キャスリング




あれは……そう、10年程前か。
私が、プリシスの地でアイツに出会ったのは。



その当時、私はアレクラスト全域を旅して回っていた。
時折冒険の真似事などもしていたが、基本としては人間の生活にまじって過ごし、その風習や世情などに触れていた。
慣れようとしたのではなく、あくまで知的好奇心を充足させる為に、な。
そんな折だ。戦乱の渦中であるプリシスに流れ着いたのは。

戦争。

話に聞けども、私には目でみたことの無い代物だった。
プリシスは世辞にも大国とは言えない。むしろ小国と言って良いだろう。
そのプリシスが、こともあろうか隣国ロドーリルと政情不安定だという。
ロドーリルは大国だ。まともに考えれば、プリシスはひとたまりもあるまい。
まったくついていないと言うべきか、そんなプリシスに私はいた。



森を出て10年、ずっと一人で旅をして来たわけじゃあない。
……そんな意外そうな顔をするな。私とて、自身が駆け出しの精霊使いであることは承知していたのだから。
さて、当時の私だが、その時行動を共にしていた仲間が居た。
名は……いや、名はいい。
そいつらとは既に数年パーティを組み、大陸東方を旅してまわっていた。
冒険者、と言うよりも旅人と言う方が似つかわしい奴等だったが、自分で言うのもなんだがあの頃の私と良く付き合えたものだ。
話が逸れた。
ともあれ、その時の仲間に一人、プリシスの名家の生まれの者が居た。武門の名門の家柄の次男坊だとか。
たまたまその仲間の帰郷も兼ねてプリシスへ立ち寄った時に、きな臭い話を聞いたのだ。
その後は成り行きと言うヤツだ。
私とその当時の仲間達は、いつの間にやらプリシスの軍属になっていた。
私だけは、あくまで傭兵という扱いではあったがね。
当然だ、私はエルフなのだから。
やがて開戦。
幾度か戦線を経ていく内に、私と仲間達は昇進の階を昇っていくこととなっていった。
望むと望まざるとに関わらず、戦争というのは常に余計な副産物を与えてくれる。
この場合、私にとって余計な副産物はこの昇進であり、そして ――― ルキアルとの出会いだった。





私がルキアルと出会ったのは、ある意味では必然であった。
なぜなら、その当時既にヤツはプリシス全軍を束ねる軍師の地位にあり、そして私は参謀府に所属していたからだ。
私は昔も今も剣は得手としないし、精霊との交信も今でこそどうにか見られるレベルだが、当時は駆け出しも良いところだった。
その私が(望んでいないこととは言え)軍で昇進をしていったのは、ただただこの頭脳と私の外見に比しては長い旅の経験があったればこそだ。
一作戦参謀に過ぎなかった私とルキアルが口をきくようになったきっかけは、チェスだった。
参謀府、に限らず、その頃のプリシス軍ではチェスが流行っていた。
私もご多分にもれず嗜んでいたのだが、このゲームは私の性に合っていたらしく、割とのめり込んでいた。
そんな折、参謀府内で暇つぶしと知的刺激の意も込めてチェスの大会が行われた。
下らないと思いつつも負けてやる理由も無いのでそれなりにやっていると、どうやら決勝まで進んでしまった。
決勝での対局相手が、ルキアルだった。
生まれて初めて、相手に呑まれるということを経験した。
盤を挟んで座った瞬間、殺気じみた威圧感に圧されてしまったのだ。
それでもどうにか戦えたのは、ルキアルが初手からずいぶんと遊んだせいだったろう。
ルキアルの余裕の間隙を縫って、千日手に持ち込むのが私には精一杯だった。





その対局以来、どうやら私はルキアルに好敵手として見込まれてしまったようだ。
ことあるごと、暇を見つけては対局を挑まれるようになった。
私の方も、その辺の凡百の輩との対局よりはずっとスリリングなルキアルとの対局を心の何処かで楽しんでいたので、その申し出を良く受けて対局をしていた。
少なくともルキアルは新参者・異種族ということで私を敬遠する輩とは違っていたので、付き合う分に苦痛は少なかった。
もっとも、ルキアル=軍師と(はた目には)親しくしているということで、私を阿諛追従の輩と蔑むものも居たようではあるが。
そうした折、更に幾度かの戦線を経て、私はルキアルの幕閣に取りたてられていた。
無論、そこでも私への陰口はあったようだ。ようだ、というのはあくまで陰口なので、私の耳に直接入ってくるのはわずかでしかなかったからなのだが。
実際の話、私がプリシスに来てわずかの間に軍師の幕閣に任ぜられたことに、チェスが原因であったのは一面の事実だろう。だが、チェスは原因であって理由ではない。少なくとも私はそう思っているし、ルキアルもその程度のことだけで幕僚を選ぶ男ではない。
陰で言う輩に分からせるには、口で言うよりも行動が一番だ。
ルキアルの権勢に頼ること無く、私は独自の作戦案を提示していき、そしてその内のいくつかは効果的な成果を上げていった。
皮肉なことに、その事が更にルキアルの私に対する興味を高める一因になったようだが……
ルキアルの右腕、とか、片腕、懐刀、と呼ばれることに、その頃の私は軽い誇りすら覚えていた。
そう ――― あの頃の私は、ルキアルを畏怖し、尊敬すらしていたのだ。
私とて自分の知略に多少の自信は持っていた。だが、そのどれもがルキアルの前では霞んだ。
私よりも速く、正確に、効果的に、そして広い視野での戦術論、戦略論、政略論。
ロドーリルの侵攻を食い止めるのは易しいことではなかったが、この男が居れば守り切るのは不可能ではない、そうとすら思い始めていた。
あの頃と、今と、ルキアルに対して変わらないのはその思いだけだ。
この男は紛れも無く、アレクラスト随一の軍事的知略の持ち主であろうから……





更に戦いの日々。
私と私の仲間達のプリシス軍での地位は、武門の出自の仲間のせいもあってかなり重要なところにまで昇り詰めていた。
一軍の将帥、補給部隊の長、各小隊長、そして参謀府の幹部。
図らずも、私達は一軍を形成することになった。
それがルキアルの計らいであると、当時は素直に喜んだ。
今にして思えば、私の心の中に多少でも感謝の念があった事を呪いたい。





新しく結成された一個軍に必要なものは、上と横と下に対して認めさせることだ。
上層部には存在意義を、同格の者には自らの有用性と特色を、そして兵卒には不敗性の幻想を。
その為に何が必要か。それは戦場だ。
私の仲間達は、そう考えた。
元は(一人を除いて)出自も知れぬ冒険者だった者たちだ。それが戦乱期に巡り合い、いくばくかの幸運にも恵まれて過分な地位に辿り着いた。
戦争という非日常は、まことに恐ろしい。
人が人を殺すことが日常と化し、そして人に人を殺させることに対して罪悪感が欠如していく。
かく言う私も、その傾向にあった。まるで、兵や軍を駒のように動かすことに違和感を感じなくなっていたのだ。
だがそれでも、私は軍での昇進には興味が無かった。
勇んで前線へ出たがる仲間達は、私の参謀府での地位 ――― それとルキアルと親しかったこと ――― を利したがっていた。
綱紀の粛正などを気取るつもりはなかったが、私はそれを拒んだ。
私が何か言われるのは慣れている。だが、仲間がいわれの無い ――― 事も無いのだが、この場合は ――― 誹謗中傷を受けるのは耐えられなかったからだ。
だが、ルキアルの知略もあって戦線は徐々にこちら側に有利な状況での膠着を見せはじめた。
焦る仲間の一人が、とうとう私の知らぬ間にルキアルに私達の軍を前線へと赴かせてくれるよう進言した。
ルキアルはすんなりとそれを容れたと言う。


――― この時点で気付かなかった辺り、私は本物の愚者かもしれないな……





私達に任ぜられた作戦はいわば遊撃だ。
どうやらロドーリルは、現状に対して焦慮を抱いているようだ。当然だが。
些末な戦略や個々の戦術では、ルキアルには通用しないどころか逆に痛い目にあう。
そこで考えた ――― 考えた、と言っていいものかどうか ――― のが、多少の指揮統率力ではどうにもならない圧倒的な兵力差での決戦、のようだ。
流石に圧倒的な兵力差を効果的に用意されてはルキアルの知略を以ってしても防ぎきるのは難しい。
そこで、ロドーリル側が戦力配置を終える前に掻き回しつつその配置を知ること、それが私達に与えられた任務だった。
妙策と言うほどではない。相手の作戦を洞察できれば、ある程度以上の軍事センスの持ち主ならば容易に思い付く、凡庸とも言える案だ。
問題は、ルキアルの洞察力が尋常ではなかったことか。
ロドーリル側の攻勢が止んだ次の日には、既にこの作戦案を立てていたようだ。
いや……もしかしたら、もともと用意していたのかもしれないな。
その手際の良さにいささか懸念を抱かないでもなかったが、ルキアルの周到さならば有り得るだろう、と私はその時点では考えるのを止めた。





昇進を求めてルキアルに直接進言した仲間に対して私は少なからず腹を立てていた事もあり、進軍の最中の雰囲気は険悪だった。
だがそれでも完全な不意打ちと情報量の圧倒的な差違から、連戦をこなしながらも私達は勝ち続けた。
勝ち過ぎた。
その事を言い訳にするつもりはないが、私と私の仲間は少々奢っていた様だ。
味方の損害がほとんど無いままの進軍、こちらだけが敵の状況を掴んでいるという状況、そして何よりも自分達の今の作戦を立案したのがあの“指し手”だという心理的余裕。
勝つままに進んでいく内に、私達は虎の巣穴の中で無防備にのんびりと過ごしていることに気付いていなかった。
後方支援部隊からの孤立。
補給物資の途絶。
連絡の消失。
気付いた時には、既に私達はロドーリルの精鋭部隊に包囲されていた。

死。

エルフである私にとってもっとも縁遠いこの言葉が脳裏を過ぎる。
ここが戦場で私達は殺し合いをしていたのだということを思い出させる。
そして同時に、すべて合点が行った。
私達がスケープゴートにされたということだ。





かろうじて包囲を突破したのは、全軍の2割に満たなかった。
元々数の多い軍ではなかったのだ、総数は4桁に大幅に満たないという状況だった。
最前、私達が攻め陥としたリシアス砦に篭り、息を潜め、復讐の念に逸るロドーリルの軍勢をやり過ごしつつルキアルからの援護を待つこととなった。
だが、私はその全てが無駄だと、その時ようやく気付いていた。
私達はルキアルの戦略の手駒にされたのだから。
恐らく、その時点では既にルキアルが放った別軍が、ロドーリル本隊の背後を衝いていることだろう。
戦術の要となる精鋭部隊は私達を追ってその守護の任に就いていない。
私達はルキアルの策にしたがって、ロドーリルの拠点を次々と陥として来たのだ。ルキアルにしてみれば、その逃走経路は容易に洞察できるだろう。そして、その私達を追う精鋭部隊の足取りすらも。





補給と援護の絶えた遠征遊撃軍の篭城ほど悲惨なものはない。
やがて追撃軍に補足され、凄惨な戦い ――― とも言えぬ一方的な殺戮が始まった。
飢えと疲労と憔悴、そして絶望感は私達の軍から士気を根こそぎ奪い、投降者と背反者を続出させた。
もっとも、降った者たちの末路は想像に難くないが……
座して自決するか、あくまで抗戦するか……もしくは血路を開き、生き延びるか。
私達は第3の道を選んだ。
その後のことは良く覚えていない。
ただ、逃げ惑い殺されていく兵卒の中で何故か仲間の死に際だけは鮮明に覚えている。
敵と剣を交え斃れる者、矢を受けて泥濘に沈む者。
自分でも、良くあの状況であの時の自分の実力でそこを切り抜けることが出来たと思う。
疲れと出血で目が霞み、降りしきる雪の上に倒れた時、耳にしたのはロドーリルの精鋭部隊が全力で退却していく馬蹄の響きだった。
思考能力など皆無に等しいあの状況でどうにか私が出せた結論は、皮肉にもルキアルによって私は助かったということだ。
恐らくは、プリシス軍が本隊を衝いた状況が、ようやく精鋭部隊に届いたのだろう。
そしてあの精鋭部隊は本隊へと合流する道すがら、ルキアルから手痛い奇襲を受けることだろう。
完璧だ。
完璧だよ、ルキアル。
ポーン一つの犠牲で、敵のナイトとルーク、ビショップまでを屠り、かつ自軍の精鋭を敵軍深くに斬り込ませることに成功したのだから……

だが。

たった一つの誤算は、貴様が生け贄に差し出したポーンの一部が生き残ったこと。
そして、その生き残った一部に、私が選ばれたことだ。





近隣の村にどうにか辿り着き、言葉も通じぬまま数日の宿と食料を得ることが出来た。
どう見ても敗残兵、それも士官の服を着ている ――― おまけにエルフだ ――― 私に対し村人は良い反応を抱かなかったようだが、持ち歩いていたいくばくかの銀貨と宝石が物を言って、どうにか傷が塞がり、まともに歩ける様にまでは回復した。
養生の間、私は安穏と過ごしていたわけではない。
体力の回復を待つ間、それまでの人生で一番頭脳を働かせた。
周辺一帯の地理、私達が出撃する前の戦力図、出撃した後の戦力図、そして現在の戦力図。
地理・地形の把握は戦略戦術の初歩だ。そして私は、参謀として任ぜられる以前からそれらの把握には余念が無かった。
現状の把握に苦労はしなかった。だが、問題はルキアルだ。
あの恐るべき“指し手”が何を考えているか、それを想像だけで判断するのは至極困難だし、危険極まりない。
だが、一つだけ活路はある。
ルキアルといえど、神ではない。私がここでこうして生き長らえていることは知らないはずだ。
無論、死の確証は持っていないではあろうから、絶対にそうだと信じるのは危うい。
私はあくまで不確定要素の一つだ。
その上で、プリシス軍 ――― ルキアルの今後の動向を正確に推測しきらなければならない。

復讐の為に ―――





傷の完治を待たず、村を出た。
士官服を脱ぎ捨て、旅人としての、冒険者としての服装・装備に着替える。
もう、私の背には何も無い。
あるのはただ、多少の意は違えたものの私と共に戦い、そして死んでいった仲間達への想いだけだ。





まずは自分の足と目で周囲の情報を拾ってまわった。
想像と事実との差違を確認する為でもあったが、誤差は私の想像範囲内であった。
ただし、プリシス軍の進撃の速度は、私の想像の最悪を極めていた。
戦慄と同時に震えるような興奮が私を襲う。
プリシス軍が不甲斐ないわけでは、決してないだろう。
ルキアルの手腕が、端から見た場合これほどに恐ろしいものだったとは。
だが同時に、一つの確信も得た。
ルキアルは、この機に乗じてロドーリル側へ侵攻の楔を打ち込むつもりだ。
プリシス軍は今、進軍を止めている。ロドーリルの侵攻軍を撃退し、睨みを利かせている状態だ。
だが、ルキアルはこのまま満足する男ではない。
大軍を用いて侵攻を目論み、その戦線をズタズタにされた挙げ句押し返されたロドーリル軍は今や士気も何もかも最低まで落ち込んでいるはずだ。
ここまで、プリシス側からの逆侵攻はしていなかったが、この好機をルキアルがみすみす逃すはずが無い。
軍事境界線を押し戻して有利な状況での停戦条約。もしくは、ロドーリル本国侵攻への橋頭堡の確保。
そこまでは、予期し得ることだ。
問題はいつ、どのようにしてどのようなルートで。
必死に、だが決して私の存在を知られぬ様、情報を拾ってまわる日々が続いた。
間違っても『背の高いエルフがプリシス軍をかぎまわっている』などという噂を立てられぬ様細心の注意を払い、可能な限り人里から離れての生活が続いた。
そして、リシアス砦から生還してより1ヶ月後。
ルキアルの、壮大で緻密な軍略図が私の脳裏に描かれるに至った。





まったくもって、あの男の軍才は恐ろしい。
山は登っている最中にはその形も大きさも分かり辛いというが、まさにルキアルという男の軍事センスは巨大な山脈の如くだ。
そこに私ごときが挑もうとも、所詮は蟷螂の斧に等しい。
だがそれでも、私には背に負った仲間達の死に際の姿があった。
やらねばならない。
盟友達の死にかけて。





だが私独りで出来ることは限られている。多岐に渡ることは何も出来ない。
石に穴を穿つ雨垂れの如く集中し、かつ疾風のように素早く、気取られる前に事を起こさねばならない。
何処だ。
この軍略の、急所は何処だ。
“指し手”ともあろう者がそうそう急所をさらすはずが無い。だが、存在しないはずはない。
ルキアルといえど神ならぬ身だ、完全なものなど存在し得ない。
或いはその急所を穿ったとてさした効果を与えられぬような手をも打っているかもしれないが、それでも一矢報いることは出来る。
私は懸命に、目と頭で探り続けた。
何処にある。





報復。
そんなものが、生き残った者の自己満足に過ぎないことは重々承知している。
死者は何も語らぬ。何も望まぬ。何も伝えぬ。
ただ、生き延びてしまった者の自慰行為に過ぎない。
だがそれでも。
私はあの時に背負ってしまったのだ。





見つけた!
私は思わず叫びを上げるところだった。
それはプリシス軍の斥候部隊が進軍を開始した、まさにその日の朝だった。
常道から行けば進むはずの無い方向へとその部隊は進んでいったのだ。
何故だ? 何を目論んで、或いは警戒している?
その先にはリシアス砦。
かつて、私と仲間達が死出の門を垣間見たあの砦だ。
どのような妙手も奇策も、タネを知ればどうと言うことはない。
一見戦術的価値のなさそうなあの砦を、ルキアルは敢えて全軍の中継点とすることによって各軍の連絡を密にし、そして進軍の足跡をカモフラージュしていたのだ。
多少の距離的時間的なロスにはなるもののそれはこちらの行動範囲を悟らせないメリットでお釣が充分に来る。
決して砦に駐屯すること無く、あくまで中継点とするだけ。
たとえロドーリル軍がその事に気付いて急襲を仕掛けようと、そこにあるのはもぬけの殻となったリシアス砦だ。プリシス軍には損害はない。それどころかその行為自体、ルキアルの察知し得るところだろう。無防備で無為な進軍は、ルキアルにとってはこの上なく容易な食材だろう。
そして恐らく、リシアス砦は多くある中継点の一つに過ぎまい。
だが、進軍を開始するにあたり、全軍は時間とタイミングをずらしてリシアス砦へと赴き、そこから進軍する筈だ。
見えた。
掴んだぞ、ルキアル。





これは軍略というものではない。ただのテロリズムだ。
このような形で一矢報いたところで、ルキアルに勝利したことにはならない。
だが、私にはこれしかなかった。
斥候部隊に付かず離れずリシアス砦へと赴き、部隊が砦を離れた後にもぬけの殻となった砦に侵入して、準備を始めた。
砦の城門は開け放たれており、更に火も灯されていた。
ロドーリル残存部隊への誘いだろうか。そうであれば、この砦へと急襲して来た部隊を討つ為にこの砦へ真っ先に赴くのはプリシス精鋭部隊か。
失敗は死。
だが、そのようなことはどうでもいい、些細なことに思えた。
私には、今はやることがあるのだから。





夜半過ぎ、ロドーリルの残存部隊の急襲はなく、ただプリシス軍先鋒がリシアス砦へとやって来た。かなりの速度だ。指揮官は腕の立つものが任ぜられたのだろうか。
恐らくは、砦にて一時の休息、作戦案の展開、その後出立か。
城塞指揮官室の窓からプリシス軍の入門を見下ろしながら、私は残忍な悦びに身を震わせる自分を自覚していた。



「勇ましき炎の精霊よ、燃える吐息を放て、巨人の憤る心のままに!」



私の唱えた精霊語の呟きが壁にかけられた松明に潜む火蜥蜴を具現化させ、そしてその炎の精霊は私の命ずるままに吐息を放った。
廊下の排水溝に満たされ城塞内各所に行き渡っているはずの、可燃性の高い、プリシス名産の高純度の油に。





城塞内のあらゆる孔から炎が噴き出した。
天井といわず梁といわず床といわず壁といわず、文字通り砦全体がほぼ時を同じくして炎を噴き上げた。
地獄の業火、或いは天界の浄火。
どちらでも良い。
私のこの復讐の念と、生き延びてしまった生命の残り火を消し飛ばしてくれるのなら。
炎に包まれた指揮官室で私は椅子に腰掛け、ゆっくりと目を閉じた。
少々疲れた。
この、先鋒部隊に与えた被害がどれだけになるか、その結果がもたらすプリシス軍への損害がどれだけになるか、もはやどうでも良くなった。
窓から夜風が燃える空気を室内に運んでくる。いや、熱せられた空気が風となり吹き込んで来ているのか。
もう、どうでもいい。
今はもう、このまま眠りたい…………





投げやりな充足感とまどろみを、扉を開け放つ音が遮った。
プリシスの兵がここを嗅ぎ付けたか。
間違いなく訪れる死に対する恐怖よりも、まどろみを妨げられた苛立ちに私は目を開いて闖入者を見据えた。
闖入者は呆気に取られたように目を見開き、私を見返していた。
私とその男と、どちらが先に相手の名を呼んだろうか。
轟々と唸る炎の音で聞こえなかったが、確かにその男は私の名を呟いた。

「シズルファーナ……君か」

そして同じく、私の声も向こうには聞こえなかったろうが、私も同じく呟いた。

「ルキアル……」





「生きていたのか。よもや、とは思ったがね」

相変わらずの皮肉めいた、だが何処か浮き足立った口調でルキアルが言った。

「嬉しくなってしまうよ。この私の策を発動すらさせぬままに、ただ一太刀で崩してくれたのは何処の誰か気になっていたのだが、まさかそれが君とは」
「私は驚いている。何故貴様がここにいる?」
「フ、何も知らない振りはよしたまえよ、シーズィ。君のことだ、とうに気付いていたのだろう?」

どうやらこの男は少々私を買いかぶっているようだ。
だが、ここに至ってようやく、おぼろげにしか見えていなかったルキアルの策が私にも見えて来た。

「移動する本営、か」
「流石だな、シーズィ。やはり君は最高だ」

作戦総指揮官であるルキアル自ら前線へ赴き、その位置を流動的に変化させる。
敵に自らの位置をつかませないことが適う卓絶した兵力運営術が大前提だが、作戦を迅速に伝え、前線の状況をいち早く直接知ることの出来るこの用兵術は、恐らくルキアルが前々から暖めていたに違いない。

「やはり君の才能は、天与のものだな。手放すのは少々惜しかったよ」
「…………ほざけ」
「本心さ。ただ、君には私の片腕でいてもらうよりも、盤の向こうにいて欲しかっただけさ」

そこまで言うと、ルキアルは半身になって廊下を示した。

「行きたまえよ、友よ」
「なに?」

私を逃がすというのか?
その疑念を感じ取ったか、ルキアルは言葉を継いだ。

「君には楽しませてもらった。だが、その礼じゃあない。君にはせいぜい生き延びてもらって、もっともっと私を楽しませてもらわなきゃあならないからな」
「貴様……やはり貴様は、狂っている!」
「そうかね? 盟友達の命を踏み台にして生き延び、こんな所でのうのうと復讐にうつつを抜かしている君と、さほど差はないと思うがね」

衝動的に魔法を使ったのは、それが初めてだった。
気付いた時には周囲の炎に潜む火蜥蜴に命じ、ルキアルを撃たせていた。
火線に胸を焼かれながらも、ルキアルはよろめいただけで私にあの笑みを向けた。

「良いぞ、その顔だ! そうだ、そうだよシズルファーナ。君の心にあるその美しい、鋭い刃をもっと磨ぎ上げたまえ! 敵に容赦はするな。味方をも利用しろ! 君の天賦の才と、その心の刃があればこそ私の好敵手として、友として相応しいのだからな!」

二撃目は、放てなかった。
私の心には、ただただ恐怖のみが巣食っていた。
逃げたい。この男から、逃げ出したい。この男の目が、声が、意志が届く範囲にいたくない!

「今は逃げたまえ、シーズィ。だが忘れるな、君は私の友なのだからな、心の兄弟よ!」

炎に包まれる廊下を駈ける私の背を、ルキアルの声が打った。
私は振り返ることすらせず、ただ必死に駆けていた。





あれから8年。
諸国を巡り、このリファールで皆と出会った。
だが、まさかこの地でルキアルと出会うとは、予想の遥か外のことだった。


今度は、私は逃げられない。


今私が背負っているのは、死者の想いだけでは無いのだから。






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