Sweet or Bitter第七話








「……待っていたわ、緋勇君……」
「マリア……先生……」

そう、言葉を発したきり、僕の声帯は僕の意思に従わなくなった。
言わなきゃならない事がある。
聞かなきゃならない事がある。
でも、でも ――― 何を言える? 何を聞ける?
2年前のあの時とは違い、はっきりと『敵』として僕の前に立つ、この人に ―――
そんなことを考えた間に、マリア先生は組んでいた腕を解いて、片手を顔の前に持ってきた。
僕の方を向いたまま、マリア先生は艶然と微笑んだ。
あの頃と同じ顔。だけど、あの頃には絶対にしなかった笑顔。
掌を上に向け、そこにそっと息を吹きかける……そう、掌の上に乗った見えない花びらを吹き飛ばすように。


――――――― ッ!?


視界がぶれた。
衝撃。
正確に水月に来た。
そして音。
キン、という澄んだ音が耳に届く。
何がなんだか解らないまま、僕は京一と同じように弾き飛ばされたようだった。
背中に衝撃。
壁か。

「ひーちゃん!」

小蒔の声が聞こえる。

「だ、大丈夫……」

壁に手をつきながらではあったけれど、どうにか立ち上がる。
とっさに両腕でかばったおかげか、京一に比べればダメージは小さい。
それでも左腕は痺れ、足は痙攣する。
一体、今のはなんだったんだ?
マリア先生を見やるが、相変わらずあの妖艶な微笑みを浮かべたまま佇んでいるだけだった。
とにかく、あの攻撃はやばい。僕はまだ耐えられたけど、小蒔が狙われたら……
そう思うと、足に力が入った。現金なものだけど、こういう時は正直な身体がありがたい。
今、可能な限りの速度で、小蒔を庇える位置まで行き、立つ。
マリア先生は、どういうつもりかその間、ただ柔らかく微笑んでいるだけで、手を出しては来なかった。

「先生…………」
「なにかしら?」
「どうして、こんな……」
「どうして? 貴方は、今まで戦ってきた相手全てにその疑問をぶつけたのかしら? 『何故戦うのか』 ――― 理由なんて無いわ。なにも ――― ね」
「……僕は……理由も無く、戦えません……」
「自己満足ね」

絞り出すように言った僕の言葉に、マリア先生は冷たく言い放った。

「理由が無ければ戦えない? つまり、理由があれば誰とでも、どのようにも戦えるということ?」
「え…………?」
「貴方は戦う事自体が嫌なんじゃないわ。戦って誰かを傷つけることで、自分が傷つくのが嫌なのよ。そうならないように、自分を誤魔化せる理由を探しているだけ。違う?」
「そッ…………」
「考えたことも無かった、っていう顔ね。フフ、相変わらず可愛いわ。でもね、戦うこと、それ自体に大義名分なんていらないの。理由なんて、無いのよ」

先生はそう言うと、僕から視線を逸らした。

「……理由なんて無いわ……此処に引かれてきた私の心の中には、ただ……生きている存在全てに対する憎悪と嫉妬、そして自分と同じ境遇の者を増やしてやろうという、暗い欲望だけしかないもの……」
「先生………」
「黄龍の器に ――― いえ、貴方自身に持っていた感情の全ても、今はその思いにかき消されているわ。今はただ、貴方達を ――― 殺すことだけ!」

左手を手首に添えられた先生の右拳が僕に向かって突き出される。
隙の無い動きに、反応が遅れた。
その拳の先から、燐光の塊が僕に向かって放たれた。
速い ――― 避けきれない!
両腕に氣を纏わせて、燐光を受け止めるべく身構える。
衝撃。
背中まで抜けた。
膝が崩れそうになる ――― 強い。マリア先生が、こんなに強いなんて……
衝撃に顔を顰めていると、マリア先生の姿がぶれた。


――― え?


と思うより早く、身をかがめる。
頭上を風が薙いだ。
その風の正体が一瞬で間合いを詰めたマリア先生の爪、と分かったのは紙一重で避けてからだ。
立て続けに恐ろしい速さでマリア先生の爪が僕を襲う。
恐らく、そのうちの一撃でも食らえば致命傷になりかねないだろう。
ギリギリで避ける。
文字通り、ミリ単位での回避。
反撃の為にあえてそうしているのではなく、僕の反射速度と身体の動きからそれが精一杯なだけだ。
目はついていくけれど、身体がそこまで追えない。
右、左、右、右、前、上 ―――
それこそ縦横無尽に飛んでくる。
かわし続けることは出来るけど、このままじゃ反撃も ―――
そう思った瞬間、膝が抜けた。
さっき攻撃を受けた時のダメージ!?
マリア先生の爪が来る ――― ダメだ、受けるしかない!
まるで斬撃のようなその爪を、とっさに左腕で受ける。
手甲ごと斬り裂かれないようにマリア先生の掌を狙って受ける。
そこまでは上手く行ったけれど、その華奢な腕に込められていた膂力までは考えが回らなかった。
受けた腕ごと ――― いや、身体ごと弾き飛ばされた。

「ぐぅっ!」

弾かれ、壁に叩き付けられた衝撃で肺の中の空気を吐き出してしまう。
息が詰まり、膨大な隙が生じてしまう。
マリア先生の手が上がる。掌を上に向けたあの形は、先ほど京一と僕を弾き飛ばした、あの技か!?
まずい! 今の状態じゃ、あの攻撃は受けられない……!


キュン!


風を切る音がして、マリア先生の右肩に矢が突き立った。

「ひ、ひーちゃんに、手を出すなッ!」
「 ――― 桜井さん……まさか、貴方が私に攻撃するなんて、ね」

こともなげに矢を引き抜き、小蒔に向くマリア先生。
ダメだ、小蒔! 逃げろ……!

「ま、マリアセンセは、ボクの大好きな先生だった……」

弓を構えたまま、小蒔が言った。

「優しかったし、色々相談に乗ってくれたし……何より、真剣にボクらのことを怒ってくれた」

……小蒔が……泣いている……

「でも……でも、ひーちゃんを傷つけようとするなら、ボクは、容赦しない!」

――― 雷に打たれたような気がした。
僕の迷いを吹き飛ばす強烈な一言。
両の瞳からぽろぽろと涙をこぼしながら、小蒔はキッとマリア先生を睨み付けている。

「そう……でもね、桜井さん。私は、どちらにせよ容赦はしなくてよ」

マリア先生が小蒔に一歩踏み出す。
くそッ!
動け、僕の身体!
マリア先生が右手を上げる。
小蒔は、恐怖か……あるいはマリア先生の目に射竦められたか、動けなくなっている。
ダメだ、小蒔! 逃げて!

「けえぁぁぁぁぁぁぁぁッ!」

僕が声にならない叫びを上げた瞬間、裂帛の気合いと共に、マリア先生の背後から影が躍りかかった。
軌跡が燐光すら残す、影の凄まじい斬撃をマリア先生はかろうじてかわし、間合いを開ける。
――― 京一!?
マリア先生に斬りかかった影 ――― 京一は、油断無くマリア先生に剣先を向けたまま僕に向けて言った。

「ひーちゃん! いつまで眠いことやってんだ! 犬神に言われたこと、もう忘れたのかよ!」
「あ…………」
「『遣り残したことを片づけろ』って、そう言われたろ! アイツの言う通りにするのはシャクだが……今は戦う時だ!」

隙の無い連撃をマリア先生に浴びせつつ、京一が僕を叱咤する。
そうだ、今は……今は、戦うべき時だ。
小蒔を、京一を…………僕の大事な人達を、護る為に!


――― コォォォ………ッ!


短く鋭く、呼吸による錬氣。
戦える。
まだ、僕には戦う力が残っている。
ガクガクと震える膝に拳で喝を入れ、立ち上がる。

「マリア先生……行きます!」





マリア先生は、強かった。
僕と京一の連携も、その合間を縫って小蒔が精密な狙撃をしても、さしたる効果は得られなかった。
でも……最初にこのフロアに入った時の、押しつぶされそうな恐怖感は、不思議と消えていた。
戦うことで、恐怖心を振り払ったのだろうか。
それとも……マリア先生自身が、もう……
答はあった。目の前に。
僕らと戦っているマリア先生の表情が、懐かしいそれに戻っていた。
その表情に一瞬気を取られた隙に、京一が弾き飛ばされる。
マリア先生が、大きく手を払ったのだ。
その隙を逃さず、小蒔が射る。
体勢を崩しつつも、その一矢を躱す先生。
そして ――― 僕の目の前に、完全に隙だらけのマリア先生がいた。
一歩踏み込む。
踏み込む間に、僕の中のありったけの氣を勁と成し、右掌に集める。
マリア先生に密着し、右掌を水月に押し当てる。

「 ――― さようなら ――― 」

掌から、黄龍の氣を ――― 一気に解き放った。





「……先生…………」

僕の腕の中で、徐々に、徐々に肉体が崩れていくマリア先生に、僕は話し掛けた。

「僕、先生に、言わなくちゃいけないことが……」
「緋勇君……謝るのなら、それは聞けないわ。貴方は、あの時も、そして今回も、間違ってはいないのだから。そして、私を救ってくれたのだから……」
「いえっ! そうじゃない……そうじゃないんです」
「?……」
「僕たち、無事に……卒業できたんですよ。みんな、揃って。先生の、おかげで……真神学園を、卒業できたんです」
「緋勇君…………」
「卒業のお礼……まだ、言ってませんでしたから。だから……マリア先生……」
「フフ……そうね……私はやっぱり教師失格だわ。貴方達教え子に、大切な言葉を言ってなかったもの……」

マリア先生の輪郭が崩れていく。
背後で小蒔が泣き声を堪えながら視線を逸らすのが分かる。
京一は恐らく、歯を食いしばっているだろう。


「みんな……卒…ぎょう……おめで……と…う……」


そして ――― 僕の腕の中には、砂金のように輝く……一握の灰が残るだけだった。

マリア先生……ありがとうございました……





旧校舎から出てきた僕らを、犬神先生が迎えてくれた。

「終ったか」

犬神先生はそれだけを言い、僕らが無言で頷くと何も言わずに煙草を咥え、火を付けた。

「……緋勇、彼女がお前達に何を言ったのか、俺は知らん。知らんし、聞こうとも思わん」

一旦言葉を切り、煙と共に大きく息を吐き出す犬神先生。

「だが……俺から、頼みがある」
「頼み……?」
「……彼女のことを、彼女の言葉を、覚えていてやってくれ。常に心に留めろとは言わん。お前のこれからの人生で、時々でいい、彼女のことを思い出してやってくれ」
「…………」
「マリア・アルカードという教師が、この真神学園に、お前達の担任としていたことを、いつか思い出してくれ」
「……はい」

人間は忘れる生き物だという。
僕の今の想いも、時が来れば風化し、忘却の彼方へ押しやられるのかもしれない。
それでも。
僕は、マリア先生のことを、一生忘れない。
たとえその想いが色褪せ、途切れ途切れになったとしても、僕たちの先生、マリア・アルカードという教師のことは、絶対に心の中から消しはしない。

「忘れません、絶対に」





約束の日が来て、僕らは中国から帰ってきた弦月と共にお花見をするべく中央公園へと向かった。
道すがら、他愛の無い会話で盛り上がる。
修行中の京一と弦月の話、この2年間の僕と小蒔の話。
小蒔も京一も、そして僕も、作ったものでは無い、心からの笑顔で話していた。
たった数日で、僕らはもう笑える。
笑えてしまうんだ。
あの日、真神学園からの帰路の最中は、とても今日笑えるとは思わなかったのに。
軽い自己嫌悪にみまわれる。
あの時のマリア先生の言葉がよぎる。


『貴方は戦う事自体が嫌なんじゃないわ』


『戦って誰かを傷つけることで、自分が傷つくのが嫌なのよ』


『そうならないように、自分を誤魔化せる理由を探しているだけ』


そうなのかもしれない。
自分を正当化する為の理由が欲しかっただけなのかもしれない。

「なんや、アニキ、どうかしたんか? 何か考え込んでからに」

ふと、思考の淵に沈みかけた僕に弦月が話し掛ける。

「え、あ。いや、なんでもないよ」
「そうでっか? 今、えらく……哀しい顔してたで?」

……京一といい、弦月といい、普段はとぼけているくせに、こういう時の感情の機微には目ざとい。

「大丈夫、ちょっと……あの時のことを思い出していただけ」
「あかんあかん! せやったら尚更や! そないな暗い顔してたら、浮かばれんで、みんな!」
「みんな?」
「せや! ワイら、アニキと一緒に戦った仲間もせやし、何よりワイらが倒した敵も浮かばれへん」
「? 敵も?」
「だってせやろ、ワイらとあいつらが戦ったんは、どっちが善でどっちが悪で、じゃ無かったはずや。ほんのちょっと、この街を大切に思う気持ちがずれてただけやろ?」
「…………」
「ワイらが勝ってもうた以上、ワイらは笑ってなきゃアカン。勝ったワイらが不景気な顔しとったら、負けたあいつらはなんも納得いかんわ。あいつらかて、みんなが不幸になればええ、なんて思うてなかったはずやから」
「そう、か………」

参ったな。
弦月はマリア先生とのことを知らないはずなのに、まるで見透かしたように言ってくる。

「勝ったモンは、負けた奴等の分も幸せになる権利と、義務があるんや。ワイは、そう思う」
「……ありがとう、弦月」
「何や、礼言われるようなことしとらんで! お、ほら、もうじき中央公園や。なつかしなー!」





お花見は、やっぱりと言うか何と言うか、凄い騒ぎになってしまった。
2年前、僕が真神に転入してきた時のお花見とは違って、お酒が入ったのも原因かもしれない。
醍醐と紫暮は余興にと実戦さながらの組み手を始めるし、それに感化されたのか霧島はその場で京一に型稽古を申し出る始末(京一はめんどくさい、と断っていたけど)。
雨紋の伴奏でさやかちゃんが唄い始めた時は、ちょっと焦った。さやかちゃんはお忍びできているのに、周りの人にばれたら……と思ったんだけど、どうやら杞憂だったようだ。
周囲の人も自分達の宴会に夢中で、こちらには気付かなかったみたい。
僕らは今をときめく平成の歌姫の生ライブを堪能できて、かなり上機嫌だった。
弦月とアランはいつのまにかコスモレンジャーのコスチュームを着せられて(いや、自分から着たのかも)派手なアクションをやっていた。
危うく僕もグリーンにさせられそうになったけど、美里がフォローしてくれた(ガンを飛ばした)おかげで事無きを得た。助かった……
怪人役はどういう訳か、京一と、何と壬生がやっていた。
壬生はどうやらお酒が入ると底抜けに陽気になるようだ。憶えておこうっと。
御門は開始早々隅の方で横になってしまった。あんまりお酒は強くなかったみたいだ。
芙蓉が看てあげてるかな、と思ったけど、芙蓉は藤咲や高見沢と一緒にアランにお化粧して遊んでた。
御門……ちょっと可哀相だった。
マリィはお酒を飲めなくてちょっと不機嫌そうにしてたんだけど……あれ!? 顔紅いぞ!?
一緒にいるのは……村雨! あいつ、呑ませたな!
如月と雪乃が今回は貧乏クジ。今の時点からせっせとゴミを集めている。
あーあ、あれは、もう呑めないな……可哀相だけど、僕も貧乏クジはゴメンなので、見て見ない振りに決めた。
お酒が入っているのか、雛乃がコロコロと笑いながら僕にお酌をしてくれた。
嬉しいんだけど、そんなに注がないで。僕、お酒あんまり強くないんだから。
……そのお酒、裏密がもってきた奴じゃ……
恐い考えになったので、それ以上は考えないことに決めた。
なんか、比良坂はちょっと離れたところから殺し屋のような目つきでこっち睨んでるし……うう、恐い。

「ちょっと、ごめんね」

あまり飲み慣れないお酒を飲まされたせいか、ふらつく足をどうにか支えながら、僕はみんなからちょっと離れて桜の木の下に行った。

「確か……この樹だったな」

2年前のあの時、僕らはこの樹の下で騒いでいた。
僕はあれから変わっただろうか。
2年間。
長くはないけれど、人が変わるには短くもない時間だと思う。
一瞬風が巻き上がり、花びらが舞った。

「どしたの、ひーちゃん?」

背後からかけられた声に振り返ると、桜の花びらの中に小蒔がいた。
不覚にも一瞬見惚れてしまった。
僕のバカ、3年間ほとんど毎日見てきたのに……
そうは思っても、お酒でちょっと頬を赤らめた小蒔はいつもよりも、その……色っぽくて、ドキリとさせられる。

「うん、ちょっとね」
「もしかして酔っちゃった?」

僕の隣りまで来て、一緒に桜の樹を見上げながら小蒔が悪戯っぽく言う。

「意外だな、なんか」
「なにが?」
「ひーちゃん、お酒も強そうだな、って思ってたからさ」
「あはは。僕、お酒なんてほとんど呑んだことないってば」
「ボクもそうだよ。って、まだボク達ほとんど未成年なのにね」
「いいんじゃない? 醍醐に紫暮、村雨がいれば」
「どーして?」
「あの三人なら二十歳過ぎでも通用するから、保護者役」
「ひっどーい!」

お腹を抱えてころころと笑いながら、小蒔が僕の背中をバンバンと叩く。
そんな、取るに足らない笑い話をしていると、また風が吹いた。
風で乱れた髪を抑えながら、小蒔が口を開く。

「……いい風だね……」
「うん。もう、春なんだな……」


冬が終って、春になる。
春が過ぎて夏を迎えて。
夏が去ると秋が現れて。
秋が消えると冬が来る。

当たり前のことなんだけど、なんだかそれだけのことに、僕は今ちょっと感動してしまった。
僕はポケットから紗の袋を取り出し、桜の樹の下にかがみ込んだ。
風が来ないよう、向こう側に回り込む。みんなからは死角になる位置だ。

「?」

いぶかしげにこちらを覗き込む小蒔に構わず、手刀を樹の根本に撃ち込んでちょっと深めに穴を穿つ。
拳が丸々入るぐらいの穴を作り終えると、袋の中身をそこに空けた。
袋の中には、砂金のような……一握の灰。

「ひーちゃん、それ……」

穴の上に優しく土をかぶせ、両手を払って立ちあがる。

「季節をさ……」
「え?」
「季節を、好きな人と過ごせるのって、それだけで贅沢なことだよね」
「…………ひーちゃん…………」
「マリア先生は言ってた。戦うことに理由なんか無い、って。でも、僕はやっぱりこの時を、好きな人と一緒に過ごせる季節を護る為に、戦いたい」
「……ひーちゃん……その、好きな人、って、さ」
「僕の恋焦がれる女性は、2年前、真神学園の卒業式の日に伝えた時から変わっていませんよ、お嬢さん?」
「……バカ……」

僕がちょっとおどけて言った返事に、小蒔が頬を染めてうつむく。
思わずその両肩に手をかけて、抱き寄せる。
小蒔が顔を上げる。
頬が桜色に染まっているのは、お酒だけのせいじゃないと思う。
一方の僕の顔も、小蒔と同じ色に染まっていることだろう。
僕が目で確認すると、小蒔は黙って目を閉じ、ちょっとだけ背伸びした。
ゆっくりと、2人の顔が近づく……

「おーい、ひーちゃんに小蒔! こっち来て呑めよ! アン子が追加の酒、持ってきたぜ!」

親友様の無粋な声が、僕らの時をぶち壊してくれた。
弾かれたように身体を離す2人。
桜の樹で死角になっていたから、僕らは見えていなかったのだろうけども、なんとも間が悪いと言うか。

「……京一ィ〜!」

怒ったのか照れ隠しか、あるいはその両方か、小蒔が肩を怒らせて京一の方へ向かう。
思わず僕は吹き出してしまい、小走りに小蒔の後を追った。

ざぁっ………………

みたび風が起こり、花びらを踊らせる。


卒業おめでとう、緋勇君



風の中に、一瞬声が聞こえた気がした。
僕は静かに、桜の樹に一礼して、小蒔の方へ駆け出した。





Thank you for reeding!





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