この街には、夜はない。良く言われる言葉だが、しかしそれはあくまで光学的なものだ。つまり、闇が無いだけなのだ。あくまで、目に見える限りにおいては。
軌道からも確認できるであろう灯の群れはあまねく街路を照らし出し、この街を時の女神(クロノス)に見捨てられた不夜城に変える。
だが、それはただの虚構だ。
目に見える光で夜を覆っても、それは目に見える範囲での安心感しかもたらさない。
人が本質的に恐れる夜に対してはそれはかりそめの安心感しか与えてくれない。
恐怖を白い安化粧で覆った街 ――― 稚拙な詩人の言った文句が、この街の本当の姿をイヤというほど正確に現している。
それが証拠に、闇に覆われたわけでもないのに人通りがふと途切れる時間と場所がある。人と、人の理の外に息づくものと、双方を恐れて、人は時として街のそこかしこから隠れるように姿を消す。
目に見える者、触れる者、知覚出来る者、それだけでも人は恐れる必要が有る。ここは、そういう街だ。更に加えて目に見えないモノ、触れられないモノ、知覚出来ないモノ、それらも人は恐れなければならない。だが、その事を正しく認識している人間は実に少ない。
それはとりもなおさず退魔師達の ――― 日本で言えば高野山の法力僧、土御門の陰陽師、大陸で言えば荊山の道士、西洋ならば教会のエクソシスト達が永き時を経て行なった巧妙な情報操作の賜物だ。
何故人の理の外に息づくものたちのことを伏せたのか? ひとつにはその事実が荒唐無稽に過ぎるという事も有る。だがそれも、元を正せば御伽噺だと信じ込ませたのは彼ら退魔師達なのだ。
何故か?
恐怖にかられた民衆の恐ろしさを、彼ら退魔師はいたいほど良く知っているからだ。知識として、そして過去においては身をもって。
先に触れた魔女狩りの例を挙げるまでも無く、未知のものに対する恐怖というのは恐ろしいほど根強く人間の心の奥底に根を張っている。それは容易に拭い去れるものではない。
その感情が負の方向に動き出した時、事態は坂道を転げ落ちるよりたやすく悲劇へと向かって収束するだろう。
隣人が人間ではないかもしれない。
夫が悪魔かもしれない。
妻が妖怪かもしれない。
親が鬼かもしれない。
人の心は、その思いに耐えられるほど強くない。
それらの疑心暗鬼を乗り越える強い想いがあるのもまた事実だが、そうではない例の方が遥かに多いのも事実だ。
秘密裏に行なえばいい。
恐怖は、それが知らずに済むのであれば、知らない方がいい。哀しみと同じく。
話し合ったわけでもなく、洋の東西、時の過去未来を問わず、世界中の退魔師達の考えは一致していた。
ただでさえ ――― 自分達の“力”自体、人の理からは逸脱している場合が多いのだ。実際、過去の悲劇の代表例である魔女狩りの時には特異な“力”を持つエクソシスト達も多く刑に処された。
自護のためと、更にもうひとつ能率的な理由もある。
人の理の外に息づくものたちの団結を恐れたのだ。
彼ら彼女ら、人の理の外に息づくものたちは、多くは単独で棲息している。当然だ、群れていてはたちまち正体が露呈する危険が大きい。中にはそれでも互助しあう組織もあるようだが、それでもそのほとんどの規模はささやかなものだ。
人々が声高らかにそれらの排除を叫んだらどうなる?
隠れるよりも迎え撃つことを、彼らは望むだろう。そしてその場合、個々で動くよりも相互に手を組む方が効率的な事も。彼らの多くは人よりも永い時を生きている。そしてほとんどはそれに正比例して、深く広い知識を持っているのだ。
なるほど、人の数はその理の外に息づくものたちよりも遥かに多い。だが、それに抗することの出来る力と意志を持った退魔師の数はと言えば、逆に更にそれよりも少ない。
退魔師達の行動は、人間以上に人の理の外に息づくものたちに知られてはならないのだ。あくまで隠密裏に、各個撃破をしていく。それ以外に人の守り手足る彼ら自身の生命をこの世に繋ぎとめる方法はない。
人の理の外に息づくものたちが結束し、ひとつの意志のもとに協力し合った時、恐らく人類は未曾有の危機に晒されるだろう。人類が負けるとは言わない。だが、勝つにしても被害は恐ろしく甚大になる筈だ。人とそうでないものの見分けが付く人間が、どれだけいるというのだ?
退魔師達にとっての救いは、人ではないもの達、人の理の外に息づくもの達の全てが敵に廻るわけではない、という事か。その数は決して多くはないが ――― 少なくとも、退魔師達の認識の範囲では ――― 自分達は人間がいなくては生きていけない存在だと、そう考え、無闇に人間に敵対することを避けるもの達がいる。
その考えはおよそ人類にとって友好的とは言えない。そう、丁度肉食獣が草食獣に抱く感情に似ているだろうか。獣に感情があるのならば、だが。
――― 我らは、かりそめの客なのだ。
古く、とても古く、人類の種としての記憶すらあやふやな頃からこの星に息づく夜の血脈の長、全ての貴族の頂点に位置する王の中の王、『神祖』とも呼ばれ全ての同胞からも畏怖される存在が、かつてそう言ったという。
人の理の外に息づくもの達。人と相容れぬ、だが人がいなくては生きてゆけぬ。
黄昏の王は何を思ってそう言ったのか。或いは何も思わずに口の端から洩れた言葉かもしれない。
だが、その言葉は天の意志に等しく古き血脈の夜の一族の魂に刻印されている。
――― 我らは、かりそめの客なのだ。
その言葉が彼らの記憶に刻まれて幾星霜、しかし人類とそうでないもの達 ――― かりそめの客達との戦いは、水面下でなお激しく続いている。
およそ余人には知られることのない、光も射さぬ水の底で……
人も通らぬ路地裏を、ひとりの女が歩いていた。
女はまだ若く、恐れを知らぬ年齢ではなかったが迷信を信じる年齢でもなかった。
また同時にそれまでの人生で劇的な出来事に出会ったことも無く、ニュースなどで伝え聞く様々な事件はあくまで対岸で起こることに過ぎないと思っていた。
それ故に、このような時間にこのような道をひとりで歩いていたのだ。
水商売なのだろうか、服が派手で化粧が強い。タイトな紅いマイクロミニのスカートは充分に成熟したヒップラインを浮かび上がらせていたが、意外と服を着替えて化粧を落とせば今の見た目よりも年齢は若いのかもしれない。だが光を抑えた店内で酔客どもの気を引くにはこれぐらいの服と化粧でなければならないのだろう。
ともかく今日は疲れていた。常連の、金は有るがそれと引き換えに品性をどこかのどぶ川に置き去りにしてきた客がしつこく食い下がったのだ。笑顔と嬌声であしらいつつ男の外見と言動と自分のプライドを天秤の一方に、もう一方に男の財布の重さと先日買った服のローンと新作のバッグを乗せたが、今夜は前者の方に天秤は傾いた。つまり、その客に水割りをぶっ掛けて店を出てきたのだ。
店はクビになるかもしれないが、別にあの店に忠誠を誓っているわけでもないし、何より彼女は自分の器量と世渡りの巧みさに自信を持っていた。引く手数多とまでは言わないがこの街なら彼女が勤め先に困る事は無い。ただ、明日からしばらくブランドショップを廻る回数を抑えなければならなくなるのは正直痛いが……
そういう訳で、彼女は疲れていた。一刻も早くマンションに帰って熱いシャワーを浴び、デリバリーのピザをつまみながら冷蔵庫で冷えている筈のビールをあおってベッドに倒れ込みたかった。理想まであと僅かに迫っている体重とボディラインのことが脳裏を過ぎったが、たまにはそれぐらいの自分への慰めがあってもいいだろう。
そう思えばイラついていたハイヒールの足音も心なしか軽快になる。このヒールは見栄を張ってワンサイズ小さいものを買ってしまったためにかなり指と踵が痛いのだが、今は痛みを訴える足の声よりもまず先に家に帰りつくことを優先させた。
その時、ふと、足音が停止した。
風……?
生ぬるいくせに酷く寒気のする風を頬に感じた。手入れを怠ったことの無い自慢の髪がなびき、ゆらりと舞い上がる。
「誰か……いるの?」
道の先にそう言葉を投げたつもりだった。誰かいるとも思えなかったが、そう訪ねずにはいられなかったのだ。
しかし、意に反して言葉は出なかった。
何故?
そう彼女がいぶかしむと同時に脳の中の最も原始的な部分がその解答を与えてくれた。
竦んでいたのだ。恐怖に。
声帯が竦み上がり、凍り付き、彼女の意のままに言葉を発生させ得なかったのだ。
思考よりも先に身体を竦ませる恐怖。それは、およそ彼女が経験はおろか想像もしたことの無いものだった。
ゆら、と影が動いた。いや、動いたのは光だったかもしれない。
彼女が言葉を放ろうとした路地の先に、ひとりの男が姿を現したのだ。
背は高い方か、逆光で顔は見えないが、若い男のようだ。歳は20歳前後というところだろう。商売柄か、彼女は瞬時にそう判断した。
そして、これは商売柄という代物ではなく、更に言えば経験によって得られた類のものでもない。彼女は本能的に悟っていた。
男は笑っていた。
歓喜に堪え切れないという風に、これから起こる法悦の時を待ちきれ無いという風に、逆光で見えない筈の顔の中に満面の笑みを浮かべているのを、彼女は本能で察知していた。
目の前の“獲物”をどう狩ろうか、まるでそう考えているように彼女には思えた。それが無邪気な子供が何をして遊ぼうか、そう無垢に考えるように、本当に楽しそうだったから、彼女はつられて笑った。笑ったつもりだった。だが、実際には頬が引き攣ったように動いただけだった。
彼女の笑顔未満の表情 ――― 恐怖によって引き攣ったそれを見て、男は予備動作も無く一歩、静かに歩み寄った。右手を振り上げながら。ミキミキと生木を裂くような音を立てて恐ろしい異形のものと化した右手を……まるで、鬼のような爪を備えたそれを振り上げながら。
「喝ッ!」
気合の声と共に雅草が棍をアスファルトの地面に振り下ろすと、それはまるで豆腐に箸を刺すように抵抗無く穴を穿ち、そのまま突き立った。
左手で棍の中程を握り、右手の人差し指と中指を立てて棍に交差させるように当て、瞑目する。
人には見えないものが見える者ならば、今雅草の周囲に青い光が舞っているのが見えただろうか。
それは意志の光。
人が、遥か昔に扱い方を失念してしまった意志の力の放つ光。
天と地と草木と動物と、森羅万象を友としていた時代には確かにあったその意志の光を、雅草は“視”て“聴”くことが出来た。
やがて意志の光は雅草の握った棍にまとわり付き、染み込むように棍の中に消えていった。
「……近いな。急ごう」
誰にとも無くそう呟き、雅草は疾走を開始した。
陸上競技連盟の者が見たら、今現在育てているホープを質に入れてでも勧誘したくなるような見事な走りだった。フォームはおよそアスリートのものではない。だがそのスピードは生半のスプリンターでは及びも付かない物だった。
正中線のズレがほとんど無いその走り方は今不意に攻撃を受けても充分な態勢で反撃をすることが可能であったろう。
どれほど走ったろうか、やがて雅草はとある路地の入り口で急停止し、気配を消し去ったままそっと路地を覗き込む。
確かな鬼気を、ここから感じたのだ。
ふと周囲を見ると、人通りも絶えている。無理も無いだろう、こんな時間にこの辺りをうろつくのは、犯罪者かそれを取り締まる警官か、人を狩るものか更にそれらを狩る者か、ぐらいだ。
路地を覗き込んだ雅草は危うく声を上げるところだった。声を上げずに済んだのは、彼女の心の中にその覚悟があったからかもしれない。
暗い路地には、柏木耕一がいた。
道場を出た時のままの、ジーンズに白のサファリシャツという格好だ。こちらに背を向けてはいるが、見間違えようも無い。
その背を見た時、雅草はゾクリと背中に冷たいものを感じた。
殺気にしては血なまぐさすぎ、闘氣にしては鋭すぎる ――― 鬼氣。
そうとしか表現の出来ないものが耕一の背から放たれ、周囲を射た。
百戦錬磨と言って良い雅草が、思わず一瞬怯んでしまった。その鬼気には、それだけの強さが込められていたのだ。
その時、雅草の視線が耕一の向こう側にいる人影を捉えた。こちらに背を向けて立ちすくんでいるあれは、若い女か。夜目にも鮮やかな紅の服装から若い女性だとわかる。
自身の氣を抑えつつ周囲を探り、かつ音を立てずに動くのは並大抵の苦労では行かない。雅草が一歩出遅れたのはそのせいもあったろう。
耕一が、溜めたとも思えぬ足腰のバネを解放して跳躍する。
路地の先の女性に向かって。
――― しまった!
刹那の半分の間を置いて雅草も動く。
中空にある間に耕一の右手が見る間に変化を遂げる。
恐ろしい、鬼のそれへと。
耕一が上半身を捻る。
後ろから駆ける雅草が見ても惚れ惚れする良い体動だ。
跳躍のベクトルと合わせて上半身のねじりを戻し、右手の爪を振るう。
雅草の叩き込んだ基本の動きを生かした突き。
――― 間に合わないッ!
耕一の放つ爪による斬撃を防ぐために駆けた雅草は、しかし自分の動きが半瞬及ばないことを察知していた。
振り下ろされた耕一の爪によって、女性の柔らかい肉が斬り裂かれて ―――
ビギィッ! ずどんッ!
悲劇が起こるのを確信した雅草の耳に届いたのは、しかし予想とはかけ離れた音だった。
重い金属同士が打ち合わされるような鈍い音、次いでこれも重いなにかが着地したような腹に響く音とそれに伴う振動。
その時初めて、そう、不覚にもその時初めて、雅草はこの場にもうひとつの人影の存在を認識した。
歳格好は耕一と同じぐらいか。そのもうひとりの影は、右腕を抑えていた。今し方耕一に弾かれた ――― 鬼の爪を備えた右腕を。
「今日こそ、お前を止めてやるッ」
怒りの素子を多く含んだ声を上げ、耕一が躍り掛かる。
ここに至り、雅草は真相のほとんどを把握していた。
耕一は、彼女の弟子は、人間を蹂躪して喜ぶ悪鬼ではなかった!
音も無く雅草の身体が動く。
「シッ!」
雅草の薄い唇から鋭い擦過音のような呼気が洩れ、同時に棍が繰り出される。
鈍い音を立てて棍の先は影の胸板に吸い込まれ、一撃を受けた人影はもんどりうって後方に倒れた。
「ッ!? ――― 師匠!?」
「この馬鹿弟子!」
驚愕の視線を向ける耕一にそう言葉を叩き付けると同時に一歩下がり、地面にぺたりと尻餅をついている女性の傍に戻る。
「後で聞きたいことと言いたいことが山ほどある。取り敢えずは、その鬼を調伏してみな。予定より3年ほど早いが、実地試験だ!」
「え ――― お、押忍!」
常と異なり、凄味のある笑顔を浮かべた雅草の叱咤めいた声を受け、耕一は倒れ込んだ影に向き直った。
まさかの雅草の闖入には驚いたが、驚愕が醒めると安心感が取って代わった。
耕一は耕一なりに、ここまでの三ヶ月間で雅草を信頼し尊敬していたのである。
改めて意識を集中し、雅草との会話の際に奥底に沈んでしまった自分の中の『ちから』を揺り起こす。
破壊者の力。
殺戮者の心。
狩猟者の魂。
――― 壊せ、殺せ、狩り尽くせ。
耕一の理性を貪り尽くそうと、心の深淵から昏い声が囁きかけてくる。
かつて耕一が流されそうになった声だ。
しかし今は違う。今の耕一は、確固たる自信を持ってその声を退けることが出来る。
――― 壊せ、殺せ、狩り尽くせ。狩猟者足る誇りを失うな。生物としての本能を穢すな。お前は誇り高き狩猟者だ。狩猟民族エルクゥの誇り高き血を引く者なのだから。
違う。
俺は狩猟者じゃない。
俺は人間だ。
俺は人間、柏木耕一だ。
自らの内から囁きかけるどす黒い声を耕一は強靭な意志の力でねじ伏せる。
いや、その表現は相応しくない。耕一は、その声をも自らのものとして受け容れ、その上で『柏木耕一』の自我を保っているのだ。
全身を力が満たしていた。
周囲の空気が哭き、古いアスファルトの地面がみしりと呻き声を上げる。
次の瞬間には、影を見据える耕一の瞳には黄昏に染め上げられた真紅の光が宿っていた。
「がッ!」
耕一に見据えられた人影が躍り掛かる。
迅い。規則性の無い動きだが、その速度は人間のそれを遥かに凌駕している。
大きく弧をえがいて襲い来る右の爪を、半歩退いて躱す。
同時に左足を踏み込み、短く、鋭く、固めた左拳を相手の右脇腹に突き上げるように突き刺す。
どっ。
鈍い音が響く。
耕一の拳が的確に肉を捉え、内臓に衝撃を伝えた反動が返ってくる。
並の人間であれば悶絶どころか内臓破裂だろうが、あいにく打たれた側も人の理からは大きく離れた所にいるモノだった。
振り抜いた右手を凄まじい勢いで振り戻す。
まともに当たれば肉は爆ぜ骨は砕かれるだろう。
耕一は慌てず右腕の肘を視点に外側に回転させ、相手の腕を弾いた。
雅草の突きに比べれば、初動が丸見えだ。
その心理的余裕が耕一にゆとりを持って防御行動を取らせていた。
相手の手刀を身体の外側に弾き飛ばし、内側に入る。
右拳を固め、脇を締める。
後ろ側、右足で地面を蹴りつけ、その反動で左足を軸に上体を捻り込み、その勢いを右拳に乗せて振り抜く。
ボクシングで言うフックの要領で真横から相手の顎を打ち抜く。
背後で見ていた雅草が、ほう、と声を上げるほど綺麗にそれは決まった。
耕一の拳にも凄まじいまでの手応えが返ってくる。
脳を揺らすにとどまらず、恐らくは下顎骨を砕いた筈だ。
雅草は、勝負あったと判断した。
耕一は、ここからだと判断した。
「がああああああぁぁぁっ!」
果たして耕一の判断は正しく、顎を打ち抜かれた影は奇声を発して両腕を振り回した。
やたらめったら振り回しているだけの攻撃だが、そのどれもに当たれば骨ごと持っていく威力が込められているのは間違いない。
みちっ。
いやな音がした。
みちっ。
もう一回。
みちっみちっ。
今度は続けて。
みちっみちっみちみちみちみちみちみちみちみちっ。
それは何といえば良いだろうか。
そう、まるで ――― 身体を覆う肉が、内側から食い破られるような音だった。
見る間に人影はその姿を変えていった。
右腕の爪に相応しい、異形の怪物のそれに。
遺伝子の配列が変化し、増大した筋力を支えられる強靭な体型へと変貌していく。
それは既に人ではなかった。
この地球上のいかなる生態系にもあてはまらない、異形の存在。
かりそめの客 ――― 鬼。
巌のような肌に包まれた、丸太のような腕が振られる。
――― 見るんだ!
自分に言い聞かせ、耕一はその爪の描く軌道を見切って半歩だけ下がる。
唸りどころか衝撃すら伴う攻撃を躱し、すかさず反撃のために踏み込む。奇しくも最初の攻防と同じ動きだ。
だが、相手は最初と同じではなかった。行動が同じでも、内包するポテンシャルがまったく異なっているのだ。
切り返した爪の斬撃を、耕一は今度は弾こうとしなかった。彼我の体重差、それ以上の膂力の差から、まともな防御を諦めたのだ。
横薙ぎに襲い来る暴風を身をかがめてやり過ごし、懐に潜り込む。
先程まで同程度であった体格差は今や圧倒的なまでに格差がついており、離れていてはリーチの差から耕一が圧倒的に不利だ。前夜はその隙を突かれて腕に傷を負い、敗走を強いられたのだ。
かといって組みに行ってはそれこそ自殺行為だ。恐らくはこちらが勝っているであろう機動性という一点だけを生かし、付かず離れず、隙をうかがって懐に潜り込んで細かい攻撃を重ねてダメージを蓄積させ、動きが鈍ったところで仕留める。それしかないように思われた。
この時、耕一には鬼に変じて戦おうという意志はない。
未熟ではあるが、ここまでに学んだ月篠の技でこの鬼を倒そうと決めていた。
鋭く耕一が踏み込んだ先には、鬼の正中線がさらけ出されていた。
人ではないものに人の急所が存在するかは疑わしいが、思うより早く拳が突き出されていた。
拳が、肘が、貫手が、掌底が、耕一が覚えている限りの、人を打倒するための“武器”が振るわれた。
短く、鋭く、正確に、力強く、耕一の振るった“武器”が鬼の急所 ――― 人体で言うところの、だが ――― に吸い込まれた。
鍛えてきた“武器”だった。
奢りかもしれないが、ささやかな自信も持っていた。
大切な人を護りたい、そう思って鍛え始めた“武器”だった。
自分の中の、柏木の血が背負う宿業を知った時からの思いを、ようやくはっきりと形にしてくれたのが、これだった。
耕一の父も、伯父 ――― 最愛の人の父も、柏木の血に呑まれ、己を見失う運命に弄ばれた。
しかし、伯父は血に最期まで抗い続け、やがて自ら命を絶って呪われた宿命から解放を受けた。
耕一の父も同様だった。
まだ幼い耕一と妻を巻き込まぬよう、二人と離れる道を選んだ。
耕一はつい最近、自分が柏木の血に目覚めるまで父の本当の思いを誤解していた。父は、母と自分を疎んじたが為に離れたのだと。自分と母を捨てて、姪 ――― 耕一の従姉妹である千鶴達の元へといったのだと、そう思っていた。
憎む、というほど激しい感情ではなかった。もっと乾いた、寂寥とした突き放したような感情だったように思う。
いっそ父は、あの男は他人だと、そう思うようにしていた。
父を悪く言わない母のことを歯がゆく思ったこともあった。
だが、逆にそんな母を自分が支えるのだと、その思いこそが耕一を支えていたのかもしれない。
父との別離から十年ほどして母が他界した。
元々身体は強い方ではなかったし、女手ひとつで耕一を育ててきた無理がたたったのだろう。
医師から時間を告げられた病院で、一度だけ、泣いた。
その後のことは灰色のスクリーンを通しているようで、ひどく現実味を帯びていない絵巻物のような印象しか残っていない。
母の訃報を父に伝えた時は、自分でも驚くほど落ち着いた声が出た。
葬儀が終わり、父が耕一に一緒に暮らさないかと言った時も、耕一の心は醒めた目で自分の境遇を見下ろしているような感覚だったのを覚えている。
父は伯父が経営していた大手ホテルグループの会長代行を務めていたのだ。風の噂で聞いた限りでは、かなりの辣腕家として知られていたらしい。
耕一のひとりぐらいは食い扶持が増えても問題はなかったろうが、耕一は本心は言わず、父の目も見られず、それを断った。
これからは自分の力で生きてゆこう、そう決めた。少なくとも父の世話にはなるまいと。
護るべき者はいないのだから、せめて自分の意地ぐらいは護り通したかった。
母方の実家からの援助で大学の学費は何とかなった。
このまま、自分は柏木の家とは関わり無く生きていくのだろう、そう思うようになったある夏のことだった。
父の訃報が、従姉妹の千鶴から届けられた。
警察の見解では事故死と言うことだった。もっとも、取り調べの刑事は疑っていたようだったが。
事実父は自らの命を絶ったのだった。自分が柏木の血に勝てぬことを知り、それでも兄の遺児である四人の姪のためにギリギリまで自分自身と戦って ――― そして、最期は姪たちを手にかけぬよう、自ら命の火を吹き消した。
父の葬儀のために訪れた柏木家で、耕一はその血の宿命故に起こった悲劇に巻き込まれた。
そこで様々なことを知った。
柏木の家に、自分の身体に流れる呪われた血のこと。
柏木の祖、次郎衛門のこと。
自分の前世のこと。
従姉妹達の前世のこと。
そして、千鶴に聞かされた、父の最期の言葉。
それまで疎んじ、敬遠し、時には軽蔑すらしていた父が、どれだけ自分と母のことを想い、どれだけ苦しみ、そしてどれだけ大きく強い人間であったかを知った。
柏木の呪われし血のことを歓迎する気には今でもなれないが、それでも自分の中に父と同じ血が流れていること、その事は素直に誇りに思える。
耕一は、柏木家の宿命に呑まれることなく自分を保つことが出来た。
父と伯父が呑み込まれた柏木の血に耕一が打ち勝つことが出来たのは、ひとえに自分が強く大きい父の息子だったからだと、耕一は思っている。
そして同時に、自分が護るべき存在のお陰だとも……母が他界してより宙ぶらりんだった自分自身の存在意義。それをようやく見つけることが出来た。
ようやく見つけ出した自分自身の存在意義を、初めて形にした両の拳。
自分は、自分の意志と身体で、大切な人を護ってみせる。
その誓いが初めて産んだ、形のあるもの。
耕一の拳が、肘が、貫手が、掌底が、怒涛のように眼前のかりそめの客に打ち込まれていった。
つづく
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