繋いだこの手を




 糸のように細い雨が、さあっという音を立てて間断なく足下に降り注いでいる。街は既に夜の気配を漂わせ、けぶるような雨の中を家路へ急ぐ人の姿もまばらになってきた。辺りの建物は、時折吹く風に水滴があおられて中に入るのを避けるために窓を閉じているが、その隙間からはあたたかな光が路上にこぼれおちている。
 ひとつの建物の軒先に、少女が二人、途方に暮れたように灰色に曇った空を見上げて立っていた。年の頃は二人とも十代半ばか後半というところだろうか、少なくとも成人には達しているように見える。
「…やまないねー」
 二人のうち年かさの方の少女が、その栗色の髪を乱暴にかきあげて、幾度繰り返したか分からない台詞をため息混じりに呟いた。その言葉に、もう一人の少女は多少困惑したような様子を見せつつ、そうですね、と控え目な口調で答える。
 彼女たちが軒先で雨宿りしている建物はこのあたりで評判の食堂である。二人が買い物の帰りにこの店に入り、夕食に舌鼓を打っている間に、街は柔らかな雨で覆われてしまったのだ。
「ほんと、ごめんね。ボクが夕飯食べて帰ろうなんて言ったばっかりに、リュカにまで迷惑かけちゃってさー」
 申し訳なさそうに言うその言葉に、リュカと呼ばれた年下の少女は慌てた様子でかぶりを振る。
「そんな、ラルファさんが謝ることじゃないですから。それに、ここのお料理すごく美味しくて、わたしも楽しかったですし」
「うん、まあ、そう言ってくれるとほっとするんだけどね」
 リュカの言葉に、素直に微笑んだ。しかし彼女がその小さな手に白い息を吹きかけている姿に、やはり何となく申し訳なく思ってしまう。
 店に入る前にどことなく雲行きがあやしいことに気付いてはいたのだが、大丈夫だろうと思い、半ば強引に少女を食事に誘った。食事の最中に食器の触れ合う音に混じった微かな雨音に気付いた時は既に遅かった。突然の雨ゆえに生憎どちらも傘を持っておらず、やむなく店先で雨宿りすることになったのだ。だがすぐにやむだろうという目論みは外れ、かれこれ半時間ばかりもここに立っている。今更店の中に戻る気にもなれないが、厚着をしてはいるものの初冬の外気はやはり肌寒く、このままでは風邪をひいてしまいそうだった。
「…あのさ、リュカ、今日は神殿に戻らなくていいんだよね?」
 ふと思い付いてそう尋ねると、友人の唐突な言葉に、少女は不思議そうにその瞳をしばたたかせた。
「はい。この後日之出屋さんにうかがう予定でしたから、外泊すると言ってありますけど…」
 日之出屋とは、彼女たちが贔屓にしている店の名である。酒場と宿屋の両方の機能を兼ね備え、そこを訪れる冒険者たちに仕事の斡旋もする、いわゆる「冒険者の店」だ。二人はそこで知り合い、共に冒険をする仲間となった。また彼女たちの仲間の大半は仕事のない折はそこで寝起きしており、常に誰かしら知った顔がある。そのためラルファも特に用事がなくとも顔を出したり、また時にはそのまま泊まることもあった。今日は買い物に出たついでに日之出屋をのぞいて、帰る時間を気にせずのんびり話でもしようかということになっていたのだ。
 少女はしばらく空をにらみつけ、色々と考えていたようだが、ややあって、
「あのさ…もし、リュカさえよければなんだけど」
「はい?」
「…ボクんとこに行く?」
 思いがけない提案に、リュカは、え、と呟いて彼女の顔を見上げた。その視線に気付いて、ラルファは半ば困ったような笑みを浮かべると、
「はっきり言って何もないんだけどね。ただここからなら日之出屋に行くよりはずっと近いし、雨ぐらいなら凌げるから」
「えと、でも、ラルファさんのお家って…」
 躊躇いがちな口調に、少女は相手の疑問を読み取った。そしていつものように快活に笑い、
「家って言っても実家じゃないよ。ボク、一応一人で暮らしてる場所あるから」
 ラルファはこのリファールの出身である。だが、しばらく前に家を飛び出したことは、仲間たちには出会った時に説明した。「家には戻らない」という言葉どおり、今も家族に居所がばれないよう注意しつつ、友人宅を転々としているのだ。その彼女から家に誘われたのだから、事情を知らなければ戸惑いもするだろう。
「え…一人で、ですか?」
 おそらく初耳ゆえだろう、彼女は鸚鵡返しにそう問うてきた。その小さく首をかしげた姿が可愛くて、ラルファは頬が緩むのを感じた。そういえば、皆にはまだ話してなかったもんなー。リュカが知らないのも当然かあ。
「うん。まあ、あんまり戻ることないから、そんなに物もないんだけど。ちょっと走ればつくから、リュカさえよければ。…来る?」
「あ、はい!…あの、ラルファさんさえよければ」
 勢いよく頷いた後、慌てたように付け加えた遠慮がちな台詞に、ラルファは思わず微苦笑を浮かべた。
 少女の言う「家」とは、街から少し外れた森の入り口に建った木造の質素な小屋のことであった。既に辺りには夜の帳が下り、葉の落ちた木々は黒々とした影絵となってその鋭い枝で空を貫いている。森へと続く道は深い闇に閉ざされており、背後にそびえる森の圧倒的な存在感は、霧のような細い雨に濡れそぼって立つ彼女の小さな城を、実際よりもずっと心細く、ちっぽけに感じさせた。
「はい、これで拭いて」
 火の気のない小屋の中では風雨にさらされることはないものの、外気とそれほど変わらないひんやりとした空気が濡れた体を包み込む。興味深そうに周囲を見回す少女に、ラルファは部屋の隅の箱からひっぱりだした大きめのタオルを放った。
「あ、はい」
 リュカが頷いたのを確認すると、微笑みを浮かべ、自分も頭からタオルをかぶったまま、ランタンから小さな暖炉に火種を移し始める。生真面目に作業を続けるその横顔をしばらく見つめた後、濡れた体を拭くのも忘れて、少女はもう一度室内をぐるりと見回した。
 それほど広くない筈の空間は、しかし置かれている物の少なさで、あまり狭く映らない。この部屋の規模と小さな暖炉、申し訳程度に部屋を分けているついたての向こうにある台所の大きさからすると、ここは元々仮住まいとして使われていたのであろう。かろうじて家具と呼べるものはいかにも寝心地の悪そうな質素なベッドがひとつに、テーブルと椅子がひとつずつあるだけだ。椅子にしても切り株に少し手を加えただけのものであるし、テーブルにいたっては長さがそろっていないのか、足の下には平らな小石がいくつか置かれ、高さを調節されている。上を見上げると、何かを引っ掛けるのだろう、丁度天井を二つに分けるようにして部屋の端から端まで擦り切れたロープが渡されていた。
「あれっ、駄目だよちゃんと拭かないとーっ」
 暖炉に火を入れ終わった少女は、自分が渡したタオルを抱えたまま、不思議そうな面もちで視線を巡らせているリュカの姿をみとめて呆れたようにそう言った。
「もー。早くしないと風邪ひいちゃうよー!?」
 かぶったままだったタオルを外し、まだ少し湿った髪をかきあげながら大股に彼女の方へ歩み寄る。
「え、…あ、はい。でも──きゃっ!?」
 何か言いかけたその言葉を聞き終えようともせず、ラルファは水気を吸って少し重くなった自分のタオルを彼女に被せ、わしゃわしゃと乱暴にその髪を拭い始めた。
「リュカはボクより髪長いんだから、その分乾くの時間かかるんだからね?きちんと拭いておかないと風邪ひいちゃうんだからさーっ」
「あ、は、はい〜。ありがとうございます〜」
 タオルの中で首を前後に揺らされて、多少ふらつきながら言うリュカの様子に満足そうな笑みを浮かべると、彼女の髪をぼさぼさにしたまま、再び部屋の隅の木箱のまえにしゃがみこんだ。
「うー、やっぱり冬物は全然置いてないなー」
 そんなことを呟きながら、やがて何着かの衣服を手に持って戻り、中の一枚を少女の方に放る。ふわりと宙に舞った淡い色の布を受け止め、広げて見てから思わず瞬きをした。
「それくらいしかリュカが着られそうなのってなくってさ。でもまあ、それならパジャマ代わりになると思うから。風邪ひいちゃうから、早く着替えるんだよー」
「あ、あの、でも」
 明るく言う友人と、手に持った着替えとを困惑したように交互に見つめる。その様子に気付いたのか、ラルファは小さく首をかしげて、
「ん?」
「あ、あの…これだけ、ですか?えと、他に何か…」
「うん、ここには着替え殆ど置いてなくて。あっても夏物ばっかりだからさ」
 躊躇いがちに問うリュカに、あっさりとそう返した。
「まあ、それでも薄いと思うけど、布団にくるまれば、一晩くらい何とかなるからさ。…ともかく、早く着替えて!風邪ひいちゃうよ?」
「えっと……」
「その神官服も早く干さないと、明日までに乾かなかったら困るでしょ?ほら、さっさと着替えた着替えた!」
 それでも何か言おうと口を開いたが、目の前で濡れた衣服を思い切りよく脱ぎ捨てていくラルファの姿に、諦めた様子で着替えにかかった。
「あ、あの、着替え終わりましたけど……」
 ややあって、おずおずとした声が背後からかけられ、ラルファは濡れた衣服を畳む手を止めて振り返る。
「…あ、よかった、ちゃんとパジャマ代わりになりそうだね」
 着替え終わったリュカを見て笑顔でそう言ったが、言われた当人は頬を染めて俯いている。
「…え、えっと…その…」
「うん、でも可愛いよ。似合う似合う」
 その言葉にリュカはもう一度恥ずかしそうに自分の姿を見下ろした。渡されたのは男物のシャツで、確かに彼女には随分大きい。男性の寸法に合わせたシャツの肩幅は少女の華奢な体には大きく、その位置は彼女の肘近くまでずれ落ち、袖口からは細い指先がわずかにのぞくばかりである。首回りも緩く開いており、ボタンを一番上までかけてもその白く、滑らかな肌が鎖骨の辺りまで露わになっていた。裾はその腿の大半を隠して、形の良い膝のすぐ上までその長さはあるが、それでもいつも踝まである神官衣に身を包んでいる少女には短すぎるらしく、それ以上伸びない裾の布地をしきりに指で引っ張っている。
「まあ、それ貰い物だから、ボクでも大きいしね。でも、パジャマには丁度いいでしょ」
 にこにこと笑って言うラルファ自身、ショートパンツの上に着ている丸首のシャツはぶかぶかで、同じように男物のようだった。天井に張った洗濯ロープに濡れた衣服を吊している彼女に、少女は微笑を浮かべて他意なく、
「ラルファさんって、本当にお友達多いですね」
「…え?何で?」
 唐突な台詞に瞬きを返すと、少女は、だって、と微笑したまま、
「よく『友達に貰った』とか言ってるから。お洋服とか、小物とか」
「…あー…そっか」
 頷いた後、しかし少女はどこか寂しそうな笑顔を浮かべて、
「んー、でも…それを貰ったのは、友達…じゃ、ないんだな。と言うか、『友達』と言えるのかどうか」
 正確には、「『友達』だとは言い表したくない」のだ。だが、その本音を告げられるほど、今まで誰かに己の気持ちを教えたことはなかった。
「…え?」
「んーとね、幼馴染みのお兄ちゃんに貰ったんだ。貰ったというか、奪ったというか。…今は、…ボクのお姉ちゃんの旦那さんになった人なんだけど、…ね」
 ぱんぱん、と干した衣服の皺を引っ張って伸ばしつつ、いつもより少しトーンの落ちた声で答える。だが不思議そうに自分を見つめているリュカに気付くと、すぐに明るい笑顔を頬に押し上げて、
「ほらほら、いいから布団にくるまって火にあたりなよー。そんなカッコで布団の外いたら、体冷えきっちゃうよっ」
「あ、はい」
 ラルファはテーブルと椅子を部屋の隅まで持って行き、床に入ったまま暖炉にあたれる位置までベッドをひきずって移動させた。そしてまだひんやりとした夜具の中にリュカが潜り込んだのを確認すると、ついたての向こうの台所に消えた。
「はい、これ飲んで。少しは温まると思うからさ」
 ややあって、温かな湯気を立ち上らせているカップを両手にひとつずつ持ち、戻ってくる。
「あ、ありがとうございます」
 少女が礼を言って差し出された飲み物を受け取ると、ラルファは何も言わず微笑を浮かべ、それから掛け布団をめくってリュカの隣に潜り込んだ。元々小さなベッドではあるから、自然二人の肩は寄り添う形となる。触れた肩先から布地を通して温もりが伝わって、不思議とあまり寒さを感じなかった。
 ふと、傍らにいる年下の友人に視線を向ける。彼女はラルファのそんな様子に気づかず、その小さな両の手でカップを包み込み、熱い液体を冷まそうと一心に息を吹きかけていた。少女の豊かな髪は今は多少の湿気を含んで、緩やかにその細い肩の上に流れている。形のよい唇から頤にかけての線は細く、触れただけでくずれてしまいそうだ。今は伏せがちな瞼は髪と同じ色の睫で縁取られ、その上では光の粒子が踊り、昼間よりもかえって濃い翳をその頬に落としていた。
「…どうかされたんですか?」
 不思議そうな声音で問われて、初めて自分が見惚れていたことに気づく。いつのまにか少女はこちらに顔を向けて、小さく首を傾げてラルファを見つめていた。
「あ、ううん、何でもないんだ」
 何とはない面映ゆさを感じつつ、慌てて首を振る。
「ただ、その…なんか、こういうのって、久しぶりだなあと思って」
「久しぶり、ですか?」
 ぽつりと付け加えた言葉に、リュカはますます不思議そうな色を瞳に浮かべる。そんな彼女に頷きを返した後、微笑を浮かべて、
「…昔ね、お姉ちゃんとよくこうやって夜更ししたんだ。二人で同じベッドに潜り込んでさ。飲み物飲んだりしながら、他愛ない話しながら、ずっと起きてた」
 言ってから、懐かしそうに目を細める。飲み物を差し出してくれる、優しい手。妹の話に頷きながら浮かべてくれる穏やかな微笑み。まるで昨日のことのように鮮やかに蘇るその姉妹二人だけの温かな思い出は、しかし最早戻ることのできない時間であった。
「…どんな方なんですか?ラルファさんのお姉さんって」
 相変わらずの控えめな口調で、少女は訊ねる。
「んー?そうだなー…」
 しばらく考えるようにして、視線を宙にさまよわせる。湯気をたてるミルクをひと口含んでから、
「……綺麗で、優しくて、清楚で、真面目で。……ボクの、自慢のお姉ちゃんなんだ」
 ややあってそう答えると、リュカは、そうですか、と呟いて微笑した。その表情を目にして、ラルファは僅かに目を細めると、
「…リュカ、ちょっと似てるよ、お姉ちゃんに」
「…え」
 戸惑ったように瞬きを返す少女に、くすくすっと笑いを浮かべ、
「なんていうか、ときどき、お姉ちゃんに似てるなあって思うときあるよ。綺麗で、女らしくて、優しくて。…男の人がほっとかなそうなところも一緒だしねっ」
「え?えと、あの…」
 あまりに真っ直ぐな賛辞に、リュカの白い頬がさっと朱に染まる。そんな彼女の様子を、いとおしいような気持ちで、くすくす笑いながら見つめていた。
「でーもさ。ボクいっつもそういうお姉ちゃんに言い寄る男の人の邪魔してたんだ。『お姉ちゃんはずっとボクと一緒にいるんだ!』とか言ってさ」
 事実、姉の美しさは人目をひき、恋心を抱く男性も少なくなかった。しかし、姉はそのような視線の先に自分がいるのを自覚しながらも、変わらない微笑みを浮かべて、いつも傍らにいてくれた。そのことが当たり前過ぎて、いつか姉が自分とは違う場所に立つという考えなど、ラルファの頭をちらともよぎらなかったのだ。
「あははっ。……ラルファさん、お姉さんのこと、大好きなんですね」
 無邪気な笑顔で言う少女の台詞に、微かに胸の奥が軋むのを感じる。
「…うん、…大好き、だよ。……お姉ちゃんは、ボクの憧れだったし、ね」
 答える声に僅かににじんだ翳りの色に気づいて、リュカの顔に不思議そうな、心配そうな表情が浮かぶ。しかしすぐに気を取り直したのか、明るい口調で、
「でも、それなら、ラルファさんはわたしの憧れのひとですよ」
 いたずらっぽく瞳をきらめかせて言う少女に、ラルファは思わず、え、と呟いた。
「ラルファさん、とてもお友達、多いじゃないですか。どんなひととでもすごく自然に接することが出来て、どんなひとにでもすっと近づくことが出来てしまう。まるで、お友達を作る才能があるみたいです」
「えーっ?そんなことないよーっ」
 思いがけないリュカの台詞に、慌てて言葉を遮る。
「ボクからすれば、リュカのがよっぽど羨ましいよ。…女の子らしくて、可愛くて、誰からも好かれて、さ」
 本心からの言葉だったが、リュカは赤面して俯き、そんなことないと思いますけど、と、小さな声で口中で呟くようにして言った。
「そんなことあるよ。優しいし、可愛いし、女の子らしいしさ。皆に好かれるのも分かるもん」
 彼女は、本当に気づいていないのだろうか。自分は決してこうはなれないと分かってはいても、いや、分かっているからこそ、この小さな少女に憧れてやまない気持ちに。そんなことを考えながら、自分の言葉にますます顔を赤くして俯くリュカに微笑を返し、付け加える。
「…ボクも、お姉ちゃんややリュカみたいだったら、…ちょっと違ったのかなーって」
 つれづれに、時々考えてみることがある。もしも、姉やこの少女のようだったら。…そうすれば、自分の初恋は、あんなにも無残な散り方をしなくてもよかったのだろうか。そうすれば、少しはあの恋も望みがあったのだろうか──。
 いつもと変わらぬ明るい声だったが、敏感な少女は何かしら感じ取ったのかもしれない。その白く細い指をラルファの手の甲にそっと重ね、澄んだ瞳で真っ直ぐに友の顔を見上げた。雨に濡れて体が冷え切ったせいかその指先はひんやりとしている。
「ラルファさん、ラルファさんはとても素敵な女性ですよ?」
 静かな、しかし真剣な響きに、一瞬返す言葉をなくした。困惑したように見つめ返すと、リュカはふっと頬をほころばせ、
「……わたしね、ラルファさんを初めて見たときのこと、覚えてます。日之出屋さんで、楽しげに話をしてた、ラルファさんのことを」
「…え…」
「わたしね、びっくりしたんですよ。後で、ラルファさんがあの時ほとんどの人と初対面だって聞いて。…こんな風に、すっと人の輪の中に溶け込める人、いるんだなって」
 それは違う、という思いがすぐにこみあげてくる。そして考えるより前に、実際にその言葉が口をついて出ていた。しかしリュカは相変わらずの柔らかな微笑を浮かべたまま、首を傾げて、
「違うんですか?」
「違うよ。皆は、ボクが話しかけて、懐いてくから、相手にしてくれてるだけだよ。懐いてくる野良犬を何となく可愛がっちゃうみたいに、優しくしてくれてるだけだよっ」
 焦ったような、困ったような口調でそう否定した。リュカは自分をいい方に誤解しすぎてる。沢山の人の中に溶け込めるのは、何とか人の目を引こうと努力するからだ。人々の視線がいつも姉に集まるため、必死に自分を見てもらおうと努力した結果身についた術に過ぎなかった。だが、自分が一生懸命努力してようやく誰かの傍にいられるのに、リュカはただ微笑んでその場にいるだけで、人々に愛される。そのことに気づいたとき胸を占めたどうしようもない敗北感と嫉妬にも似た羨望を、きっとこの少女は知らない。
 どうして、リュカはボクを羨ましいなんて思うんだろう。リュカはボクが欲しいものは何だって持ってるのに。ボクが努力して得たものを、リュカは造作もなく手に入れることができる。そう、まるで──お姉ちゃんのように。
「そうなんですか?でも、わたしはそうは思いませんでしたよ」
 優しい眼差しで真っ直ぐにラルファの瞳を見つめたまま、リュカは何の衒いもない口調で続ける。
「なんとなく気後れしてたわたしに声をかけてくれたこと、まだ覚えてます。…嬉しかった。こんな人とお友達になれたらいいな、なりたいなって、思ったんです」
 そうして、少し照れたような、恥ずかしそうな笑みを浮かべて、
「……今は、なれたんじゃないかなって、勝手に思ってますけど」
 その言葉に、胸が締め付けられる。どうしてこの少女は、こんな風に素直に人を想うことが出来るのだろう。彼女の瞳はどこまでも深く澄んでいて、見つめているとときどき、湖底を覗きこんだような眩暈におそわれることがある。
「勝手になんかじゃないよっ。…ボクにとっても、リュカは大切な友達だよ」
 勢い込んで言う少女に、リュカは、ありがとうございます、と、穏やかに微笑んだ。
 どちらからともなく飲み物を口に運び、そこで会話が途切れた。部屋の中には、湿気を含んだ重たい空気が充満している。時折ぱちぱちと暖炉の中で薪がはぜる以外は、音といえば、小屋の屋根にぶつかって砕ける雨音が微かに耳に届くだけだ。二人は片手をお互いの手の中に預けたまま、温くなったミルクを啜った。ラルファの体温が伝わって、冷えていたリュカの指先はすっかり温かくなっていた。
「…だけどさー、…いつまで、こうしてられるのかなー」
 ミルクを飲み干したカップをテーブルに置き、沈黙で凝りかけた空気を破るように呟いたラルファの声は、殊更に大きく、虚ろに響く。
「…?」
 その言葉に、リュカはカップに口をつけたまま、目だけ上げて不思議そうに、また先を促すようにこちらを見た。その視線に気づいて、だってさ、と明るい口調で続ける。
「所詮懐いてきても野良犬はは野良犬だもーん。いずれちゃんとした飼い犬が見つかったら皆構ってくれなくなっちゃうんだもんなー」
「そんな……そんなこと、ないと思い、ます……」
 声の明るさとは裏腹の、あまりに哀しい言葉に、リュカは急いで首を左右に振った。
「そう思う?でも、そうなんだよ」
 どこか寂しげな、しかし何故か確信に満ちた笑顔で、ラルファはそう言う。
「ずっと一緒だと思っててもさ。いつかいなくなっちゃうもんなんだよー。当たり前みたいに一緒にいてもさ、皆…気づけばボクを置いて、どっかに行っちゃうんだ。お姉ちゃんも、…幼なじみのお兄ちゃんも。ボク、ずっと一緒にいられるって錯覚してたのに、気づけばあの二人、くっついちゃってるしさー」
 そして、僅かに目を伏せる。ずっと、何も変わらないと思っていた。「大好きなお姉ちゃん」も、「大好きな幼なじみのお兄ちゃん」も、いつまでも自分と同じ場所で、同じように笑っていてくれると思っていた。だがふと気づいたとき、二人は手を取り合って、二人にしか行けない場所へ、自分を置いて行ってしまっていたのだ。彼らの頭上に輝く太陽は、決してラルファを照らしはしない。あまりのことに立ちすくんだまま、しかし前へ進むことも出来ず、ただ彼女は逃げ出した。
「ラルファさん…」
 気遣わしげに己の名を呼ぶ友に、ラルファはいつもの明るい笑顔を返した。
「あははっ、やだなリュカ、そんな顔しないでよーっ」
「……」
「まー、会者定離って言葉もあるしねー。大丈夫だよ、いつか皆いなくなったって、ボクは強いから強く生きてくもーん」
 誤魔化すようにそう言ったが、リュカは相変わらず哀しそうな瞳で見上げている。その表情に少し戸惑って、
「…ど、どしたの?」
 困ったように問うとリュカは黙ったまま、片手に持っていたカップを、ことん、とテーブルの上に置いた。それから、ラルファの空いている方の袖をそっと掴む。
「……リュカ?」
「人は永遠に一緒にはいられないかもしれないですけど……」
 呟くような、しかししっかりとした声で、少女は言葉を紡ぎだす。
「……でも、わたし、ラルファさんに大切な友達だって言ってもらえて、嬉しかったです。ずっと、ラルファさんの友達でいたいって、思いました。ずっと……ずっと、一緒にいたいって思いました」
 そして、真摯な色を浮かべた瞳で真っ直ぐに見つめ、
「……わたしとラルファさん、ずっと一緒にはいられないんですか?」
「……」
 あまりに素直な、純粋すぎるほど純粋な年下の少女の言葉に、ラルファはどう答えたものか、返事に窮した。困惑したように視線を落として、
「…ボクだってできればずっと一緒にいたいけどさ。だけど……」
 そこで、思わず口をつぐむ。そして一瞬哀しそうに目を伏せたが、すぐににぱっと笑って、
「だけどほら、そんなことリュカの旦那さんが許すわけないじゃんっ?」
「えっ…」
 思いがけない答えに、少女は瞬きを返した後、
「ら、ラルファさん!旦那さんって……」
 慌てたようなその様子に、いたずらっぽい笑みを返すと、
「だーって、いつかリュカだって結婚するんでしょ?そしたらリュカの故郷はリファールじゃないんだから、ほら、やっぱ一緒にはいられないよー」
「そ、そんなこと……。だって、それならわたしがリファールに移り住めばいいだけですもん!」
 からかうような言葉に一瞬言いよどんだが、すぐにむきになってそう返した。その一生懸命な姿を見ていると、どうしても口許に笑みが浮かぶ。
「ありがと、その言葉だけで嬉しいよ」
 絶対にそんなことは無理だろうけど、と心の中で付け加えつつも、素直にそう礼を言った。すると拗ねたような顔をしていたリュカは、すっと真剣な表情を浮かべ、
「……わたし、ずっと一緒にいたいって思って、そうしようと努力すれば、ずっと一緒にいられるんじゃないかって、思うんです」
「…え…?」
 不思議そうにそう呟くと、少女は優しく微笑する。柔和な光が、その眼底に仄かに輝いていた。
「だって、わたしラルファさんといつまでもお友達でいたいから……。ずっと一緒にいたいです」
「……」
 何も言えず、ただ彼女を見つめる。きっと本人は気づいていないのだろう。彼女の真っ直ぐな言葉は、時にどんなに飾った慰めの言葉よりもぐっと胸をつく。リュカは、決して嘘を吐かない。彼女の持つ信仰のゆえもあるだろうが、それ以前に彼女自身が決して嘘を吐ける性格ではないのだ。だからこそ、その言葉はいつも誠実さに溢れている。それは彼女が持つ稀有な性質であり、また人に好かれる理由のひとつでもあるだろう。
「…うん。そうだね。ボクも、ずっと友達でいたいな」
 素直にその言葉が口をついて出た。それを聞いてリュカの顔がぱっとほころび、喜びでその白い頬が紅潮する。ラルファの袖を握る手にきゅっと力がこもった。そんな彼女に、我知らず微笑が浮かぶ。
「…じゃ、そろそろ寝ようか?」
「あ、そうですね」
 ややあってそう言うと、リュカは素直に頷いた。その両手をすっとラルファから外すと、大人しくベッドに横になる。
「それじゃ、お休み、リュカ」
「はい、お休みなさい」
 笑顔で答えた少女に、ラルファは今よりもう少し幼い頃の自分をふと思い出した。その頃、姉のベッドにもぐりこむと、眠る前に必ずおまじないをしてくれた。夢の中で惑うことなく、安心してぐっすり眠れるように、と。
「リュカ、おまじないしよっか」
「え…おまじない、ですか?」
 唐突な発言に目をしばたたかせる少女に、こくりと頷きを返し、
「うん。よく眠れるおまじない。昔、お姉ちゃんがボクにしてくれてたんだ」
 するとリュカの不思議そうな顔はそのまま溶けるような笑みに変わった。
「はい、お願いします」
 素直に頷いた彼女に微笑を返すと、かつて姉が自分にしてくれたように、少女のすきとおるように白い頬に、軽くキスした。
「──!!」
 唇がその頬に微かに触れた瞬間、リュカの体が俄かに強張る。よほど思いがけなかったのか、彼女の白い肌は瞬時に真っ赤になり、その柔らかな耳朶まで薔薇色に染まっていた。目を丸くしたまま身じろぎひとつしない少女に、ラルファはくすっと笑いを漏らした後、
「それじゃあ、灯り、消すね」
「…は……はい……」
 硬直したままようやっと返した言葉を確認してから灯りを落とし、自分もベッドに体を横たえた。
 闇に包まれると、時間の歩みはおそろしく遅くなる。ベッドの中に入ってから、一体どれくらい過ぎたのだろう。いつのまにか雨音はやみ、時折どこからか微かに聞こえる犬の遠吠え以外、夜の静けさを破るものはなかった。ラルファは枕に頭を預け、じっと暗闇の中に目を凝らしていた。今日一日を終えて体は疲れている筈だが、目はやけに冴え渡っている。なかなか睡魔は訪れてくれそうになかった。
「…リュカ」
 小さな声で、自分の背後にいる少女の名を呼ぶ。しかし、返事の代わりに、規則正しい微かな呼吸が耳に届くだけだった。ゆっくりと身を起こして彼女の方を向く。
「…寝ちゃったのか」
 微笑を浮かべながら、誰に言うともなく呟いた。蒼い闇の中で、幼さを残したあどけない顔で、少女は静かに寝息を立てている。窓の隙間から差し込む一条の月明かりが、その白い頬を照らしていた。そっと手を伸ばし、彼女の柔らかな髪を撫でる。
 いずれ、この少女も自分の元を去るだろう。それがどんな形にしろ、いつか彼女が自分の前からいなくなるという事実は、疑いのないことである。彼女がいなくなったとき、自分ははたして平気でいられるのだろうか。真っ直ぐに見つめてくれるこの瞳をなくしても、笑っていられるのだろうか。別々の道を歩みだした後彼女は、自分のことを、今夜のことを、一体どこで思い出すのだろうか──。
「…チャ・ザ様」
 囁くような声で、己の信じる神の名を呼ぶ。チャ・ザ様、お願いです。いつかリュカと別れなきゃいけないのは分かってます。いつまでもこうしていられないのは分かってます。だけど、もう少しだけ、どうかあと少しだけ、このまま──。
 ふと、眠ったままの少女の手が、ラルファの手に重ねられる。一瞬驚いて思わず瞬きをしたが、彼女の穏やかな寝顔にすぐに頬に笑みが浮かんでくる。
 そしてその小さな手を強く、握りかえした。


−終わり−





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