日ノ出屋の平穏で平和な非日常




「……………………」

目が覚める。
最近、日の出よりも若干早く目が覚める習慣がついてしまった。
元々寝起きが悪い方ではなかったのだが。ともあれ、本を手に階下へ降りる。
今朝の本は『輸送と気候』だ。まあ革新的な内容ではないが、暇つぶしにはなる。
1階の酒場のいつもの席に座り、本を開く。

「ふぬりゃわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

いつもの音が聞こえてきた。
いや、音、ではなく声と言うべきか?

「はぬりゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

あの声に起こされるのを避けるために早く目が覚めるようになったのだが、今ではあの声を聞きながら本を読むのが朝の習慣になってしまった。

「よう、今朝も早いな」

ここ、日ノ出屋の主コウ・ヒザクラが声をかけてくる。
かつては冒険者であったらしく、その何気ない動作の中にも隙というものが伺えない。
気のいい男で、私達も駆け出しの頃は色々と世話になったものだ。いや、今なお世話になっている、のだな。

「いつものでいいか?」
「ああ、頼む」

沸騰させてから10秒冷ました湯で入れた紅茶に黒ジャムを1さじ。プリシスにいた頃から、私の朝はこれで始まる。
紅茶の葉の銘には詳しくないが、この店の葉はなかなか良いものを使っているようだ。私のような、味にこだわらない者でも分かる程度には。

「むう、良い汗をかいた」

全身から湯気を立ち上らせて、半裸のドワーフが店内に入ってくる。筋肉に覆われた赤銅色の短躯にはくまなくびっしりと汗をかいている。
私の古い仲間の一人、マイリーの高司祭ドンだ。
その実力は既にかの高名な『剣の姫』ジェニの側近ぐらいはつとまるほどのものであるはずだが、今なおこうして冒険者稼業に精を出している。
まあ、彼に言わせれば勇者足る資質を持つあの娘に自覚を促すためだということになるが……はてさて。

「おお、今朝も早いな、シーズィ殿」
「お前ほどじゃない」

いつものやり取りをいつものように交わし、ドンが行水のために勝手口の方に行くのを見るとは無しに見送る。
階段の方から声と物音が聞こえてくる。どうやら、皆起きてきたようだ。

「五月蝿いのだ〜……」

寝ぼけ眼をこすりながら降りてきたのはイリーナ。
まだ顔立ちもあどけない少女だが、そのうちに秘めた力は巨人族のものだ。言い過ぎではなく。


「おはよう」
「シーズィ、いつも早いのだ。ドンは〜?」
「勝手口で汗を流しているのではないかな」

本から視線を上げずにイリーナに応える。

「アリガト〜。起こされた礼をしてくるのだ〜……ふふふ〜」

礼をするのになんで両手持ちのモールが必要なのかな、と思っていた頃も、今となっては懐かしい。
勝手口の方から聞こえてくる、鈍器のようなもので肉塊を叩くような音を気にせず本を読んでいると、また声をかけられた。

「最近、毎日のように本を読んでいるな。大した勉強量だ」
「それこそ毎日絵を描いているお前ほどじゃあないさ」

挨拶代わりの軽口とも言えぬ言葉の応酬に、苦笑と共に私の向かい側に腰掛けたのはボズ。ボズ・ウェッジ。

「俺の絵は好きでやっていることさ。お前のそれとは違う」
「違わんさ。私とて好きで学んでいるだけだ」
「そうか?」

真剣味を帯びた口調に視線を上げると、深い色の瞳に射られた。
この男がこの目をする時は、私も平静を装うのにいくばくかの努力が必要だ。
記憶を失っているという背景があるからだろうか、ボズの瞳は時としてアスナート先生以上に深く食い込んでくる。

「……そうさ。好きで読んでいる以外に、理由など無い」
「ならば良いがね。来るべき時のために力を貯えているのなら、俺の力も計算に入れておけよ」

それには応えず、肩を竦める。
ボズは私の肩を軽く叩いて席を立ち、食事を取りに行った。
日ノ出屋の1階の酒場には宿泊客以外にも食事を取るために訪れる客が多い。
一つにはここリファールでは日ノ出屋でしか食べられない松茸の影響もあるのだろうか。
喧騒の中、作ったように明るい声が私を呼ぶ。

「お客様、ご注文はお決まりでしょうかぁ?」
「……わざわざ聞きに来なくても決まれば呼ぶぞ、エリア」
「あんだよ、こっちは忙しいんだから早く決めろよなー」

日ノ出屋の制服(店主の趣味としか思えない、少々煽情的なもの)に身を包んだエリア・ラークスが、トレーをぷらぷらさせながらごちた。
エリアも、今ではリファールの魔術師ギルドの導師位を所持しているのみならず、識者としては西部諸国でも有数の知識を有しているのだが……何故この店でのバイトを続けているのか、時々疑問に思う。
もっとも、それは当人も同様のようだが、なんだかんだとウェイトレスという仕事を楽しんでいるフシもある。

「早く決めろよー。ただでさえお前はテーブル1つ占拠してるんだからさー」
「ああ、わかったわかった。じゃあトーストに紅茶のお代わり、それに海草サラダを頼む」
「あいよ。マスター、モーニングワン、海草サラダワン入りまーす♪」

楽しそうとしか思えないエリアの声を後に、私は席を立った。
持ってきた本を読み終わってしまったので、別の本を取りに自室へ一旦戻ることにしたのだ。
階段を昇ると、奇妙な人物に遭遇した。
何がどう奇妙かと言えば、廊下に立ったままでフラ〜〜〜〜〜と状態を左右にゆらゆらと揺らめかせている。

「…………おい、レダ」

しばらく眺めているのも一興かとも思ったが、流石に仲間に対してその仕打ちはあまりだし、何よりも通行の邪魔なので私はその人物の名を呼んだ。

「起きろ、レダ。廊下で立ったまま寝るんじゃない」
「あ……しーずぃ、なんでわたしのへやにいるの……?」
「おい」
「だめよぉ、あなたにはきちんとおもいびとがいるでしょぉ……」
「聞け、人の話を」
「ほへ……? あら、やだ、こころうかじゃない」
「部屋に戻って寝るか下に行って朝食を摂るか、きちんとしろ」

普段は怜悧とも言うべき利発な彼女だが、どうも寝起きは平均を大きく下回る反応力しか持たなくなる。
危なっかしい足取りで階段を降りるレダを見送って、自室に入って本を取る。
机の上に置いてあった本を取った時、ふと手が触れて小物を入れてある皿が傾いてしまった。

「お、っと……!」

机から落ちそうになったそれを慌てて掴む。
我ながら良い反応だった。

「…………別に、こだわりがある訳ではないが、な」

そう、別にこの品にこだわりがある訳ではないが、今壊れてしまってはいろいろと困る気がする。
何故かは分からないが……願懸け?馬鹿な。
そう思いつつも、その品を上着のポケットに落とし込んで部屋を出る。

「あ! シーズィ!」

部屋を出ると同時に、私を元気な声が出迎えた。
明るい栗色の髪、もっと明るい翠色の瞳、そして先端が少し尖った耳。
イルゼ・マリスンが、今日はバイトは休みなのか制服ではなく私服でそこに立っていた。

「な、何だ、イルゼ。どうした?」

何故か動揺した内心を隠すために私はまず質問を浴びせ掛けた。

「うん、なんかね、マスターがあたし達に仕事がある、って」
「仕事か。それはどんな?」
「なんかちょっと複雑な仕事っぽくて……取り敢えずシーズィが来てから、もう一回説明し直すって。いこ!」
「あ、ああ」

イルゼの声に引かれるように、私は歩き出した。
ポケットの中の、水晶で出来た鈴のイヤリングがコロンと転がった感触がした。






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