さよならの前に 後編



 そして翌日――
(…雛乃はん、遅いなぁ…)
 浅草「花やしき」前で劉は雛乃を待っていた。
(まさかすっぽかされたとか…いや、そんなわけあらへん。雛乃はんがそないな事する訳がないわ。ほな、急用が出来たんかな…いや、ほなら連絡をしてくれるはずや。そやったら…まさか事故にでも遭うたんとちゃうやろか!?アカン、こないな所でボーっとしとる場合や無いで。今も雛乃はんはベッドの上でワイや雪乃はんの名前を呼びながら、生死の境を彷徨よっとるんや。ああ、スマン雛乃はん。ワイが…ワイが誘ったばかりに…今すぐ駆け付けるさかい、待っててや!行っくでー!)
 すっかり妄想モード爆裂の劉が駆け出そうとしたその時、
「劉様!お待たせしてしまいまして申し訳御座いません!」
 振り返ると、大きな荷物を手にした雛乃が、パタパタと走って来たところだった。
「ひ、雛乃はん!?あ…あ…よ、良かった…無事やったんやな…」
 息を弾ませる雛乃の肩を掴み、感涙にむせる劉。雛乃はそれを見て目をぱちくりさせる。
「あ、あの…劉様?どうかなさったんですか?」
「え?…あ、いや…な、何でもあらへんよ。ア…アハハ…アハハハハ…」
 流石に先程までの勝手な想像が恥ずかしくなり、笑って誤魔化す劉であった。
「そうですか…?あ、それより遅くなって申し訳ありません。お弁当を作るのに手間取ってしまいまして」
 そう言いながら、雛乃は手に持っていた風呂敷包みを劉に見せる。
「えッ!?ひ、雛乃はんがワイに弁当を作って来てくれはったんでっか?ワイの為に…」
 感動に打ち震える劉。その様子にクスクス笑いながら、
「そんなに期待されると困ってしまいます。いつも家で作っているような物しか持って来ていないのですから」
「そんな…ワイ、雛乃はんの手料理が食べれる思うただけで、めっちゃ嬉しいわぁ」
 言って再び感涙し、雛乃もまた、笑いを堪え切れずに肩を震わせる。
「…ほな、弁当は後の楽しみに取っとくとして…、雛乃はん、今日は来てくれてホンマおおきに」
「フフフッ、その様な事仰らないで下さい。私もとても楽しみにして参ったのですから」
「ホ、ホンマ!?(雛乃はん、ワイとのデートをそない楽しみに?)」
「ええ、私この辺の暖かい雰囲気がとても好きなんです。渋谷などは如何しても肌に合わなくて…」
「あ…そういう意味でっか…(…せやろなぁ…ハァ…)」
「どうかなさいましたか、劉様?」
 少しばかりブルーの入った劉の顔を、心配そうに覗き込んで雛乃が声を掛ける。
「あ、な、何でもあらへん。そ、それより雛乃はん、その劉様言うのは止めてくれへん?ほら、ワイの方が年下なんやし、なんや他人行儀でくすぐったいわ」
「あら、そうは参りませんわ。劉様は劉様ですもの。フフフッ、もっとも小蒔様にも同じ事を言われているのですけれど」
(でも…雛乃はん、アニキの事は『龍麻さん』て呼んどるんよなぁ…ハッ!?も、もしかして雛乃はん、アニキの事が好きなんでっか?アカン、それはアカン。なんでってアニキには小蒔はんが…って雛乃はんがそんな事知らんゆうワケあらへんし…そうか!そうだったんか…雛乃はんそれでも諦め切れんほどアニキの事を…アニキ、あんた罪な男やで。ああ、届かん想いを胸に秘め、明るく振舞う雛乃はん、なんて健気なんや…よっしゃ、ここはワイも一緒に泣いたる!さあ、ワイの胸に飛び込んでくるんや!)
「…あの…劉様?どうかなさったんですか?突然腕を広げて、涙など流されたりして」
 気が付くと、雛乃が劉の顔を覗き込み、心底不思議そうな表情で訊いてきた。
「あ…?アッ!ア…ハハ…あ、こ、これはな…そ、そやッ、へ、平和を改めて実感してしていたトコなんや」
 劉の苦し紛れの言い訳を聞いて、雛乃は柔らかに微笑んだ。
「そうですね…誰もが普通に暮らして行ける当たり前の世界。その様な事がこれほど幸せなもので在るなんて、ほんの一年前には考えた事もありませんでした。今私達がこうしていられるのもあの方のお陰なのでしょうね」
「(雛乃はん、やっぱアニキの事…ほな、せめて今日一日はワイがアニキの代わりにぎょうさん楽しませたるわ!)雛乃はん、ここでボーっとしとってもしゃあないわ!早よ遊びに行こ!」
 急に大声を出して歩き出した劉にきょとんとする雛乃だったが、すぐにクスクス笑いながら後に続いた。




「うわぁ!メッチャ美味そうや!」
 昼になり、雛乃の持って来た弁当の中身を見て、劉が歓声を上げる。
 中身は卵焼き・煮物・焼き魚等々ありふれてはいるが、家族を失った劉が求めて止まなかった物であった。すなわち家庭の味。
「美味い、美味いでぇ雛乃はん!」
「フフッ、お口に合って頂けたのなら光栄ですわ」
「ホンマに美味いわ。ワイ、こないに美味い料理食ったんはこの国来て初めてやねん」
「そんなに喜んで頂けるなんて、作った甲斐がありました。お魚に骨など残っておりませんか?」
「平気や、平気。ワイ歯が丈夫やからちっとぐらいの小骨は噛み砕いてしまうよって」
「良かった。本当はお魚を捌くのは姉様の方が上手なのですが、今日は如何しても私が自分で作りたかったものですから」
「え?」
「あ…い、いえ、何でも在りません」
 きょとんとして訊き返す劉に、雛乃は真っ赤になって俯いてしまった。
 ちなみに『とりあえず包丁を使ってみたい』と言う少々危ない理由で料理を始めた雪乃は、確かに肉や魚を捌くのは本職の料理人顔負けの腕前なのだが、味付けには全くこだわらないため普段は決して台所に立たせてはもらえない。
(雛乃はん、今なんて言うたんやろ?なんやえろう嬉しい事、言われた気ぃしたんやけどなぁ…?けど…赤くなった雛乃はん、メッチャ可愛いなぁ…)
 ポーッとなって雛乃を見つめていた劉は、知らず知らずの内にその言葉を口に出していた。
「…雛乃はん、ワイと一緒に中国行ってくれへん?」
 言ってしまってから、雛乃の顔が強張るのを目にしてハッとなる。
(あ、あれ?わ、ワイ何言うたんや、今?…確か雛乃はんの顔見とった内になんや幸せな気持ちなって来よって…え?ま、まさかワイ、一緒に中国行こ言うたんとちゃうか?ああああ!!な、なんちゅう事言うたんや!アホ!ワイのアホ!ワイでアホ!ああ、頭ん中パニックや!雛乃はんも固まっとるわ…ホンマ、ワイはなんちゅうドアホなんやぁ!!)
「ひ…雛乃はん…?」
 恐る恐る雛乃へ声を掛けてみる。と、急に雛乃が頭を下げて劉に言った。
「ごめんなさい!私…私そう言って下さるのはとても光栄だと思います。けれど私、貴方様と一緒に参る訳にはいかないんです!本当にごめんなさい!」
 心から申し訳なさそうに謝る雛乃に、劉は自分が口に出してしまった言葉を後悔せずにはいられなかった。
「…ア…アハハ!な、なんや雛乃はん、そないな事本気にせんといてぇな。ジョークやジョーク。関西弁を使う中国人はアメリカンジョークが好きやねん」
 既に自分でも何を言っているか分からない弁解をする劉。
「で、でも劉様…」
「い、いややなぁ…雛乃はん、そないな顔して…。も、もうこの話は止めや!さ、さッ、次何しよか!?」
 サッサと立ち上がって歩き出そうとする劉を、雛乃は複雑な表情で見守っていた。
 結局2人はその後気まずい思いをして過ごした。そして別れ際、
「…あ、あんな、雛乃はん。さっきは堪忍な。ホンマ気にせんといて。ほな」
 言って、劉はとぼとぼと帰路につこうとした。その時、
「ま…待って下さい、弦月様!!」
「え…?」
 突然名前で呼ばれ、ハッとして振り返る劉。
「…あ、あの…私…私、御爺様がおりますから、貴方様と一緒に参る訳にはいきません」
「え、いや…そらぁもうええって…」
「で、でも!この国で貴方様をお待ちする事は出来ます。ですから、もしも貴方様がこの国を好きなら、私を想って下さるのなら、何時までもお待ちします。何時かまた、この国へ、この東京(まち)へ戻って来て頂けますか?」
「え…?そ、それって…」
「…私、貴方様を心よりお慕い申し上げております…」
 それだけ言うと、雛乃はこれ以上無いというくらいに真っ赤になって俯いてしまった。
 それを見て、劉は一瞬頬を緩ませ、次の瞬間にはボロボロと涙をこぼして泣き始めた。
「え?あ、あの劉様?ど、どうなさったんですか?」
 流石に面食らっておろおろとする雛乃。しかし劉は、
「せ、せやかて…ワイ、ワイ、メッチャ嬉うて…」
 それを聞いてフッと微笑むと、しゃくりあげている劉の肩を抱き締めた。まるで母親が子供を優しく抱く様に。




 その1週間後、劉は故郷へ向け飛び立った。
 雛乃と2人だけの再会を約束して。










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