寒い。
暗い。
全身に痛みが走る。
目を開ける。しかし視界に移るのは濃い紫色の世界。真夜中だ。
傍で水の流れる音が聞こえる。
ここは、何処だ?
何故、自分はここにいるのだろう?
それ以前に、自分は誰なのか?
一人称を何と呼んでいたかさえ思い出せない。
また、激しい痛みが走った。
だが動けなかった。体力を消耗しすぎているのだ。
このまま自分が誰だか知らないうちに死んでいくのだろうか。
最早何も考えられない。ただ、気を失う瞬間まで、なぜか心の内にチリチリとくすぶる感情だけが残っていた。
憎しみだった。
『おい、ガキが倒れていやがるぜ?』
『放っとけよ、どうせ行き倒れだろ?』
『馬鹿野郎、こんなガキ放っといて死んじまったら寝覚めが悪いだろうがよッ!』
『相変わらずよねー、ガキに甘いトコ』
『うるせえぞッ、ヴァネッサ!オラ、いいからそっち持て!』
『はいよー。相変わらずこのおっさんは人使い荒いね』
頬に当たる火の暖かな感触。
自分は、生きているのか?それともここがいわゆる死後の世界か。
ゆっくりと目を開ける。柔らかな火の光に、少なくない人数の人々が浮かび上がっていた。
『オウ、目ェ覚ましたかよッ!こんなに早く起きるたァ、お前ェさん大した体力してンぜ!』
必要以上に大きな声で、呼びかける男。
見上げると、その…なんと言うか、多分にインパクトのある髪型と髭面。
男は更に言葉を続ける。
『お前ェ河に流されたンかどうか知らんが、ズブ濡れで岸辺に転がってたンだゼ?命があっただけ、めっけモンだったなァオイ!』
男の言葉を半ば無視し、辺りを見回す。皆一様に酒などを飲み、上機嫌なようだ。傍らには数多の武器防具が置かれている。どうやら、キャラバン等を護衛する傭兵隊か何かのようだ。
『…オーイ。チッ、全く愛想の無ェ奴だゼ!』
男が不機嫌そうに鼻を鳴らす。
『まあまあ。むしろ死にかけてすぐ愛想が良かったら怖いよ』
肌の浅黒い、比較的小柄な男が髭の男をなだめる。
『そうは言うがよォ、スキップ!』
『とにかく。彼は状況が掴めなさそうだ。とりあえず、お互い自己紹介といかないか?』
そのスキップと呼ばれた男は、今だ不服そうな顔を止めようとしない髭の男に言う。
『ヌゥ、そうだなァ…ま、イイか。オイ小僧、オレ様はデニム。デニム・ガレオンだ。お前ェさんの名前は…』
『………』
何も言わない、いや、言えなかった。何せ自分の名前さえ覚えていないのだ。
だが、髭の男は驚くべき言葉を発した。
『ボズ・ウェッジ。だろ?』
『………』
今度の沈黙は驚きのあまりの絶句だった。確かに、その名前を聞いた瞬間、自分のものだと言う実感があった。
だが、何故?答えは思ったより簡単だった。
『お前ェさんの握り締めてたネックレスによ、刻印がしてあったのよ。全く、硬く握り締めてて治療のために取り出すの大変だったぜ?残念ながら、チョイト焦げてる上に欠けッちまってるが…』
と、ネックレスを自分に渡しながら男は言う。そのネックレスは銀製のプレート状のものが繋がっており、
『Dear Boz−Wedge From S』まで刻印されて後はひどく焦げて黒ずんでいた。更に端のほうは欠けている。
『お前ェさん大丈夫かァ?さっきから言葉が無ェけどよ』
少しだけ心配そうに額を寄せ、デニムは言う。スキップも不思議そうに自分を眺めている。
そこで自分は彼等に初めて言葉を口にした。
『記憶が…無いんだ』
彼等はその言葉を聞き、やっぱりと言いたげな、それでいて意外そうな表情を顔に表した。
『おやおや、そいつァいけねェな。どうでェ、何なら俺等について来ねェか?どうせアテも無ェだろ』
気さくにデニムが言う。
『あららー。まーたデニムのおっちゃんの悪い癖が始まったねぇ』
彼等の少し後ろに、艶やかな女性がいかにもだるそうに座っている。
『そうやって死んだ子の面影を若いコに投影すんの、いい加減やめればー?』
『うるせェぞヴァネッサ!手前ェが子供持ってから言え、ンなことァ!』
男が恫喝する。だが、いつものことであるかのように表情を崩さず、ヴァネッサと呼ばれた女性は続ける。
『あらー、それって遠回しのプロポーズ?言っとくけどアタシャ面食いだよ』
『………』
男は額に血管を浮き立たせて沈黙している。ぐうの音も出ないといったところか。それを見てスキップが必死に笑いを堪えている。
『死んだ、子供?』
自分が言うと、ヴァネッサは楽しげに顔をこちらに向けた。
『そうそう。このおっちゃん奥さんと子供を事故で亡くしちゃってねェ。それからと言うもの、アンタみたいな子供を放っておけないらしくってさ。まあよくあるパターンよねー』
一つ間違えば残酷な言葉になりかねない言葉を、よくもまああっけらかんと言い放つ。当のデニムは怒るだけ損といった顔だ。
『まあさ。あんたも身寄りとか、覚えてないんだろ?なら俺たちについて来いよ。結構面白いぜ。』
スキップがまだ笑いを堪えているような顔で言う。
否定する理由なんて無かった。選択肢も、無い。自分は何も言わず頷いた。
『よっしゃ、ンじゃ決定な!来い、とりあえず皆に顔見せと、歓迎の儀式だ!』
デニムが半ば強引に自分を連れ出す。
『おいおい、まだ傷もまともに塞がって無いんだぜ?無茶させんなよ!特に酒とか』
スキップが慌てて止めようとするが、無駄だった。お祭り騒ぎの雰囲気を崩してまで止められなかったのだ。
『お前ェ、皆の前じゃ自己紹介くれェちゃんとしろよ?』
有無を言わさず連れ出したくせによく言う。まあ、今後ここで生きるのには主張が必要なことぐらい分かってはいるつもりだ。
一人称は何にするかな。…この男に準じて、俺でいいか。
その後、酒をあおるほど飲まされて傷口の治りが遅くなったのは言うまでも無かった。