目覚めよ
生命の子よ
目覚めよ




第一章

トゥアハ・デ・ダナーンの巫女






 11世紀初頭と言えば、中国で宋が契丹の遼と和議を成立させ、日本で藤原道長が太政大臣となり、イスラム圏にトゥグリル・ベクによってセルジューク朝が興っていた。ハンガリーのイシュトヴァーンがローマ教皇より王号を許可され、アフガニスタンのトルコ系ガズニ朝によるインド侵入が激化し、朝鮮の高麗の首都開京が、やはり契丹によって陥落していた時期である。

 この頃のヨーロッパは、神聖ローマ帝国でコンラート二世に始まるザリエル朝が幕を開け、カペー朝フランスで封建制度が完成するという、後の繁栄の基盤が築かれていた一方で、北方より現れた強大なる侵略者、即ち海洋の覇者ヴァイキングの襲来によって、暗黒の時代を迎えていた。


 そのヨーロッパの文化の中心を北上すること約600キロの海上に、ブリテン島という島がある。ポセイドンの子アルビオンに導かれた船乗り達が見つけたと言う島、即ち、現代のイギリス。


 1066年、世界史上でも有名なノルマンディー公ギヨームが、ここにノルマン朝を開くわけだが、それにはまだ少し時を待たねばならない。この時期のブリテン島では、現在で言うところのイングランドをウェセックス朝が統一してはいたが、方々で小国家群が乱立し、たびたび衝突を繰り返していた。ヴァイキング達の襲撃はここにも及び、略奪・暴行・破壊の限りを尽くしていた。1016年には、彼らによって、ついにイングランドは征服される。

 まさに、混沌。この言葉が、過不足なく状況を表していたと言えよう。


 だがその一方で、ブリテンの北半分、現在で言うところのスコットランドは、度重なるヴァイキングの襲撃やイングランドとの衝突をも何とか退け、独自の国家を築き上げていた。


 スコウシア王国。


 それが、誇り高きかの地の民族によって築かれた国の名だった。

 かつてはアルバ(オールバ)王国とも呼ばれていたが、1039年ころには完全にこの名が定着していたと言う。血で血を洗う内乱、国王の暗殺、弑逆、内輪もめが日常茶飯事だったこの国ではあるが、ついにノルマンディー公にも征服されることは無かった。民族の気質をそのまま表したかのような、誇り高い国。


 11世紀と言う時代には、この国でも、ある重大な出来事が起った。

 1005年、その全ての元凶となる、一人の王が登場する。

 マルカム・フォラナッハ、後にマルカム二世と呼ばれる人物である。



 またの名を『破壊王』マルカム――













 スコットランドの北に浮かぶ、オークニー諸島――

 蒼く蒼く、深い空に、陽光を受けた金色に輝く大きな雲が流れている。大地には青々とした草原がどこまでも続き、葉を盛大に繁らせた森が広がっている。点在する澄んだ湖の湖面が空を映す。見晴るかす彼方には、鮮やかな青紫に霞む、延々と続く山々。全包囲に向かって展開する、勇壮なまでに美しい景観。

 緩やかに傾斜した緑の斜面に、薄い延べ板状の巨大な石が点々と、円環状に配置されて聳えている。遥か上空から見下ろせば、その石の板が、巨大な丸を描いていることに否が応でも気がつくことだろう。60枚ほどの板が作り出す、それは――先史時代よりの巨大な遺跡、ストーンヘンジ。後に『リング・オブ・ブロッガー』と呼ばれるサークルだった。

 サークルの中心部に、一見して明かに神殿跡だと解る、白石で作られた小さな台がある。地面より数段高くなった台座の上には、不可思議な文様が描かれ、オークの木で組まれた――祭壇? が置かれている。


 その祭壇を背にして、凛然と、静かなたたずまいで座す、一人の女性がいた。


 しろい、ひと……。

 そうと言う以外、どう表現しようがあるだろう、とグルオフは感じた。

 目を閉じ、何かを祈っているかのように見えるその女性は、白衣に身を包み、黄金の胸当てをつけていた。髪も、わずかに覗ける肌も、全てが色素というものをまるで持たないかのように白い。しかしながらその白さには、病的という言葉は全く当て嵌まらなかった。穢れを知らない新雪のように、美しい。……清冽な美しさ。

 指には、黄金の指輪が、ただ一つだけ嵌められていた。


 白衣に金の胸当て、白い女はドルイド僧だった。

 古代ケルトの聖職者にして、占いや裁判を司り、王を選び、信仰や神話を発達させたという、往年のアニミズム的傾向の強かった宗教生活の支配者、ドルイド。


 ゆっくりと、白い女はその瞳を開いた。思わず惹きつけられるグルオフ。

 その瞳は、全身白ずくめの女の中にあって、唯一の色彩を持っていた。

 ――紅い。


「この方が――その、『トァン・マッカラル』殿なのですか? 兄上」

 グルオフの隣に立っていた長身の男が、彼等の後ろに立っていたさらに長身の大男に問い掛けた。

「そうだ。――『神話の語り部』、『国造りを見た者』、『傍観者』……もっとも本当の名前は知らんがな。近在の連中は、『トゥアハ・デ・ダナーンの巫女』とも呼んでるらしいが」

「トゥアハ・デ・ダナーン……」

 鸚鵡返しに呟く夫を、小柄なグルオフは見上げる。

                      ティル・ナ・ノーグ
 その名は彼女も知っていた。地下にあるという常若の国に住む母神ダヌーの一族、ダーナ神族。即ちトゥアハ・デ・ダナーン。霊的宇宙を支配し、光と神々の限りない知恵で、ケルトの民にさまざまな知恵や技術、豊穣をもたらすという。


 困惑ぎみな表情の夫に、大男が歩み寄る。

「その方が、何故私たちをここに?」

「さあな」

 ぶっきらぼうに答える大男。その右肩には、一羽の漆黒の鴉がとまっていた。

 彼の顔はやや憮然としている。突然呼び付けられた事に、彼も戸惑っているのだ。自分は海上で暴れている方が性にあっていると言うのに……。

「だいたい、なんで俺達がわざわざ出向かなきゃいけないっていうんだろうな。用があるならテメェが来いって……」

 次の瞬間、バシッという、何とも痛そうな音が響き、大男は唐突に言葉を途切らせた。やはり肩に、喉元だけが僅かに灰色の鴉をとまらせた、彼の美しい妻に蹴りを入れられたのだ。

 恨めし気に妻に目をやる大男。

「この無礼者。なんて口の利き方をするんです。――仕方がないでしょう? この方は、生まれてこの方この場所から動かれたことがないというんだから」

「生まれてこの方、ねェ?」

 ブツブツ愚意る夫を、凄まじい視線で睨み付ける美しい妻。彼女の肩上の鴉までもが一緒に睨んでいるかのように見える。
  フギン
「『思索』、お、オマエまで……」

 その四つの眼光にやや怯みぎみの大男が、仲間を求めるように肩の漆黒の鴉に目をやると、鴉は、自分には関係ない、とでも言うようにそっぽを向いていた。
    ムニン
「ム、『記憶』……!」

 グルオフとその夫が、耐え切れなくなって思わず忍び笑いをもらす。


 大男の名は、トールフィン。トールフィン・カルルセフニといった。ここオークニーの支配者であり、同時にスコットランドの北方、サザランド・ケースネスを支配していた大長官。『鴉飼い』の異名を取る、勇猛なヴァイキングだった。見上げるような長身を、力強い筋肉がよろう。赤茶けたすこしぱさつき気味の髪を、背中の真ん中辺りまで伸ばしている。

 トールフィンの妻の名は、グットリッド。トールフィンが以前、グリーンランドへ航海した際、そこで結婚したアイルランド系二世の美女だ。ブロンド碧眼の、はっとするような美しさを持つ彼女だが、女性の身でありながら、その姿は合戦場においても常にトールフィンの傍らに見られた。


 なんて仲の良い夫婦だろうと、グルオフはこの二人を見るたびいつも思う。

 こうして見ると、尻に敷かれっぱなしの情けない旦那とその恐妻、という風にも見えるが、その実グットリッドは旦那にべた惚れなのだ。そしてトールフィンも、戦場においては豪勇無双の戦士と化す。愛妻家であるのは、何時いかなる時にも二人一緒にいる事を見れば明らかすぎるほどに明らかだ。

 側に立つ夫を再び見上げるグルオフ。

「ん? なに?」

 その視線に気付いた夫が、微笑を湛えながら彼女に問う。

「……ううん、なんでもない……」


 グルオフと彼は、一年ほど前に結婚したばかりだった。
                             モーミュール
 夫は当時の王国最強貴族の息子にして、モレー・ロス両所領の大長官であり、彼女自身は先代の国王の孫、スコウシアでも最も古い王家の血を受け継ぐ者だったから、互いに恋愛感情はあったけれど、この結婚は政略結婚の一つだったのだろう、と彼女は思う。


 政略結婚は別に珍しい事でも何でもない。彼女の夫とトールフィンは兄弟ではあるが、父が違う。トールフィンの父『屈強伯』シグルドが死んだ後、その妻ドナーダが再婚して生まれたのが彼女の夫なのだ。この屈強伯とドナーダの結婚も、いわゆる政略結婚だった。当時オークニー諸島で大勢力を誇っていたヴァイキングを抑えるというのが、その目的だったらしい。つまりトールフィンは、父からヴァイキングの血を受け継いでいた。


 グルオフは仲の良いトールフィン夫妻に憧れていた。普段から特にべたべたしているという訳ではないが、互いを他のなによりも愛し、尊敬しあい、助け合っている二人。理想の夫婦の姿。いつか自分達も、政略の結果としてではない、真実の夫婦になりたいと思っていた。始まりは政略だったとしても、愛しあい、支えあいたい。心も想いも分かちあって、生きてゆきたい。死が二人を分かつまで。

 彼女に優しい視線を送り続ける夫、その名を――マクベス・マク・フィンレーといった。



「生命の子よ、祝福を。世界を統べる者よ」



 白い巫女が唐突に口を開いた。

 その声に撃たれたかのように一斉に静まるグルオフ達四人。

 白い巫女は、何時の間にかその手にヤドリギを持ちながら、彼らに不思議な瞳を向けていた。紅い紅い瞳。鋭いと言う訳でもないのに、その場に釘付けにされるかのような視線。

 ああ、なんだろう……。グルオフは思う。不思議な、不思議な目……吸い込まれるような……、全てを見透かされるような……。


「生命の子よ、祝福を。『上王』よ、貴方に祝福を」


 再び繰り返される白い巫女の言葉に、マクベスとトールフィンが同時に息を呑むのが感じられた。思わず夫に目をやるグルオフ。彼の顔は蒼白だった。目の前の白い巫女さながらに。


「生命の子よ、祝福を貴方に。貴方は今に、世を変える」


 白い巫女の瞳は、今や彼等の只一人に向けられていた。

「あ、あなたは、何を……!」

 震える声で問い返す、その人物只一人に。グルオフの愛するマクベスに向けて。

 その言葉に秘められた衝撃に立ち尽くす彼等を尻目に、白い巫女の瞳は、語るべき事を語り終えたとでも言うかのように静かに閉じられた。重い静寂が舞い下りる。

「な、なにを言ってるんだ、アンタは」

 トールフィンが、吃りながらも問い掛けるが、白い巫女は身動ぎも返さなかった。

「アンタ、それがどういう意味か、解って言っているのか!?」

 怒声を上げるトールフィンを、彼の美しい妻が戸惑ったように見つめた。取り乱している。あの豪胆を絵に描いたかのようなトールフィンが、取り乱している。グットリッドはこの様な夫の姿など、それまでの生活でほとんど目にした事がなかった。


 白い巫女はやはり、何も言葉を発しなかった。


 あれほど晴れ上がっていた蒼穹は、気付けば重い黒雲に覆われはじめていた。遠くで雷鳴。冷たい雨が、わずかに降りはじめ、灰色のカーテンとなって視界を閉ざしてゆく。

 再び、雷鳴。

 暗く垂れ込めた灰色の空を、光の竜が轟き走る。

 轟音。

 雲の切れ目を、閃光が行き交う。


 思わず首をすくめ、グルオフは夫の手に遠慮がちに自分の手を掛けた。夫が痛いほどに握り返してくる。その様子に、グルオフは夫が受けた衝撃の程を知った。

 グットリッドはいまいち解っていないようだったが、グルオフも無論、白い巫女の言葉が意味することの重大さを理解していた。

 なぜなら。
  ハイ・キング
 『上王』という古い言葉が示すものはすなわち。


 雨が、いよいよ本格的に降り始めた。

 繰り返す閃光、雷鳴。

 緑の大地から、ゆらりと霧が立ち上り、古代の遺跡を包むように漂いだす。


 夫が握る手を、グルオフも強く握り返す。そうしないと、全身が振るえて止められなく様に思えたからだ。

 ――それは、予言、なの……?

 まだ科学など微塵も発達せず、神や宗教、魔力と言った物が、生活の一部として溶け込んでいた時代。宗教を司る僧がもたらす予言、預言といった言葉には、果してどれほどの重みがあったのか。改めて言うまでもないことである。

 ましてや相手はドルイド僧だった。自然の中に見出した神々の言葉を、人々に伝える者。ドルイドの言葉は神聖なるものとして、文字に書き移すことすら禁じられていたくらいなのだ。

 ――マクベスが、世界を統べる……?

 世を変える……?

 『上王』……?

 スコウシアの、王?

 王になる、と!?

 この国の王に!?

 それはつまり!

 おじい様が殺されたように!?
  リア・フェール
 『運命の石』に叛旗を翻すと!?

 破壊王!

 ダンカン殿を……!

 厭!

 迸る閃光。

 死。

 屈強伯のように。

 お義父様のように。

 伯父様のように。

 おじい様のように。

 死。

 マクベスが……!?

 厭、厭、厭……!

 轟く雷鳴。

 勢いを増した雨粒が大地を叩き、吹きはじめた風が旋回してグルオフの美しい髪をなびかせる。

 彼方で光る稲妻を背に、ただじっと座す白い巫女。

 木偶人形のように、立ち尽くすグルオフ達。

 霧はいよいよ濃く深くなり、ついに辺りを覆いつくさんとしていた。


「目覚めよ――」


 いずこからか響き渡るその声に、はっと顔を上げるグルオフ。


「目覚めよ――」


 夫と思わず顔を見合わせる。

 聞えてくるその声はまるで――


「目覚めよ――」


 ――頭の中に直接響いてくるかのような……。

 白い巫女が、再び紅い瞳を開く。


「目覚めよ――」


 白い巫女の口から紡がれるその言葉は、まるで――


「目覚めよ――!」


 雷鳴が、暗く沈むオークニーの草原に響き渡った。













グルオフの回想

                 シャー
 ……1005年3月25日、パース州モニヴェアードで、私の祖父ケネス三世が亡くなった。ケネス三世、即ちスコウシア王国14代国王。後に破壊王と渾名される、マルカム・フォラナッハ率いる軍との戦の果ての、戦死。

 それでもこの時代、我が国では、王が暗殺されたり弑逆されたり、王位を巡って王位継承権を持った者同士が争ったりするということは、決して珍しい事ではなかった。歴史を顧みれば、おじい様も含めてほとんど全ての国王が前王を暗殺・殺害して王位に就いているし、私の伯父にあたるドゥーファスも、王位を巡り戦い、やはり破壊王に殺されている。

 この原因の一つとして考えられるのは、我がアルピン王家に代々伝わる独自の王位継承制度、『タニストリー』の存在だろう。

 この制度においては、現在のイングランドやフランス、神聖ローマ帝国に見られるような長子相続とは異なり、国王の孫までを含む、適齢以上の全ての王家の男子が王位継承候補とされていた。そしてその中から、次王に最も相応しいと思われる者を、国王の在位中に選んでおき、即位の日にそなえていたのだ。

 他国に見られるような血筋だけが良くて無能な王の戴冠を防ぐ事が出来るだけでなく、優れた国王の実現を可能にしたと言う点で、この制度は評価すべき点もあったのだと、私は思う。

 しかし、やはりその反面、重大な欠点も持ち合わせていたのだ。

 国王として選定されなかった者、極言すれば、国王になり損ねる者を、数多く生出してしまうのだ。選定に漏れた候補者達はそれぞれに不満を抱いた。それに王家の分家・縁者の存在が絡むことによって、深刻な争いが起きかねない土壌を培うことになったのだ。


 その致命的欠陥を解決したのも、破壊王マルカムその人だった。

 しかも実に単純至極な方法で。

 即ち、タニストリー自体の廃止。


 権力掌握の為に他の王位継承権者を次々と殺し、非道の謗りも甘んじて受け即位したこの王は、それまでの国王達が誰も手をつけようとしなかった王位継承制度の改革を断行したのだ。

 否、改革が行われれば、この特異な制度のもとで持つことが許されていた継承権を失ってしまう王族が多数現れるだろうことを考えれば、付けようとしなかったと言うよりも、付けられなかったと言うべきだろうか。

 提案しただけでも猛反対を、悪くすれば叛乱をも起されていたのかもしれない。

 幸い、と言っていいのか、破壊王は候補者を皆殺しにしており、この時既に公然と反対を表明できる勢力など、皆無に等しかった。

 比類なき権力を掌握していた彼は、こうしてさしたる反発も受けずに、ついに王位継承を長子継承へと改革したのだ。


 しかし、ここに来てただ一つの現実が、重大な問題となって彼の前に立ちはだかる。

 破壊王にとってあまりにも皮肉と言うほかないそれは。

 彼に一人の男児も産まれなかったと言うこと。


 せっかくの王位継承制度改革もあわやと言うとき、己の直系に王位を受け継がせて行きたいと熱望していた破壊王は、この障害を、実に強引な方法で無理矢理解決しようとした。

 三人いた彼の孫に、王位を継承させようと言うのだ。

 破壊王はそれを現実のものとする為に、あらゆる手段を尽くした。もともと強引な方法で王位に就いたのだ、躊躇いがあろう筈も無い。

 三人の孫のうち、長女の息子を王位継承者として指定した彼は、次いで、継承の最大のライバルになるであろう者たちを次々と殺した。

 前王ケネス三世の孫達を。

 私の、兄弟や従兄弟達を。


 王位を巡り巻き起こった、戦争と陰謀の数々。

 血で血を洗う、内戦。

 争乱の、日々。


 父を早くに亡くしていた私は、その日々の中で、全てを失った。


 王位とは、そこまでして手に入れたいほどのものなのだろうか?

 他の人よりも上に立つと言う事は、他の人々を支配すると言う事は、そんなにも素晴らしいことなのだろうか?

 莫大なる富?

 最高の栄誉?

 国民の崇拝?

 そんなものに、何の価値があるのだろう。

 私には、どうしてもそれが解らなかった。

 もちろん、私は王家の人間であり、全ての国民よりも物質的にも精神的にも恵まれた環境にあるのだろう。明日を生きる糧もなく、ひもじく貧しい生活を送っている人から見れば、贅沢この上ない生活を送っているのだろう。だからそんな考えは、生活にゆとりのあるものが考える余裕、自分の恵まれた立場のありがたみを理解しない、愚か者の考えなのかもしれない。支配されることを知らない立場の者が夢想する、甘い考えなのかもしれない。

 けれど、それでもあえて私は思う。

 国王の座とは、支配者の地位とは、そんなにも素晴らしいものなのだろうか?

 誰かの血を流して、親しい者の命を奪ってまで、手に入れたいものなのだろうか?

 私は、そんなものは、いらない。

 誰かの血を流してまで手に入るものなど、いらない。

 大切な誰かを失ってまで手に入れるものなど、いらない。

 私はただ、私の愛する人達と、平穏に暮らして行ければそれで良かった。

 大切な人を失いたくなかった。

 ただただ、慎ましくても良いから、心暖かな世界で生きて行きたかった。

 私はただ、マクベスと、静かに、穏かに生きたかった。













 スコットランドの中央を、ちょうど南北に二分するように流れる川がある。

 テイ河である。

 3つの支流と合流しながら東に向かって流れて行くこの川は、河畔の街ダンケルドの東方約10キロ地点で、その流れの向きを90度南に変える。そして、河口の街パースを通り、テイ湾へと抜けるのだ。

 パースの街を中心とする地域は、フォートレンと呼ばれていた。

 「陸が海に打ち克つ」この場所は、交通の便が良いだけでなく、当時のスコットランド人にとって聖なる土地であった。テイ河の淡水が、テイ河口の海水を食止める場所なのだ。これが意味するものは何か。ヴァイキングの脅威が海からやって来たことを考えれば言うまでもないだろう。


 ――1034年11月25日。静かに雪の降りしきるその日。

 フォートレン地方、ダンディーの北にあるグラームス砦近郊で、一つの惨劇が起っていた。


 凍てつく白銀の雪原に、人が、倒れていた。

 一人ではない、多数。それでも10人には満たない程か。

 雪の冷たさも感じないのか、顔から盛大に突っ伏した彼等は、一人としてピクリとも動かなかった。その服装から、彼らが兵士であることが伺える。

 彼等のまわりには、争ったかのように踏み荒され、押し固められた新雪が広がっていた。そこからさらに伸びる足跡が、二つ。

 砦のすぐ側まで続いたその足跡の先では。

「ぐ……き、貴様……」

 豪奢な装束を身に纏った、相当高齢な老人が、苦しそうにあえぎながら毒づいていた。

 灰褐色の長い髪と髭を持つその老人の眼光はしかし、獲物を狩る鷹の目のように、獰猛で危険な光を湛えている。その眼差しは、彼が纏った衣服を考慮に入れずとも、彼が相当の権力――支配者たる力を秘めた者であろうことを如実に示していた。

 ずぶり、と言う、妙に生々しい音が一つ聞え、老人の口から、真っ赤な血が盛大に流れ出た。長く白い顎鬚が、真紅に染め上げられる。

「……カニュートの、手の者……か……!」

 喘ぎながら恫喝する老人の声に、応えはない。

 ただもう一度だけ、ずぶりという音が返ってきただけだった。

「ぐうっ……!」

 老人は、ブルブル震えながらも渾身の力を込めて、彼と全く距離をおかずに立っていた男の肩を突き飛ばした。予想外の抵抗に遭い、男は盛大にひっくり返る。

 ふらつく足どりで、男に近づいていく老人。

 白い大地に這いつくばり雪まみれになった男の顔は、かなり青ざめて見えたが、その口元には嘲るような冷笑が浮かんでいた。

 3歩ほど何とか進んだところで、老人の膝がガックリと折れた。思わず膝を突く。

 その時老人は、初めてまじまじと見ることになったのだ。

 自分の腹部に深々と突き刺さっている小刀を。

「ワシを……ワシを、なんと心得る……!」

 その声に孕まれたあまりの怒気に、襲撃者の心胆は震え上がる。

「この国の……この国の王なるぞ! 貴様の支配者たるものぞっ」

 老人は、腹から突き出ている短剣の柄に手をかけ、苦しげな顔をしながらも一気に引きぬいた。ぬらぬらと赤い血で濡れる鋭利な刃が体内から吐き出されると、どぷりという厭な音と共に大量の血液が溢れ出る。足元の雪に、滲むように広がる真紅。

「……これは、何だ」

 己が手を赤黒く染め上げた多少粘着質のある液体を、他人事のように眺める老人。

「……ふ……ふふふ、ふふふふふ……」

 ――やがて。

 ぎゅ……

 老人が、肩で息をしながらも、確かな足取りで再び動き出した。

 踏みしめられる雪が、実に趣のある音を鳴らす。

 ぎゅ……

 その目に宿るのは、猟人の光。

 口元に浮かぶ嗜虐的な笑い。

 ぎゅ……。

「ひ、ひいいぃぃぃぃっ!!」

 情けない悲鳴を上げながら、襲撃者は後退り始めた。完全に老人の殺気に飲み込まれているのだ。恐怖に震えながら這いずる彼は今や、まさに蛇に睨まれた蛙だった。

「ふん……デーン人にでも誑かされおったか、この愚か者め……」

 心胆寒からしめる低い声で言葉を発しながら、老人は短剣を振り上げる。

 後ろ手を付きながら後退る男の背中が、砦の壁に突き当たった。慌てて背後を振り返り、改めて逃げ場を失ったことを確認する。

「ふふふ……早く逃げんか」

 焦点の合わない視線を老人に向ける。瘧のように震えが激しくなり、襲撃者は知らずに失禁してしまっていた。

 真っ赤に染められた老人の口が、やがてゆっくりと動き、言葉を紡ぎ出した。

「死んで償え……」

「ひいいっ!!」

 ザシュッ!!!

 振り下ろされた老人の腕。

 半瞬後、砦の壁に寄り掛かるように座る男の首筋から、盛大な血の噴水が上がっていた。

 吹き上がる血の奔流を頭から浴びると、老人は酷薄な笑みを浮かべた。次の瞬間、グラリとよろけ、柔らかい雪の上に仰向けに倒れる。

「……痴れ者が……」

 震える手が、綿毛のような雪の舞い下りる白い空へ向かってさし伸ばされる。

 何かを掴み取るかのように、その手は、ゆっくりと握り締められた。

「ワシは……この国の、王であるぞ……」


 雪が、大地の穢れを包み隠すかのように、静かに降り続ける。













 数日後。

 全スコウシア王国内に衝撃が走る。

 国王マルカム・フォラナッハ、暗殺さる!










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