鬼狩人 第二話





 草雲館の道場主、月篠流古武術第五十二代目継承者、月篠雅草(つきしの がそう)にはいくつか気になっているところがあった。
 目の前の、柏木耕一(かしわぎ こういち)と名乗った青年についてだ。
 まず第一に、道場に入ってきた時にふと感じた奇妙な雰囲気 ――― 恐怖とも取れる感覚。それは、およそ威圧感とは縁遠いものであったが。
 第二に、この青年は不思議と気配が薄い。雅草は武道家であり、また同時に退魔師である。故に、常人よりも気配を感じる術には長けているのだが……その雅草をして、時々『おや?』と思うほど気配が希薄な時がある。意図して消しているのではないと思うが……そうだとするにはあまりに稚拙であり、また同時に高いレベルで消し去っている。
 第三に、その名が気にかかった。柏木 ――― 何処かで聞いた姓ではなかったか。
 
「あの、それで俺は何をすれば」
 
 雅草が思考の淵に沈む前に、柏木耕一が問うた。
 
「そうだね、まずは立ってな」
「立つ……んですか?」
「そう。そのまま突っ立ってれば良い」
 
 月篠流を学ぶに足るかどうかを見るというのに、ただ立っていろと言う。
 いささか不可解ではあったが、ともあれ従おう……という表情のまま、耕一はその場に立っていた。
 
「武術において、およそただ立っているって事はかなり重要な位置を占める。相手とこっちが同時に『いっせいの』で動くんじゃなければ、闘争が起きる場合の1/3は立っている状況から始まるんだ」
「他の2/3は?」
「座っている時と、寝ている時さ」
 
 恐ろしくおおざっぱな物言いだが、その意味は深い。
 つまり、立っていようが座っていようが寝ていようが、闘争はいつ起きるかわからない ――― 武道家の心構えとは、まずそうあるべきだろう。
 不意に、空気が鳴いた。
 雅草の貫手が走り、耕一の喉元に突き付けられた状態で停止していた。
 
「…………良く動けたね」
 
 雅草がそう言ったのは、耕一の右腕がピクリと上がりかけたことに対してだろうか。今の貫手に対する防御としては、はっきり言って全然間に合っていないのだが。
 
「ま、いいだろ」
 
 自分の喉元、ほんの数mmのところで止められた貫手 ――― 恐らくは簡単に人間に致命傷を負わせることの出来るそれに圧倒されながら、耕一はその雅草の言葉を聴覚の端で捉えた。
 
「え、あの?」
「合格、って言ったのさ」
「けど、俺、全然防げませんでしたよ」
「当たり前さね。いきなりあたしの不意討ちを防げる人間に、あたしが何を教えられるって言うんだい」
 
 確かにそれはそうだ。
 
「でも、何で……」
「ごちゃごちゃうるさいねえ。月篠流、学びたくないのかい?」
「い、いえッ。学ばせて下さい」
「ま……理由ぐらいは教えてやろうかね」
 
 さすがにこのままでは消化不良だと思ったのか、雅草は語り始めた。
 
「まず、ほんの少しだけだけど反応できたろ。それがひとつ。何の素地も無いのに知覚できた、っていうのは大したモンさ。次に喉元に指突き付けられてからの反応だ。動かなかったろ?」
「はあ」
「何故だい? 逃げるなり、手をどけるなり、向かってくるなり、選択肢はあったと思うけどね」
「……そのどれをしても、俺は斃されていたと思いましたから」
 
 耕一のその返事を聞いて、雅草はにんまりと笑った。
 いかにも気の強い美丈夫、といった容貌に、笑うと意外に愛敬が浮かぶ。
 
「それだよ」
「え?」
「動いたら死ぬ、だから動かない……その判断が出来るヤツにしか、月篠の技は扱えないからね。だから合格」
「そういうものなんですか?」
「そういうモンだよ」
 
 あっけらかんと雅草は言い放った。
 
「死ぬのは、最悪の選択肢だ。まず生き延びること。それを考え無いヤツには、何を教えても無駄だからね」
 
 ふと、真面目な顔になる。
 父の死に際し、祖父が吐き捨てるように激しく、そして叫ぶように哀しく言い捨てた言葉が、今も雅草の胸に残っている。
 
――― 死んじまったら何もかも終りだ。馬鹿が……
 
 わかっている。
 祖父も自分も、わかっていた。
 自らの死よりも耐え難い事象を回避するために、父は自らの一命を賭して闘ったのだと。
 だが、理屈と感情は互いに相反することが多い。
 息子を、父を失う感情を、その様な理屈で抑え付けられるものだろうか。
 雅草はその時に、自分の分と、普段寡黙で感情を表に出さない祖父の憤りに隠された深い悲しみと、ふたつ味わっている。
 悲しみなど、少なければ少ない方が良い。
 
「まあ、ともあれ明日から来な。時間があるなら毎日でも。格好は動き易ければなんでも良いよ。ジャージでもね」
 
 そういう雅草は胴着に袴と、一般的には合気道などに見られる格好だ。
 
「じゃあ、胴着を揃えてきます」
 
 さすがにジャージで稽古をするのははばかられたのか、耕一はそう言った。
 
 
 
 
 
 入門を許可された次の日から耕一は草雲館に文字通り連日顔を出した。
 まず雅草が初日に驚いたのは、耕一がその筋骨隆々とは言えぬ外見とは裏腹にタフだということだ。
 基礎体力がどれほどのものかを見るためにやらせた腕立て伏せやスクワット、懸垂などに、雅草が予想していたよりも遥かに優れた結果を出した。瞬発力と持久力が良いバランスで保たれている。特に足腰は『特にこれと言った運動はしていない』にしては驚異的といって良い強靭さだった。
 何より、当人の意欲が大きいのがあったろう。
 道場を初めて訪れた日に見せた、あの燃えるような意志。
 そのせいか。その意志を持つに至った理由はまだ雅草には分からないが、その意志があれば耕一は強くなれる。雅草は、そう思った。
 外見の印象から、そこまで根性の据わった男とは思えなかったのだが。といっても耕一の外見がうわついているとかなよなよしているというのではなく、言ってみれば何処から見ても普通、なのだからだが。
 基礎的な体力を付ける鍛錬(恐ろしく基本的で地味なものばかりだが)をひととおり教え、それらは自主的に家などでやることを言い付け、雅草が次の段階、基礎の基本の前段階とでもいうべきレベルに入ったのは4日目だった。
 拳……打突のための手の作り方、立ち方、そして中段突きの打ち方。まずはそれを叩き込まれた。
 特に拳の作り方と立ち方は各々多種あるものをその用途と共に徹底的に教え込んだ。月篠流古武術において『三始式(さんししき)』と呼ばれる、基本にして全てとも言うべき構えと共に。
 どこにどう力を込めるか、どこにどう体重を乗せるか、それだけを叩き込んだ。
 正しく拳を握り、正しく立ち、正しく打ち込めば、それだけで並の人間を相手にするには脅威となる。
 鍛えているかどうか以前に、知っているかどうかが問題となるのだ。どう打つか、どう打ってくるか、どう防ぐか、どう防がれるか。そして、知っているもの同士の闘いになった段階で、鍛えているかどうかのレベルになる。
 耕一はまだそれを知る段階だ。雅草は、耕一には拳の握り方と立ち方だけを、少なくとも四ヶ月はやらせるつもりでいた。嫌がらせとも取れるが、どういう状況でも正しく拳を握り、正しく立ち、正しく打つことは基礎の基本だ。常にそうできるとは限らないが、出来るのならばそうした方が良い。
 ところが、耕一の呑み込みは雅草の予想を遥かに上回るものだった。最初の二週間で拳の作り方を、次の二週間で立ち方を、雅草の満足いくレベルにまで呑み込んだのだ。
 中段突きおよび三始式に関しても、到底マスターしたといえるレベルではないものの、それまで格闘経験の無い人間にしては一ヶ月で驚くほど様になっていた。
 才能かと雅草は思った。事実、雅草が祖父からこの基礎について納得がいったとの言葉を貰うまでには三ヶ月半の時を必要としたのだ。4歳の時ではあったが。
 しかし、才能という便利な言葉だけで耕一の上達を片付けるのは避けた。恐らくは道場以外でも繰り返し繰り返し続けているのだろう。雅草の言いつけた基礎トレーニングと並行して。
 単調で単純な鍛錬の繰り返し。強固な意志が無ければ、必死になどつとまらない。
 そしてどうやら、耕一にはその強固な意志があったようだ。
 砂が水を吸収するように ――― まさにその比喩の通りとは行かなかったが、それでも耕一は苦労しながら、苦しみながらも確実に身につけていった。
 やがて、雅草が組み手の相手をする段階に来た時、それは起こった。
 ふとした弾みで、雅草の掌底が耕一の水月にまともに入ってしまったのだ。
 
 
 
 
 
 ッッダァァァンッ!
 
――― しまったッ!
 
 耕一の踏み込みに合わせて寸止めのつもりで出した掌底が、まともに水月に入ってしまった。
 組み手を始めてから、耕一の動きがめきめき良くなって来ていたので雅草も時として踏み込み過ぎることがままあったのだ。
 だが、それでも今のように入ってしまう事は無かった。今のは、雅草の予想以上に耕一の踏み込みが鋭かったせいもあったのだが……と考えている暇はない。無意識のうちに打ち込んでしまっただけに、逆に手加減が利いていない。常人であれば下手をすれば内蔵に損傷が及んでしまうだけの勢いはあったのだ。
 
「おい、耕一! 大丈夫か!」
 
 道場の端まで、正味2mほども吹き飛んだ耕一に駆け寄って声をかける。
 後頭部を打って脳震盪でも起こしているだけならば良いが……だが、雅草がここから最寄りの医者のところまでの道筋を脳裏に描いていると、不意に耕一が動き出した。
 
「 ――― ッつあ、いてて……」
 
 そう呟き、頭を一つ振ると耕一はすっくと立ち上がった。
 
「うー、効いたぁ……今の、踏み込みが直線的すぎましたか?」
 
 呆然と、もしくは唖然と見ていた雅草に、耕一がいつも通りの声をかける。
 
「あ、いや。それよりなんともないか?」
 
 ようようそれだけを問い返した雅草に、耕一はきょとんとした表情を返す。
 
「え、はい……いや正直大分キツイですけど、まだ続けられます」
 
 渾身の勁(ちから)を乗せたわけでは、勿論無い。
 だがそれでも、カウンターで鳩尾 ――― 水月に入ってしまったのだ。水月は軽く叩いた程度の打撃でも内臓に衝撃を伝える急所だ。思い切り踏み込んできた耕一の力と、当てに行ったわけではないといえ踏み込んでしまった雅草の掌底の力、双方の相互作用が生み出す衝撃は軽いものでは有り得ない。
 
「じっとしてな」
 
 駆け寄り、耕一を座らせて雅草はその身体に掌を当てる。
 
「先生?」
「いいから。万が一、中身を壊していたら洒落にならないからね」
 
 腕の立つ武道家は、すべからく人体の構造にも精通しているものだ。より効率よく ――― 治すためと壊すため、目的の行きつく先こそ対極だが、医と武は幹を同じくする兄弟、と言った武道家もいる。勿論本職の医師の専門的な知識にかなうべくも無いが、雅草もその例に洩れず外科的な知識と応急手当程度の技術は持っている。
 何より自分の身体が負ったダメージを分析できねば実戦においては危険極まりないし、また同時にそれらを応急程度でも癒せるのであれば損傷を負っても何とか戦いを続けられる場合がある。
 触診のように打撃が当たった部分に掌を当ててのいくつかの質問をした後、雅草は首をかしげた。
 
「……内臓には何とも無いようだね。アンタが頑丈なのか、あたしが歳食ったのか……」
「多分、両方です」
「お黙りな。それでも脈は乱れているんだ。ちょいと氣を徹して治すから、息止めてな」
 
 氣を徹して治す。いわゆる『気功』と呼ばれるもので、こう書くと途端に胡散臭くなるのだが、出来るものは出来るのだから仕方が無い。雅草はそう開き直っている。また、この能力が幾度と無く彼女の生命を救っているのも覆しようの無い事実なのだから、疑うだけ馬鹿馬鹿しい。
 そも、月篠の技は人の理の外に息づくものに抗すべく生まれたものだ。戦うべき敵がいわゆる『常識的』な範疇に収まらないのだ。それらに対抗すべく練り上げられた月篠の技にも魔術的、呪術的なものもまま有る。
 ひとつには、雅草の拳が、足が、身体自体が、魔を討ち、闇を払い、鬼を狩る『力』を備えてもいる。月篠の源流である、退魔師に随従していた時期に生み出された力であろうか。破邪、退魔というべき力が、月篠の拳には宿っている。
 とはいえ、それが蝮の毒のように効果を発揮するのは、あくまで人の理の外に息づくものに対してだけだ。尋常の存在に対しては普通通りの効果しかもたらさない。……雅草の拳の威力は、それであっても常人を戦闘不能にするに足りるが。
 耕一の腹部、先ほど雅草の掌底が入った部分から触れるか触れぬかの位置に掌をかざし、半眼になって意識を集中させる。
 雅草に打ち込まれた打撃によって乱れた気脈を癒すべく、清浄な気功を送り込んで ―――
 
「ッ!?」
 
 突然、耕一が息を呑んで弾けるように仰け反った。
 同時に雅草の手に反作用のように反動が跳ね返ってくる。
 反動を受け止め、耕一に視線をやる雅草。
 
「おい、耕一!?」
「 ――― く、ああ、びっくりした」
 
 片膝をついて耕一が立ち上がる。
 
「いや、今のが気功ってやつですね。手も触れてないのに、なんかガクンって来ましたよ」
 
 雅草の驚嘆と裏腹に、耕一はけろりとしている。
 だが、雅草はやや強引に耕一の手首を取り、脈を診る。
 
「………………」
「師匠?」
「ふむ、どうにか元に戻ったみたいだね。散打(組み手)は続けられるかい?」
「はい、いけます」
「よし、それじゃあ続けるよ。三始式のおさらいからだ」
 
 三始式のひとつ、三日月の構えを取りながら、雅草は耕一に告げた。
 
 
 
 
 
 耕一が道場を辞去した後、雅草は私室に戻って数冊の書物を紐解いた。
 月篠の、武術ではなく退魔の行について記された書だ。
 雅草がこの書を開くことはそう珍しいことではない。哀しいことであったが。
 退魔の依頼が来た時には、雅草は状況を詳しく聞き、そしてこれらの書を開く。この中には、過去月篠の一族が触れ、闘い、斃した、人の理の外の息づくものたちのことが明確に記されている。太古の兵家に曰く、敵を知り己を知れば ――― というやつだ。
 
「…………柏木…………」
 
 燭台の灯かりに照らされた雅草の影が揺れ、その薄い唇からその名が洩れた。
 初めて耕一の姓を聞いた時、確かな既知感を感じた。ありふれた、というほどに多い姓ではないが、際だって珍しいというべき姓でもないだろう。
 だが ――― あの時、名を聞くより先に感じたあのかすかな恐怖感。そして今日起きた出来事……
 
「……あたしは、何を調べているんだろうね」
 
 そう呟くものの、書を開く手も、文字を読む眼も、止まることはなかった。
 今にして思えば、耕一にはいくつか不思議な ――― 不審というほどではないが、気にかかる ――― 部分があった。
 まず第一にその姓に覚えた既知感。第二には初見の時に感じたあの恐怖感。
 第三に時折見せる天性とも言えるような、素晴らしい……いや、凄まじいとも言えようほどの身体能力。とはいえ、空を駆け地を砕くようなものではない。そこまで凄まじいものを、耕一はまだ見せてはいない。
 だが、それは見せていないだけではないか、と雅草は思う。
 耕一は常に必死に、実に一生懸命鍛錬に取り組んでいる。雅草もそれは感心しているし、同時に最初に持った弟子が耕一で良かったと、密かに誇らしくも思っている。
 同時に、耕一が本当に本気を出していないのではないか、とも雅草は思っている。
 耕一は汗をかいている。雅草との散打では血を流すこともある。前述のように、常に必死に、一生懸命に、必死だ。
 しかし同時に何処かで自己を抑えているような節も見られるのだ。
 そして、第四に今日の耕一だ。
 水月に雅草の掌底がまともに入ったにもかかわらずのあのタフネスぶり。加えて、気功を流した時のあの異常な反応。
 杞憂であれば良い。
 耕一を、初の直弟子を既に大切に思い始めている雅草は、しかしそう思いながらも疑念を晴らさずにはいられないのか、書を手繰る手を休めない。
 雅草が私室に入ってから数刻が過ぎた。
 既に煎れておいた茶は冷め切ってしまい、燭台の灯かりも3回ほど替えた頃。
 
「……あった!」
 
 雅草は、書の中の一章にその名を見つけた。
 
「柏木次郎衛門……雨月山の…………鬼…………」
 
 蝋燭の灯が、風も無いのに、ゆらり、と揺れた。


つづく       




前へ  話数選択  店主SS選択  SS入り口  書庫入り口  日ノ出屋店先  次へ