第弐話 贄








「お腹空いたなぁ…」
 肥田満(ひだみつる)は塾帰り、ファーストフードに寄って行く級友達を見て、恨めしそうに呟いた。
 僅か160センチ足らずの身長で95キロという肥満体の彼は、これ以上買い食いをしないようにと母親に一切の小遣いを管理されていた。
 だがそれこそ彼にとっては余計なお世話だった。
 今は当然彼女などいないが、元々自分の容姿に自信が無い満は痩せてそんなに良い思いが出来るとは思っていなかった。
 むしろ女の子などと付き合うよりは、美味しいものを好きなだけ食べる事が出来る方がよほど幸せだと思っている。
「あーあ、きっと母さんは息子の僕が太っているから世間体を気にして恥ずかしいんだ。だから僕に美味しいものを食べさせないようにしているんだ。きっとそうだよ」
 周りに誰もいないのをいい事に不満を口に出してぶちまける。
 勿論実際には息子の健康を心配しての事なのだが、空腹の満にそんな親心は理解できなかった。と─
「それほど腹が減っているのか?」
「わあぁっ!」
 突然後ろから声を掛けられ悲鳴を上げる満。
「だ、誰!?」
 振り返ると20代後半くらいの若い男が立っていた。
 引き締まった体つきは、醜く腹の出た自分よりよほど若々しい。
 容姿を気にしないとは言ったものの、軽い嫉妬を覚える。
「誰ですか?」
 男はその質問には答えず先程の言葉を繰り返した。
「それほど腹が減っているのか?」
 満はその男に何か尋常でないものを感じたものの、何故かその場から逃げ出すことが出来なかった。
「す、空いてます。母さんがいつも僕に少ししかご飯を食べさせてくれない上に、外で食べれないように小遣いまで管理されてしまっているから…」
「おまえはそれで満足なのか?」
「満足じゃないです!僕は、僕はもっといっぱい美味しいものを食べたいんだ!」
 自然と声が荒くなる。
「僕は美味しい物を食べてる時が一番幸せなのに…。なのに母さんは、母さんは─!」
「ならば食えばいい。誰にも遠慮する事などない」
「え…?」
「お前が好きな物をいくらでも食えるように《力》を授けてやろう」
「…《力》…?」
「美味いものを食いたいのだろう?」
「…食べたいです…」
 その言葉を聞くと男は満足そうに頷いた。
「お前に『外法』の力を教えてやろう」




「ね、ね、ひーちゃん知ってる?この前さ、学校の近くにあったタイ焼き屋さんで作り立てのタイ焼きがごっそり盗まれたんだってー。おばさんがちょっと目を離したホンの1,2分の事らしいよ。非ッ道いよねー」
 その日、珍しくご機嫌斜めの小蒔が言ってきた。
「あんな美味しいタイ焼きを盗んで食べるなんて許せないよッ!」
 元々正義感は強い彼女だが、食べ物が絡んだだけに怒りも倍増らしい。
「そうだね。それより小蒔、もう一つパフェはどう?」
「エヘへッ、サンキュ、ひーちゃん」
 あっさり機嫌が直る。
(やっぱり小蒔の機嫌を取るにはこの手に限るな)
「でも、チョコレートパフェ2個も食べたら太っちゃうかな?もしそれでひーちゃんに嫌われたら…。ボクやっぱり我慢するッ!」
「大丈夫だよ。僕は別に小蒔が痩せてるから好きなわけじゃないんだ。遠慮しないで食べなよ」
「ウン、でもやっぱりひーちゃんの前では可愛くいたいし…」
「小蒔は体動かすの好きだから平気だよ。それに僕は美味しそうに物を食べる君の姿も好きなんだから」
「ひーちゃん…。ウン!じゃあ、もう一つ貰おうかなッ!」
 ほんのり頬を染め照れ隠しのように元気よくパフェを頼む小蒔。
 その仕草を龍麻は優しく見つめていた。
 と、その時─
『きゃあああああぁぁぁっ!!』
 激しい悲鳴が店内に響き渡った。
「ひーちゃん!?」
「行ってみよう!」
 急いで駆けつける。
 そこにあったのは─
「グッ、なに…コレ…?」
 小蒔が吐き気を抑えながら指差す。
 それはボロボロに食い散らかされた中年女性の死体だった。
「何故こんなものがこんな処に…」
 その後は警察などが来て大騒ぎの内に二人は店を後にした。
 ショックが大きかったのか、その日は小蒔が一度も口を開かなかった。




 翌日、龍麻は玄関のチャイムで目が覚めた。
「はーい」
 眠い目をこすり戸を開けると小蒔が立っていた。
「おっはよー、ひーちゃん」
「小蒔…?どうしたんだい?こんな朝早くから」
「ウン、昨日あんな別れ方しちゃったから…」
「そんなの気にしなくていいのに。あんなもの見ちゃッたら仕方ないよ。勿論来てくれた事は嬉しいけどね」
「ありがと。でもお詫びにボクひーちゃんに朝ゴハン作ってあげようと思って来たんだ。ひーちゃん一人暮しで大変だと思ったし」
「えっ?そんな悪いよ」
「いいから、いいから。ボクこう見えても弟達によくご飯とか作ってあげてたから、結構腕には自信あるんだぞ」
 そう言ってテキパキと用意をする。
 30分程で純和風の朝食が出てきた。
「うわぁ、美味しそうだな〜」
「でしょ、でしょ?さ、覚めない内に食べてよ」
「いただきます」
「どう?美味しい?」
 小蒔が期待に満ちた目で聞いてくる。
「ウン、すごく美味しいよ」
「ヤッター、へへへッ良かった」
「ところで小蒔」
「何?」
「エプロン姿可愛いね」
 たちまち顔を真っ赤に染める。
「も、もう、バカ!いいから早く食べなよ!」
「ハハハ。あっと、小蒔悪いけどテレビつけてくれるかい?ニュースを見たいんだ」
 言われて小蒔がテレビのスイッチを入れると丁度朝のニュース番組が流れていた。
「アッ、ひーちゃんコレ昨日の事件だよ」
 確かに昨日2人が事件に遭遇した喫茶店の映像が映っている。
『……で死体の損傷が激しく身元の確認は困難でしたが、遺留品などから今月20日から行方不明になっていた新宿区××4丁目に住む肥田静江さん45才と判りました。警察では野犬などによる事故と他殺による事件の両方から捜査を進めることとなっており……』
「違うな」
 食い入るようにテレビを見ていた龍麻だがポツリと呟いた。
「違うって何が?」
「東京の野犬は人に噛み付く事はあってもあんなにボロボロになるまで食いちぎるほど食べ物に飢えていない。ましてやあんな所に死体が現れるなんて説明がつかない。他殺にしたって普通の人間に出来ることじゃない」
「じゃあ、やっぱり…」
「ウン、誰か《力》を持つ人間の仕業だと思ったほうがいい」
「そんな…。いったい誰が…」
 小蒔が不安そうに眉をひそめる。
「とにかく僕は今日の講義は午後からだから少し事件の事を調べて見るよ。小蒔も早く学校行かないと遅刻するよ」
「エッ?ああッ、もうこんな時間ッ!それじゃあボク行くけどひーちゃん、気をつけてね」
「ウン、それじゃあまた後で」




 1時間後、龍麻は新宿のとある雑居ビルへと来ていた。
 このビルは占いの店などが多いため、普段から若い女性などがよく訪れている。
 そんな占い師の一人に龍麻は用があった。
「うふふふ〜。いらっしゃ〜い」
「やあ、裏密。久しぶりだね」
 裏密ミサ。
 龍麻の高校時代の友人の一人で、このビル内でもトップクラスの的中率を誇ると有名な占い師である。
 普段なら人がいっぱいでとても占なってもらえる情況ではないのだが、今日は時間が早いせいかさほど待つ事も無く店に入れた。
「ひーちゃんが一人なんて珍しいわね〜。もしかして昨日の事件の事〜?」
「流石だね。それが判っているなら話が早いな。早速だけど頼めるかな」
「いいよ〜。ちょっと待っててね〜」
 そういうと裏密は目の前の水晶玉に向かって意識を集中し始めた。
「エロイムエッサイム、エロイムエッサイム…」
 裏密の呪文が静かに響き渡る。
「……2…満たされない飢え…蝿……。フゥ、終わったよ〜」
「どういう意味なんだ?」
「さあね〜。でも飢えというのが気になるわね〜。『暴食』というのはキリスト教では7つの大罪の2番目に数えられているし、それを司る悪魔ベルゼブルは蝿の王とも呼ばれているからね〜。もしかしたらこの事件には悪魔が関わっているのかもね〜。」
 何処か楽しそうに裏密が答えた。
「悪魔?」
「はっきりとは言えないけどね〜。もっと大きな邪念のようなものも見えたけど、確信を持てるレベルじゃないし〜。うふふ〜、面白そう〜。私もう少し調べて見ておくね〜」
「ウン、それじゃあお願いするよ。何かわかったら連絡して欲しい」
「うふふ〜、了解〜。それじゃあ、またね〜」
「今日はどうもありがとう」
 裏密に礼を言い、龍麻は店を後にした。
 その日の夕方、小蒔と待ち合わせた龍麻は裏密の占いの話をした。
「─と言うわけだからさ、きっと何処か食べ物に関係する場所に現れるんじゃないかと思うんだ」
「ウンッ!きっとそうだよ」
「そう言えばさ、昨日小蒔が話してたタイ焼き屋さんの事だけど」
「ア、ウン。それが如何したの?」
「いや、もしかしたらこの事件に関係あるんじゃないかと思って」
「アッ!そうか、そうだね!行ってみようよ、ひーちゃん」
 そして2人は件のタイ焼き屋へと向かった。
「コンチハッ、おばさん」
「あら〜、小蒔チャン!久しぶりだね〜。アンタが卒業してからわたしゃ寂しくてね〜。何しろアンタほど食べっぷりのいい女の子はそうはいないからね〜」
 ふくよかな初老の女性が満面の笑みで迎えた。
「あらあら、こっちの子は彼氏かい?あんたも中々隅に置けないねぇ」
 からかわれていると知りつつも、顔が朱くなるのを隠せない小蒔。
「も、もう。意地悪なんだからッ!─それよりおばさん、この前タイ焼き盗まれたって聞いたんだけど、詳しく教えてくれない?」
 急に真顔になった小蒔に少々気圧されながらおばさんが答えた。
「いやね、ウチの店はアンタも知ってる通り焼き立てのタイ焼きしか出さないだろ?だから普段はあまりたくさん焼く事なんて無いんだけど、その日は電話でどうしても時間までに50個焼いておいて欲しいって電話があってね。それで朝から総動員して焼いていたんだよ。そしたら丁度全部焼き上がるってとこで電話が掛かってきてね。その電話に出てるホンの何分かの内に根こそぎ持って行かれちまってねぇ。ウチみたいな小さな店のタイ焼きなんて盗む事無いのにねぇ」
 流石に彼女はショックが大きかったらしい。
 そういうと深いため息をついた。
「非道いねッ!ところでその時人の姿とか見なかった?」
「いや、人っ子一人いなかったよ。あ、でもそう言えば…」
「何かあったんですか?」
 それまで沈黙を守っていた龍魔が口を開いた。
「いやね、大した事じゃないんだけどさ。あの時妙にブンブン虫の羽音みたいな音がうるさかったなってね。ああ、こんな話は関係なかったね」
「虫の羽音…」
「ね、ひーちゃん。それってミサちゃんが言ってたっていう─」
「おそらく間違い無い。おばさん、ありがとうございました」
「やだよ、おばさんなんて。アンタみたいな若い男の子はこういう時嘘でもお姉さんって呼ぶモンなんだよ。それじゃ小蒔チャン、また近い内に買いに来てね。彼氏と一緒に♪」
「アハハ…、そうする…」
「…………」
 2人は圧倒されたままタイ焼き屋を後にした。
 店から離れた2人は声をひそめて話し始めた。
「それでこれからどうしよう、ひーちゃん」
「どうやら相手は人目につかずに食べものを盗む事が出来るらしい。ただそれなら何故わざわざあんな小さなタイ焼き屋を狙ったかだ」
「あそこのタイ焼きが美味しい事を知ってたんじゃない?」
「ウン、だとするとこの付近に住んでいるか、毎日この辺を通る人間の可能性が高い。そしてあの店の味を知っているっていう事は─」
「アッ!またあのお店に現れるかもしれない─!」
「そういうこと」
「それじゃあ─」
「明日は土曜日で店も休みだから、今日あたりもう一度来るかもしれない」
「待ち伏せだねッ!よーし、あんな良いおばさんを悲しませるなんてしっかりお仕置きしてあげなくちゃねッ」
 自然と小蒔に気合が入る。
 2人は腹にもたれないように軽く食事を済ませると、遠くから店を見張る事にした。
 果たして2時間後─
『ブウウウゥゥゥゥン』
 低い振動音にも似た音を響かせて黒い靄のような物が飛んできた。
 その靄は店のおばさんがホンの少し奥に入って行った瞬間を見計らったように店に飛びこんだ。そして無造作に積んであるタイ焼きを包むようにして群がると、一気に飛び立った。後にはなにも残っていない。
「よし、小蒔アレの後をつけるよ」
「ウンッ!」
 2人がしばらく後をつけると、とある小さな公園へ入って行った。
「ここに犯人がいるのかな」
 小蒔が緊張した面持ちで呟く。
 音を立てないように慎重に靄の後へ付いて行くと、そこには一人の少年が立っていた。
「アレ、真神の制服だ」
 小蒔の言葉に頷き更によく少年を観察する龍麻。
 その少年は小柄だが、その身体ははちきれんばかりに丸々と太っている。
 靄はその少年の前でわだかまると、すぐに飛び散った。
 そして少年の手にはまだ湯気の立っているタイ焼きがのっていた。
 たまらず小蒔が飛び出した。
「キミ!なんて事をするんだッ!それは犯罪なんだよッ!」
「う、うわわぁぁッ!」
 突然声を駆けられて驚く少年だが、すぐにその顔に笑みを浮かべた。
「なんだ、桜井先輩じゃないですか」
「エッ?キミ、ボクの事知ってるの!?」
「よく知ってますよ。弓道部の部長、桜井小蒔先輩といえば男顔負けの大食らいで有名でしたから」
「なッ!失礼だなキミもッ!」
「あれれ〜?本当の事じゃないですか。それに、親友の彼氏を奪ったってこ・と・も」
「!!」
 その言葉に小蒔が愕然とした顔をする。
「男勝りで有名な先輩がまさか略奪愛ですか。いや〜ビックリしますよねぇ」
「…それは…それは─!」
「それは違うよ。僕が彼女を好きになったんだ。美里の気持ちに気付きながらね。小蒔は僕を受け入れてくれたに過ぎない。だからその事で責められるとしたら僕のほうだよ」
「ひーちゃん!!」
 小蒔が僅かに涙ぐんだ目で龍麻の方に振りかえった。
「へぇ、緋勇先輩もいたんですか。確か先輩に親友の醍醐先輩が桜井先輩のこと好きだったんですよね。二人揃って略奪愛ですか。アッ、申し送れましたね。僕、2年A組の肥田満といいます。よろしくお願いしますね先輩」
 満はニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべて言った。
「…で?君は何故こんな事をするんだ?」
 龍麻が静かに問う。
「僕も桜井先輩と同じで美味しいものが大好きなんですよ。なのに僕の母さんが意地悪をしてあまり食べさせてくれないんです。だから貰ったんですよ。何時でも好きなものを好きなだけ食べる事が出来る《力》を─」
 その言葉に龍麻の頭の中を何かがよぎった。
「肥田君といったね。確か昨日殺された女の人も─」
「ああ、僕の母さんですよ。くくくッ、いつも僕に意地悪ばかりするから食べちゃった♪」
 そう言って満はいかにも可笑しそうに笑い出した。
「食べちゃったって…、エエッ!?」
 小蒔が驚きのあまり声をあげる。
「君は人としてしてはいけない事をしたよ」
 龍麻がゆっくりと満に近づきながら言った。
「ふん、僕の邪魔はさせないぞ。来い、虫達!」
 その声に先程の靄が再び集まってきた。
「これは…!」
 それは、人の親指ほどもある大きな蝿の大群だった。
「これが僕の《力》ですよ。せいぜい気をつけてください。この子達はいつも飢えていて人でもなんでもすぐに食い尽くそうとするんですよ」
 その言葉を合図にしたかのように、蝿の群れは一直線に龍麻へと向かってきた。
『ブウオォォォン』
 間一髪かわしたところを、それは唸りをあげて通り過ぎる。
 そしてその後ろに立っていた一本の若木にたかり付くとあっという間にその葉や若芽を食い尽くす。
「無駄ですよ、先輩。何時までも逃げ切れはしませんよ」
「それはどうかな」
「ふん、ならすぐ殺してあげますよ!」
 再び龍麻に蝿の群れが向かう。
 その瞬間─
「小蒔今だ!」
「ウン!九龍烈火―ッ!!」
 小蒔の弓から放たれた矢が、激しい炎を纏って群れの中心に突き刺さった。
 一瞬の内に一匹残らず燃え尽きた。
「ヒィッ!?な、何だッ!?き、聞いてないぞ!貴方達まで《力》を持っているなんてッ!!」
 満の顔が恐怖に引きつる。
「い、いやだッ!助けてッ!僕じゃないッ!僕は『あの人』唆されただけなんだ!貴方達を始末すればいつでも好きなものを食べられるって─プギィィッ!!」
 突然満が悲鳴を上げて動きを止める。
「しまった!」
 龍麻が声をあげると同時に満の身体に異変が起きた。
「そ、そんな…プギャアァァァァ!!」
 次の瞬間、満の体は醜い肉塊になっていた。その巨大な肉塊の中心にはかろうじて満の面影を残す顔がのぞいており、全身のいたる所を食い破って白い大きな蛆虫が現れる。その蛆虫はすぐに成長して先程の蝿になった。
「ひ、ひーちゃん、どうするの?」
 あまりの醜悪な光景に顔を歪めて小蒔が尋ねた。
「…もう、人には戻せない」
「で、でもひーちゃん!彼、肥田君は─ッ!?」
 小蒔は龍麻の手を見て言葉を飲みこんだ。
 龍麻の握り拳から血が滴っていた。
(平気なわけ無いよね。いくら顔を知らなかったからって同じ学校の生徒だったんだから。ましてやひーちゃんは誰よりも優しすぎるんだから。けどそれなら─)
「わかった。ボクも闘うよッ!」
 龍麻は小蒔の目を見て少しだけ安心したように頷いた。
「よし、いくぞッ!」
 龍麻が駆け出す。
 向かってくる蝿は小蒔が炎の矢でことごとく焼き払う。
「せりゃあッ!!」
 懐に飛びこんだ龍麻が目にも止まらぬ速さで連続した拳を打ち込む。彼の技でもかなり高位に入る『八雲』である。それまでにも多くの敵を斃してきた技なのだが─
「ギッギッギツ」
 満は全くこたえた様子が無かった。
「グギャガァ!」
「うぅあッ!!」
 逆に突然盛り上がった肉に横殴りにされ、少なからずダメージを受ける。
「ひーちゃん!!」
 小蒔が心配そうに声をあげるが、彼女も次々飛びかかる蝿達を払いのけるのに精一杯で手を貸す余裕がない。
「大丈夫。仕方ないな、いくぞッ!」
 龍麻の氣が急に膨れ上がった。
「いやあぁぁーッ!!」
 満の身体にこの世を成す様々な力が降り注ぎ、最後に龍麻の腕からまるで龍のような金色の光が放たれた。
 龍麻にとって最強の技『秘拳・黄龍』だった。
「プギプギ…ピギィアアアァァッ!!」
 流石にこの技には絶えられなかったか、断末魔の絶叫を残して満は斃れた。
 みるみる体がしぼみ、もとの太った少年の姿に戻る。
 そして満はぱくぱくと数回口を動かし、唐突にこの世から消えた。
「小蒔!大丈夫かい!?」
 振り返るとあれだけいた蝿も完全に姿を消していた。
「…終わったね…」
 小蒔が呟く。
「だけど彼をこんな風にした奴がまだ残っている。いったい誰が、何のために…」
 小蒔の肩を軽く抱き寄せて龍麻が言った。
「きっと滝沢君も同じ奴に…」
「おそらく…」
 2人はしばらくの間何も言わずに立ち尽くしていた。
「あーあ、お腹減っちゃった!ひーちゃん、何か食べて帰ろッ!」
 唐突に小蒔が明るく声をあげた。
「小蒔…?」
「ほらほら、いつまでもそんな暗い顔してない!いっぱい力つけて、仇を取ってあげなくちゃね」
 そういう本人も無理しているのが判ったが、龍麻は微笑むと小蒔に言った。
「よし、じゃあ久しぶりにあそこのラーメンを食べに行こうか。僕が奢ってあげるよ」
「ホント!?ヤッター!へへッ、ひーちゃん大好き♪」
(やっぱり僕にとって彼女の存在は大きいな)
 腕に抱きついて無邪気に笑う小蒔の横顔を見て、龍麻は心から思った。




 男はまた全てを見ていた。
 そして再び笑みを浮かべる。
「束の間の勝利を喜ぶがいい、龍麻よ─」









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