第拾弐話 菩薩行








 深い傷を負い、身動きもせず横たわる京一・醍醐・壬生の3人。時折上がる微かな呻き声が無ければ、既に事切れている様にすら見える。
 そこへ1つの人影が現れた。
「へぇ、また見事にやられたモンだねぇ。この3人をここまで完全にぶちのめすたぁよっぽどの腕前の様だな。まったく、たまに日本へ戻って見りゃあ、ホント退屈させねぇこったぜ。――さて、こいつ等3人を一人で運ぶのはちょいと骨だが…まあ、このまま放っといて見殺しにしちまっちゃあ先生に会わせる顔がねぇしな。…とりあえずアイツに連絡つけて見るか」
 そう呟くと、実年齢よりかなり老けて見える青年――村雨祇孔は懐から携帯を取り出した。
 一台のリムジンが彼と傷ついた3人を乗せて走り去ったのはそれからしばらくの事である。





 京一達が桜ヶ丘中央病院に運ばれて一昼夜が過ぎた。その後村雨から連絡を貰い病院へ駆け付けた龍麻達は、一睡もせずに3人の容態を待っていた。その他にも連絡を受けた龍山や道心、たまたま定期検査の為に病院を訪れていたマリィとその付き添いの葵、何処から聞き付けてやって来たのか紫暮や織部姉妹までが沈痛な面持ちで座っている。治療室では、岩山が徹夜で3人の治療をし、舞子と比良坂も付きっ切りで看病にあたっていた。
「…僕の所為だ…」
 龍麻がポツリと呟く。
「僕が京一を、醍醐を壬生を巻き込んだからだ。僕が――!!」
 パシィン!!
 乾いた音が響き渡った。
「そんな事言わないでよッ!キミの所為なんかじゃないよ…。誰もそんな事…思ってないから…お願いだから…そんな風に全部自分で…ウグッ…ヒクッ…」
 そのまま小蒔は龍麻の胸に顔を埋め、しゃくりあげる。
「小蒔…」
「嬢ちゃんの言う通りじゃよ、緋勇。雄矢の奴は身体が丈夫なのだけが取り柄でな。蓬莱寺や壬生の小僧どもも、それぞれ当代随一の武道家に鍛え上げられた猛者じゃ。そうそうくたばりはせんよ」
 もっともそう言う龍山の手が、ほんの僅か震えている事に気付いた者がいるかどうか。
「どうやら龍麻さん、貴方は大きな思い違いをしているようですね」
 隅の方に立っていた御門が、横目で龍麻を見ながら口を開いた。
「貴方は確かに『黄龍の器』として大きな《力》を手にしました。しかしそれが個人の運命や行動を変え得るものであると思っているのですか?いえ、その様な事は何者にも出来はしません。その様な事は赦されるべき事では無いのです。つまり彼等が今こうしているのも、彼等自身の行動により起こるべくして起こった、いわば当然の結果なのです」
「手前ぇ、御門ッ!その言い方はなんだッ!」
 今いる仲間の中でも一際気の短い雪乃が激高する。
「落ち着け雪乃ッ!」
「姉様、ここは病院なのですから」
 そばにいた紫暮と雛乃が何とか彼女を押し止める。その様子を尻目に軽く鼻で笑うと御門は続けた。
「――ですが、彼等の内誰か1人でも自分の行動を後悔していると思いますか?いや、彼等だけじゃありません。ここにいる方達や、一年前貴方と共に闘って来た人間たちの中に、只1人でも貴方の為に生命を懸け、その結果倒れる事があろうとしても、その事を悔いる者がいると思いますか?決してその様な者はいませんよ――私も含めてね」
「…晴明…?」
「ヘッ、まったくよぉ…この男は本当に素直じゃねぇなぁ。アイツ等の事が先生の所為じゃねぇって言いてえなら、素直にそう言やいいじゃねぇか」
 村雨がニヤニヤしながらからかう様に御門を見て言う。
「フッ、お前のような者に素直ではないなどと言われる筋合いはありませんね」
 意に介さずと言った感じで御門がそれを受け流す。
「その通りです、無礼者。晴明様に謝罪なさい、村雨」
 その横では芙蓉が厳しい顔つきで村雨を睨み付けている。
「おお怖。惚れた男の悪口は許さねぇってか?健気だねぇ、芙蓉ちゃんは」
 その言葉に益々芙蓉の柳眉が逆立つ。
 と、その時――
『いやあああぁぁぁぁぁッ!!』
 治療室の方から悲鳴が上がった。
「龍麻、あの声比良坂さんじゃ…?」
 葵が腰を浮かし、龍麻に向かって言った。しかし、龍麻はそれより早く駆け出していた。
「どうしたんだ!?」
 勢いよく扉を開け、龍麻が声を掛けると、そこでは岩山・舞子・紗夜の3人が蒼白な顔色で振り返った。一瞬沈黙が支配し、やがて紗夜が声を振り絞る様に言った。
「…ほ…蓬莱寺さんの…し…心臓が…停止…しました…」
「なッ!?」
 後から駆け付けた他の仲間達も、突然の宣言に呆然としている。
「…さ…紗夜ちゃん…?それ…嘘…だよね?そんな…わけ…ない…よね?」
 小蒔が震える声で訊き直す。しかし、紗夜は自分の肩を抱き締め、首を横に振った。
「嘘ッ!信じないよ、ボク!京一アノ時だって死んじゃったかもってみんな心配したけど、全然無事でひょっこり帰って来たりして、だから今度も寝たフリしてるだけですぐ目を覚ますんだから。そんな嘘、絶対信じないんだからッ!!」
 しかし言葉とは裏腹に、龍麻の腕にしがみつく小蒔の脚はガクガク震え、その場を走り去る事すら出来ない様だった。そして紗夜は座り込んで何事かを呟きながら、ガタガタと震えている。
「比良坂さん、しっかりしてッ!」
 葵が側に寄って抱き起こそうとするが、紗夜はその手を振り解き、立ち上がろうとする気配もない。と、舞子が紗夜の前に歩み寄り、いきなり頬を平手で打った。奇しくも先程小蒔が龍麻の頬を叩いた時のような、乾いた音が響いた。
「…高見沢さん…?」
「紗夜ちゃん、まだ諦めちゃダメ!心臓は止まったけど、まだ完全に京一君が死んだとは限らないんだからッ!まだ私達は出来る事を全部やり尽くした訳じゃないんだから!!今京一君を助けられるのは私達だけなんだよ?私達が諦めちゃったら、京一君本当に死んじゃうんだよッ!?だから紗夜ちゃん、立って!そして助けるの!絶対、絶対京一君を助けるの!紗夜ちゃん、私達みんなで京一君を助けるのッ!!」
 暫し呆然とした面持ちで舞子を見つめていた紗夜だが、やがてその瞳に強い光を宿らせてしっかりと頷いた。
「ああ、高見沢の言う通りじゃな。今わしらが諦めては助かる者も助からん。この桜ヶ丘中央病院院長岩山たか子の名に賭けて、こんなイイ男を死なせる訳にはいかんからな。幸いこっちの2人は何とか持ち直した。後は全力で京一を助けて見せるわい」
「院長先生、私にも手伝わせて下さい」
 葵が声を掛けた。
「マリィの病気の時は私何もして上げられなくて、皆さんに助けてもらいました。今度は私が他の人を助けたいんです」
 マリィの頭を軽く撫でながら葵が言う。
「…うむ、確かにお前さんの持つ『菩薩眼』の力は今の状況では役に立つ。では頼むとしよう。だがワシはイイ男を助ける為なら女はいくらでもこき使うからな、心して置けよ」
「ハイ!」
「マリィモ手伝ウ!」
「フン、まあいい。何かに使ってやるから一緒においで」
「ウンッ!」
 その葵の背中に龍麻が声を掛けた。
「葵、京一を頼む」
 葵はその言葉に小さく、しかし強く頷くと治療室へ入って行った。
「ほな、ワイは醍醐はんと壬生はんに活勁を送り込んどくわ」
「済まない、弦月」
「何言うてんのや。2人ともワイにとっても大事な仲間なんやで。自分の仲間助ける言うのにアニキに謝られる筋合いはあらへんて」
「…そう…か。そうだね。それじゃあ、2人を頼む」
「へへッ、まかしとき」
 そう言って劉が龍麻に向かって微笑み、醍醐達の眠る病室へと歩いて行こうとすると、
「おい、弦月。俺達も暇だから手を貸してやるぜ」
「なんや爺ちゃん、年寄りの冷や水にならんように気ィつけいよ」
「けッ、餓鬼が利いた風な事言うもんじゃねぇぜ」
 劉の軽口に答えながら道心と龍山も後に続いた。
「弦月様、私達にも何かお手伝いさせてください」
 雛乃の言葉に雪乃と紫暮も頷いている。
「へへッ、おおきに。ほな行こか」
 更に3人が病室へと向かって行った。
「…みんな自分に出来る事をやろうとしてる…。あの時もこんな感じだったな…」
 ポツリと小蒔が口に出した。
「あの時?」
 龍麻が訊き返すと、小蒔は龍麻の顔を見上げて言った。
「キミが…ひーちゃんが柳生に斬られて重症を負った時。あの時もみんなが自分に出来る限りの事をやって、キミを助ける為に頑張ってたんだ。だから、今度もきっと大丈夫だよ」
 そう言う小蒔は、目尻に涙を浮かべながらも微笑んでいた。
「…うん、そうだね。みんなを信じよう」
 龍麻もそう頷くと、ロビーのシートに腰を下ろした。しかし、程無くパタパタと駆けて来る足音が聞こえて来た。
「ダーリーン!」
 舞子だった。
「高見沢!?如何したんだ?京一は!?」
 龍麻が訊くと、舞子はにっこりと笑って言った。
「京一君、息を吹き返したの!助かったのぉ〜!!」
「ホントッ!?高見沢さん!」
 小蒔が満面に喜色を表わして訊き返す。
「やれやれ、まったくしぶとい兄さんだぜ」
 何時の間にか寄って来ていた村雨はそう言いながらも、嬉しくて仕方がないという表情をしている。
「フッ、このような思いをさせられるのはもう此れっきりにして頂きたいものですね」
 御門は元の場所から動いてこそいないが、滅多に見せないような柔らかな笑顔でそう皮肉る。
「どうやらあの方の宿星はまだ輝きを失ってはいないようですね」
 その隣では、普段感情そのものさえ窺わせる事の無い芙蓉が、安堵の表情を見せて言った。
「ウン、たか子先生がもう大丈夫だってぇ。先生も紗夜ちゃんも美里さんも舞子もみぃんな頑張ったんだよぉ〜」
「ありがとう、高見沢!他のみんなは!?」
「うん、まだ京一君の傍に――アッ!」
 言いながら歩き出そうとした舞子だったが、急に糸が切れた人形の様に倒れこみ、慌てて龍麻が受け止める。
「高見沢?」
 見ると舞子はポーッと気の抜けた表情で、双眸からボロボロと涙を流していた。
「ゴメンねぇ〜、ダーリン。京一君が大丈夫だってわかったらぁ…。変だよねぇ〜。舞子ぉすっごく嬉しいのに涙が止まんないのぉ〜」
 いくら看護婦を務めているとは言え、齢17,8の少女が人の死に面して平常でいられるはずもない。ましてや親しい仲間が瀕死に陥った状態で彼女にも相当な重圧が掛かっていたに違いない。先ほどまでの気丈な態度も、彼女なりにかなり無理をしていたのだろう。
「…ありがとう、高見沢」
 龍麻は舞子にもう一度そう礼を言うと、彼女の身体を抱き上げた。
「きゃッ!?ダ、ダーリン!?」
「せめて僕が君をみんなの所へ連れて行くよ」
「ええッ!?そ、そんなぁ〜嬉しいけどぉ桜井さんに悪いからいいよぉ〜」
 舞子が顔を真っ赤にしてもじもじとそう言う。
「良いからッ!今日は特別だよッ」
 横で小蒔が舞子に顔を近付けて、そう言いながら笑い掛ける。
「え〜ッ?ヤッタ〜!じゃあ遠慮無くぅ〜」
 そう言って舞子は龍麻の首に腕を回してしがみつく
「アッ、で、でもそんなにくっついちゃダメだってばッ!」
「や〜ん」
「ちょ、ちょっと高見沢、あんまり暴れないで…」
 龍麻が目を白黒させながら殆ど声にならない抗議をする。そんな3人の様子を村雨達は三者三様に呆れた様子で眺めていた。
「…先生、早いトコ京一の様子を見に行こうぜ」
「まったく、心底お気楽な方々ですね、貴方達は」
「御主人様…それは蓬莱寺様が気付かれた時に笑わせる為の練習ですか?」
 芙蓉にまでツッコまれて流石に3人とも顔が朱くなる。
「あー、早く行こうか小蒔」
「そ、そうだね、ひーちゃん」
 舞子を抱き上げたままそそくさと治療室へ向かう龍麻と小蒔であった。
 中では京一を囲んで葵・紗夜・マリィが泣いており、岩山までが目尻を光らせていた。
「あ…龍麻…」
 真っ先に気付いた葵が顔を上げた。
「葵、紗夜ちゃん、マリィ…院長先生も本当にありがとう」
 龍麻が4人に向かって深く頭を下げる。
「京一達をよろしくお願いします」
 そう言うと高見沢を隣のベッドへ下ろし踵を返して部屋を出ようとした。
「ひーちゃん?」
「京一達を助ける為にみんながそれぞれ自分に出来る事で頑張ったんだ。今度は僕が僕に出来ることをする番なんだ。全てを終わらせる為に」
 怪訝な顔の小蒔に笑い掛け龍麻が言った。
「…そっか。へへッ、ならボクも最後まで一緒だよッ」
 小蒔がそう言いながら龍麻の腕を取る。
「小蒔…」
「今更置いてくなんて言っても聞かないからね」
「…ウン、わかってるさ。一緒に行こう」
「待って!あの…私達も一緒に行かせて」
 振り向くと、葵とマリィが立ち上がっていた。
「いや、けど…」
「オ願イ、龍麻!マリィも龍麻と一緒に闘イタイノ!龍麻がマリィの事思ッテ言ッテクレテイルノは分カッテル。デモ、ソレダケじゃ嫌ナノ!マリィも仲間…ダヨネ?」
「勿論だよ。けど…理由はそれだけじゃ無いんだ」
 龍麻は自分が綺堂朱羅(きどうあきら)に感じた、漠然とした不安を葵達に話した。
「…なら、尚更私を連れて行って。もし貴方が『黄龍の器』として『菩薩眼』である私に対することを感じ取ってくれたのなら、それは正しい予感なのかも知れない。けど、私も自分の力で知りたい!与えられるだけだった私に、自分で何かを手にする事を教えてくれたのは貴方なのよ。大丈夫、何かあったらマリィが護ってくれるもの。ね、マリィ?」
「ウン!葵オネーチャンはマリィが護ルカラネッ!」
「…分かった、頼むよ」
 苦笑しながら龍麻が頷く。
「安心しなよ、先生。美里の姐さんと嬢ちゃんには俺達が手助けしてやるからよ。なあ、御門?」
「フン、貴方のようなギャンブル馬鹿の万年暇人と一緒にされるのは心外ですが…。まあ、良いでしょう。幸いこのところ秋月様を狙うような不埒者もなりを潜めている様ですし、特にこの先予定もありませんし、多少の手伝いくらいはして差し上げましょうか」
「…晴明様?先ほど私に秋月様へ連絡を取るよう命じられたのはこの為だったのではないのですか?」 「プッ、ククク…」
 思わず村雨が吹き出した。
「芙蓉、あまり余計な事は言わない様に…」
 御門が僅かに顔を朱くして芙蓉をたしなめる。
「申し訳御座いません、晴明様」
「いいんだよ、芙蓉。御門の言う事はタダの照れ隠しなんだからよ」
 今度は御門も村雨を無視した。
「さて、行きましょうか。龍麻さん?」
『おっと、まさかオレ達を忘れた訳じゃ無いよな!』
 いきなり掛けられた声の方を振り向くと、雪乃を筆頭に雛乃、劉、紫暮が醍醐達の病室から出て来たところだった。
「アニキ、醍醐はん達はもう大丈夫や。気の流れも安定してきよったし、目を醒ますのも時間の問題やと思うで」
「そうか、良かった…」
「じゃあ、サッサと行こうぜ」
「え?あ、雪乃!?」
「なんだよ龍麻くん?そんな顔して」
「いや、だって行くって…」
「龍麻、まさか俺達も共に闘うと言った事を忘れた訳ではあるまいな」
 何故か分身した紫暮が2人で詰め寄る。その暑苦しさにはかなりの迫力があり、思わず龍麻も身を引いてしまう。
「い、いやそんな事は無いけど…」
「決まりだな」
 雪乃が勝ち誇った様に言う。
(つくづく凄いカップルだよね)
(…ウン)
 内心改めて怖れをなす龍麻と小蒔だった。
「緋勇よ、今回はわし等も同行させてもらうぞ」
「龍山先生達もですか!?」
「ああ、まさか弦麻の奴が此れほどまでに力をつけているとは思わなかったからな。だから息子のお前ぇにケリを付けさせようと思ったんだが…」
「どうやらケリをつけなくてはならんのは、かつて共に闘ったわし等のようじゃの…」
 少しの間2人を見つめ考えていた龍麻だったが、
「龍山先生、道心先生、よろしくお願いします」
 そう言って深く頭を下げた。





 結局総勢13人という大人数で出発する事になってしまった。
「けどさー、何処へ行けば良いかひーちゃん分かるの?」
 小蒔が至極当然の質問をする。それに軽く頷くと龍麻は龍山へと顔を向けた。
「龍山先生、父は龍脈の《力》を手にしようとしている、と仰ってましたよね?」
「む?ああ、確かに。奴の今までの行動から推測すると、そう考えるのが最も妥当であろうの」
 急に話題を振られ、若干戸惑いながらも龍山が答える。
「なら、父さんが居る場所は1つしか無いさ。すなわちこの地の『黄龍』が住まう場所。最大の『龍穴』に必ずいる!」
「アッ!!」
 思わず小蒔が声を上げる。
「そう…そうよね…」
「なるほど…な。確かに其処に弦麻が居ると考える方が自然だろうよ」
「フッ…一年前のあの場所ですか」
 龍麻の言葉にほぼ全員がその場所を理解した。
(お、おい兵庫ッ。龍麻くん何処の事言ってんだ?)
(う、うむ…いや俺も正直頭を使うのは苦手でな…)
(……姉様……紫暮様……)
 若干理解していない人間も居て、雛乃が頭を抱えていたりもするが。
「そう、父さんは上野の寛永寺にいる」
『アハハハハ!彼の居場所に気付くなんて、流石彼の息子だけあって結構切れるのね』
 龍麻がそう宣言したと同時に若い女の声が響き渡った。当然龍麻にとっては聞き覚えのある声である。
「出て来たらどうだ!?綺堂朱羅!!」
 龍麻が辺りを見回しながら呼び掛ける。
「言われなくたって今出て来ようとしたところよ」
 と、何処からともなく朱羅が姿を現わした。
「ハ〜イ♪お久し振りって言っても昨日の事だったわよね。どう?お友達の具合は」
 アルビノの少女は紅の瞳を細めて、挑発する様に言った。それを聞いて龍麻達に怒気が溢れる。しかし、龍山と道心だけは驚愕の表情で朱羅を見つめていた。
「どうしたの、お爺ちゃん達?フフッ、見惚れるほど私って綺麗?けどゴメンね、私ジジイは好みじゃないの」
 だが朱羅の挑発にも2人は反応しない。やがて龍山が珍しく震える声で言った。
「お主…お主のその瞳は…菩薩眼ッ!?」
『なッ!?』
 道心と朱羅を除く全員が驚きの声を上げた。
「な、何言ってんのさッ!菩薩眼って『黄龍の器』と同じで、1つの時代に1人しか居ないはずなんでしょッ!?葵の他にいるわけないじゃないかッ!!」
 しかし答える事の出来ない龍山達に代わり、小蒔の言葉にさも可笑しそうに笑いながら、朱羅が嘲りを含んだ口調で言った。
「そっちこそ何を言っているの?そうね、確かに『菩薩眼』を持つ女は何時の時代も常に1人。けど忘れたの?この時代に限り同じく1人しか居ないはずの『黄龍の器』が2人現れた事を。貴方達が斃した、渦王須と言う男の事を」
「渦王須ッ!?何故君はそんな事まで知っているんだッ!?」
「さあ?フフッ、貴方達が彼のトコロへ辿り着けたら訊いてみるのね。とにかく『黄龍の器』が2人いるのなら、対となる『菩薩眼』が2人居てもおかしくないでしょ?」
 相変わらずの歳不相応に妖艶な笑みを浮かべて朱羅が答える。と、葵が前に進み出て朱羅に話し掛けた。
「貴方が私と同じ『菩薩眼』…?なら、何故貴女は『黄龍の器』である龍麻に敵対するの?貴方も私と同じ様に彼を護りたいと感じている筈なのに…」
「…そう、貴女が美里葵ね。なるほど綺麗ね。さしあたって貴女が『陽の菩薩眼』、私は『陰の菩薩眼』と言ったところかしら?」
 そう言う朱羅の声には、今までのからかい半分の口調とは明らかに異なる、明確な敵意が含まれていた。
「おい、娘。お前ぇ、綺堂とか言ったな。そりゃあもしかして『鬼道』の事なんじゃあねぇのか?」
 道心が口を挟む。すうっと朱羅が目を細める。
「へえ、まだボケちゃいないみたいね。中々冴えてるじゃない、お爺ちゃん?」
「『鬼道』…だって?」
 龍麻が呟くような声で訊き返す。
「そう、綺堂家は元々九角家の傍流として『鬼道』を行う巫女を多く輩出して来た家柄なの。名も元は鬼道家と言っていたんだけど、九角鬼修の乱で幕府による誅殺を恐れ、その名を変えて脈々とその血筋を現代まで伝えてきたのよ。その間、幾人も『菩薩眼』の女が産まれたそうね」
「…父さんについて僕達を狙うのは、主家である九角の敵討ちの為なのか?」
 しかし、龍麻の疑問に朱羅は鼻で笑って言った。
「馬鹿言わないで。九角なんて知った事じゃないわ。ただ私は『黄龍の器』ともう一人の『菩薩眼』に興味が在っただけよ」
「それだけなら何故ッ!」
「あんな酷い事をするのかって?それはね、アノ人が、弦麻が生まれて初めて私を必要としてくれた人だから」
「えッ!?」
「さあ、お喋りはお終い。アノ人が『龍脈』の《力》を手に入れるまでの時間、ここで時間潰しでもして行ってもらおうかしら?」
 そう言うと朱羅は、何やら複雑な言葉を紡ぎ出す。
「ふむ、厭魅術に近いが…どうやら独自に他の呪法をアレンジしてより強い《力》を生み出していますね。並の術者なら己自身が呪法に取り込まれて自滅している所ですが、流石は『菩薩眼』と言うところですか」
「御門はん、そないな説明しとる場合やあらへんでッ!」
 周囲に膨れ上がる殺気を感じ取って、全員が構えを取る。やがて無数の鬼が姿を現わした。
「龍麻、貴方は先に行って」
「葵ッ!?」
 驚きの声を上げる龍麻に、にっこりと微笑んで葵が言った。
「私なら大丈夫。私、彼女と話してみたいの。きっと分かり合えると思うから。だって同じ宿星を背負って生まれて来たんですもの」
「……わかった、じゃあ頼むよ葵」
「龍麻、行ッテ!葵オネーチャンの事ナラ、マリィが付イテイルカラ大丈夫!」
「まッ、姉さん達のフォローは俺達がしてやるから安心しな、先生。折角日本まで帰って来たんだ。久し振りに暴れさせてもらうぜ」
「やれやれ、美里さんが話し合うと言っているのに何故お前が暴れようとするのですかね、村雨。仕方がありません、この男に任せて置く訳にもいきませんから、私達も残りましょうか、芙蓉」
「御意」
「龍山様と道心様もどうか龍麻さんとご一緒に。ここには私達姉妹も残ります故、お2人は龍麻さんのお力になって下さい」
「劉、お前も行けよ。お前も龍麻くんの親父さんとは無関係じゃ無いんだろ?」
「…おおきに、雪乃はん」
「チッ、餓鬼共が余計な気を使いやがって…」
「良いか、決して死ぬでないぞ!」
「小蒔ッ!…龍麻をお願いね」
「葵…ウン、ひーちゃんの事は任せてッ!さあ行こう、ひーちゃん。上野の寛永寺ヘ!」
 龍麻は小蒔に向かって頷くと、彼女の腕を取り走り出した。その後には劉が、道心が、龍山が続く。5人の後を数匹の鬼が追おうとしたが、そこへ既に分身していた紫暮が立ちはだかる。
「この紫暮兵庫、ここから先は1歩も通さん!!」
 すかさず目標変更した鬼達が、一斉に紫暮へ襲い掛かった。
「破ァッ!!てやァァァッ!!おりゃァァァァッ!!」
 紫暮の拳撃が強靭な鬼の身体をも圧倒して行く。結局それが闘いの合図となった。
「ヘッ!最初ッから飛ばすじゃねぇか、兵庫ッ!!」
 薙刀を振るいながら雪乃が笑い掛ける。と、1匹の鬼が横から雪乃に爪を伸ばす。
「チッ、レディに対する礼儀がなってねぇぜ!落雷閃ッ!!」
 切っ先に雷を纏わせて、激しい斬撃を打ち込む。
「おい、雛ッ!そっちにも何匹か行ったぞッ!」
 乱戦になり、射的を止め鳴弦によるサポートに徹していた雛乃に、雪乃が声を掛ける。
「ええ、承知しております姉様。――草薙の儀」
 爪弾いた弦が清廉な響きを奏でる。僅かに空気を震わす様で在ったそれは、波紋の様に徐々に大きな衝撃となって彼女の周りに迫る鬼達を薙ぎ倒して行く。
「まったく、よくこれだけの鬼を作り出したもんだぜ」
 村雨が悪態を付きながら手持ちの札で、次々と鬼を打ち倒す。しかし、不意に背後に気配を感じ振り向いた。見ると一際大きい黒い肌の鬼が、今まさにその太い腕を村雨に叩きつけようとしているところであった。とても躱せるタイミングではない。
(殺られるッ!?――)
 その時、誰かが村雨と鬼の間に割り込んだ。咄嗟に鬼は攻撃目標をその何者かヘと切り換える。
「ああッ」
「芙蓉ッ!?」
「クッ…天后不動明斬扇ッ!!」
 決して浅くはない傷を受けながらも、その身体に残る全霊力を鬼へと叩きつける。鬼神と呼ばれる芙蓉の渾身の一撃に、鬼などが敵うはずもなく、その巨体が敢え無く霧散する。
「芙蓉ッ!手前ぇ何無茶しやがるッ!」
「フッ、別にお前の為などでは在りません。ただお前が死ぬと悲しむ方々がおられる、それだけの事です」
「チッ、余計な事しやがって…。…礼は言っとくぜ。後は俺達が片付けてやるから、お前はそこで見てな。ただし、いくら俺が格好良いからって惚れるんじゃねぇぜ、芙蓉ちゃん」
「……お前などやはり見殺しにしておくべきでした……」
「ヘッ、キツイお言葉だねぇ」
 しかし、その飄々とした態度の内に、一体何人がその奥底の激しい怒りを感じ取ったか。
「――くたばっちまえッ!!五光、狂幻殺ッ!!」
 無造作に引き抜いた5枚の札から、眩い光が迸り、迫る鬼達に降り注ぐ。一瞬の後、その中にいた無数の鬼達が全て姿を消していた。
「フッ、この様子なら私が残るまでもなかったようですね。まあ、折角ですから少しは楽しませてもらいましょうか――バン・ウン・タラク・キリク・アク、鬼神招来ッ」
 御門の投げ放った呪符がそれぞれ、異形に変化を遂げていく。異界を通じ、浜離宮でマサキを護る式神達の力の一部を呼び出したのだ。圧倒的な力を振るう式神達。
 仲間達の攻撃で、圧倒的な数を誇る鬼達も次第にその数を減らして行った。そして、その中央で対峙する少女達がいた。
「お願い、こんな事もう止めて!」
 葵が朱羅へと懇願する様に語り掛ける。その隣では一言も口を開いていないが、マリィが義姉を護る様に立っている。朱羅が2人を侮蔑の表情で睨み付け、答えた。
「止める?何の為に?私はアノ人が望む通りの世界を創る手助けをしているの。アンタ達なんかに指図される覚えは無いわ」
「でも、その為に沢山の人が苦しみ、哀しみ、傷付いているわ。貴女だって本当は自分自身の行為に傷付いているのでしょう?なら、こんな事もう終わりに――キャッ!」
 葵の顔の脇を衝撃が抜けて行く。艶やかな髪が数本宙に舞った。朱羅が突然《力》を放ったのだ。その顔には激しい憤怒が溢れていた。
「アンタなんかに一体何が分かると言うのよッ!!――貴女綺麗ね。私みたくちょっとした陽光の下でも醜い火傷が出来る訳でも無いのに、きめこまかい真っ白な肌。流れるような黒髪。僅かに翠がかった深い瞳。何の不自由も無く、大切に育てられたのでしょうね。元は同じ血筋を辿っていると言うのに…。貴女なんかに、アンタなんかに誰からも愛された事の無い私の何が分かるのよッ!!」
「綺堂さん…」
「この容貌のおかげで、両親すら私を忌み嫌っていたわ。教えてあげましょうか、私の名前の由来。私の両親ね、この紅い瞳を見て羅刹か悪魔に思ったそうなの。フフッ、可笑しいでしょ?元々は『鬼道』を行ってきた家系のクセに、今更羅刹とか悪魔とか恐れるなんてね。でも結局は家に私の居場所なんてなかった。だから中学の時に家を出たの。なんでもやったわよ。貴方なんかに想像出来る?中学に入ったばかりの子供が生きる為に身体を売る姿なんて」
 朱羅の話を聞きながら、何時しか葵の双眸に涙が浮かんでいた。決して同情や憐憫等ではなく、純粋なる哀しみを瞳に映して。
「それでその人と、龍麻のお父さんと出会ったの?」
「彼だけは私を必要だと言ってくれた。勿論それが愛などではなく、単に私の《力》を利用するのが目的だなんて百も承知しているわ。でも、それでも私を必要としてくれる人がいるのなら、その人の役に立ちたい。……言っても分からないでしょ?貴女の様に誰からも必要とされる人には」
「…そんな事無いわ…私だって、一番必要として欲しい人には…」
 その先は必死で飲み込んだ。自分の中での『彼』への想いには訣別したはずなのだから。それを言っては傷付けてしまう人があまりに多過ぎるから。
「…とにかく、彼の目的が達成された後、貴女は如何するつもりなの?」
 顔を上げて朱羅を見つめ直す葵。
「貴女にそんな心配される必要なんてないわ。私は最期まで彼の役に立つの。この身体の全てを使ってね」
「え?」
「私のお腹には彼の子供がいるの」
「なッ!?」
 あまりに衝撃的な言葉に、葵のみならず周りで闘っていた仲間達もその動きを止めた。もっともその時には鬼の大半は斃してしまっていたのであるが。
「…弦麻さんの子供…?龍麻の兄弟ッ!?」
「もうすぐアノ人が『黄龍の器』である緋勇龍麻を殺すわ。そうしたら私がアノ人の子供を産む。強い《力》を持つ男と『菩薩眼』の女の間には新しい『黄龍の器』が産まれるそうね。フフッ、私達にピッタリの条件じゃない」
「そ、そんな事って…」
 葵が思わず息を呑む。
「馬鹿なッ!貴女は知っているのですか?『黄龍の器』を産み落とした『菩薩眼』の女性は、その生命(いのち)を使い果たし、例外無く死ぬという事をッ!」
 御門が普段からは想像出来ないような厳しい表情で口を挟んだ。しかし、朱羅は眉1つ動かす事無く、目だけで御門を一瞥して言った。
「知ってるわ。でも、良いの。アノ人が私を必要としなくなって、また1人になるくらいなら、最期まで彼の役に立って死んだ方がましだもの」
 その言葉に悲壮さは無い。むしろさっぱりしたその口調にはその想いが本心で在る事を物語っていた。
「この子は私が生きた証。たとえ私自身が死ぬとしても絶対にこの子だけは産んで見せるわ。だから今、貴女達に負ける訳にはいかないの!」
 その言葉とともに、朱羅の身体から氣が立ち昇った。
「――天空より墜とされし七人の大天使達よ、その黒き翼持て汝等が敵に漆黒の裁きを!――堕天使の闇ッ!!」
 朱羅の言葉と共に、黒い波動が広がって行く。僅かに残っていた鬼の1匹が、その闇色の波動に触れた途端、あっけなく崩れ去る。
「貴女の気持ちは理解できるけど、それでも私達にも負けられない理由が在るの。だって私は、私達は龍麻を護る為にこの時代に生まれ、そして出会った仲間達なのだもの。――神に仕える大いなる力、四方を守護する偉大なる五人の聖天使よ…ジハード」
 今度は葵の身体から神聖な輝きを持つ光が迸る。その光は、朱羅の放つ黒い波動をも凌駕し、その闇を次々打ち消して行く。
「私、貴女を止めますッ!」
 言って葵は朱羅めがけ走り出す。普段直接戦わない為に意外な感はあるが、元々運動神経にも秀でている葵は、走るスピードもかなりのものであった。一気にその差が縮まる。朱羅を取り押さえようと葵が手を伸ばす。勿論《力》を使えば斃せる筈なのだが、朱羅の身体を気遣ったのだ。
「どう言うつもり?フン、闘いの最中に相手を思いやる余裕があるなんて、私も見くびられたものね。言っておくけど、私の方では一切手加減する気は無いわよ?」
 言いながら振り下ろす彼女の手刀には、先程と同じ様な黒い気がわだかまっている。
「…それでも私は貴女を助けたい。だって貴女は泣いているもの!誰かに助けを求めているもの!!」
「利いた風な事を言うなッ!!」
 渾身の手刀が葵の脳天をめがけて振り下ろされる。必死で避けようとする葵。しかしいくら優れた運動神経を持っていようと、やはり身体を使った闘いに慣れていない葵は、僅かに体勢を崩してしまった。そしてそれは、僅かとは言えそれは必殺の一撃を前にしてはあまりに致命的なミスであった。思わず目を瞑る。と――
「Hey,let's dance Mephist!」
「何ッ!?」
 高く響く声と共に、黒い塊が朱羅の顔めがけて飛んだ。マリィがメフィストを飛びかからせたのだ。思わず振り下ろし掛けた手を自らの防御に使う朱羅。その隙にすかさず葵が体勢を立て直す。
「ありがとう、マリィ」
「エヘッ、オネーチャンを護ルッテ、龍麻と約束シタモンネッ」
 マリィが葵に向かって微笑み掛ける。だが次の瞬間、急に真顔に戻って葵に訊いた。
「オネーチャン、アノ人の事、助ケテ上ゲラレルヨネ?」
 その眼を見て、義妹の意図を瞬時に理解する。葵はこくりと頷いて言った。
「必ず助けて見せるわ。だから今は――」
 その言葉で、マリィもまた義姉が自分の意図を理解してくれた事を悟る。そして2人は駆け出し、朱羅を挟む様にして互いの意志を通わせる。
「ウン!葵オネーチャン、行クヨッ」
「いいわよ、マリィ。でも、大丈夫?」
「Don't worry!マリィに任セテ!!FIRE!!」
「ケルビムを巡りし、燃え盛る炎の輪よ…私達に守護を…」
 マリィが炎を作り出し、葵が天に祈りを捧げる。そして――
『アポカリプス・ケルブ!!』
 2人の呼び出した人頭獣身の天使が、激しく燃える浄化の炎を朱羅へと浴びせ掛け、闇色の闘気を打ち消して行く――この時、最後の鬼が紫暮の拳を受けて斃れたところであった――その後にはぐったりとした朱羅が横たわっていた。
 すかさず葵が朱羅へと駆け寄り、彼女の下腹へ手をかざして意識を集中させる。
「…………何のつもり…?さっさと…行けば良いじゃない…」
 薄っすらと目を開いて朱羅が毒づく。かざす掌に意識を集中させながら、葵が答えた。
「まだ貴女を助けていないもの。此れ以上誰かが傷付いたり、哀しんだりするのは嫌だから。たとえ貴女には安っぽいヒューマニズムと思われたとしても、私は貴女と貴女の赤ちゃんを助けて見せます。そして一緒に見届けましょう、2人の闘いを。貴女にはその義務があると思うから」
「…2人の闘い…どうせ弦麻が勝つに決っているわ…」
「貴女がそう信じている様に、私も…いえ私達みんな龍麻が勝つ事を信じているの。大切な仲間である龍麻が。それに――」
「…それに?」
「彼には一番大切な女性(ひと)がついているから」
 そう言って葵は微かに微笑みを浮かべた。どことなく寂しげにも見える微笑を。
 それきり葵も口を閉じ、朱羅の傷を癒すことに専念する。その様子を仲間達が見守る。ある者は微笑みながら。ある者はワケが分からないと言う表情で。そしてある者は皮肉な眼差しを向けながら。それでも誰一人、彼女達に口出しする事無くただ静かに見守っていた。
 そのままどれほど経っただろうか。朱羅は、自らの身体に宿る生命が無事に息づいている事を感じていた。やがて小さく息を1つつき、口を開く。
「…連れて行って、彼の所に。でも勘違いしないでよ。私はただ、彼が勝つ所を見たいだけなんだから」
 ぶっきらぼうなその言葉に、葵が一瞬驚き、そしてすぐに嬉しそうな笑顔で頷いた。





 ここ上野寛永寺では、1人の男が時を待っていた。
 緋勇弦麻。
 既に儀式により黄龍の持つ陰の《力》を手にしたとは言え、所詮は紛い物の力である。そこで自らが完璧に操れる『黄龍の器』を作る為、陰の『菩薩眼』である綺堂朱羅を見つけ出し、自分の子種を植え付けたのであった。そしてその子供を完全な『器』とするべく、かつてその命を賭けて護り抜こうとした息子を、自分の手で殺すべく待っている。
「フフッ、早くここまで来い、龍麻。俺の手にした『外法』の《力》、たっぷりとお前に教えてやろう――」









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