雨月山の鬼。
日本には実に様々な鬼にまつわる伝説が有る。この雨月山の鬼もそのひとつだ。話の大意としては他の鬼の伝承とそう大差はない。
14世紀、室町時代の隆山という土地に鬼が出た。雨月山に居を構えた鬼は徒党を組んで近隣の村を荒らし、食料を奪い、女を犯し、そしてまるで楽しむように人間を狩ったと言う。
時の領主はこれに対し討伐軍を組織。しかし、第一次討伐軍は鬼の圧勝に終わる。第二次討伐軍においてもまた鬼達の勝利に終わり、領主は国を諦めかけた。
その時である。
第二次討伐軍において獅子奮迅の活躍をし、重傷を負いながらもかろうじて一命を取りとめた流れの武芸者 ――― 次郎衛門、という名の剛の者が、領主に策を授け、第三次討伐軍の組織を決心させたのだ。次郎衛門は大層な武芸の達人であったと言われており、常に最前線で勇ましく鬼と闘ったという。その策と、次郎衛門の活躍により鬼達は全滅。
その後、領主に報奨を授かった次郎衛門は美しい妻を娶り、隆山の地で末永く幸せに暮らしたという ――― 昔話によく見られる、いわゆる勧善懲悪の鬼退治の物語だ。めでたしめでたしで終わる話で、これだけを見れば取りたてて珍しいというものではない。
隆山の地には次郎衛門や、雨月山の鬼ゆかりのものが多く残っており、また歴史的検証からも同時代に領内において大規模な軍の派遣がなされていたことも明らかになっている。
一説には、この鬼というのは野盗の類ではなかったか、といわれている。或いは海外から流れ着いた海賊の類が定住し、近隣の村を襲っていたのではないか、とも。そうしたところに現れた流れの武士(もののふ)次郎衛門が野盗を退治し、それに感謝した村人達が彼に家と妻を与えて手厚く遇した ――― というのは考えられる話だ。事実、隆山の地には次郎衛門の墓も有るという。
だが雨月山の鬼の話が少々特異性をもって語られるのは、その話にいくつかの派生 ――― 今風に言えばアレンジが存在することである。
それは悲恋の物語。
第二次討伐軍において、次郎衛門はほとんど命の炎を燃やし尽くしてしまうほどの重傷を負った。流浪の修行において彼が身につけた武芸も、鬼達の力の前ではほとんど意味を成さなかったのだ。数において圧倒的優勢であった筈の討伐軍の兵士が次々と鬼の力の前に狩られていくなか、泥濘に伏した次郎衛門は静かに死の時を待った。
自ら命を絶つこともかなわず、ただ時を待つ次郎衛門に、ふと気配が近付いた。
かろうじて視線を向けると、そこには美しい娘がいた。
見覚えがある。そのたおやかな繊手で鬼達の陣頭指揮を取っていた娘だ。年の頃は見る限り17、8か。次郎衛門より5つほど年下というところか。
大将自ら、敗残の兵に慈悲の刃を下しに来たか、そう思い、また娘の神懸かり的とも言える圧倒的な強さを目の当たりにしていた次郎衛門は、そうした強敵に討ち取られるのもまた武人の本懐、と一種満足げな心持ちでいた。
だが、慈悲の刃は振るわれなかった。
娘は次郎衛門に自らの血を与え、鬼の一族とすることでその命を救った。
次郎衛門は激昂した。
人であることを自らの意志によらずやめさせられたこと、何よりも情けをかけられて生き長らえてしまったことに、誇り高い武人である次郎衛門は激しい憤りを覚えたのだ。
しかしそうした次郎衛門も、娘の手厚い看護を受けていくうちに心に変化を生じていった。ひとつには鬼の血を得たことにより、意志の疎通が可能になったことも起因しているだろうか。
次郎衛門は、娘と恋に落ちた。
それはおよそ許されぬことであった。
片や鬼達の討伐のために闘った兵、そして娘は、有ろう事か鬼の皇族に連なる高貴な血統の持ち主だったのだ。
誰からも祝福されぬ蜜月は、だが不意に終焉を迎えた。
娘が、その姉に討たれたのだ。
娘には二人の姉がいた。共に皇族の血を継ぎ、当然鬼の徒党の中で高い地位にある二人だ。
次郎衛門は自らの腕の中で冷たくなっていく娘の亡骸を抱いたまま、堅く復讐を誓った。
掟により妹を討った二人の姉は、しかしその後これ以上人間と争うべきではない、と考えを改めるに至っていた。ひとつには、妹が人間を愛したこと、自分達と人間とは相容れぬ存在ではなく、共存できるのではないか、と思うに至ったのかもしれない。
しかし、その二人の姉は謀反者として逆に同胞に討たれてしまうこととなる。
そうした中、それを知らぬまま復讐の念に猛る次郎衛門にひとりの鬼の娘が近付いた。
皇族に連なる四姉妹の末娘である。すぐ上の姉は身分も忘れて人間と恋に落ちた反逆者として、上の二人の姉は謀反者として討たれ、末娘は姉達の遺志を継ぎ、人間との講和を求めて次郎衛門に接触したのだ。
次郎衛門は、その時およそ狡猾であった。
末娘の案を容れる風を装い、鬼達の情報と技術とを手に入れた。そして領主に第三次討伐軍を組むことを直訴し、自らその実戦部隊の指揮を執ることになる。
鬼の力を手に入れた次郎衛門に率いられ、鬼の技術によって武装した兵が、完全に情報を掴まれたて誘導された鬼をおびき出し、そして一斉に攻撃を仕掛けた。
戦略、戦術的には既に討伐軍の勝利は疑う余地も無かった。それでも人知を超えた鬼の力は凄まじく、闘いは圧倒的とは言えぬ混戦になっていた。だがやはり闘う前に決まっていた戦況の差は覆し難く、何よりも自ら刀を取り右に左に鬼を斬り伏せていく次郎衛門の、文字通り鬼神の如き働きが味方の士気を高め、鬼の士気を挫いたのが大きかったろう。
鬼の血を得たことにより、次郎衛門は人知を超えた力を得た。そこにそれまでの流浪の修行で得た技術が融合し、文字通り屍山血河を築き上げた。
こうして復讐を果たした次郎衛門はその後皇族四姉妹の末娘を娶り、自らの角を斬り落して鬼の力を封じ、ひっそりと雨月山の近くで余生を送った、と伝承には伝えられている。
その次郎衛門が戦後領主から賜った姓が ――― 柏木といった。
「……雨月山の鬼、か……」
呟いたきり、雅草は無言で思案に耽った。
良くある鬼退治の綺譚。
だが、良くあるだけの鬼退治の物語が月篠の書物に載る筈はなかった。
そう ――― これは、本当の話なのだ。数百年昔の日本に鬼が……少なくともそう呼ばれるなにかが存在し、暴虐の限りを尽くしていたという事と、その鬼が源 頼光や渡辺 綱のように世に広く知られるほどの名こそ残らなかったものの、調伏者により討伐されたという事は。
そして雨月山の鬼を調伏したものの名が柏木次郎衛門 ――― 鬼の血を、受けたもの。
燭台の灯かりが揺らめき、雅草の影が合わせて動いた。
姓が同じという事だけで断定など出来ようはずはない。柏木姓の人間など、この街に幾人いることか。
今日の鍛錬中に耕一の見せた並ならぬ頑丈さも、たまたま雅草の打ちが浅かっただけかもしれないし、或いは耕一の鍛え方が雅草の想像を遥かに上回っていたのかもしれない。
あくまで可能性だ。それも、確たる証拠というよりも、雅草の勘がその内訳の多くを占めている。
人か、それとも人の理の外に息づくものか、それを見定めることは退魔師にとって時として何よりも重要なこととなる。
過去、欧州において狂気と恐怖に支配された血で記された歴史を例に挙げれば、いやが上にも慎重にならざるを得ない。
魔女狩り。
疑わしきを罰した狂気の時代。
恐らくは欧州における退魔師 ――― 場にそぐあう言葉を使えば、エクソシスト(悪魔祓い師)の些細なミスから始まったことであろうか。
いや、それよりは狩られる側の狡猾さか。自らを狩ろうとする人間から自らの身を護るため、人間に化ける。能力さえ伴えば、およそこれ以上に効果的な方法もあるまい。何しろ、人間はそこかしこにいる。
そして何よりも、人間の心は酷く脆い。恐怖と狂気と、それから逃れ得るためにはたやすく壊れる。
密告が奨励され、幾人もの罪亡き人間の命が摘み取られた。
もし、あの狂気の引き金を引いたのが本当の悪魔だとしたら、およそあれ以上に狡猾な悪魔はそういまい。彼はほんの少し手を動かしただけで、実に多くの人間の命と、そして狂気と恐怖を手に入れることが出来たのだから。
幸いというべきか、月篠の名に連なる退魔師は高野山や土御門などの様に組織立っての行動をしておらず、むしろ個人で動くことが多かった。それだけに、最終的には月篠の名と技を継ぐものが、判断を下すことになる。
前述の魔女狩りの騒動の際も、本物の悪魔祓い師が全ての指揮を執っていたのなら、或いはあの悲劇は回避されていたのかもしれない。集団心理による暴走の起因となるのは、無知から来る疑心暗鬼だ。狩るもの全てが正しい知識のもとに判断を下せるのであれば、悲劇は回避できる……少なくとも、全てが正しくない判断をするよりは、ずっと小さくて済む。
日本古来の退魔師達がミスをしなかったというわけでは決してない。それは月篠の一門でもそうだ。
だがそれでも、月篠の名と技を受け継ぐ者たちは自らの智と経験による判断で魔を討ち、妖を祓い、鬼を狩ってきたのだ。
それを免罪符にするつもりはない。
それを確かな誇りとして、胸に抱いているのだ。
雅草もその誇りを持っている以上、不確かな勘だけで耕一を、初の弟子を疑うわけにはいかない。
だが同時にまた、雅草はその勘がどれだけ重要なものかも理解している。理屈ではない。本能のようなものだ。
それに理屈では片の付かないこともままある。最初に耕一が道場に入ってきた時に感じた、あの言い知れぬ恐怖感 ――― 雅草が思わず構えを解くことを忘れてしまうほどに、それは確かに無視し得ないものだったのだ。
そして何より、耕一は言ったではないか。
『少なくとも……討たれ、祓われ、狩られる存在がいることは、俺は知っています』
そう言っていたではないか。
しかしそうなるとまたわからなくなることが在る。何故耕一は雅草のもとに来て月篠流を学んだのか。
柏木の祖、次郎衛門にならって鬼の調伏者となるため? いや、耕一はこれも入門する時に『護りたい人がいる』と言っていた。では月篠の技などを学ばなくては護れない『なにか』と雌雄を決する可能性があるという事か?
調伏するためではなく、誰かを護るため……あの言葉に嘘はあるまい。この一ヶ月半ほど雅草なりに耕一と付き合って来て、少なくともああいう嘘がつける人間ではない、と見えたつもりだ。その闘いを雅草に依頼しなかったのは、耕一なりの矜持か。自分の大切な存在は自分で護る、という。
「ま……いずれにしろ、こうして考えているだけじゃあ答は出ないんだけどね……」
まともに聞いても素直に返答が返ってくるとも思えないが、明日にでもそれとなく水を向けてみよう。そう思い、閉じる前に書をもう一度見直して、雅草の目が見開かれた。
「!? ……この、頁は……」
何故、柏木の名を見つけてすぐに気付かなかったのだろう?
雅草が開き、柏木の名を見つけた頁は、依頼を受けた退魔の対象となる存在の資料を記した頁だったのだ。
「せいぁぁぁっ!」
裂帛の気合のこもった声と共に、耕一の突き出した拳が雅草の顔面に伸びて ――― その勢いと軌道はそのままに耕一は全身のバランスを崩し、拳に乗せたベクトルのまま弧を描いて放り投げられ、道場の板の間に背中を強かに打ちつけていた。
端から見れば、耕一の正拳突きを雅草が右手一本で捌いてそのまま耕一が自分から吹き飛んで倒れたように見えたかもしれない。そう見えるほど、雅草は無駄な動きと力を廃して耕一の攻撃を捌き、逆にそのまま耕一の正拳突きの力を利用して耕一自身の身体を床に叩きつけていたのだ。
かろうじて受け身を取ったものの、肺の空気を吐き出してしまって一瞬動きが止まった時には既に雅草の拳が耕一の鼻先に突き付けられていた。
「大分良くなったね」
誰が何処から見たとしても、耕一に良いところなど無い今の攻防だが、雅草はそう褒めた。
雅草、というか並の観念を持つ武道家からすれば、入門後わずか三ヶ月で宗家自ら手合わせをする事自体異例中の異例であるし、その上てらい無く褒め言葉をかけることなど有りうべからざることなのだ。
ひいてはそれだけ耕一の才能と、その才能を発揮する為の尋常ならざる努力を続けた情熱を買っているのだが、褒められた耕一は自分自身がどう『よかった』のかさっぱりわからないので、気の抜けた表情で
「はあ」
と呟くことしか出来なかった。
耕一が入門してから既に三ヶ月、あの夜 ――― 雅草が耕一の姓である柏木と同名の鬼(正確には鬼の血を受け継いだ武芸者)次郎衛門のことを書物で見てより一ヶ月半がたっている。
あれから雅草は結局結論を出せずにいる。当然、耕一には何も告げていないし、訪ねてもいない。
あんたの御先祖様は鬼かい?
そう訪ねれば良かったのだろうか。
祖先にならって調伏の技術を身に付けるのかい?
そう問いただせば良かったのだろうか。
柏木の一族のものを、月篠が狩ったことがあるんだよ。
そう告げれば良かったのだろうか。
鬼の血を使いこなすことが出来るのかい?
そう追及すれば良かったのだろうか。
あの夜、雅草は残された資料を隅々まで洗い直した。
それによりわかったことはいくつかある。
雅草の五代前の月篠正統継承者 ――― 曾々々祖父にあたる月篠徳摩がその依頼を受けていた。依頼の内容は、鬼化してしまった対象を狩ること。対象の名は柏木宗次郎。依頼主の名は柏木みづえ。宗次郎の、正妻だ。
みづえから聞いた限りの範囲でだが、雅草の目にした資料には柏木家のことも記されていた。
まず、柏木家には確かに鬼の ――― 次郎衛門が命を救ってもらった鬼の娘の血が流れている。その血により、柏木の一族は多かれ少なかれ人知を超えた能力を有する。中には生涯その『ちから』に目覚めないものもいるようだが、およそ8割程度の者が柏木の『ちから』に目覚めるようだ。更に言えば、そのうちの更に7割ほどが幼少期の多感な時期に肉体的な、或いは心因的なショックを引き金に爆発するように目覚めるらしい。
ここからが重要な部分だ。『ちから』に目覚めるとどうなるか?
個体差は有るものの筋収縮力、筋持久力が人間と比べて飛躍的……というよりはむしろ驚愕的に向上する。素手で岩を砕き、助走無しで10数mの高さに飛び上がることなど容易にこなす。またその自らの筋力に耐えられるようにとか、骨格・肉体自体の組織の強化も行なわれるようだ。それに伴い自重の急激な増加も起こるらしい。8〜10倍程に増加するというから、体重50kgの女性であれば半トンにも到達するということか。それだけの自重を持ちながらの前述の運動能力だ。筋能力の向上は数字上の代物だけでは計り知れない。
更には五感の発達も著しく、また様々な超常能力を持つものも出てくるようだ。細胞組織の高速蘇生能力というものもある。ヒドラなどの原生生物に見られる復元能力と同様のものなのだろうか、ともかく少々の傷はたちどころに自ら治癒してしまうらしい。ついで、と言っていいものかどうか、精神的にも影響を与える。どうやら鬼は極めて優秀な狩猟生物だったらしく、その名残か『ちから』に目覚めると勇猛果敢な闘争本能が発達するらしい。恐れず、怯まず、というやつか。
まるで悪夢のような生物だ。いや、鬼なのだから、ある意味では悪夢そのものか。だが女性の場合はこれで終り(これで既に充分“鬼”なのだが)だが、事が男性の鬼となるとそうはいかない。この先の段階があるのだ。
まず第一に外見の大きな変化。変化、という程度で済ませられるものだろうか……完全な異形の生物に変貌してしまうらしい。突然変異とでも言うべき姿に。体格は骨格のレベルから大きく変化し、そのサイズもまた増大する。
筋収縮力その他の変化が、女性の鬼の場合に比べて格段に大きく現れる。もっとも、速度という点で言えば自重の増加も女性の鬼に比して相当なものになるようなので、筋力の向上に比べてそれほど圧倒的な差はつかないかもしれない。恐らくは女性という固体が生命を宿し育むのに対し、男性という固体は外敵に立ち向かいこれを打ち払う、或いは獲物を狩猟して糧とする、その為により戦闘に向いた形態を取ることがかなうのであろう。
だが肉体の変化などはさしたる弊害ではない。
何よりもまず心に大きな変化が訪れるのだ。
男女の別を問わずして柏木の『ちから』に目覚め、それを解放すると好戦的になることは前述の通りだ。
その様な生易しい代物ではない。闘争本能……という以上に、狩猟生物の本能をむき出しにしてしまうのである。いや、自然界の肉食獣であれば不必要に獲物を狩ることはすまい。
楽しむために獲物を狩る。
楽しむために獲物を殺す。
楽しむために獲物を犯す。
狩猟を、殺戮を、陵辱を楽しみ、そして躊躇わず実行する。
それだけの力と、何よりも恐ろしいことにそれ以上に狡猾な智恵を持つ。
――― なんてこった、まるで人間そのものじゃないか。
初めてこの記述を読んだ時に雅草が抱いた感想は、果たして月篠徳摩も抱いたものだったろうか。
そう、まるで邪悪な、と称される人間が超常的な力を身に付けた、そんな印象を受ける。楽しみのためだけに他者を蹂躪するのは人間だけだ。およそ自然界のどんな生き物もそんな事はしないだろう。
とは言っても柏木の『ちから』に目覚めた男子が必ずその衝動に負けるとも限らないらしい。事実、祖である次郎衛門から以来数十代に渡って柏木の血脈は続いて来ているのだ。前述のような獣以下の精神を持つものだけが柏木の男子であったのなら到底続く筈が無い。だが……柏木の男子が『ちから』に目覚める確率は、先に延べたように約8割。その内どれだけの者が『ちから』の解放に伴う衝動を抑えることが出来るのか。衝動に耐えられるか否か、というのは当人の意志や努力ではどうにもならないもののようだ。生まれたと同時に放られたコインが、表に出るか裏に出るか。それだけで決まってしまうらしい。
曰く、わずか2割。8割程度の確率で『ちから』に目覚めた内の、わずかに2割。たったそれだけの男子が、『ちから』に目覚めつつもそれを抑制することがかなうと言う。
正確な統計では、勿論無い。口伝によるものだけであろう。だがそれでもこの数字は薄ら寒くなる。
柏木の血を引く男子が100人いたとすれば、60人以上が鬼の力に振り回され、破壊の衝動を抱くこととなる。
伝承が正しければ(そしてそれはほぼ間違いなく正しい)室町から続く長い家系の柏木家だ。今日に至るまでに世に生まれた男子はそれこそ数えるのも呆れるほどの数になっているだろう。その内の、実に六割以上が殺戮と陵辱と破壊を好む悪鬼と化すのか。
だが、雅草が寒気を感じたのは悪鬼が溢れかえる様を想像したからではない。柏木の悪鬼が世に溢れ出ていないことこそ、雅草の心胆を寒からしめたのだ。
柏木の名が世間一般に知られていないことからも、考えられるのはただひとつ。
内々に“処分”をしたのだろう。妻が夫を、親が息子を、子が父を、或いは自ら。
忌わしい柏木の血の宿命を呪いながら、或いは嘆きながら、哀しみながら。
脈々と続く柏木の歴史が長ければ長いほど、その裏で流れた血は濃く深いものとなっているだろう。
柏木宗次郎と柏木みづえの例は、希有というべきだったのだろうか。みづえ自身は柏木の血を引いていなかったし、何より宗次郎とみづえの間には3人の子がいたが、依頼の当時子供は3人とも幼く、宗次郎を“処分”出来る程の『ちから』には目覚めていなかったのだ。
日に日に柏木の『ちから』に人としての理性を蝕まれていく宗次郎を見かねたみづえは、幼い子供を遺して夫と死出の旅に出ることもかなわずに月篠徳摩に退魔を依頼したのであろう。
恐らくは書に記した徳摩自身は、その事件について何の感想も書き記してはいない。ただただ事務的に、自分がこなした仕事を淡々と綴っただけだ。逆にその事務的な冷徹な筆が、雅草にやるせない思いを抱かせた。いつの時代も、どうにもならない悲劇というものはあるのだろうか。
床に倒れたままの耕一に手を差し伸べて引き起こしながら、雅草は先日読み返した柏木の血についてのことを反芻していた。
耕一は ――― 自分の愛弟子のこの青年は、はたしてあの柏木次郎衛門の末裔なのか? かつて月篠徳摩が狩った、あの柏木宗次郎の縁のものなのか?
直感だけで判断するのであれば、雅草の勘は耕一は次郎衛門の血を引いている、と告げている。そうである方が説明の付く事象も多い。
だが同時に、耕一が人を蹂躪するのを楽しむ悪鬼か、という疑問には、これは不透明なものしか返ってこない。
ひとつには耕一のことを弟子として慈しむ思いもあるのだろうが、それ以上に耕一の眼だ。その瞳には常に何かを韜晦するような感情の皮膜がかけられており、雅草の眼力を持ってしても容易にはその奥まで覗けない。
耕一は他者を蹂躪して楽しむような人間ではない ――― そう思いたかった。しかし、雅草は人を狩るべく産まれついた人の理の外に息づくものたちが、どれだけ狡猾に立ち回れるかも身に染みて知っているのだ。疑心暗鬼に陥るいつもギリギリのところまで、月篠に限らず退魔師は追いつめられているものだ。
結論を急いではならない。
幸い、というのは奇妙だが、ここしばらくは退魔の依頼も無いし ――― 元々そう頻繁でもなかったが ――― 話に聞く限り(そして雅草のような職業が話に聞く、というのは世間一般に流れる情報とは桁違いの量を指す)雅草が心配しているような凄惨な事件も起きていない。
「ん?」
その時、ふと、立ち上がる時に耕一が右腕を庇うような仕草をしたのを雅草は見逃さなかった。
「どうした、痛めたかい?」
言うより早く、耕一の胴着の袖をまくっていた。先程投げつけた際に受け身を失敗したのだろうか。最近の雅草は、口うるさい母のように、或いは世話焼きの姉のように、耕一の怪我などにはうるさい。
だが、耕一の右腕にあったのは打撲や骨折、捻挫のあとではなく、明らかな切り傷であった。
肘から手首に向かって一直線に伸びるその紅い筋を、雅草は睨むように見つめた。
「耕一、この傷は?」
「あ、ちょっと引っ掛けちゃいまして……」
嘘だ。
それはすぐに分かった。耕一の挙措などではない。雅草は既に20年近くも生死を賭けた戦いをして来ているのだ。明らかにその傷からは加害者の害意が見て取れた。これほどに深い傷は、偶然の産物で生まれるものではない。
そう、それは深い傷だった。治りかけている、深い傷。
昨日の時点で、耕一はうでに傷など負っていなかったはずだ。動きを見れば、雅草には分かる。であればこの傷を負ったのは昨夜か。昨夜何があったのか。そして、昨夜から今に至るまでで、傷は治癒しかかっているのか。
この、鋭利な刃物というよりは獣の爪のようなもので切り裂かれた傷はともすれば骨にも到達していようというのに。
「ふん……気をつけな。日常生活で油断するなんて、一番あっちゃならないことだよ」
軽く傷を撫でただけで雅草が耕一の袖を戻したので、この話はそれで終わった。
誰もいない道場で、雅草は神棚に向かって正座していた。
胸の奥に抑え様の無い疑念が浮かび上がる。雅草は霊的な“糸”を探ることが出来る。退魔を行なう際に、標的の情報を得るのに必要な技として身に付けたものだ。
いわゆる『霊査』、サイコメトリと呼ばれる能力だ。この能力によって“視”える情報はごく限られたものになるのだが、それでも時間と空間を超越して情報が手に入るのは有り難い。
「…………鬼、か…………耕一、あんた……」
雅草が耕一の腕の傷から伸びる霊的な“糸”を手繰った時確かに見えたのは、禍禍しい氣を放つ、鬼。
その鬼気が、耕一と対峙したものの気か、それとも耕一自身の気であるかは、雅草には分からなかった。
ただひとつ言えることは。
あれだけの氣を放つ“モノ”と相対するには、限りなく人の理の外に近く身を置くものでなくてはかなうまい。
だが、雅草は耕一にはまだそこまでのことを教えていない。雅草が耕一に教えたのは、まだ古流武術としての月篠流、その入り口にようやく立ったという程度だ。
とすれば、耕一は ――― ?
ひょう
飄 ―――
風が吹き、思考の淵に沈んでいた雅草の髪を揺らした。
「……静葉(しずは)か。なにか用かい?」
背後に音も無く舞い降りた白い人影に、雅草は振り向きもせず問うた。
静葉、と呼ばれた人影は、全身を白い衣装に包んでいた。およそ熱というものを感じさせないその衣装に包まれた身体は服の上から見ても起伏のなだらかなラインをえがいており、未成熟な女性のそれを連想させる。背丈も低く、顔立ちも整ってはいるがひどく幼い。
しかしそのくせ、薄闇にぼうと浮かび上がる能面のような美貌はとてつもなく長い年輪を感じさせるのだ。その美しい顔から連想される言葉は、冒涜。美と生と、造物主に愛された二つの言葉を、この少女 ――― と呼ぼう、敢えて ――― の顔立ちはこの上なく冒涜し、穢しているように思えるのだ。
赤子の滑らかさを保ったままの、薄桃色の唇が言葉を紡いだ。
「我が主からの言伝で御座います」
「あたしに?」
「はい。鬼が出た。と」
「……それだけかい?」
「はい。そうお伝えするように、と仰せつかりました」
「ふん……世に聞こえた退魔師、卜部武尊(うらべ たける)ともあろう男が、何でわざわざ場末の退魔師に知らせる?」
「式は主の心算など伺わぬもので御座います」
「だろうね」
「その上で言わせていただきますれば、月篠の御家はこと鬼に関しての手腕は古今随一。恐らくはそれを慮っての事と思われます」
「あたしは式なんぞに意見を求めてないがね」
「失礼いたしました。ですが、雅草様はいつも私にものをお尋ねになられます」
「可愛くない式だねえ、相変わらず……」
そう言いながらも、雅草は疲れたような苦笑を唇の端に浮かべる。静葉と雅草のこのやり取りは、恐らくいつものことなのだろう。確かに、雅草には式であろうと人であろうとは関わり無く、気に入ったかそうでないか、で付き合い方を変える節が有る。これは退魔師としては得難い資質であろうか。
「で? 何処に飛べばいいんだい?」
北か南か、それとも地球の裏か。最近では海を越える依頼も珍しく無くなって来ている。最近依頼が来ていなかったこともあるし、何よりも依頼元(或いはその代行人)が由緒正しき鬼調伏の家系、卜部の若き当主だ。
とはいえ、月篠の家が卜部に仕えているかというと、決してそうではない。先に延べたように、月篠の家は徒党を組まず、単独で退魔を行なって来ている。それは揺るぎ無い矜持であり、或いはただの意地であった。
しかしそれでも月篠の優れた技術と秀でた強さは他の退魔師達から見ても頼りになるものであったのだ。そう頻繁というわけではないが、助力を請われることも皆無ではない。当然その見返りには金銭などが伴う。いかな優れた退魔師の家系とはいえ、霞を食べて生きていくわけには行かない。卜部の家は、そうした月篠に助力を請う家のひとつで、かつその中では恐らく最大のものなのだ。言ってみればお得意様、というところか。
依頼を受けるつもりでそう言った雅草に、静葉は優雅なまでの仕草で首を振った。
「いいえ、この街です」
「なに?」
「この街で事は起きました」
「やれやれ……若様の千里眼には恐れ入る……いつだい、それは」
「昨夜です」
「昨夜?」
「いえ、先ほど日付が変わりましたので、正確には一昨日の夜ですか」
やや眉を顰めて鸚鵡返しに訪ねた雅草に対し、時計も見ずにあくまで静かに静葉は言った。
「何かお心当りでも?」
「いや……ああ、いや、少しだけね……ただの勘だが」
「左様ですか」
要領を得ない雅草の返答に、静葉はこれもさしたる感慨を得た風も無く言葉を継ぐ。
「被害者はひとり。間もなく公共の電波にも乗る頃かと思われます。現場には恐らく加害者のものと思われる血痕も見つかっているようです」
「だけど、警察の範疇じゃない……んだね」
「仰せの通りで御座います」
ともすれば揶揄しているとも取れる静葉の物言いだが、彼女の静かな、熱を持たない口調で言われると不思議にそうは感じられない。
「ふん……加害者は血痕を残した、つまり被害者に傷を付けられた、にもかかわらず、月篠の出番って事か」
そこまで言って、雅草の頭の中で不意に思考が見えた。
突如として、バラバラだったジグソーパズルのピースが全てはまったような感覚。
昨夜(正確には一昨日の夜)起きた事件、加害者が負った傷……
「……雅草様?」
「あ、ああ。いや、分かった。若様には雅草は依頼を受けた、とそう伝えておくれ」
「かしこまりました。では、朗報をお待ちしております」
あくまで静かに、暖かさは勿論、冷たさという熱すらも持たない口調で静葉が言い残し、来た時と同様ふと羽毛のように何処からか吹いた風に乗って消えた。
後に残された雅草は、屹と立ち上がると、道場の壁に立て掛けてあった棍を手に取る。長さはおよそ六尺(約180cm)。雅草の身長よりも10cmほど長いそれを、軽く一振りして脇に構える。軽く振ったように見えた棍は、甲高い音を残して風を斬ってピタリと雅草の構えた位置に収まる。
棍を手にしたまま道場を出て屋内に創られた湯殿に赴き、禊を始める。贅肉という言葉とはおよそ無縁な引き締まった肢体に冷水を浴び、心身を引き締めて清めると自室へ赴いて装束を整える。霊的な処置を施された墨染めの衣は害意をもって放たれた魔的な力を緩和する力を備えており、退魔の際には欠かせない代物だ。
「……よし」
凛とした表情に一片の迷いも曇りも無く、雅草は顔を上げた。
「確かめてやらないとね」
狩人の顔になった雅草は、静かに道場を出た。
つづく
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