、そして少しずつ消えていく。
すべての羽根が消えた時、そこには唐栖の姿はなかった。

「クソッ……あの馬鹿野郎……!」

槍の石突きを地面に打ち付ける雨紋にかける言葉も無く、小蒔は龍麻に話しかけた。

「ねえ、ひーちゃん……唐栖クンの言っていた、弓部って……これから起こる事、って……また、戦いが始まるの?」
「……分からない。でも、僕たちがなにか……誰かに襲われたのは確かだ。ひょっとしたら、みんなに連絡を取らなきゃならないかもな……」

静かな、だが燃えるような声で龍麻が呟く。
長い前髪に隠されて普段はあまり覗かないその双眸は、凛と夜空を見上げていた。





1999.7.5      2−B教室.真神学園.新宿.東京.



「では、自己紹介をして」

2年B組の担任の真壁教諭が転入生を促す。

「はい」

中背だが細身の、スラリとした印象を与える青年は黒板に向くと流れるような美しい文字で、自分の名前を書いた。
『弓部道治』と。

「ゆんべみちはる、といいます。これからよろしくお願いします」

やや長めの髪に彩られたその中性的な美貌が、ふわりと微笑んだ。





1999.7.5.      同刻.1−A教室.真神学園.新宿.東京.



「自己紹介を」

やる気のなさそうな犬神教諭の声に、転入生の娘は無言のまま長身を黒板に向け、無表情な文字で名前を書いた。
『弓部 鏡』と。

「ゆんべあきら、といいます」

短く切り揃えられた髪がともすればきつい印象を与える娘は、文字と同じく無表情に言った。









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