少女は音楽が好きだった。風の声、水の流れ、木の葉の囁き、炎の猛り・・・全てに美しい音の調べを聞くことができた。そのことを告げられた両親も(それが言葉通りの意味とは思わなかったのだが)娘の感受性の高さを喜んだ。ごく幼い頃はそれを耳にするだけで満足していた少女に転機が訪れたのは5歳の時。
ピアノに触れる機会があった。その鍵盤を持つ楽器は少女にだけ聞こえていた音楽を表現する方法を与えた。もちろんその時まで少女は鍵盤に触ったこともないはずであったが、まるで慣れ親しんだ道具のようにそれを扱い即興で<聞こえた音楽>を再現してみせたのだ。少女の才能を知った周囲は驚き、讃え、さらなる上を望んだ。褒められた少女はもっと褒められたいと思い、数多くの<音楽>を音にしてみせた。
しかし。
心身の成長する課程で少女の考えが育った。褒められるのが嬉しくてただ音楽を生み出していた少女が、自分の音楽のもたらした欲や妬み嫉みの存在を知った。ただの音楽好きだった自分がいつのまにか巨大な世界の柱を担っていることに気付いた少女は、商業的展開を見せていた音楽活動を一切止めたい旨を両親に伝えた。その意思に対して周囲の反応は、純粋に過ぎた少女には耐え難い過酷なものだった。少女の意思を聞くことはおろか、気が違ったのかと言わんばかりの視線を向けられたのだ。
欲望の亡者になった両親は頑迷に否定した。もはや少女の才能に頼りきっていた彼らは職にも付かず、ただ浪費を送る生活に慣れきっていたからだ。今更金蔓を手放すつもりはなかった。
自分は音楽以外の事もやってみたい。そう訴える少女の心を欲の権化達は踏みにじり、
「以前より曲を作るペースが落ちてるぞ、もっとしっかりしろ!」と罵りさえした。その周辺でおこぼれに預かる連中も同じような態度を示した。
少女は自然を音楽に感じる自分が嫌いになっていった。異質な能力を憎んでいった。こんな耳があるから全てがこうなってしまったんだ、そう考えてしまった少女はひとつの行動に出る。
14歳の春、少女は聴覚を失った。己自身の手で鼓膜を破ったのだ。病院に運ばれた時には手の施しようもなく、少女は音楽を感じることを永遠に捨てた。そのはずだった。
面会の許可が出た少女の両親は対話用のスケッチブックにこう書いて寄越す。それは娘を思う言葉でもなければ、無事を喜ぶ言葉でもなく、
「作成途中の曲を早く仕上げろ。プロデューサーが待ちくたびれているぞ」彼らにとって少女は金のなる木にすぎなくなっていた。
もう少女は何もかも失った。肉親の暖かみも、美しき調べも。
当時の新聞・ニュースは少女が取った音楽との訣別の行為を天才のノイローゼによる自殺未遂と騒ぎたてた。きちんとした取材を行った雑誌の意見は大勢の波に消え、その背景にあった事柄の全ては知られることなく・・・。
歌うことを捨てた小鳥に両親は怒り、罵り、殴打した。夫婦仲など遙か彼方に冷えていた両親がそれでも別れなかったのは、彼女の版権を見込んだからだった。少女は高校に通うこともなく、ただ両親の仕打ちを耐えるだけの無為な日々を過ごしていた。
少年は勉強が好きだったわけでなく、ただ運動よりも自分に合った速度で考えられたのでそちらを選んだ。彼の計算速度が普通ではないことに気付いたのは小学校1年の担任である。小6用に作成した算数の問題を彼は一瞥しただけで正解を言い当てたのがきっかけで、興味を持った担任は色々な問題を彼に解かせてみることにた。自尊心をくすぐられた彼はそれに答え、自らの才能を示した。その発見を担任が両親に教えたのが転機だった。
彼の父親は今でこそひとつの建築現場を任される監督の地位を得たのだが、中卒で働きだし学歴の無さから様々な苦労を重ねた人物だった。そんな思いを息子にさせたくないという親心から彼はあらゆるものを彼に与えた。あらゆる勉学の資料を、環境を、教師を。
少年は9歳で高等数学を修め、その才能に磨きをかけていた。反面、同世代の友人たちとは疎遠になる一方だった。学校が終わると直ぐさま家に帰り、空いた時間は全て勉学に費やされたからである。学校は勉学以外のことも学ぶ場所であるはずだが、彼の父親にとっては学校は息子の真の勉強を妨げる邪魔なものでしかなかった。少年にとっても学舎は阻害されるだけの世界になりつつあった。いじめを受けたリはしなかった。同世代の子供にとって彼はいじめの対象に含むことさえ拒まれる異質な存在だったのだ。そこにいることすら認識されない・・・それは、ある意味いじめられていたのと同じ扱いだったのかもしれないが。
教育に狂熱的な父親、自分の事にしか興味のない素振りの母親、無関心を保つクラスメート・・・。その環境に少年が苦しんでも助けはなかった。
そんなある時、少年は<ラプラスの定理>という言葉を学問書で見知った。この世の全てを記した方程式があるはずと主張した数学者の理屈、それは決して手に入らないものの象徴でもある。
(もしそんな方程式があったなら)と少年はそう夢想し、変わらない毎日を拒否の権利を行使出来るわけもなく送っていた。
異なる、それでいて似た檻での生活を余儀なくされたふたりは自由を渇望しながら。
出会った。
マサキたち一行は居間に通された。広さはなかなかのもので、全員が入っても余裕があった。御名砂家の調度は決して悪い品ではない。だが一様に手入れが滞っている。高級品こそ扱いに関してはデリケートなのだが、この家の住人たちはそのことを知らないのだろうか。
<今は家の者が誰もいませんので普通に話してください>
<心の声>がする。それは殺気だった気配もなく、ゆったりとソファーに腰掛けた姿と相成ってただ悠然としているように見えた。全く、とても先日命を狙ってきた相手とは思えない。
<声>の主・御名砂志津華は肩よりやや長いおかっぱが日本人形を思わせる細面の綺麗な少女だった。芸術家に見られるような繊細さも、そしてこのような場で取り乱さない強さも持っている。
一方の少年・・・御名塚貴雄は落ち着きなく、マサキたちを警戒するように見やったりあちこちに視線を這わせたりと一所に集中出来ない様子だった。結局一番落ちつくと言わんばかりに志津華の隣に座り、負の感情を込めた目でマサキを見る。
その好対照の視線を受けながらもマサキには何ら怯む所はなかった。
車椅子のマサキの両脇に御門と村雨、後ろに芙蓉が付く。彼らの面持ちも決して好意的なものではない。両者の激突を抑えているのはマサキと志津華。
特に力の入った目線のやり取りはない、それでいて2人は互いの目を外したりしない。
<では、そろそろ用件を伺った方がいいのでしょうか?>
先に口火を切ったのは志津華。おどけた空気の中に刃が見え隠れしている。彼女もまた自分なりの地獄を見た人間なのだ。
「あなた方の間違いを正しにやってきました」
それが真意だ。例え彼女が読心術を心得ていたとしても(彼女は否定したが)臆することはない。
<間違い、ですか。それは何のことですか?>
「宿星のことです」
努めて平静を保っていた志津華にもその言葉は反応せざるを得ない。それこそが彼女たちの憎みし存在。先程からひと言も話さない少年・貴雄にしても一層の負力を瞳に込めた。
<宿星・・・わたし達の道に選択の余地を与えなかったモノ・・・>
「それは違います」
述懐の混じる苦々しい呻きを否定するマサキ。まさにそれが彼女・・・彼の正さなければならないこと。
<何が違うというのですか>
「宿星は確かに生まれるのと同時に与えられるものです。しかしそれはその人の運命すべてを決める存在ではありません」
煮えたぎる怒りに対して煽りも静めもしない、あくまで自分を貫く。
「宿星とは役割を与えるものですが、筋道を決める類のものとは異なるのです」
「うそだっ!!」
激昂する少年が強く、とても強く否定感情を示す。その初めて聞く肉声はあの襲撃の時に響いた死霊の発した声と同じ。
「嘘ではありません。例えばあなた方の優れた才能自体は宿星による働きかけによるものだとしても、その後の人間関係などは星の関わるところではなかったのです」
「そんなこと、なんの証拠があるんだよ!?」
「そうですね・・・あなた方は僕が行った運命の改変について知ってますか?」
<ええ。死すべき運命の人を救ったそうですね>
そうです、と頷く。
「僕は<力>で死ぬ運命だった人を救いました。・・・でももしそれが宿星によって定められたことだったら、僕はその人が死にそうになる出来事そのものをもっと早く知ることができ、事件そのものを無くすことができたはずです」
事実である。狙われる理由である<星詠み>の能力を持つ一族に生まれたのが宿星の定めしことだとしても、それがもとで何時何処で命を落とすかなどは埒外の出来事だった。
「そんなこと・・・!」
<・・・一理ありますね>
否定は声を、肯定は波を伴った。感情で物事を受け止める貴雄は理に背を向け、志津華は己の持つ偏見に背を向けた。
(私たちは教えられたこと以外に宿星の事をまるで知らない。教えられたことの真偽を知らないというのに、それを頭から信じるのはよく考えれば愚かなこと)
そう思考を改めたのはこの秋月マサキという人物に直接触れたからだろう。穏やかな印象と裏腹な強固な意思、もし全てを思いどおりにできる<力>を持っているのであれば、もっと傲慢な態度なりが垣間見えたはず。
あまりに教えられた人物像と違い過ぎて替え玉の可能性を疑ってしまったほどだ。
(すぐにばれる嘘を言う人には思えなかったのですが・・・)
そんな葛藤を抱えた彼女を貴雄は心配そうな、泣き出しそうな顔で見つめていた。自分よりもマサキの意見に同意した事がそうさせていた。
困惑を隠せないのは何も志津華だけではない。マサキたちも志津華のあまりに物分かりのいい態度に戸惑いを禁じ得ない。
(あの女、やたら物分かりがいいじゃねェか)
(裏に何もなければ、ですが)
(まあそうだけどよ、あれはどうも駆け引きには思えねェんだが)
駆け引きに秀でた村雨の意見は聞くに値した。とはいえこちらの配下を2人惨殺し、マサキをも手にかけようとした女だ。油断させる罠の可能性の方が高いのも事実、3人は警戒をさらに強める。
<話はそれで終わりですか>
「誤解を解く、という点ではそうです。意見ならありますが」
<意見・・・?>
「置去症候群のことです。あれを止めてはもらえませんか」
<・・・>
「やだ! やだよ!」
先程から反対は彼だけの意見だった。彼女は直接的な反応は何も示さない。ただ、
<わたし達の今までが宿星によらないものだとしても、子供だった私たちが両親やその他の大人たちから自由になるにはこうするしかなかったのです>
自分たちの所業であることは認めた。自分たちの事だけを忘れさせたとしても、その他の知り合いから情報を得て思い出すかもしれない。そういった配慮から面識のある者及び事柄を全て忘れさせたのだという。
「そうだぞ! 僕はいいことをしたんだ! みんな他人に縛られて窮屈なんだ! だから自由にして上げたんだ!」
「貴雄くんが記憶の操作を?」
「そうだ!」
<わたしは精神を音のように伝播させることと、ある程度人の行動を左右できるようなことしかできません。どういった原理かは、さっきも言いましたけどわかりません>
「おねえちゃん!?」
それは悲鳴に近い。何しろ自分の<力>について自ら語ったのだから無理はない。これは大変な譲歩ではないか。
<知りたかったのでしょう?>
「それは、はい」
<初めはわたしがやろうとしたんです>
彼女は語った。自分を取り巻く環境を変える為、両親に<力>で働きかけた。しかしちょっとした行動の制限をしたくらいでは、金欲に歯止めをかけることなど到底無理だった。
そんな絶望の中、彼女は貴雄に出会った。知り合ってまもなく、貴雄もまた才能が枷になった人間だったことを知り、2人は同志になった。共に自由を得る為の。
「貴雄くんの<力>があのアイマスクなんですね」
「だから何だよ!? お前たち、おねえちゃんや僕に前とおんなじ不自由に生きろっていうのかよ! そんなこと、いやだ! 絶対に否定してやる!!」
かなり興奮している少年。
<わたしもあれがいいことではないことも承知しています。でも両親やその周りの人達はわたしの声を聞いてくれなかったんです。ですから・・・受け入れてもらったんです。わたしの意思を>
一方的な論理にも聞こえる。しかし被害者に見える人々も<力>によらないだけで、彼女らを一方的に従わせたのだ。この件に関しては全く譲歩を迫るのは難しいだろうと判断せざるをえない。そしてマサキたちも理解してしまった、志津華たちの苦悩を。愛を受けるはずの者たちにされた仕打ちの非道さを。
「しかし、何だな。自分たちを縛る者ってのに<力>を使うのはともかく、マサキを問答無用で殺そうってのはどうかと思うんだが、志津華ちゃんよ?」
重くなった場の空気を変える為の、村雨なりの気をつかった意見のつもりだった。
<殺す? 何のことです>
「今更トボケんなよ。死霊人形を送りつけたことだよ」
<死霊・・・?>
極端な反応が志津華と貴雄に出る。志津華は明らかに困惑、というか理不尽な追求に少し不審がった。そして貴雄は。
「ぼ、僕知らないよ。おねえさんの言う通りだよ、うん」
素人目にも虚言を弄しているのがわかる。いかな天才少年でも得意分野以外は年相応、簡単に言えば嘘が下手で追求に弱かった。
<貴雄くん・・・あなた何をしたの?>
いささか狼狽する。それは己の所業によるものではない。
「ぼ、僕何も。何もしてないよ」
彼が狼狽したのは何故だろう。人殺しが露見したことか。それとも嘘が志津華に知られたからか。
そしてマサキたち一行は理解する。最初からの2人の態度。志津華は落ち着き、貴雄は警戒もあらわだった。彼女は他人の意見も拝聴し、彼は頭ごなしに否定した。それは2人が立場を異にしていたから。
<貴雄くん・・・>
「た、助けて! おねえさん!」
「やれやれ、しょうがないね坊やは」
その声は聞き覚えにないものだった、しかしこの場にいる人物が口にした。
驚きを顔に張りつかせたのは志津華。理由は先程の声が自分の口から出たから。確かに彼女は話せないわけではない、機能的には正常と診断された。それでも聴覚を失った日からは、精神的なショックで話せなくなっていたのだ。その口が言葉を紡いだ。自分の意思とは関係のないところで。
「おねえさん!」
貴雄の顔に笑顔。満面の笑み、といっても良いだろう。今まで見せたことのない、曇りない喜びの顔。
「坊や、困るわね。あたしまで出張るつもりはなかったんだけど」
「ご、ごめんなさい。でも」
「まあ、こんな真正面から直々に尋ねてくるなんてのは確かに予想外だったから仕方ないか」
志津華の口が志津華に告げる。
<あ、あなたはまさか>
「お前は暫く眠っててちょうだい」
そういって自分の鳩尾を軽く殴る。気を失う志津華と、語りを止めない口。
「正しくはあたしと貴雄くんの産物なんだよ、あの人形劇は」
「人形劇だと!?」
「そうだよ。面白かっただろ? ・・・貴雄には自分の意志を他人に写せる<力>があるのさ」
死霊にマサキを襲う意志を写し込む。または護衛に他の約束を違えないような意志を送った。そして他人の事をなど知らないという気持ちを・・・。もっとも<力>の強い人間等にはたいした影響を及ぼせなかったが。
「そういうお前は何者なんです」
このような展開を予想し得た者はいない。少しでも情報が必要だった。もし、ここに夕魅那がいたなれば・・・彼らはそう思わずにはいられない。
「秘密だ。まあ、もうひとつの人格とでも思っておけば?」
そんなはずはない。自身の肉体に気を失わせてなお意識のある人格があるはずがない。
「推測はいくらでもしておくれ。・・・あっちでね」
死霊が顕現する。集めたのは彼女・・・本物の志津華の持つ行動を左右させる<力>、強い意志を持たせたのは彼の<力>。
「死なせないでよ、特に車椅子の美少年は」
戦闘行為を行うには居間は狭過ぎた。まして霊体は障害物を問題にしない。敵を払いながら後退、出口を目指す。
「臨!」
兵の運用は指揮官によって異なる。優劣は尚更だ。・・・それを実証するかのように集った人形たちの動きはその効率のよさ・互いを補う無駄の無さ・一斉攻撃の苛烈さ全てにおいて今までとは比べ物にならない。取り立てて優れた所のない用兵、つまりそれは付け入る隙のないことと道義でもあった。味方の損失を考えなくてもよい消耗戦においてこれ以上の戦い方はない。
「十一・空刹!」
後退そのものがままならない。そして数に劣る場合の定理である首領を倒す方法も今回ばかりは採用するわけにはいかないのだ。死霊を操るのは志津華の<力>なのだろうが、それは彼女の意思による行動ではない。彼女を意のままに従える存在がおり、<力>を利用しているに過ぎない状況・・・真なる敵は誰なのか、全容が明らかではないのだから。
「となればこれ以上の敵を増やさないのが上策、ということですか」
「そうだな。聞き分けのないガキに一発くれてやろうぜ」
縺れた糸で唯一見いだせる一筋。それは貴雄少年の立場であった。彼は志津華の協力者でありつつも、彼女を操る存在とも繋がる位置にある。いや、繋がりという曖昧なものではない。彼が真に協力していたのはそちら側なのは、死霊を集める役割を担ったことでも明白。少年は敵なのだ。
少年は素直だった、自分の欲求に。同じ境遇の志津華を裏切ってまで自由を欲した・・・。
御門と村雨、呪符を行使する術者が気を合わせる。陰と陽が混沌と化して大いなる<力>を生み出す・・・それは太極のありし姿。彼らは呪法をなし、それを一時的・局所的にだが扱う<力>を龍脈より受けた。
即ち。
「「陰陽霊符陣!」」
霊波を通された呪符が混沌を培い、<力>のカオスは在ることの希薄な霊魂などをたやすく引き裂いてその渦に同化させた。
「何をっ!?」
切り札とも言うべき<力>を露払いに使用した。その選択に驚いたのだ。
「確かに方陣技は切り札に値しますが」
「ケチるほどのモンじゃねェ」
「しまっ・・・!!」
陰謀を巡らせる彼女にはその潔さは予測の選択肢にない行動だった。だが結果を見てその意図はとても合理的な行動理由として戦況を示した。後退ラインには変化がない、代わりに戦力の薄い空間が作られた。その空間の至る道が。
「まずいっ! 坊や!!!」
「いでよ水龍!」「青短・吹雪!」
同時攻撃が少年を薙いだ。無論殺害を目的にした威力ではないが、<力>の存在を無に帰すには充分なはずだった。
破裂する<力>の残照が空間を叩いて・・・。
「危ないねえ、やられたかと思ったよ」
少年との射線にいくつかの人形。彼の直衛を仰せつかったそれらが彼の前に立ち塞がっていたのだ。
「いえ」
「こっちの勝ちだぜ」
人形が残らず滅ぶ。それはふたりの<力>と相殺し合ったから。しかし彼らは2人ではなかった。
「疫よ・・・」
防御に徹していた芙蓉。彼女が放っていた呪はその効果を発していた。
「い、い、痛い! 痛いよおねえさん!!」
疫の与える痛みに対して抗議する叫び。貴雄少年から<力>の波動が消えていくのがこの場のいた全ての者に伝わる。
「まあ、そうだろうね」
やれやれ、といった風情で取り合う。そこにあるのは心配でなく失望。
「なんとか! なんとかしてよ!!」
痛みのあまり少年は気付かなかった。彼の頼る<おねえさん>が今どんな目で自分を見たのかを。
「そうだね、何とかしよう。何とか」
音はしなかった。それだけ鋭利だったのか。
結局少年は自分の身に起きたことを知らなかったのではないだろうか。おそらく間違いない。彼の顔には苦悶も激情もない、ただ不思議そうな、何かを聞きたげな・・・。
少年の膝が崩れた。それでも倒れないのは彼の骸を貫く大鎌の如き曲刃が支えになっていたからに過ぎない。
「ま、潮時と言えば潮時だったさね」
刃は現れたのと同じ唐突さで消える。血の一滴も流さない貴雄少年の遺体。
仲間割れ。その表現は正しくないとマサキたちは思った。あまりにも一方的なそれは切り捨て。
「本当はもう少し成長を見てみたかったんだよね」言い訳にしては気楽。独白にしては明瞭に。
「ま、面が割れたんだから仕方ないということで」
「そんな理由であなたは・・・!」
「事情があんのよ。この子らあたしの顔知ってたんだから。・・・さて、悪党は語りが基本だから差し障りのない所は教えて上げる」
誰かが言った。返り血の浴びない人殺しは痛みを感じない、と。まさにそんな状態で、饒舌な志津華の口は語る。
「このふたりの<力>と、あんたの<力>は似た部分があったのよ。それはあたしが欲しい<力>に共通したものだった」
その似かよった<力>を手に入れる算段を組んだ。それが今回の一件。
「最初はあんたの<力>を貰うためにこのふたりを捨て石にする。そんな計画だったのさ」
この2人を早々と矢面に立たせ、負けさせる。その油断を突いてあたしの目的を遂げる、といった風に。そのために色々とお膳立てをした。志津華を真似た演説で彼らを挑発したり、護衛の人間を殺したり。修復出来ない誤解を植えつけようとしたのだ。
でもね、と続く。
「この娘の<力>は想像以上のモノだったのさ。そう、ある意味あんたよりもあたしには都合のいい存在だったわけ」
あんたの<力>は強力な反面しっぺ返しが大き過ぎるのよね、とマサキの足をあげつらった。御門たちにより強い殺気が立ち昇るが手出しされないことを確信している声の主はカラカラと嘲笑った。
志津華の身体は操られるままに玄関へと向かう。追わんとする御門たちの前に残存の人形の群れが立ちはだかる。もちろん彼らを倒すには役者不足。それでも足止めには充分な数の戦力。
「ま、今回はこの娘だけで満足することにしてと。あたしは帰るわ」
ドアノブに手をかけた。巧みな人形操作は未だ彼らの足を止めている。
「じゃ、またの機会に、美少年」
彼らに最後の挨拶を送り、ドアが開く。笑顔を浮かべた彼女に。
蒼の閃氷。
「ギャアアアアアアアアアアアア!!!」
魂の震えが耳朶を打つ。志津華は糸切れた人形の仕草を見せ、己の支配をひと太刀で解かれる。いや、それだけではない。人形の支配すら、その一撃は断ち切った。
その戦況の変化に戸惑いを隠せない御門たちは玄関で再開を果たす。逃走を図った志津華と、戦友と。
「夕魅那さん!」
「お待たせしました。少々遅くなりまして、申し訳ありません」
瞳には氷を、刃には<力>を湛える冬の女神が到来を告げた。
『キサマ・・・!』
対面に水を差す雄叫び。痛みと怒りと驚きの唱和が中空から湧き上がった。そしてそれが目に映り始める。
実体ではない。まるで光の結晶。輝く粒の集合体とも見えるそれ。
「あなたの張った<心の糸>は斬り捨てた。もう御名砂さんを操れまい?」
人を模った粒子は<力>の集まりであり、意思の形。それがこの敵の<力>。未だ正体の知れない<力>。
『なんだって!? ・・・馬鹿な!! そんな、そんなはずは!!』
指摘されてようやく気付いたようだった。夕魅那の一撃がもたらした効果に。
「<力>の正体が露見しなかったゆえの優位・・・それを無くしたあなたに勝ち目は無いでしょう」
『ち、ちくしょおおお!』
光が影に転じ、無数の曲刃を形成した。貴雄少年を殺害したあの刃である。それの行動目的は一撃離脱。この小娘の言う通り、この場で勝ちを得るのはもはや不可能だ。あらゆる持ち駒を失った上にあたしの<糸>を切断しえる能力を持つ援軍。潔い撤退こそが理性の決断であった。普段であれば理性を優先したであろうそれも、納得がいかなかった。あれだけの手間を掛けたオペレーションにおいて何も得ることがないなど、策謀家を自称する頭脳が認めなかった。だから行動した。この小娘に一生消えない傷のひとつも残してやろう・・・そう暗い情念を抱いて。
「我が力 霧の刃となり 道を阻む者を 引き裂かん・・・」
夕魅那の戦闘時における姿勢は常に変わらない。如何に無駄なく、或いは被害を受けずして勝利を得るか。その一点を忘れない彼女は敵の思考に頓着することなく、最善の手を打った。陰湿になり得ない、しかし情の一片もない最善の一手。
「霧氷壁!」
目眩ましのような霧がそれの進路を阻んだ。霧氷壁・・・無数の<力>持つ氷粒の刃で構成された壁を出口に展開して夕魅那は退いた。いかにも敵の勢いに押されたかのように。
その誘いに満足を覚えたそれは獲物を追い詰める喜悦感に捕らわれながら、夕魅那との線上に置かれた霧をかまわず突き抜けた。
『!!!!!!』
そして衝撃、いや、斬撃の嵐と言うべきか。それの至る所を破壊する<力>は痛みよりも喪失感をそれに味合わせ、実体ではないそれの存在そのものを削り取っていった。
時ここに至って思い知らされた。矜持を満たすためだけの選択が、自身の存在すら危うくした現実を。もはやなりふりかまってはいられない。あたしは逃げる、死にたくない、死にたくないんだ・・・!
夕魅那の霧氷壁を抜けてもそれは滅んではいなかった。生への執着だけで前に進む。逃げる、それだけを望んで。
「我が力 風雪となり 道を阻む者を なぎ払わん・・・!」
背後で何が起ころうと気に掛けない。逃げる、にげる、ニゲル・・・!
「氷気流斬!」
轟! <力>の流れは冷たくて、さらなる喪失感を伴った。ニゲル、にげる、逃げる・・・。
「逃げられました」
懐剣を収めて玄関口に座り込む夕魅那はやや無念そうだった。<力>が本調子であれば事件を後に引かせる様な禍根を残さなかったものを・・・。
「夕魅那さん、どうしてここへ?」
マサキが問いかけるのも無理はなかった。自分たちのために奔走し、衰弱した彼女をこれ以上巻き込まない様にと何も教えず御名砂家に出向いたのだが。
「私が報告書からリストアップしたんですよ、住所くらい覚えてます」
夕魅那は治療もそこそこに御名砂家へ駆けつけた。<知覚球域>で内部の会話は全て聞いていたという。
「立派でしたよ、マサキさん」
事態の急変に際しても情報の獲得を優先していた。それはマサキを護る3人への信頼。自分の役割は裏に隠れる存在の確認と<力>の分析、そしてマサキを狙った理由の察知。
「で、どうだったんだ?」
「多分こうだと思います。あの敵はマサキさん、そして今回の道化を演じさせられたふたりのアストラル体を操る<力>を欲していたんではないか、と」
あの存在もアストラル体の触手を使って志津華を意のままにしていたのだから。
「あすとらる・・・?」
精神体の呼び方のひとつ。心や魂、意識と言い換えてもさほど差異はない。あの神出鬼没の曲刃も、おそらくは精神を実体化させたものだったのだろう。
「心の支配、ですか」
「・・・」
「おいおい、それじゃあの2人が狙われたことはわかるけどよ、何でマサキが狙われんだよ」
「やれやれ、村雨がいると話が遠回りになりますね」
「なんだと!?」
「アストラル体をこの国では星気体と言うんですよ村雨」
「星気体・・・?」
星の気・・・。その言葉は<星詠み>を連想させた。
星で運命を操る<力>の根源が星気体にあると考えたのだろう、と夕魅那が締めくくった。
貴雄少年の死、それが表向き事件の解決だった。置去症候群の患者は一斉に病状から回復した。結局原因すら掴めなかった各病院関係者は慌てふためいたが、再検査の実施後退院させざるを得ないだろう。桜ヶ丘病院はいち早く患者を追い出した。院長が病気でもない連中を寝かしておくわけもない・・・。
事件の中心人物・御名砂志津華。彼女は今桜ヶ丘にいた。アストラル体を接触させられ、操られた精神を検査する、という理由である。信じていた貴雄少年の裏切りと死は彼女にとってかなりのショックだったようで、院長の事情聴取についても何ら隠し事をせずに淡々と答えた。自分の口で、である。あの一件の後、彼女は自分の声を取り戻したのだ。しかしこのことについても彼女は喜びはしなかった。自失、というのとは少し違う。あらゆる事象について関心を無くしている、或いは投げやりなのだ。皮肉なことに彼女は束縛を解かれたのと同時に成したいことすら無くしていた。今、志津華の心に生きるための指針はない。
利用されただけの彼女に憎しみを向ける者はいなかった。むしろ、あの御門ですら「哀れですね」と言った程だ。彼女の立場はあまりにも悲惨にすぎた。
「せめて、あの娘に何かやりたいことでもあればな」
「「ありますよ」」
たか子先生の嘆息に異口同音の台詞を以て答えたのは夕魅那とマサキ。志津華の過去に真実のかけらを2人は見いだしていた。ただそれは彼女のとある行為を否定してしまうので、彼女自身認められないのだ。
「なんだい、それは」
「彼女の告白を思い出してください。そうすればわかりますよ」
「失礼します」
突然の来訪者。志津華は病室に入る2人を精気ない目で眺めやる。ひとりはマサキさんだ。彼の車椅子を押している彼女は誰だろうか。見覚えはなかった。
「はじめまして、私は倉条夕魅那といいます。マサキさんの友達です」
「・・・」
それがどうしたのだろう。その少女が何者であろうと、私には関係ないだろうに。そう、関係ない。
「初対面でこんなことを言うのも失礼だと思いますけれど、言わせてもらいます。御名砂さん、あなたはまだ音楽を愛しているでしょう?」
誰とも知らない相手にいきなりの言葉。志津華は顔を叩かれたような表情で夕魅那を見つめた。
「何を言ってるの・・・?」
私の声。音。私の口がまた音を作っている。また作らされるのだろうか、意に沿わない音の羅列を。嫌だ、そんなのはもう・・・。
聞こえない耳を押さえて弱々しくかぶりを振る志津華。
「嫌なのは音楽ではなく、作曲を強要されたこと。それ以外を制限されたこと、そのふたつだと思います」
<力>が志津華に言葉を伝える。淀みのない川のせせらぎのよう。それは説教でも忠告でもない、邪欲のない声。
「そう、そうかもしれない、いえ、違う、そんなことない、だって、だって・・・」
苦悩が増す。その懊悩こそが彼女を過去と現在苦しめたもの。外から見た方が判り易い事もある、これもその一例だった。彼女は勘違い、いや、事実を敢えてねじ曲げてしまったのだ。それこそが彼女の過ちの発端。
「辛いと思いますが聞いてください。御名砂さんは音楽を嫌いになったのではありません。音楽を強要した両親を嫌ったんです」
でも子供心はそれを認めたくなかった。自分を愛してくれているはずの両親を嫌う・・・その心を誤魔化す為に、彼女は嫌悪の方向を変えた。現実逃避を行ったのだ。
しかし。彼女は告白の中でひと言も「音楽が嫌いになった」とは言っていない。
沈黙。わずかな間に志津華は何を考えたのだろうか。
「そう・・・ですね。今の私にならそう認めることができます。自分にもっとも身近なはずの親・・・その人たちがわたしはとても嫌いだった・・・嫌いだった・・・」
涙する。しかしそれを拭いはしない。会話そのものは志津華の涙が枯れるまで中断された・・・。
事実に向き直った志津華は様々なことを吹っ切った。清々しい表情がその現れ。
「ところで御名砂さん、これからどうするんですか?」
とても意味の深い質問だった。両親に心で訣別を終えた彼女ではあるが、法律上ではふたりの保護下にある。
「そうですね、取りあえず独り暮らしでも始めます。わたしの<力>があれば同意なんか簡単に得られますから」
意思を受け、意思を左右する<力>。
「それなんですけど、御名砂さん。私の家に来ませんか?」
「はい・・・?」
まばたきを激しくする。よくわからないことを言われた。
「いいですね。それはいい提案です。僕もたまには遊びに行けますから」
「そうでしょう? さっきからずっと考えてたんです」
「あの・・・?」
「実は私、両親が亡くなってて、割と広い家に独りで住んでいるんです」
内容にしては暗さのない物言い。
「それは・・・その・・・お気の毒に」
「それで、もしよろしければ一緒に住んでくれません? 家っていうのは誰も住まないと痛んでくるんです」
「まあ・・・そう言われますね」
「ですから、どうですか? そんなに古い家でもないんですけど」
申し出だけでいえばありがたいのだろうが、納得出来ない点がある。
「あの・・・どうして見ず知らずのわたしにそんなに親切を?」
「知ってますよ」
「はい?」
夕魅那の透明な笑顔に見とれた。
「私、子供の頃聞いた<風の雪>っていう曲がとても好きだったんです。小さかったから、この曲が誰が作ったかなんて考えもしなかったんですけど・・・ね」
<風の雪>。まだ純粋に、自然に音楽に耳を傾け、それを弾いていた頃の曲。
「あの曲を作った人ですもの。いいひとですよ」
そう言ってくれるあなた達の方がよほどいい人ですよ・・・。そしてあなた達はわたしを癒してくれる。単に同情だけでなく、理解も、共感も・・・。
御名砂志津華は返答した。それはふたりをとても喜ばせるものだった。
「動かないっ! 動かないんだよ!!」
某処。
彼女は何度も何度も試してみる。その事実から眼を背けるように。
時が経ち、やがて獣のような唸りと苛立ち、怒りの声が止む。それに取って代わったのはさらに暗い炎。
「あの小娘・・・小娘!! 殺す! 絶対に殺してやる・・・・・・・・・・!」
喉から血が溢れるまで、彼女は怨嗟の絶叫を張り上げ続けた。
運命の娘達が紡ぐ糸。それが再び夕魅那を・・・。
前に戻る
あとがきを読む
話数選択に戻る
SS選択に戻る
茶処 日ノ出屋 書庫に戻る
店先に戻る