二匹の犬。
片方は小犬、茶色く小さく元気いっぱい。もう片方は老犬、モコモコした長い毛を持ち、大きくのんびりやさん。どちらも雑種、どちらも野良。
最近この公園に住み着いたこの二匹は、雛乃のお気に入りでもあった。
お使いの帰りにこの公園に立ち寄った際、こちらへ近づいてきたこの子達に訊ね先でいただいたお菓子を分け与えたのが縁で、すっかりなつかれてしまったのだ。
以来、学友達に<危ない><汚くないのか>と言われるのも気にする事無く、公園のそばを通る機会のある日には鞄に彼ら専用の食べ物を忍ばせるようにしている。
そんなある日、会える喜びからか、軽い足取りで彼ら会いに向かっていたその足が急に止まる。
織部の巫女として、<力>持つものとして無視出来ぬ程に強く、清廉で…それなのに柔らかなこの<氣>は、確かに公園から流れてくる。
その心地よい<氣>に引き寄せられる様にして再び歩を進めると……。
『まあッ…』
その<氣>を放っていたのは一人の少年。多分年下であろうその姿を彼女は二度程見かけた事があった。一度は織部神社の境内、もう一度は確かお使い先で。どちらも後ろ姿であり声をかけた訳でも無いのだが、背負う細長い袋とハチマキは見間違いようが無い。
この清冽で膨大な<氣>を御一人で……。
集中からか、こちらが近づいた事にまったく気づいていない彼、地に座り込み何かを唱えながら手を翳している先には、四足の内、前の一本が欠けている老犬がいた。その隣りには心配そうに御座りしている小犬。
事故か、それとも心無い人間の仕業か?血まみれで行きも絶え絶えなその姿に雛乃は息を呑み、少年の唱える声は大きくなる。
「我求助九天応元雷声普化天尊――――――」
明らかに日本語と違うので無い内容はつかみきれないが、真剣な口調と<氣>の高まりから、彼の懸命さが感じ取れる。何かをしようとしているのだ。
「百邪斬断、万精駆滅、雷威震動便驚人―――――――」
翳す掌が淡く光っている。そこに集まる<氣>は更に練られ…輝きを増す。
雛乃は声もかけられず、自然と祈るように手を前に組んでいた。そして、
「活剄ッ―――ハイヤッッ!!!」
ひときわ強い声と共に彼の掌から膨大な<氣>が老犬へと染み込んでいった。その身体が光り輝き…収まった時には、呼吸が安らかになっていた。明らかな回復を目の当たりにした小犬が騒ぎ出す。
『あれだけの傷を癒すなんて!』
感嘆する雛乃、しかしその瞳に不安の影が宿る。
気持ち良く眠っている老犬と比べて、癒した方の顔色はあまりにも悪く倒れそうにも見えるのだ。
「大丈夫ですか…?」
その身を案じ思わず出た彼女の一言、日本語が通じるかどうかもわからないのに。
「心配あらへんて。わいの剄力をありったけ送りこんだんや、死んでても蘇るやろ」
どうやら通じたようだが、少し問いを間違えて捉えたようだ。
声のする方へ向こうともせず答える少年。疲れ過ぎで頭がぽうッとしており、今誰に声をかけられたかなんて気にもしていない。いや、もしかするとすぐ傍の彼女の存在にすら気づいていない可能性もある。
その表情は青ざめてはいるものの、命を救えた事への満足感と喜びから満面に笑みを浮かべていた。
雛乃は怪しげな関西弁で答えが帰ってきた事よりも、その笑顔に驚かされた。
『なんて素直に、嬉しそうな御顔を……あれだけの<氣>さぞ御辛いでしょうに……』
胸が暖かくなる。
『……不思議な、御方……』
そばにいて心地よいのは、先ほどの<氣>があふれているからか、それとも……。
すぐ傍での心の動きに気づく事無く、彼は老犬へとにじりよった。血に汚れる事にかまわずその腹あたりをなでる。
「これから大変やと思うけど、頑張り。起きたらこれでも食うて……」
いいつつ懐からこの時期珍しい地鶏まんを取り出し、鼻先に置く。それを見て小犬が『僕にも』と言わんばかりに小さな尻尾がちぎれん程振り立てるのだが……、
「堪忍やて、あれが最後の一個なんや、あ、半分こにしよ、な?」
小犬に必死になって弁解する彼につい微笑んでしまう雛乃。その手が鞄を開き、
「よろしければどうぞ」
言われて何かを手渡されても、まだ気づかないのか?かまわず小犬との会話に戻る。
「おおきにッ!ほら、ええもん貰ろたで。ビーフジャーキー、食うた事無いやろ?……って……ほぇ?」
ようやく気づいたようだ。その驚きようから、わざと気づかぬふりをしてたとか実はノリツッコミを狙っていたとかではなく、本当に、天然ボケで気づいていなかったらしい。柔らかな笑顔の彼女の姿に固まってしまう。
彼女の方も、まったく動かずただただこちらの顔を見つめる彼の純な瞳になんだか恥ずかしくなってくる。
身体が動かない。
鼓動が早くなってくる。
間がもたない。何か言わなくては……。
「あの…どうなされたのですか…」
精一杯の一言は、どうやら彼の呪縛を打ち破れたようだ。
軽く頭を振り、気を落ち着かせてからの返事は……、
「いや…めっちゃ可愛いなぁて」
思い切りのストレート。どうやらまだ気が動転しまくっていたようだ、考えた事をそのまま口に出してしまっていた。
こういった事に免役の無い雛乃はたちまち耳まで真ッ赤になる。
「えっ、あ、あのっ、あのっ……」
動揺して何を言いたいのか自分でも理解していない。ただわかるのは、このままでは胸が破裂しそうだという事。そうなる前に……、
「しッしつれいしますッ!!」
逃げるようにその場を去ってしまった。深く考えての行動ではない。単に恥ずかしさのあまり、であった。
彼は彼で自分の発言の大胆さに気づき再び固まってしまい、呼び止める事すら出来ない。
そんな二人の様子を小犬だけが不思議そうに見守っていた。
それから……
老犬は片足を無くしながらもすっかり元気になり、小犬と共にしばらく公園に住み着いていたが、『公共の場に野良犬が住むのはいかがなものか』という意見が出てあわや保健所、という事態になる。
結局周囲住民の署名により保健所送りは免れ、もっとも良く気にかけていた老夫婦の家に引き取られる事となった。
その間、雛乃はちょこちょこと餌をあげに来ていたのだが、あのハチマキの彼と再び顔をあわせる事は無かった。
もし会えたら話の途中で立ち去ってしまった無礼を謝りたい。あの老犬と小犬の事をお話したい。……そして、御名前を……。
実は彼の方でもまったく同じ事を考えていた。この時点で心は通じ合っていたのだ。
宿星に導かれ、再び出会い互いの名を知るのは、これよりしばらく後。
互いの気持ちを知るようになるのは、さらに後になってからであった……。
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