鬼狩人 第一話





 道場の中心に、月篠雅草(つきしの がそう)はゆったりと構えていた。
 両脚は軽く開き、やや右半身を引いている。
 両膝は軽く曲げ、バネをたわめて瞬時に前後左右へと動けるようにしている。
 両掌は軽く握り、右手を水月の少し前、左手を顎の前方に、それぞれ構えている。
 両脇は軽く絞り、力んではいない。極々自然体で、力の抜けた構えだ。
 ここまで余分な力を抜くのに、雅草の才能を以って32年かかった。
 だが、まだまだだ。
 父は、もっと自然体だった。
 祖父は更に。
 雅草は、遅くに生まれた娘だ。祖父も父も、可愛がってくれた。
 母は雅草の記憶にはいない。祖母が、母代わりとなって育ててくれた。
 だが、その祖母も、父も、そして記憶にある限りとてもとても強く大きかった祖父も、死んだ。
 月篠の名を継ぐ者に、月篠の技を継ぐ者に課せられた宿業。
 魔を討ち、妖を祓い、鬼を狩る ―――
 人の理の外に息づく者たちを、人の理に則って生きる者たちが知らぬうちに“処分”する。
 月篠の家は、そうした事を五十二代、六百年余に渡って続けて来ているのだ。
 当代の継承者、雅草も例外ではない。
 人よりも古くから生きている人の理の外に息づく者たちに抗するべく、人は脈々とその術を練り磨いて来た。
 或いは祈りで、或いは魔術で、或いは知識で、或いは武術で。
 洋の東西を問わず、人の営みの中に夜を狩るべく培われた技術を磨くものは存在している。
 月篠の家に伝わる武術は、そうした技術のひとつが発祥となっている。
 源流は、さる退魔師の露払として鍛え上げられた武術だそうな。
 高位の人ならざる存在は、可視・不可視、可蝕・不可蝕の魑魅魍魎を使役することがある。月篠の源流となった武術は、この内の可視・可蝕の存在を討ち祓い、退魔師を術に集中させるためのものであったのだろう。
 だが、いつの頃か月篠を名乗る天才が現れた。
 そう、伝承には伝わっている。
 尋常の手段によっては討ち滅ぼせぬ、人の理の外に生きるものを生身の肉体で滅ぼすことのかなう技を編み出した存在が。その存在を伝承の上で“天才”と言わしめているのはその当人の技量云々ではなく、その技を一代限りのものではなく後世にも伝えられるものとして遺したこと、このことに尽きるだろう。
 そして月篠の名を継ぐものは、退魔師の護衛を生業とするのではなく、自ら退魔の業を背負う立場へと身を投じた。
 可視・可蝕の存在に限らず、不可視・不可蝕の存在ですら討ち、祓い、狩ることのかなう月篠の名は、いつしか人の理の外に息づく者たちと闘う者の間では闘神に等しく位置づけられていた。
 だが、闘神に等しく敬意と畏怖の目で見られようとも、いかな優れた技を使おうとも、人の理の外にあるものと闘おうとも、月篠の名を継ごうとも、その身は定命の定めからは逃れ得ない。
 父はその一命と引き換えに夜の一族の古い血統を討ち果たした。
 その死を追うように祖母が病により他界し、祖父は雅草への教練を続けつつ老いさらばえた身体を酷使して人の理の外に息づくものどもと闘い続けた。
 そして5年前、雅草が31歳の春、祖父は静かに、本当に静かに息を引き取った。
 70歳であった。生涯を闘いに、それもそのほとんど全てを命を賭した闘いに費やしたにしては余りに穏やかに、そして余りに呆気なく、祖父は逝った。
 既に月篠の正統継承者としての儀礼 ――― あくまで形式的なものだ ――― を済ませ、祖父の代わりに退魔の行を行なうこともしばしば増えて来ていた雅草は、不思議とその時涙を流さなかった。
 哀しみが無かったわけでは、勿論無い。
 月篠の名を継いだ重圧に泣くどころではなかったかと言うと、そうでもない。
 ふと、安心したのだ。
 ああ、祖父のような壮絶に闘い、深い業を背負った人間でも、意外と穏やかに死ぬ事は出来るのだな、と。
 父の凄絶な死に様と余りに対照的なその祖父の穏やかな死に顔は、雅草に若くして一種の達観的な思考を与えたのだろうか。
 その祖父の死から5年、月篠の五十二代目の継承者として雅草は退魔の行を執り行いながら時を過ごして来た。
 家庭は持たなかった。
 恋をしなかったわけではない。十代の頃は、将来は妻となり母となることを夢に見た時期もあった。
 恋人に恵まれなかったわけでもない。ともすれば頑固とも取れる、その意志の強すぎる瞳に印象が覆われがちだが、雅草はまず凛とした美貌の持ち主と言って良かった。
 人並み、とは言えなかったかもしれないが、恋に悩んだ時期もあったし、恋人も居た。
 ただ、恋人と甘い時間を過ごすよりも、雅草は己の心身を鍛えることと、月篠の家に課せられた業を果たすことの方に喜びと義務を感じていた。
 そうした責任感を持ちつつ、どういう訳か雅草の中には月篠の血と技と心を後世に遺さなければならない、という意識だけはすっぽりと抜け落ちていた。
 そうした雅草の意識の運びを早くから見抜いていたのか、祖父も婿、ひいては曾孫を望むような発言は一切しなかった。無論、荒淫であるより貞淑であることの方が望ましかったに違いはないが。
 草雲館には今弟子もいない。自分がまだ人の師足るに相応しくない、という思いもあろうが、それよりは前述の意識が強く働いているようだ。
 
――― 月篠の名と技は、伝えるべき代物ではない。
 
 雅草はそうは口に出さない。
 はっきりと思いもしない。
 だが、そうした意識が雅草の心の奥底にある事自体は、雅草自身も否定はしないだろう。
 いかな人の理の外にあるものを対象にしているとはいえ、所詮は狩るべき為に練られた代物。
 血塗られた修羅の道なのだ。
 呪われるべき羅刹の技なのだ。
 それが人の理に必要な刃の切っ先であることは、雅草も理解はしている。
 自分が、月篠の名と技と、血と心を継ぐ者が、その切っ先になることに異存はない。
 だが……それを誰かに継がせることに、雅草は一抹の躊躇を覚えるのだ。
 或いは子がいれば、継がせたかもしれない。我が子でもなければ、この深い業を背負わせてはならないような気がするのだ。
 月篠の技が、実の血統にしか継がれてこなかった理由を、雅草はこの頃ぼんやりと理解し始めて来ているつもりだ。
 雅草の身体が動く。
 点から線、線から面、面から球。
 澱み無く緩やかに、そして不規則にかつ規律正しく。
 月篠の技は、古くに興ったものが原形となっている。だが、それは古いままで不変の技術、という意味とイコールではない。
 技は常に磨かれ、変わるべきなのだ。
 古来、武道の技術は他に知られることを恐れ、その多くを門外不出として来ていた。
 純粋培養によって錬度を磨かれた技は、確かに余人には容易に防げまい。その対策を練る猶予が無くば、防ぐことが出来ないうちに技が決まる。
 そして、それが実戦の場であり、用いられた技が実戦で使われることを前提に放たれたのであるならば、多くはその一撃で雌雄は決し、敗者が勝者にまみえることは恐らく永劫に無い。
 しかし。しかし、である。
 その純粋培養による技術の錬度をいかに高めても、それが通じない相手には意味が無い。
 そして、月篠の家が相手をしなければならないのは、それが通じない可能性の非常に高い、人の理の外に息づくものたちであった。
 あらゆる状況を想定しても足りない。
 あらゆる対策を講じても足りない。
 そんな存在を相手にするのに、限られた範囲での純粋培養の技術ではおのずと限界は見えてしまう。
 取り入れるべきなのだ。足りないまでも、ありとあらゆる状況と対策を。
 自分達の技が流出することを恐れる以上に、他の技術を吸収することに、月篠流の継承者達は貪欲に、いや、いっそ飢餓的とも言えるほどに執着した。
 自分達が確立した技術大系の根幹の部分は損なわず、それでいて様々な技術を取り入れ、自らの血肉と化す。
 理想、或いはほとんど夢想としか思えないこの理念を、だが月篠流はやってのけた。
 狭く深く高い単純な根幹に、他の新しく優れた技術を、枝葉としてではなくその深みと高みを増すための養分として理想通りに取り入れた。
 そうしていく過程で、必然的に月篠流は他流派との交流は盛んであったと言って良い。
 だが、それに対していわゆる世間一般としての月篠の認知度は『月篠流古武術』という名で、知る人ぞ知る古武道、程度のものであった。
 だがそれでも、比喩として『鬼を狩る武術』と言わしめた月篠流を、その比喩がこれ以上なく正鵠を得ていることを知らぬのにも関わらず軽く見る武道家がいないのも事実である。
 人の営みには知られることの無い退魔の世界と。
 相当の事情通でなければ名を知りもしない古武道の世界と。
 つまるところ、月篠の名は狭く、そして深く、知られているのであった。
 それであるにもかかわらず、いや、そうであるからこそ、か。月篠雅草が生活を ――― 彼女の場合はそれがそのまま修練となるが ――― 営むこの道場、草雲館に細々とは言え来客が途絶えることはほとんど無い。
 この街の夜に未だ現れる、人の理の外に住む者を狩る依頼と。
 知る人ぞ知る高名な武道家、月篠雅草に一手教授願う挑戦と。
 ほとんど、九分九厘まではその両者が来客の割合を占めていた。
 
 たん
 綻ッ…………
 
 
 短く、鋭く、無駄な動きをまったく廃したとしか思えない動きで雅草が半歩だけ踏み込む。
 甲高く乾いた音が踏み込んだ足の裏から鳴った。
 踏み込みと同時に、右の掌が突き出されていた。
 いつのまにか、としか形容の出来ない動きだった。
 静から動への移行が、まったく突然に、前触れ無く行なわれている。
 ただいきなり突き出しただけのような掌に人を打倒するに相応しい威力が込められているのは、いまし方の踏み込みの音で素人目にも明らかだ。
 掌を突き出した後も澱み無く動きは止まらない。
 いや、止まらなかった。
 ふと、背後で音がするまでは。
 
「御免下さい」
 
 背後で扉の開いた音よりも、その言葉よりも、声よりも、何かもっと別のものに動かされたように、雅草は振り返った。
 
 
 
 
 
 雅草の目の前に居る青年は、何処にでもいそうな、穏やかな表情の持ち主だった。
 背は高い方か。180cmぐらいはあるだろう。
 退魔の依頼をしに来た風には見えない。
 そうした人間が持つ追いつめられた雰囲気も、また代理人であるのならばビジネスに徹する冷厳な雰囲気も、その青年は持ち合わせていなかった。
 では道場破りの類か。
 いやそういう風には更に見えない。
 こうしてみただけでも、青年に武術の心得があるとは思えない。動きを見なくても、立ち位置の重心などで雅草レベルの武道家には一目瞭然だ。
 それに何より、闘気も覇気も殺気も持たないこの青年が、雅草の首を狙ってきたとは思えない。
 
「何の用だい」
 
 青年の来訪した意図を計り兼ね、雅草は問うた。
 依頼でも挑戦でもない客が来ることも、有り得ないではない。例えば、入り組んだ路地裏に存在するこの草雲館の近くに来てしまったは良いが、道に迷った人間とか。
 ふと、その段に至って初めて雅草は自分がまだ構えを取っていたことに気付く。
 さりげなく構えを解き、青年の方を見る。
 
「あの、こちらは月篠流古武術の道場……ですよね?」
 
 おずおずと、青年が尋ねて来た。
 
「ああ。看板があったろ?」
 
 どうやら、草雲館自体に目的があったようだ。
 
「何か用かい?」
 
 先程と同じ質問を繰り返す。
 それによって、青年は自分が質問に質問を返していたことに気付いたのか、姿勢を正してきっぱりと言った。
 
「急で不躾ですが、弟子にして下さい」
「…………は?」
「学びたいんです。月篠流を」
「……あー、悪いけど、今ウチは弟子は……」
「お願いしますッ」
 
 言いかけた雅草に構わず、青年は頭を下げる。
 断固として、という意志が感じられるが、さりとて雅草もはいそうですか、と弟子入りを許可するわけにもいかない。
 
「……何故だい?」
「?」
 
 わしわし、と頭を掻きながら訪ねた雅草の言葉に、青年がきょとんとした顔を上げる。
 
「何故、ウチの技を学びたい?」
 
 そう、わざわざ、と冠詞を付けても良い。
 わざわざ、こんな寂れた道場まで来て、決して一般的に知られているとも言えない流派を、何故学ぼうとする。
 どう見ても、青年は格闘技経験者というわけではない。
 体格こそ貧弱とは言えないが、鍛えている体つきではないのは服の上からでもわかる。
 何よりその身に纏う雰囲気は、格闘家のそれではない。
 だが……
 本来であれば鼻にもかけずに追い返したであろうこの青年にそう問うたのは、先程感じた奇妙な感覚のせいであった。
 あの時、この青年が背後から雅草に呼びかけた時、雅草の心の中にあった感情は……
――― それは、恐怖ではなかったか。
 
「格闘技をやりたいっていうんなら、別にウチまで来なくてももっとメジャーなところがあるだろ」 
 
 珍しく饒舌になる自分を自覚しながら、雅草はなにかに急き立てられるように言葉を継いだ。
 
「何なら、信頼できる道場を紹介しても良い。傾く……って言うか、半分沈んでるような道場だが、腕前は保証するよ」
「いえ。俺は、ここで月篠流を学びたいんです」
 
 やけにきっぱりと青年は言った。
 その瞳に宿った確固たる意志の光に、あろうことか雅草はほんのわずかに気圧された。
 
「何故、月篠の技を?」
「……話に聞きました」
 
 ふと、目を逸らして青年が答える。
 
「何を?」
「魔を討ち、妖を祓い、鬼を狩る ――― 月篠雅草という人は、誇張ではなくそれをこなせる人だと」
「信じているのかい、それ」
 
 揶揄するような響きが、雅草の言葉にこもった。
 演技である。
 こう言えば、大抵の人間はそれを冗談だととる。
 だが、青年はこう言った。
 
「少なくとも……討たれ、祓われ、狩られる存在がいることは、俺は知っています」
「……………………」
 
 雅草の目の色が変わった。
 興味と好奇心から、疑惑と警戒に。
 青年は『知っている』と言った。 
『信じている』ではなく。
 そして、その言葉には迷いも虚偽の響きも無かったのだ。
 
「…………何故、月篠の技を?」
 
 何度目かの質問を、雅草はした。
 言葉は同じでも、問い掛けた内容には大きく差異が在る。
『何故わざわざ月篠流というマイナーな武術を学ぶのか』ではなく、『何故退魔の行を身に付けようというのか』と。
 
「護りたい人がいるんです」
 
 青年は呟いた。
 その声は小さかったが、その言葉には灼熱の意志が宿っているように、雅草には思えた。
 
「護りたい人達がいるんです。でも、今のままの俺じゃあ、弱すぎて護れない。なにかに打ち勝つ強さより、背負ったものに負けない強さを身につけたいんです」
 
 それは、言葉というよりも、感情をそのまま吐き出しているようだった。
 言葉という形式を取ってはいるが、その内包した熱量は煮えたぎるようだ。
 恐らくは二十歳前後であろうこの青年のこれまでの人生において、そこまでの決意をさせる何かが在ったという事か。
 生活のレベルで人の理の外に息づくものたちに対抗しなければならない、なにかが。
 
「ふん……ま、取り敢えず見てやろうか」
「えっ!?」
「そう意外そうな顔をしなさんな。まだ弟子に取ると決めたわけじゃない。どれだけのものかを見て、それから決める。到底モノになりそうに無ければ帰ってもらうよ」
「はい!」
 
 履き物を脱いできちんとととのえ、道場に上がり込む青年に、雅草はそういえば、と訪ねる。
 
「そういえば、名前は?」
「あ、すいません」
 
 青年も、問われて初めて自己紹介をしていなかったことに気付いたようだった。
 
「柏木耕一といいます」
 
 それが、雅草と耕一の師弟の、初めての出会いだった。


つづく       




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