あいつめ、やる。
柏木耕一が眼前の鬼に立て続けに連撃を叩き込む様を見て、師の月篠雅草は内心でニヤリとした。
彼女の弟子が身体能力において恐ろしく秀でたものを持っているのは分かっていたが、それを十全に生かした動きを取っているのは師として嬉しく思う。
自分が教えた技を、才能ある若者が振るっている。
およそ、他者にものを教えるという立場の人間にとってこれほどの喜びはあるまい。
更に言うのであれば耕一は目の前の鬼をまったく恐れていない ――― 恐れはあるにせよ、勇気と闘志がそれを遥かに上回っているのは間違い無いだろう。
耕一の攻撃にはけれんみというものが無く、素直に真っ直ぐ打ち込まれるそれは実は相手にしてみると最も回避し辛い攻撃なのだ。
ただ、打ち込む。
真っ直ぐに、遊びの無い動き。
フェイントというものがある。攻撃をする、或いは動くフリをしてそれをしない、言わば『騙し』のテクニックだ。
右と見せて左、左と見せて下、打撃と見せて関節、関節と見せて投げ ――― 相手の虚を衝くのは格闘技に限らず闘争における基本だ。その虚が無いのならば、こちらで造ってやる。それが、フェイントだ。
実際の戦いにおいて一瞬の隙が命取りになる場面は珍しくない。その一瞬の隙を作り出すだけならば、半歩踏み込むだけでも、視線を動かすだけでも事足りる。
だが、相手に自由な知能が有り、戦う意志と覚悟が有るのならば易々とフェイントにかかってばかりではない。どの攻撃が虚でどの攻撃が実か、それを見極めるために瞬間的に脳をフル回転させる。反応ではなく反射で動く事がほとんどだろうが。
裏を読まれたらその裏を、更に読まれたらその裏を……際限無く続くいたちごっこであるが、そこには経験に裏付けられた勘が大きく作用する。経験を積んでいるものほど、虚に対応し易く実を捌き易い。
対して耕一の攻撃は、いっそ気持ち良いほどに真っ直ぐだ。
ただ、打ち込む。
そこに遊びはなく、騙しも、虚も、何も無い。
ただ、打ち込む。
至近距離での攻撃が起こってから身体に届くまでに反応して防ぐのは、人間の反射能力では不可能といわれている。ではどうするか。ここでも経験に裏付けられた勘、或いは読み、予測が重要になる。そこで更にその読みや勘を崩すのにフェイントを使うのだが、耕一はそれすらしていない。
基本にこそ全てがある、というのは武道に限らずあらゆる指導者が口を酸っぱくして言う言葉であろうが、それはおおよその場合真理でもある。
恐らく、今や完全に異形と化した鬼の身体能力、動体視力、反射神経、そういったポテンシャルは耕一のそれを遥かに凌駕するだろう。であるにもかかわらず耕一の攻撃が面白いように鬼に決まっているのは、それらの攻撃におよそ無駄が無くしかも的確に防ぎ辛い角度から、死角へ死角へと攻撃の起り(=攻撃の初動)を移しているからだ。
高等な技術というわけではない。まさに基本。
拳と打撃目標点の最短距離を通って拳を走らせ、防ぐ間も与えずに着弾させる。
勿論雅草に言わせればまだまだ未熟も良いところで、こうして見ているだけでも耕一の年齢の倍は駄目な点を挙げられる。それでも、身体能力だけで戦っているような鬼の相手ならば充分だ。
技が力を凌駕している。端から見ていればそう思えたろうし、少なくとも戦っている耕一自身はそう思った。
だが、腰を抜かして半分気絶している被害者になりそこねた若い女性は別として、この場にいた唯一の傍観者である雅草は弟子の攻撃を『やる』と評しながらもまた同時に思っていた。
――― 思っていたよりは、やる。
と。
――― もってあと2分か。
と。
――― 所詮あんたに教えたのは月篠流古武術の入り口だ。
と。
――― それは“ただの”格闘技だ。人間が、人間に教える技術なんだよ。
と。
――― 鬼を調伏するのは、人間が教え、人間が学ぶ技術じゃ有り得ないんだ。
と。
――― 月篠流古武術ってのは、鬼調伏の為の技の、隠れ蓑にして土台に過ぎないんだよ。
と。
棍を握る雅草の手にふと力がこもる。
彼女は弟子を見殺しにするつもりはなかったから、いつでも目の前の仕合に割り込めるために心身に準備を命じたのだ。
おかしい。
耕一は正直焦っていた。
対峙して自分の攻撃が一方的に当たるようになり、相当数の打撃を叩き込んでいる。
相手からの反撃はまばらで、しかも起りが丸見えなので耕一が食らう事はなかった。
勿論、その重い一撃を受ければ『ちから』を解放しているとはいえ人間の姿のままの耕一はただでは済まない。リズム良く攻撃を繰り出しながらも、防御に気を配るのは忘れていなかった。
右の下段下突きが鬼の脾腹に決まる。
間髪入れず右の下段前蹴りで鬼の左膝を正面から蹴り抜き、関節にダメージを与える。
関節に対し曲がらぬ方向、遊びの無い方向に打撃を加えるのは大変危険なので、ルールのある格闘技ではほとんどが禁じられている行為だ。だが、危険なので禁じられているというのは、裏を返せば人体を破壊する上で効率的で、かつ防ぎ様が無いという事でもある。耕一が雅草から学んだ月篠流古武術には容赦なく『それ』をやれとあった。
そも、月篠の拳士は第三者に定められた『ルール』のある戦いはやらない。戦いとは生死を賭けた実戦であり、そうではない鍛錬であるのなら、当事者同士がお互いに納得の行く『ルール』を定めれば良い。遺恨が無いのなら、立ち直れないほどのダメージを与える戦いはすべきではないだろう。
普段から危険な、或いはえげつないとされる攻撃を鍛錬に取り入れていても自分と相手が決めた『ルール』がそれを禁じるのなら、それは使わない。咄嗟に出てしまう、などという弱い心は鍛錬で鍛え直す。反射以上に強い楔を己が心に打ち込む。月篠の拳士にとって、鍛錬はそれをも含んだ克己を指すのである。
耕一の、重く鋭い前蹴りを受けた鬼の膝がぎしりと歪む。
そのまま更に踏み込んで下から掌底で顎を跳ね上げる。
顎の骨は堅く鋭いので、下手に拳を使うと殴った方の骨がいかれてしまう場合があるのだ。
岩を打ったような感触の後、だか確かに自分の腕が生み出した衝撃がベクトルに則って相手の顎を打ち抜いた感触が伝わる。
呆れるほど的確に、恐ろしいほど丁寧に、耕一の攻撃は急所に吸い込まれている。
普段の穏やかな耕一からは想像も出来ないほど、その攻撃は徹底している。
恐らくは身をもって鬼の恐ろしさを知っているからか。
雅草は弟子の苛烈な攻撃ぶりを見てそう思った。
攻勢に昂ぶっているわけではなくあくまで冷静にあろうとしながら、なにかに急き立てられるように攻撃を重ねる耕一。
自分が攻撃の主導権を握っている間に攻めきらなければ、簡単にひっくり返されるという焦慮が、雅草には見て取れた。
実際、いくら攻撃を重ねても効いた様子のない相手と戦うのは嫌なものだ。
攻撃に攻撃を重ねても相手にダメージが見られない。
それを見て自分の攻撃に自信がなくなる。
そして焦りは攻撃のバランスを崩し、結果本当に効かない攻撃を放つようになり、隙を生む。
耕一はその悪循環の入り口に立っていた。こんな時に自分を支えるのは、自信の裏付けとなるものであり、それは今までに乗り越えてきた苦しみがそのまま直結する場合が多い。
強敵と戦った、厳しい鍛練を乗り越えた、など、そういった克己の結果としての自信。
だが、哀しいかな耕一にはまだそれが十分と言えるほど根づいていなかった。なまじ優れた身体能力を持つが故に、地獄のような苦しみを見ずともかりそめの客とかろうじて渡り合える程度のものを身に付けてしまった。
その意志の強さは雅草も認める。だが、耕一にしてみればこの戦いは『護るべき者』のための戦いではない。広く長い視野で見れば耕一の戦いは全てそこに繋がっているのかもしれないが、今この場には耕一が命を賭すべき対象がいない。
耕一の貫手を喉仏に受けながら、鬼の爪が振るわれた。
鉈のような印象を与えるその生きた凶器を直接受ける事をせず、身を引いてその横薙ぎの打撃 ――― いや、斬撃か ――― を躱す。幼児が喧嘩の際に振るうような、稚拙な攻撃だ。力任せの殴打。気がついたら拳が体に触れて既に戻っていた、という領域の雅草の攻撃とは錬度において天と地以上の差があった。
慢心や油断では決してなく、ゆとりを持ってその攻撃を躱す。
躱したつもりだった。
ぴっ。
胸元に軽い衝撃。
――― かすった?
完全に躱していた、という自信があった耕一はその衝撃に動揺した。
胸元を抑える。
すべきではなかった。些少な傷など無視し、攻撃を続けるべきだったのだ。だが、哀しいかな耕一は百戦錬磨とは程遠い経験しか持っていない。自分が受けた攻撃が、自分の身体にどれだけの損傷を与えるか、目で見、直に触らなければ判断はつきかねたのだ。
生温い、ぬるりとした感触が掌を濡らす。
血だった。
かすめただけの鬼の爪は、しかし耕一の皮膚を切り裂き肉を抉って流血させていたのだ。
無論、致命傷とは程遠い。内臓はおろか骨にすら影響はない程度の傷だ。
しかし、である。
躱したと思った筈の攻撃によって流血した。そのことが、しかし、ほんの一瞬だけ、耕一に隙を生んだ。
その刹那、耕一の眼前の鬼が、暴風と化した。
それは何に喩えれば良かったろうか。
濁流に呑まれた木の葉、或いは暴風に晒された若木か。
鬼の拳が、肘が、掌が、足刀が、不規則に縦横無尽に振るわれる度、耕一の身体が弾けるようにずれる。
かろうじて防御めいた行動をしてはいるものの、それは紙で出来た盾で銃弾に抗する程度の効果しか持っていないように見える。
――― ここまでかね。
一方的な防戦 ――― 防いでいる、とはとても言えないが ――― に追いやられた耕一を見て、雅草は内心そう呟いた。
実地試験だ、その鬼を調伏して見せな!
先程、雅草は耕一をそうけしかけた。だが、正直に言って耕一が勝てる見込みは皆無だと踏んでいた。
耕一が、おのれの内に潜む柏木の『ちから』を完全に解放し、自らも鬼と化すのであれば話は別だ。恐らく、雅草が初めて耕一とであった時に感じたあの恐怖に近い感覚からすれば、耕一がその身に宿した『鬼』は恐ろしく高いポテンシャルを秘めている筈だ。そう、柏木の祖、柏木次郎衛門にも追い付くのではないだろうか。
しかし雅草は耕一がそれをしない事も悟っていた。
耕一は恐らく、自分の中の『鬼』を抑制しつつ戦う術を求めていたのだろう。
今はそれがわかる。
柏木の血、鬼の血は、狩猟者の血だ。望む望まざるとに関わらず、戦いに巻き込まれる宿命にある。その時に、鬼に変じることなく戦いを収められる術を、耕一は求めたのだろう。
柏木耕一は、鬼ではないから。
柏木耕一は、人間だから。
柏木耕一は、柏木耕一だから。
確かに、人間のままでもかりそめの客を調伏するのは不可能ではない。
例えば卜部武尊のようなレベルの陰陽師。
例えば月篠雅草のようなレベルの武道家。
そこまで高い技量を持てば、人の身でありながらも魔を討ち、妖を祓い、鬼を狩る事は可能だ。
しかしそれは逆に言えばそこまで高い技量、恐らく現在の人類が持ち得る技量で最高峰のそれを持たなければ、人の身で魔を討ち、妖を祓い、鬼を狩るのは不可能だという事でもある。
いくら柏木の血を引き、優れた身体能力を持っているとは言っても、その力を完全に発揮していない状態では今の耕一の技量では調伏はほぼ無理だろう。
雅草の身体が、跳ねた。
その手にあった棍が空気を裂き、今まさに耕一の頭部に振り下ろされようとしていた鬼の爪を弾く。
「し……師匠……?」
「見てな」
耕一に棍を放り、雅草は鬼に向き直る。
鬼の方も、今自分の攻撃を弾いた雅草をこそ強敵と認めたのか雅草に向けて威嚇の声を上げる。
対する雅草は右半身を引く。
左掌を軽く開き、丹田の前に軽く浮かせる。
右拳は軽く握り込まれ、甲の側を己が右頬につけている。
極端に右肘を張ったその構えは、近代格闘技には見られない異様な物だった。
「三始式(さんししき)、三日月……」
かすれた声で、耕一がぽつりと呟く。
今、耕一の目の前で雅草が取った構えこそ、月篠流に伝わる三始式と呼ばれる基礎の構えの内のひとつ、三日月であった。
僅かな弧をえがいて、鬼が雅草に向けて爪を振る。
ぴしっ。
乾いた音だった。
鬼の手が、急にベクトルを変えたようにしか、耕一には見えなかった。
三日月がどういう目的で創られた構えかを把握していなければ、見えたままを信じていたろう。
「防御に力は要らないんだ。憶えときな」
三日月は、その名の通り相手の攻撃の軌跡を弧を描くようにそらし、その力のベクトルを変じてしまう事を目的とした構えだ。そして勿論、それだけではない。
鬼の身体が、かくん、と崩れた。
雅草が今し方の攻撃を左手で逸らしざま、右の貫手で人中(鼻と上唇の間に存在する人体上の急所)を貫いたのだ。そうであろう、と耕一は推測した。それしか出来なかった。耕一の目には、いまし方見えたように、鬼の攻撃が突然その方向を変えたようにしか見えなかったのだから。
美しく弧をえがいた力は、そのままもとの放たれた位置に還る。
雅草が万全の態勢で構えた三日月に対し攻撃をすることは、愚としか言い様がない。
しかし、耕一が渾身の力を込めて打ち続けた攻撃をものともしない鬼が、ただの一撃で膝をつくとは……
「耕一」
すっ、と重心を動かしながら、雅草が言った。
「攻撃にも、究極的には力は要らないんだ。あたしもまだ、そこまで行っちゃいないがね」
三日月の、完全な右半身を引いた構えからやや身体を正面向きに戻し、両肘を脇に引きつける。
両掌は開き、左を顔の正面、右を水月(鳩尾)の前に構える。
三始式の一つ、双月だ。
鬼が体勢を立て直す。
それを待っていたかのように雅草が間合いを詰める。
迅い。
いや、違う。速度以上に、動きに無駄がないのだ。目で追える速度であるのに、恐らくは対峙したものがそれに反応するのは至難であるに違いない。
雅草の両腕の肘から先が、ブレた。
まるで出来の悪い特撮映画を見ているようだった。
鬼は獣以上の反射神経を以って雅草の攻撃を弾こうとしているのだが、雅草の両腕は逆にそれを身体の外側へ外側へと弾き飛ばしてしまい、攻撃を次々と急所に直撃させている。
絶え間無い体重移動と攻撃によって相手の姿勢、ひいては防御を崩して攻撃を叩き込む、それが双月の意図するところだ。
「相手の力を逸らす、これに関しては攻撃も防御も同じだよ」
隙間のない、濃密な攻撃を繰り返しながら、雅草は背後の耕一に言った。
ふと気がつくと雅草の両足の下のアスファルトが抉れている。鬼や耕一のように体重が増加しているわけではない。間断なく放たれている雅草の攻撃の度に行なわれる体重移動の凄まじさでアスファルトが崩れているのだ。
恐らく、雅草の膂力は耕一に及ぶまい。それは鬼の力を幾許も解放していない状態でもそうだろう。体重にしてもそうだ。雅草は女性にしては背が高く、骨格もがっしりとしていて体つきも筋肉質ではあるが、それでも和服など着込めば日本美人で通用する程度の体格である。やや背が高い方で筋肉のつきも悪くない耕一とでは比べ物にならないだろう。
その耕一が柏木の『ちから』を解放した状態での打撃に耐え抜いた、というよりも、それをものともしなかった鬼が、今雅草の打撃で目にも明らかなダメージを受けている。
自分と雅草の間にはそれだけの差が有るのか?
無論、雅草に追い付いたなどとは毛ほども思っていない耕一だったが、目の前で天地以上の力の差を見せ付けられてはそう思わずにはいられない。
自分と雅草の何処が違うのだ?
技量の差は勿論納得できる。耕一は、まだ付け焼き刃と言うのもおこがましい程度の修練しか積んでいない。対して雅草は耕一が生まれる以前より修練を積んでいるのだ。
しかし……耕一の、鬼の力を不完全ながらにも解放した耕一の膂力は、その気になれば軽自動車など十秒程度でスクラップに出来るのである。
雅草の攻撃は、それを上回ると言うのだろうか?
「重要なのはね」
耕一の疑念を見透かしたかのように、雅草が言う。
「重要なのは、収束することだよ」
鬼が珍しく放った直線的な突きを外廻し受けで弾き飛ばし、その体重の乗った軸足の膝を鋭く射抜くように蹴る。
先ほど耕一の使った技と同じだが、明らかに鬼が負ったダメージには差が有る。
「あたしらこの星に生きるものは、それだけであちこちから色々な力を受けている。目に見えないものがほとんどだ。まあ、分かり易く言えば、時間や空気、電気、そして重力なんかがそうだね」
膝を蹴り抜かれてまたも体勢を崩しかけた鬼の顎先を一歩踏み込んで膝で蹴り上げる。
鈍い音がして鬼はそのまま後方へ仰け反り倒れる。
「普段の生活じゃ、あたしらはそのほとんどの力をただ眺めてるだけだ。希に、そのうちの幾許かを使うことはあるけども、それは本当に一握りに過ぎない」
滑るように間合いを詰め、地に伏した鬼の足首に向けて踵での下段蹴りを叩き込む。
ぐじっ、と言う生々しい、嫌な音が耕一の耳にも届いた。
「闘争においてそういった力を利用しないのは勿体無い限りだ。耕一、あらゆる力を収束し、使いこなせ。まずは自分の体重、そして筋力からだ。そして究極的には ――― 」
鬼と言えど苦痛は感じるのだろう。
足首を破壊されてのたうつ鬼に、雅草は無慈悲に右拳を打ち下ろす。
「 ――― 究極的には、重力を含んだ森羅万象の全てを。わかるね?」
誇張ではなく岩をも穿つ雅草の拳の直撃を眉間に受け、鬼は一回びくんと全身を震わせ、それきり動かなくなった。
その瞬間に鬼の命の火がぱっと散るのを見届けた直後、耕一はそれまでに受けたダメージのせいか、ふと意識を失っていった。
夢、だと即座にわかった。
――― 耕ちゃん、今日は何をして来たの?
まだ幼い、とは言っても恐らくは中学生の時分だろう、耕一の記憶にある最も古い姿の千鶴が、耕一の顔を覗き込んでいた。
そうだ、これは初めて千鶴と、梓、楓、初音と出会った頃の記憶だ。
頭の中の冷静な自分がそう呟く。
夢というのは奇妙なもので、それが夢だと自覚しているにもかかわらず夢の中の自分はそうだと気付いていない行動を取る。
その当時まだ小学生だった耕一は既に中学生だった千鶴の大人びた雰囲気と落ち着いた物腰にドギマギしてしまい、まともに顔を見て話すことすら出来なかったのだ。
整った顔立ちの千鶴に覗き込まれ、耕一はぷいとそっぽを向きながら駆け出した。
それを千鶴はどこかさみしげな苦笑を浮かべながら見送る。
当時から悪友のようなノリで付き合えた梓。
子供の頃はくるくると表情を変えて一緒に遊んでいた楓。
本当の妹のようにいつでも後について来た初音。
四姉妹の下三人とは耕一は屈託無く遊んでいたのだが、千鶴とだけはぎこちなくしかコミュニケーションが取れなかった。
耕ちゃん、と呼ばれることに反発を覚えた。
照れくさい、というのも勿論あったが、それ以上にまるで弟のような、息子のような扱いをされるのがいやだったのだ。
一人前の、ひとりの男として見て欲しい、と思った。
恐らくは、初恋、なのだろう。
一人っ子であった耕一にとって、母以外に初めて身近に感じた異姓でもあった。
だが、それを抜きにしても千鶴はとても魅力的で、耕一は恐らく恋に落ちていただろうと思う。
記憶の中にある千鶴は今と変わらず柔らかな暖かい笑みを浮かべている。
不意に、夢の中で時が流れる。
次に現れた千鶴の顔は、涙に濡れていた。
ああ、そうだ、これは親父の葬儀の時だ。
数ヶ月前、耕一の父、柏木賢治が死んだ時に、当然ではあるが耕一も参加した葬儀での光景。
梓が、泣いた。楓も、初音も、泣いていた。最後まで抑えていた千鶴も、出棺の時になって崩れるように泣き出した。
耕一は泣かなかった。従姉妹達を支えなければ、という使命感のようなものがあったわけではない。自分は男だから、という意地があったわけでもない。
ただ、泣けなかったのだ。
父が死んだと言っても、柏木賢治という名の男が死んだ、という事以上に心を揺さ振られなかった。少なくともその時は。
皮肉なことに、周囲からは毅然とした青年だ、と好印象を集めたようだったが、耕一は内心それに苦笑しつつ千鶴達をなだめて黙々と葬儀を進めたものだった。
そしてまた時が飛ぶ。
次は前回ほど時は飛ばず、葬儀の数日後のようだ。
父の死後、四十九日ぐらいは共に過ごして欲しい、と千鶴に請われ、父が千鶴達と過ごした柏木家に逗留していた時の記憶だろう。
そこで過ごした数日間は、正直耕一にとって居心地の良い日々だった。
母の死からそれまで忘れかけていた、家族というもの。
朝起きた時、食事の時、出かける時、帰る時、家に戻った時、団欒の時。
それらの宝石のような時を、耕一は心から居心地よく感じていた。
千鶴達が、形の上では耕一から父を奪ったという事は、不思議と耕一の中ではわだかまりになっていなかった。そういった負の感情がその時耕一の中では全て父に向けられていたというのもあっただろうか。
四姉妹と共に過ごした日々は、今もなお耕一の胸の中でかけがえの無い宝物として輝いている。
あの頃の、何も知らずに送った穏やかな日々。父の死に対し漠然とした疑問と不安はあった。だがそれも、警察の公式発表が言っていたように、事故死という以上には耕一は捉えていなかったのである。
しかし、その中で一度だけ見た、抜け殻のような千鶴の横顔に耕一は胸にたとえ様の無い痛みを覚えた。
それは父の位牌の前でだった。仏間でひとり、父の位牌の前でぽつんと肩を落としてうつむいて座り込む千鶴。常は穏やかな微笑みを絶やさず、梓と口喧嘩をする時ですらムキになった表情の中に暖かさを感じさせる千鶴が、その時だけは恐ろしく脆くはかない、無気力な人形のように見えたのだ。
耕一や妹達の前では決して見せない、弱い、儚い、脆い千鶴。
良き姉であり、母であり、保護者であった千鶴が、そうあろうとしていたのだということは耕一は思い知らされた。
そして同時に、そんな彼女に魂が抜けてしまったような落胆を与えるほどの痕を与えた父に、耕一はその時初めて嫉妬した。
――― 自らの死によって千鶴さんの心に残るなんて、卑怯すぎる。
その時耕一は父を父としてではなくひとりの男として、千鶴を従姉妹としてではなくひとりの女性として、確かに認識していた。
さらに夢の中の時は飛ぶ。
その後のことは記憶の中でも早送りの映画のようでいて、それでいて細部に至るまではっきりと憶えている。
自分が立て続けに見た悪夢。
その悪夢と符合の一致する猟奇事件。
自分の中のもうひとりの自分に対する恐怖。
その中で知った千鶴の不安と孤独。
その中で知った千鶴の悲しみの痕。
その中で知った千鶴の想いと自分の想い。
自分と千鶴の想いが重なり、肌を重ねた夜。
千鶴の口から知らされた、父の死の真相と、柏木の宿命。父の最期の言葉。
自分と母が父に捨てられたのではなく、それどころか最後の瞬間まで父に愛されていたという事。
自分が父との離別によって抱いた思いは怒りや哀しみ、諦念ではなく、大好きだった父の顔を見られなくなったことによって、ただ拗ねていただけだったという事。
そして責任感と後悔と恐怖と悲しみと ――― 癒しきれなかった心の痕からすれ違った認識。
千鶴の爪によって絶命しかけた自分。
極限状態で目覚めた、自分の中の何か。
何かが知らせた千鶴の危機。
いまし方、自分の命を奪おうとした筈の女性を護らなければという高潔な想い。
“鬼”との死闘、いや、目覚めた自分にとってそれは闘争と呼べるものではなく、一方的な蹂躪だったかもしれない。
だがその間も自分の中の『柏木耕一』の部分が思っていたことはただひとつ。
千鶴を、護る。
自分にとって大切なものを、護る。
千鶴にとって大切なものを、護る。
高潔な想いは至高の誓いとなり、耕一の心に刻まれた。
そして ――― また、朝が来た。
目覚めた時、耕一はまだ夢の続きを見ているのかと思った。
そう、あの時も、初めて鬼の力に目覚めた後、気を失い、朝になって目覚めた時そばに千鶴の笑顔があって……
雅草の声が聞こえる。
「 ――― まあ……そういうワケだからさ、ひとつよろしく頼むよ」
自分でも千鶴でもない誰かに話し掛けているようだ。
まだ時間の感覚も取り戻せない耕一がうっすらと目を開けると、それに気付いたのか千鶴が整った美貌に笑顔を浮かべる。
「耕一さん……おはようございます」
「……おはよう、千鶴さん」
反射的に挨拶を返して、ようやくここはどこで今はいつだろう、という疑問を抱くに至った。
「やっとお目覚めかい、耕一」
雅草がやって来て千鶴の隣りに腰を下ろす。手に携帯電話を持っているところを見ると、先の台詞は誰かに電話で話していたものらしい。
「師匠……ええっと、あれ、俺は一体……」
「ここは草雲館だよ。今はあの次の朝だ」
かろうじて上半身を起こした耕一の疑問を見透かしたように、雅草がそう告げた。
「動けるみたいだね」
雅草の言う通り、身体を動かすのに支障はない。『ちから』を解放した後に訪れる虚脱感がともなう程度で、あの鬼から受けたダメージの方はほぼ癒えているようだ。柏木の鬼の力というものは、つくづくこういう時には有り難い。
「さて耕一」
咳払いをひとつして、雅草が切り出す。
「昨夜のあんたの働きだが……はっきり言って0点だ」
ずばっと言った。
「まず第一に自分の力をわきまえずに勝手に動いた事、これは腕前だけじゃないよ。事後処理のこととか、どうする気だったんだい」
「う……」
「ったく、それよりあたしが腹を立てているのは、あんたが信頼できる師匠を頼らなかったってことさね」
「そ、それは」
「迷惑をかけたくなかったって言うんなら殴る。あんたの正体を知ってあたしが敬遠すると思ったって言うんなら蹴る。あたしに狩られるかもと思ったってんなら骨の一本は覚悟しな」
前者ふたつはともかく狩られるとは思わなかったが、殴られても蹴られても骨の2〜3本は折れそうなので、耕一はあえて沈黙を保った。
「それにだ、たかだか月篠流古武術の入り口に立った程度で鬼とやりあうなんて……イイかい、あんたに教えたのは、ただの格闘技だ。まだまだ鬼を狩るなんてレベルのものじゃないんだよ」
容赦なく言いまくる雅草。
「それは錬度の差じゃない。質の差だ。野菜を炒める方法を学んでも魚は捌けないだろう? そういう事なんだよ。耕一、あんたにはまだ鬼を狩る術というものは教えちゃいない。その段階でもないしね」
口を挟む間もなく(もとよりそのつもりも無かったが)まくしたてられ、耕一はひたすら恐れ入るばかりである。
「……ま、このぐらいにしておいてやろう。あんたの家の事情は、大体のところはこっちの若女将から聞かせてもらった」
千鶴が大手ホテルグループ鶴来屋の会長職を務めていることから『女将』といったのだろうが、柏木の『家の事情』とは何処までのことなのか……
「どれ、何かつくって持って来てやる。起きられるんなら、腹に入れときな」
そう言って雅草が台所に消えると、ふと千鶴が耕一に言った。
「……耕一さん。月篠さんには、全てをお話しました」
「千鶴さん……」
「ごめんなさい、耕一さん。耕一さんが、こうやって自分をいじめて、鍛えていたのに、私達は何も知らなくて……」
「い、いいんだって。俺が勝手にやっていたんだしさ」
耕一の言葉に、千鶴は哀しそうな、申し訳なさそうな笑みを、表情の端に浮かべた。
「でも、それは……思い上がりかもしれないけれど、私達のため……なのでしょう?」
思い上がりどころか。
それこそが、耕一が草雲館を訪れた、最大にして唯一の理由だったのだ。
「……最初はね、そうだったよ。でもさ、今はちょっと違うんだ」
静かに千鶴から目を離し、耕一は遠くを見るような表情をした。
「俺の手で、千鶴さんを、千鶴さんとその大事な人を、俺にとっての大切な人を護りたい、そう思ってた。その為に自分で出来ることをしよう、って」
両手を、軽く握る。
数ヶ月前、草雲館を訪れる前とは明らかに違う力が、その両拳には宿っていた。
「でも、結局それは俺自身のためだったんだよ」
右拳を左掌に打ち付ける。
パシッと良い音が鳴る。
「俺は母さんが死んでから、いや違うな、親父が俺と母さんから離れてから、ずっと宙ぶらりんだったんだ。あ、いや、今はわかってるよ。親父が俺と母さんを本当に想っていてくれたって事は」
言葉の途中で千鶴の顔が一瞬暗くなったのを察し、耕一がすかさずそう言った。誤魔化しでもなんでも無く、それは本当の言葉だったから、千鶴もそうと察してくれたのか沈みかけた表情は元に戻る。
「俺は何のために生きているのか、なんて考えたことも無かった。考えようとしなかったんだよな。でも、あの事件の時に柏木の血のことを知って……つくづくその事を考え込まされた。俺は何者で、何をしたくて、何が出来て、何をすれば良いのか」
打ち付けた右拳を握る左手に力がこもる。
右拳が少しだけ歪むが、決して不快ではない刺激だ。
「俺が何者で、何をしたいか、それは分かってる。俺は柏木耕一だ。人間、柏木耕一」
毅然とした顔で耕一が言う。
常に無く凛々しいその表情に、知らずそばにいた千鶴はドキリとする。
「そして、千鶴さん達を護りたい。エゴかもしれないけど、それが親父の遺志だったし、何より俺の意志だ」
決意に溢れた耕一の瞳に見据えられて、頬を薄く染めたまま千鶴は一瞬言葉を失ってしまった。
もうずっと見て来ているはずの耕一の顔にこれほどまでに強く鮮烈な意思を示す表情があったとは、共に過ごした時間以上に耕一に心を重ねた千鶴も知らなかった。
その耕一の顔が、ふっと自嘲気味の微笑に変わる。
「でも、何が出来るのか、何をすればいいのか、それは分からないままだった。いやだったんだ。俺にはやりたいことがあるのに、それをするのには明らかに俺は力不足だ」
千鶴は黙っている。今の耕一は、返事や答えを求めてはいない。自分の想いを聞いて欲しいのだろう。恐らく、他の誰でもなく千鶴に。
「ここに来たのは、自分を鍛えるためだったんだ。俺の中の鬼を抑えられるように、日常的に研ぎ澄ますんじゃなく、日常的な感覚で非常事態を突破出来るようになるために、ここに来て鍛えてもらった」
耕一は元々人と話すのは苦手ではないが、決して饒舌というわけでもないし、ましてや決して口が軽いというわけではない。
にも関わらず千鶴の前では自分の心情を次々と話してしまう。これは千鶴が聞き上手だから、というのではなく、耕一にとって千鶴がそういう女性だから、という事なのだろうが。
「やっと、見つけたんだ。俺が、生きるため……って言うと大袈裟かな。俺がしたい事のために、何をすれば良いのか、それを形として。これだけが道じゃないけど、これも確かな道なんだ。それを今、俺は、やっと見つけた」
再び握り締めていた両拳に視線を落とし、耕一は静かに言葉を継いだ。
「切っ掛けは、確かに千鶴さん達を護るためだった。いや、最終的に行き着くところはやっぱり変わっていないのかもしれない……でも今は、俺は、俺自身のためにここで自分を鍛えているんだ。だから……その」
「わかりました」
ちら、と自分を見る耕一に、千鶴はにこりと微笑む。
「梓達には、もう少しないしょにしておきますね」
優しく、諭すように言われる。ちょうど、弟か息子、或いは小学校の教諭が生徒に言うような口調だ。
昔はこの言い方に反発を覚えたものだし、今も男として情けなく思う時も有るが、その口調の優しさと暖かさを心地よく感じるのも事実なので結局は逆らえない耕一だった。
「でも、たまにはウチにも顔を見せて下さい。最近、休日にも帰って来て下さらないから、みんな寂しがっています」
帰って来て、という表現を千鶴が使ったことに、耕一は胸の中が熱くなるのを感じた。
「あ……うん、そうだね。次の休みにでも、帰らせてもらおうかな……」
「やれやれ、うどん、ノビちまうよ」
耕一が寝かせられていた部屋の入り口で、室内の会話を聞くとはなしに聞いたまま、雅草は入るに入れずにうどんの丼をお盆に載せたまま突っ立っていた。
「で、あんたも趣味悪いね、盗み聞きに付き合うなんて」
そう言って、隣りにいつの間にやら立っている白い人影に声をかける。
卜部武尊の式、静葉だ。今し方現れたのだろうか。
憎たらしいほどに優雅に一礼し、静葉は口を開いた。
「雅草様ほどでは御座いません。それよりも依頼の件ですが」
「ああ、さっき電話で言ったように、万事解決したよ。事後処理は任せて良いんだろ?」
「はい」
「で、こっちが聞いといたことは?」
「調べがつきました。今回の調伏対象者は、やはり柏木の血を遠くに引いているものだったようです」
「遠くって……どれぐらいだい?」
「12代程前でしょうか、柏木の傍流の血が」
「……そこまで薄くても、柏木の血ってのは発現するのかい?」
「少なくとも、現在判明している限りではその事実は有りません」
「今回のは例外中の例外って事かい?」
「我が主は、その様な希有な事象が偶然引き起こされるとはお考えになられてはおられないようで御座います」
「……人為的なものだと?」
「はい。北の地で、不穏な妖の勢力が蠢いている、との情報もあります。これは未確認ですが」
「北……ね」
かつて彼女自身が修行をし、今なお多くの退魔師が前線で戦う、星の名を冠した北の都市のことを雅草は思い出していた。
「まあ、今日明日どうにかなるってワケじゃないだろ。ご苦労だったね」
「いえ。それでは、報酬の方はいつもの通りに」
「ああ。卜部の若様にはよろしく伝えておくれ」
「かしこまりました。それでは……」
いつものように、音も無く、そよ風だけを残して静葉が消える。
ふと、雅草は思い出した。古い言葉を。
必要な時に必要な師に出会えるものだ、という意味の、出典も明らかではないその言葉を、雅草は何故かこの時思い出していた。
――― あたしは、耕一にとって『必要な師』なのかね……だとしたら、あたしのような師が耕一に『必要な時』が、今……それとも、もうじき……
とりあえず、雅草はそこまでで考えるのを止めた。
今耕一は、ようやっと朝食の準備を終えたところだ。明日の夕食の心配は、明日の昼食を終えてからで良い。
さしあたり、雅草は手にしたうどんがノビ切らない内に耕一の胃袋に押し込む算段を心の中であれこれ考えながら室内に入っていった。
つづく
前へ
話数選択
店主SS選択
SS入り口
書庫入り口
日ノ出屋店先
次へ