追手を振り切ることができない。このままでは体力が尽き、いずれは捕まるだろう。それはわかっている。それを回避する手段はある。しかしそれは躊躇われた。私の手が状況を打破し得るモノに触れる。『これ』を使ったのは二度。最初は全く知らずに。二度目は偶然に。双方ともに結果は惨憺たる光景を私に見せつけた。しかし、である。私が『これ』を使うのを避けているのは結果のせいではない。<力>を振るっているときの私自身、つまりは私の心が『これ』を避ける原因である。
『これ』はおそらく私のエゴを映しているのだ。そういう認識がある。
使いたくない。そういう気持ちがある。
だからこそ私は逃げるのだ。逃げ続けることなどできない、そう告げる心を無視して。
私自身、何処へ逃げようとしているのか全く意識していなかった。ただ<氣>が向く方向へ進んでいる、そういう感じだった。
後から思えば<力>に惹かれたのかもしれない。あのとき、最も<力>の集った街。
新宿という街に。
……緋勇龍麻は仲間たちと別れ、新宿中央公園にいた。用があっての事ではない。帰路の途中である。でなければ秋の終わりであるこの時期の夜にこんな吹きさらしに立ち寄ることはしない。案の定、公園内に人がいる気配はなかった。少なくとも彼はそう思った。
言うまでもなく、緋勇は古武道の達人である。たとえ戦闘時ではなかったとしても、彼に気づかれずに接近するなどはたやすくできることではない。だからこそ驚いた。いきなり彼の視界に闖入者が現れたのだ。それも彼に気取られることなく。
『!?』
緋勇は確かに不意を突かれて驚いた。しかし隙をつくったわけではない。瞬時に心身を戦闘態勢に移行して、相手を見据える。
そして……戸惑った。
目の前の人物はおそらく彼を見てはいない。その場にへたり込み、肩で大きく息をしている。年齢は彼より幾分下だろう。顔は俯いているためにはっきりしない。あと外見上での特徴としては、葵に匹敵する長さの黒髪に見覚えのない紺のセーラー服……。
そう。女の子のようだ。……さて、この状況で俺はどうすべきか、緋勇が思い悩むうちに、息を整えた少女が顔を上げる。
緋勇の受けた第一印象は『葵に似ている』であった。造形が、ではない。眉目秀麗ではあるが、造りは似てはいない。にもかかわらず、何故かそう感じてしまった。
少女の視線があがり、緋勇のそれとぶつかる。そして驚きの色がその目に浮かぶ。どうやらようやく他人の存在に気づいたようだ。
驚愕は次なる意思を生み、その青ざめた唇より言葉を紡ぐ。
「ひ、ひと……ひとがいるの……?」
それは絶望を含んだ呟きだった。
緋勇には少女の言葉の意味がわからなかった。ただこの子が苦しんでおり、それが恐怖でも脅えでもなく絶望を与えていることだけが伝わってきた。
彼女の嘆きは時を僅かに消費した。そして、
「きた」
先程の口調に諦めが取って代わった。妖気が辺りに満ち、それに呼応して霞が立ち込める。
この数カ月間で怪異に遭遇することに慣れてしまった緋勇だが、ことの推移に付いて行けないことには変わりない。確かなことは、これに<人ならざる力を持つ者>が係わっていること、そしてその渦中にいるのは自分ではなくこの少女だということだ。
この場に第三者がいる。その事実に私は苦鳴を漏らす。
「ひ、ひと……ひとがいるの……?」
追跡者はもうそこまで来ている。いますぐにここを離れなければ……理性がそう告げても私は動けなかった。
じぶんがたすかるためだけにこうどうする。
それでは『これ』に頼るのと同じだ。ならどうすればいいの……? 既に選択肢は残っていない。判っている、わかっている……。
「きた」
今までと同じように、景色が濁る。『これ』が発する情報によると結界が構築されることによる隔離が行われた影響らしい。
そしてこの殻は、結界を造った者を、造った者を……。
そのことから目をそむける為に、巻き込んでしまった人を見る。学生服に身を包んだ長身の男の人だ。前髪が長い為、眼差しを含む表情は窺い知れないが、なんだか落ちついて見える。状況を把握できていないからだとは思うけれど。
蟲蠱
取り留めない思考を中断させる音が聞こえた。金属をきしませるような音だ。正体はわかっている。私たちを囲むように現れた蜘蛛のような異形。本来複眼であるはずの目がニヤリと笑う。この異形はヒトの顔を持っているのだ。
以前遭遇したときと面子は同じ。数匹の異形と……。
ゴポ……。
水泡があがる音を聞いた。いや、幻聴だ。知っているから生じた思い込みだ。以前と同じなら、あの忌まわしいモノは蜘蛛共のどれかが持っているはずだ。
私はスカートの裾をたくし上げる。『それ』は右腿に固定している。所持しているだけで身体能力等は飛躍的に向上するようで、そうでなければここまでも逃げられなかったろう。
もはやさしたる感慨もなく、私は『それ』を手に取る。一般的に懐剣と呼ばれるの代物だ、その外見上だけは。柄に手を掛けた時にふと考えた。剣を抜くのは何故か? 巻き込んだ人を守る為か、私自身の保身のためか、それとも<力>の魔力に抗し得なかったからだろうか。
答えのないまま、私は剣を抜き、
蒼氷の輝きが闇を裂いた。
視界が一変する。そこは月夜ではなく、目を惑わせる闇はひとかけらもない。心が整理される。冷静に、冷徹に。
異形が威嚇の姿勢を保ちつつ、周回運動を行う。
(妖は五体、うち一体のみが包囲陣に対して一歩退いている。あれが結界の柱だろう。あれは後回しだな。)
敵を殲滅するには騒ぎを気取られない結界内である方が都合よい。判断は下された。あとは行動あるのみ、である。
「我が力 氷の刃となり 道を阻む者を 切り裂かん……」
呪が紡がれる。凍てつく<力>が結集する。
「剣氷陣!」
振りかざされた刃が地面を打つ。蒼い波紋が広がり、凍りつく。包囲陣を担う蜘蛛の二体が氷の戒めに捕らわれる。氷縛された蜘蛛は身動きもならないうちに緑色の濁氷……蜘蛛自身の体液……に覆われていく。透明度の高さ故見えなかった氷の刃が全身を切り裂いたのだ。
剣氷陣から逃れ得た異形が反撃に転じる。一体は地を蹴って右上より迫り、もう一体は地を走って左から接近する。
(挟み打ちに対する逆撃が必要だ。)
冷えきった心は何の迷いもなく<力>を見つめ、集め、振るう。
「我が力 霧の刃となり 道を阻む者を 引き裂かん……」
異種の言葉を作り上げる。<力>をのせて。
「霧氷壁!」
異形と少女を白い壁が阻む。いや、厳密には壁というほどの安定感はなく、雲のように揺らいで見えた。地を這う蜘蛛は方向を転じてそれをやり過ごしたが、天を往くモノは勢いを殺さず突破を試みた。異形は白い闇にその身をまかせ、
「ゥギエアアアアィエアアアアア!!」
この世ならざるモノはそれに相応しい悲鳴を上げた。壁を抜けたそれは原型を留めてはおらず、全身を細切れにされた状態で地に伏した。霧氷壁は氷刃の粒子である。入り込んだ者の末路は言うまでもない。
もはや身動きしない肉塊に目もくれず、無形のまま残りの二体を観察する。一体は相変わらず動かない。そして包囲組最後の一体は姿勢を低くしたままこちらを伺っている。
私は何の警戒も見せず、ごく普通に怯えながら威嚇する蜘蛛へと歩み寄る。私の一歩に対し、蜘蛛は二歩下がる。それを幾度か繰り返したあと、蜘蛛の後脚が結界を張る蜘蛛に触れた。一瞬の逡巡、そして蜘蛛は私に飛び掛かった。いや、正確には飛び掛かろうとしたのだ。
軽く、本当に軽く。私は横に一歩踏み出す。蜘蛛が目標を見失う。そのすれ違いざまに軽く剣が閃いた。側頭部に一撃を受け、異形はその場に崩れた。
一息つき、改めて最後の一体に向き直る。戦闘能力は極めて低い、この蜘蛛を相手取るのは今の私ですらあまり好ましくない。だがやらないわけにはいかないだろう。まず肢を切り落とす。動けない蜘蛛を背後から真っ二つに切り裂く。結界は蜘蛛が張っているのではない。蜘蛛が体内に持っているモノが術者なのだ。私はこの異形を切り開き、それを取り出した。
それは一抱え、いや、もう少し大きい硝子の瓶である。瓶の中には液体と、術者が入っている。術者は無邪気に笑っていた。小さな手は可愛らしく握られており、その指は人形のように……。
子供。瓶には羊水に浸かった赤子が入っているのだ。そしてこれを(あえてこれ、と表現する。そうでないと耐えられない)手にかけて始めて結界が解ける。私は既に二回、実行している。
ゴポリ……。今度は幻聴ではなく、水泡の音が聞こえた。私はほんの一瞬それに目をやり……抱えていた瓶を放り投げた。それは音をたてて割れた。むずがるような動きを見せたそれは徐々に弱っていき、微笑みを凍りつかせたまま動かなくなった。
景色が再び揺らぐ。先程とは逆に、霞が晴れるように。それを確認したのち、私は剣を鞘に収めた。そして。
<力>の残滓がいまだ私に『闇を貫く瞳』を与えている。だから見える。私の行いの全てが。
悪寒がはしる。吐き気を催した。しかし最も揺れているのは心だ。
蒼い視界に横たわるもの。絶命した人の顔。そして。
私は三度、三度もこの手で、あ、あか……。
動揺が、悔恨が心を覆った。そのために私の反応は遅れた。視界の端で影が立ち上がる。蜘蛛だ。急所に一撃を入れたはずの蜘蛛が起き上がったのだ。私からの距離は遠かった。そのせいで血迷った異形は私ではなく、より近くに居た人を、あの男の人を襲った。
「やめてえええええええええ!」
緋勇はしばしこの戦いを傍観していた。負の感情に捕らわれていた少女が隠し持っていた懐剣を手にした途端、一切の感情を排して冷徹な戦士になった。その<力>は明らかに『人ならざる』もので、少女は自分より大きな蜘蛛のような化け物を圧倒した。
そしてそのあとの光景は彼とても正視に耐えないものだった。蜘蛛の解体をしていた彼女は瓶を取り出した。瓶には赤ん坊が入っており、少女はそれを地面に叩きつけ、赤ん坊を……。
結局彼は介入の時を見いだせず、戦いは終わった。勝者は剣を収め……口を押さえてしゃがみこんだ。慟哭とも嗚咽ともつかぬ呻きがもれる。その視線の先が赤子の遺体であることが緋勇には判った。
その遺体が急速に腐敗を始める。いや、蜘蛛の残骸も、であるが、それらは少女の意識にはないだろうことが何となく浮かんだ。
今の少女は隙だらけ、いや、先程の戦いを繰り広げた本人であるなど到底信じられない。俺はどうすればいいのだろうか、そう緋勇が考えたとき。
「グエエエエエエァ!」
死に絶えたと思われた異形が一体起き上がった。その体を腐敗させながら、俺に向かってきたのだ。
「やめてえええええええええ!」
少女の悲鳴。いろんな感情の内混ざった、心からの声。いまにも壊れそうなそれは、もし俺が死のうものなら簡単に限界を超えてしまうだろう。俺はこの少女の心を壊させる気はなかった。
傷ついた異形の動きはひどく緩慢に見える。腰だめに構え、丹田で気を練る。ごく自然な形で<力>を解き放つ。
「はあっ!」
常人には見えない清浄な気が蜘蛛を弾き飛ばす。緋勇の放った発剄の威力もさることながら蜘蛛自身の肉体も脆くなっていたせいかその衝撃は最後の異形を微塵に打ち砕いた。
「……大丈夫かい?」
異形がもう動かないことを確かめた上で、少女の方を伺う。何だか妙な声のかけ方だとは思うが、他に思い浮かばなかった。
少女と視線が合う。大きく見開かれた瞳は驚きと、脅えと、そして何かもう一つ、よくわからない感情が浮かんでいた。
「あ、あなたは……」
少女は立ち上がろうとして……そのまま前のめりに倒れた。
慌てて少女を抱え起こすが、完全に気を失っている。しばし逡巡のうえ、少女を抱えたまま立ち上がる。とりあえず行き先は桜ヶ丘病院だが、このまま運べるわけもない。少女を公園のベンチに横たえ、車を手配するべく携帯電話を取り出した。あと、何人か仲間にも連絡を入れておく必要があるだろう。ことが『異形』と<力>であるだけに、自分たちと無関係とも思えないし……。
意識が回復したとき、まず考えたのは「とりあえず生きてはいる」ということだった。そのあとに今見えているものについて気がつく。天井が見える。蛍光灯は明るすぎず、暗すぎず、心地よい光。……今更気づいたが私は横たえられていた。どうやらベッドの上のようだ。身体を起こしながら視線をを巡らし、迂闊さに思い至る。私の視線の先に人がいた。それも間近に。その人物はピンクの看護服を着ており、椅子に腰掛けていた。どうやら浅い眠りについているようだが、そんなことは問題でない。
(いくら気を失っていたとしても、人の気配に気づかないなんて……)
無意識に手が腿に移動する。……血の気が引く。そして理解した。何故ここまで私が無防備だったかを。
(ない!)
そこにあるはずの懐剣がない。あれは持っているだけで様々な能力を所持者に与える。並外れた感知能力もそのひとつで、その<力>は追跡者から私を幾度となく救ってくれた。それはともかく、あれがないと私はただの子供にすぎない。害意あるモノの撃退はおろか逃走、いや、察知すら不可能だ。
激しい動揺は私の気配を大きくしたらしい。眠っていた看護服の女性が目を覚ましてしまったのはそのせいだろう。その女性と目が合ってしう。年は私より上だと思う。はっきり言い切れないのは、その表情があまりにもあどけなかったから。
「あぁ〜、目が覚めたのね〜、よかった〜」
屈託無さそうな看護婦さん(だろう)は、外見に負けぬ屈託ない声を上げた。その雰囲気に私の持っていたあらゆる負の感情が飲み込まれた。残されたのは戸惑い。
「先生を〜、呼んでくるので〜、待っててくださいね〜」
大輪の花の如き笑顔を見せ、掛け出そうとする看護婦さんを慌てて呼び止める。
「あの……ここは何処ですか?」
笑顔になんとなく気後れし、剣のことが聞けなかった。
「ここは〜、桜ヶ丘病院だよ〜」
病院だから安心して休んでいてね、といったことを告げ、看護婦さんは部屋から居なくなった。そして私はひとり途方に暮れる。
「どうしよう……」
患者さんが目を覚ました、そのことを報告しようと院長室を訪れた高見沢は先客がいることを知った。
「ああ〜、ダーリン!」
たか子先生以外に、緋勇龍麻、蓬莱寺京一、醍醐雄矢、美里葵、桜井小蒔の五人である。それぞれ挨拶を交わす間を、たか子先生が割ってはいる。
「高見沢、何か報告があったんだろう?」
「ああ〜、そうでした〜。急患の女の子が目を覚ましました〜」
「そういうことはもっと早くいわんか」
げんこつが落ちる。もちろん本人は軽くこづいた程度に思っているだろうが、なにせあの巨体である。高見沢は涙目になっていた。
「患者の状態は単なる疲労だった。ならここで論じるより本人に聞いたほうが早かろう」
ここでたか子先生が言わなかったことがひとつある。患者が疲労で倒れたのは事実だが、神経・精神ともにかなりの衰弱が見られていた。どのような環境であればあれほど弱るものなのかわからないくらいに。口にしなかったのは、第三者に「あの子は精神を病みかけている」などと言えないからだ。たとえ怪異に関わっていない者でも、何らかの理由を付けて治療を受けさせよう、そう思った。
患者を担ぎ込んだ緋勇にのみ付いてくるよう言い渡し、彼女は病室へ向かった。その途中、院長室でのやりとりを思い出していた。
連絡を入れた全員が揃うのを待って、その会話は行われた。
「蜘蛛のバケモノねえ……」
緋勇の説明のあと、一番に口を開いたのは京一だった。
「今までと随分趣向が違うじゃねえか」
「京一、趣向なんて言葉知ってたんだ」
「うるせえ」
彼の意見に茶々を入れたのは小蒔だ。しかし彼女も意見自体に否定はしていない。
「牛鬼や土蜘蛛でもないとすると、見当もつかんな」
重々しく肯定する醍醐。今まで『敵』は鬼を使役してきた。それが今回は人面蜘蛛などという異形が現れたというのだ。
「そして……その……瓶に入ってたっていう……」
緋勇の話を聞いて最も顔をしかめていたのは葵である。
「うん。そんなひどいことするなんて、許せないよ、ボク」
「ああ、んなヤツと仲良くなれるたぁ思えねぇ」
『異形』についての意見は等しく同じ。一番端的に表現したのは京一で「見つけ出して徹底的につぶす」方針に異論は出なかった。
「……となると、彼女が『敵』について詳しいと話が早いだろうね」
今まで意見を言わなかった緋勇が水を向けたことにより、話は『少女』の方へと流れた。
「赤ん坊の方は遠野にも当たってもらおうと思うが、確かに一番の近道ではあるな」
最近赤ん坊の誘拐などの事件がなかったか、情報通の友人・遠野杏子に調べてもらうよう既に頼んでいるが、いささか迂遠である。
「……その彼女もやっぱりボク達のお仲間なのかな」
「宿星ってのが縁を結ぶモンなら、そうなんだろうぜ……っと、ひーちゃん、オレ達はまだそのコの名前を聞いてねえんだが」
全員虚を突かれた。
「……実は知らない。会話したわけでもないし」
「うふふっ、龍麻ったら」
思わず笑みをこぼす葵。
「服をはぎ取るついでに持ってたものを調べたが、身元を示すものは何もなかったよ」
持ってたものはこれだけだよ、とたか子先生が示したのは例の懐剣と財布だけだった。
「これが、その、氷を操った彼女の得物か」
柄尻に目の紋章を意匠している、それ以外には特徴のないものだった。
「アイヌの短刀ってわけでもなさそうだな」
「それはキミのだろう?」
小蒔はそうはいうが、あれとても氷を自在に操れたわけではない。興味の沸いた京一はなんとなく懐剣に手を伸ばし、剣を抜こうとした。
「……あれ?」
「どうした、京一?」
「抜けねえ」
別に留め金があるわけではない。だが実際にいくら力をいれても懐剣は鞘から抜けようとしなかった。続いて醍醐、小蒔が試してみるが結果は同じである。そして。
「……まあ」
小蒔に請われて試してみた葵が驚く。特に力を込めたわけでもないのに、懐剣はその刀身をさらしたのである。しかし、それだけである。緋勇が目撃したような蒼い閃光は生じず、また<力>も感じられなかった。
この出来事についての意見が出る前に高見沢が報告にやって来て、あとは有耶無耶になった。
ひとりきりにされてなんだか落ちつかない。しかし不思議と不快ではなかった。あの看護婦さんが安らぎを与えてくれた気がした。
思考が中断された。ノックの音とそれに続く低音の声が響く。
「入るよ」
現れたのは何とも言えない人だった。白衣を着ているからお医者さんだろう。あの看護婦さんも先生を呼んでくると言っていた。とはいえ、すんなりこの女性を「普通のお医者さん」であると思えなかった。いままで非日常を垣間見てきた私の何かが警告に近いものを発しているような、そんな気分である。
「どうかしたかい」
不機嫌そうな声が私の思考を再び破る。慌ててまぬけな対応をしてしまった。
「ど、どちらさまですか?」
「……ここの医者だよ」
「すっすいません」
ベッドの上で頭を下げかけた私は、お医者さんの後ろに見覚えのある男の人がいることにようやく気づいた。
「あ、あなたは! 無事だった……んで……」
まず、犠牲者がなかったことで喜びが先に立った。次に衝撃がよみがえる。彼は自力であの異形を退けたことを思い出したのだ。最後に湧いた不安、疑念が声を失わせた。
そんな私を変に思ったのか、一瞬彼は眉をひそめた。が、それは本当に一瞬のことだった。
「無事でよかった。あの時は何の手助けもできず悪かった。事態の急変について行けなくて」
頭を掻いて誤る彼を見て、急に恥ずかしくなった。あのあと、気絶した私をここに運んでくれたのはおそらく彼だろう。私は私の事情に巻き込んでしまっただけでなく、助けてくれた恩人を疑ってしまっていたのだ。
しかし彼はそんなことは気にした様子もなく、私にあるものを差し出した。
「はい、これ。大事なものなんだろう?」
それは私が欲してやまなかったもの。私の剣であり、盾であるもの。
「私の剣……!」
喜んで、ありがたく、渇望して受け取った。途端、意識が広がった。
「ありがとうございます、ありがとう……」
何故だか涙が出た。そんな私に彼は、どういたしまして、とやさしく微笑んでくれた。うれしかった。
「あの、差し支えなかったら、名前を教えてほしいんだけど……」
あくまで丁寧に。私に否はなかった。
「私は倉条夕魅那(そうじょう・ゆみな)といいます。中央区青蓮学院の一年です」
「俺は緋勇龍麻。新宿真神学園三年生。よろしく、倉条さん」
たか子先生に先導され、緋勇は彼女のいる病室を訪れた。部屋で最初に見た彼女はまず驚いて、というか圧倒されていた。まあ無理もない。始めてたか子先生を見て無感情でいることは困難だろうから。二、三言のやりとりがあって後、彼女は緋勇に気づき、視線を合わせた。戦いを目撃したり病院に担ぎ込んだりしたが、目をあわせたわけでもなく、また月下だったこともあって顔をはっきりと見ていなかった。
柔和そうな白皙の面、深い色合の黒髪は背中に隠れるほど長く……。
(あれ?)
彼女の瞳を見つめたまま、緋勇は眉をひそめる。それは彼女の髪とは異なり、蒼い輝きを放っていた。
(ハーフ……?)
出自が気になって彼女の言ったことを失念したが、不安そうな表情をしているので安心させることを口にした。
「無事でよかった。あの時は何の手助けもできず悪かった。事態の急変について行けなくて」
本当にこの娘は同一人物なのだろうか、内気そうに振る舞う彼女を見て一瞬そう思った。しかし思い当たるふしもある。戦っていた『彼女』はほんの逡巡の末、瓶の赤子を始末した。剣を収めた『彼女』はそれをみて激しく慟哭していた。明らかに人格の差異があった。おそらく剣がもたらす効果なのだろう。そういえば剣を預かっていたな、と彼女に剣を差し出す。
「はい、これ。大事なものなんだろう?」
「私の剣……!」
剣を受け取りながら、ひたすら礼を言う彼女。いい娘なんだな、と改めて思う。
「あの、差し支えなかったら、名前を教えてほしいんだけど……」
「私は倉条夕魅那(そうじょう・ゆみな)といいます。中央区青蓮学院の一年です」
「俺は緋勇龍麻。新宿真神学園三年生。よろしく、倉条さん」
よろしく。この言葉が引き金となって、彼女の心は内を向いてしまった。その姿勢が拒否を示しているのは明らかだった。
「あの……それは……」
他人を巻き込んだのがしこりを作っていた。自分がされて嫌な事は他人に行わない、夕魅那の信条である。こんな非日常にこれ以上関わらせていいはずがない……。
「……忘れてください。その方がいいです」
「それが、できないんだ」
「何故ですか?」
何の気負いもない緋勇の返事に困ったような、悲しんだような声で質す夕魅那。
「護りたいんだ、大切なものを。……宿星だからって言われた事もあるけど」
「宿星……?」
聞いた事はある言葉。確か、運命のようなものだったような。
「倉条さんは今年起こった妙な事件を知ってますか?」
唐突な問いに答えられない。しかし頭では解答を捜し出している。村正盗難・殺傷事件、大量の鴉が人を襲った事件、眠りに就いたまま死を迎える奇病、病院で起こった遺体盗難事件、カマイタチ事件、柳生家で起こった猟奇事件……。
「それらは俺や倉条さんのような『人ならざる力を持つ者』が起こしたものです」
「……」
知らなかった。しかし納得もいった。いまの夕魅那を取り巻く非現実と、それらは通じる所があった。
「そしてそれらを終わらせたのも<力>を持つ者……俺たちなんです」
それら出来事の裏にはひと言では言い表せない理由が、思いが存在した。緋勇が伝えなくても、なんとなく夕魅那にはわかった。そしてそれが決して楽しいものでなかったことも。
「仲間を、この街を護りたい……だから理不尽な<力>を行使する輩を見逃すのは……そう……いやなんだ」
それができる<力>もあるんだし、と緋勇は笑った。鬼道衆や菩薩眼、『黄龍の器』といった、深く宿星に関わる事柄はあえて省いた。説明が長くなるし、情報過多になるのも避けたかった。そしてなにより、彼女に遠慮をさせたくなかった。この娘の性格からして緋勇たちの背負う宿星の重さを知れば、おそらく助力を請わないだろう。かつて葵がそうしたように。
「でも……」
いまだ躊躇う夕魅那に緋勇はあることを思いつく。
「それじゃあねえ……」
そう呟いて、緋勇は忍び足でドアの方へと向かう。静かに、というゼスチャーを送り、ドアノブを持つ。見守る夕魅那とニヤニヤするたか子先生。
「彼らにも意見を聞いてみよう」
言うが早いかドアを開け放つ。三人程の雪崩が起きる。色は黒、白、ピンクと様々だ。その向こうに佇むふたりも見える。
呆気にとられた顔、ばつが悪そうな顔、困った顔などを一瞥し、やや人の悪い笑みを浮かべて紹介する。
「……まあ少々アクシデントもあったけど紹介します。彼らが仲間、です」
仲間。簡素な言い方にとても深い心が込められている、そう思えた。
「ひーちゃんてめぇ、いつから気づいてやがった!」
「廊下を歩いていたとき、かな」
「最初から、か。相変わらずかなわんな」
「ダーリンひどい〜」
「お前たち、待っておれといったろうに」
「ゴメンなさいたか子先生、ボク達は止めたんだけど京一が」
「嘘はだめよ、小蒔」
「そうだぜ小蒔。主犯はおとなしく縛につけって」
「京一も主犯だろう」
「醍醐! よけいなことを……」
なんて楽しそうなんだろう。眩しそうに彼らのやり取りを見ている夕魅那。
「……まあ愉快な会話はそれくらいにしておいて、意見を聞かせて欲しいんだけど」
明らかにわざとらしく、緋勇が混乱を収める。誰のせいだよ、などと抗議も聞こえたが。彼らがきちんと入室するのと同時にたか子先生は退出していった。
「改めて紹介します。仲間です」
改めて、というか初対面というか、とにかく向き合った。
強い<念>を発する棒状のものを入れた(おそらく木刀だろう)包みを持つ赤毛の青年、静かなる虎といった雰囲気を持つ偉丈夫、ある種の神々しさを纏った玲瓏たる美少女、強い意志を感じさせるボーイッシュな女の子、そして博愛の空気を持った看護婦さん……。
「倉条夕魅那といいます。中央区青蓮学院の一年です」
「オレは蓬莱寺京一……」
京一は言葉を途中で切り、夕魅那に視線を這わせた。なんだろう、何だか値踏みされている。居心地が悪くなり、夕魅那は身じろぎした。一年生ねぇ、と呟いて京一は仲間を顧みる。
「小蒔、うらやましいだろうなぁ」
「何がだよ」
いきなりの言葉に小蒔は困惑する。京一はニヤリと笑って、
「夕魅那ちゃんはまだ一年生だぜ? なのにもうおめえに圧勝してるじゃねえか」
「だから何の事だよ」
「胸囲だよ、胸囲」
しばしの静寂が場を支配する。緋勇は沈黙を守り、醍醐はそわそわしている。葵は表情でのみ困惑をたたえ、高見沢は相変わらずニコニコしていた。夕魅那は京一の観察の方向性を知ったため、顔を赤らめつつ掛け布団を胸元まで引き上げる。京一は無意味に勝ち誇り、そして小蒔は。
「必殺!」
右一閃! 京一は沈んだ。彼女は結果には全く気を払わず、「ゴメンね夕魅那ちゃん、バカ京一の事は気にしないで」などと笑いかけた。
「ボクは桜井小蒔。ひーちゃんとおんなじ真神学園の三年生。よろしく」
「俺は醍醐雄矢。同じく真神の三年だ。よろしく」
「わたしは美里葵。みんなと同じ真神学園の三年生です。よろしくね、倉条さん」
「わたしは〜、高見沢舞子です〜。よろしくね〜」
京一失神後はつつがなく自己紹介も終わった。
「おいおいひーちゃん、気絶しているオレをほっとくなんてそれでも親友か?」
「いや、なんか幸せそうだったし」
「フン、自業自得だよ。あんな失礼なことを言うなんて、ねえ夕魅那ちゃん」
「え、ええと、その」
「手をくだした本人がいうんじゃねえ……で、何を話し合うんだ?」
「いや、話し合いというより返事がほしいんだ、この場合」
「返事?」
何人かの疑問がハモった。
「彼女に力を貸す、そのことに異存ないって返事を」
夕魅那はどういう表情でいればいいのか判らなくなっていた。この人たちといると安心できる。でも私は凶事の渦中にいる。助けて欲しい気持ちと迷惑かけたくない気持ちがせめぎ合っていた。
「何をいまさら」「まったくだ」「そうだよ」「ええ」「いいよ〜」
即答である。
「まあ聞くまでもなかった……」
顧みて緋勇は口を閉ざした。今にも泣き出しそうな夕魅那がいた。両手で顔を伏せ、
「ありがとうございます、ありがとう……」
礼を繰り返していた。
次を読む
話数選択に戻る
SS選択に戻る
茶処 日ノ出屋 書庫に戻る
店先に戻る