バレンタイン悲喜こもごも



2月。
中途半端な季節である。まだまだ寒さは最高潮のくせ、陽射しはそろそろ優しくなり始める。
風が吹かなければ暖かいのに、という愚痴をこの時期何万人が洩らすだろうか。
そんな時期の、些細な ――― 或いはこれ以上無く深刻なイベント。





3−Cの教室のドアを開けて、美里 葵は硬直した。

「♪〜♪♪〜♪〜♪〜♪♪♪〜♪♪〜♪」

誰もいない教室で、調子っ外れな節で舞園さやかの新曲を鼻歌で奏でているのは蓬莱寺京一だ。
はた目からも明らかに浮かれている。
その証拠に、葵よりも早く教室に来ていた ――― つまり、その日,クラスで一番に登校していることも挙げられるだろうか。

「……京一君? どうしたの?」

『どうしたの』の一言に複数の疑問を乗せて、葵が問うた。
わざとらしいぐらいに慌てて、京一がそれに答える。

「お、よお美里。いやなに、たまには俺だって、早目に登校しておこうと思ってよ」

葵の疑問を何一つ満足させる解答ではなかったが、ともあれ葵は微妙な苦笑を浮かべると、自分の席に鞄を置いて中から何やら取り出した。

「はい、京一君。バレンタインのチョコよ」
「お! ははははありがとありがと! いや別にこれを狙って早く来たわけじゃないからな?でもありがとな!あはははは!」

せわしない男である。





――― 2月14日。恋人達の守護聖人、聖バレンチヌスの日。
決して明○やグ○コといった菓子業者の売り上げを伸ばす為の日ではないのだが、日本人という民族の気質からして『イベントにするに足る理屈があれば踊らねば損』というものがあるので、大概の日本人は例に洩れずこのイベントに乗じる。
まあそれなりに粋じゃないか。こういったイベントの中に悲喜こもごも、さまざまな駆け引きややり取りがあるのだし。

……などと、ひねたうえに古臭いことを考えながら登校して来たのは緋勇龍麻。言わずと知れた黄龍の器である。
あまり一般には知られていない事実だが、彼は真神転校前の明日香学園では、まったくといって良いほどモテなかった。
決して嫌われていたわけではない。むしろ街ですれ違えば『あ、緋勇クーン、何処行くのー?』ぐらいの会話は交わしていた。
が、無意識の内に内包する巨大な≪氣≫を隠蔽していたせいか、どうも印象が薄かったようで……2年生になって同級生に名前を尋ねられたのは正直ショックだった。
つまるところ要約すると、彼はバレンタインデーが嫌いだった。
普段の寡黙な≪氣≫は陰鬱なそれに変わり、自身をダースベイダーも真っ青な暗黒面に陥れるのみならず周囲をもいつのまにか暗黒空間に呑み込んでしまう。
元々外に発散するタイプではなく内に抱え込んでしまう傾向にあるので尚更だ。
しかし今年の彼は違う。
誰もが(註:小蒔スト一同)認める愛しいステディ、桜井小蒔嬢の存在が、彼を例年通りのブラックサイクロンと化させずにしていた。
遠野杏子並びに裏密ミサに頼み込んで、それと無しに小蒔の動向を調べてもらったところ(報酬としていくばくかの金と血液を搾取されたが)どうやら葵と連れ立って調理用のチョコを買い込んでいたそうな。

――― 神様ありがとう。この作者のSS内では僕と小蒔はもう深い仲(おい)らしいし、もう貰えるのは間違いないよねッ!

道端に生えている名も無き草にすら感謝の念を送りそうな勢いで、だがそれでも今までの17年11ヶ月の人生の経験から素直になりきれずにもいるという、一種分裂気味な状態で龍麻は登校していった。





そんなイベントにあまり関わりの無い少年もいた。

「じっちゃん! ほな、行ってくるわ!」

劉 弦月は、昨夜の深酒が祟ってまだ眠っている楢崎道心の為に朝食を作り、慌てて中央公園から駆けていった。
中央公園から台東区の華月高校までは割と距離がある。急がねば遅刻してしまう。
別段優等生を気取るわけではないのだが、つい先頃までの戦いのせいで、実は出席日数にあまり余裕が無い。

『学歴なんざ、記号に過ぎねェよ』

楢崎道心はそう言う。
が、万が一にも留年でもした場合、郷里の姉達はどう言うか。どう思うか。っていうかどうするか。
控えめに見てもあまりに恐ろしい想像に達してしまったので、弦月は自らの精神衛生上それ以上考える努力を放棄し真面目な留学生の道を邁進することを選んだ。
とはいえ、持って生まれた性分というものもある。
元来が社交的で楽天家、義侠に熱い性分で人を楽しませるのが得意かつ好き、という彼のこと、真面目なだけのガリ勉君になれるはずも無く、結果としては大変良好なムードメーカーとしての地位を着々と確立しつつあった。
息せき切って登校する彼に声がかかる。

「あ、劉くーん!」

弦月と同じ2年弐組の女子3人組だ。弦月のマシンガントークにもよく付いてくる貴重なキャラクター達で、弦月と彼女たちが本気で話し始めるとクラスの皆は腹筋が痛くなる。
と、三者三様に何やら取り出し、弦月に差し出す。

「はい、これ!」
「一応手作りだからね」
「これでも食べて、元気出しなさいよ」
「へ?」

弦月は何が何やらわからない。
台詞から察するにどうやら『手作り』の『食べ物』らしいが……

「お、おおきに。せやけど、これ、何や?」
「やっだもー!」

バンバンと弦月の背中をどつく。結構容赦無い。

「バレンタインのチョコに決まってるじゃないの」
「ああ、安心して。お返しは期待してないから。手作りだけど、本命じゃないしね」
「劉君、あんまり余裕無いみたいだから、栄養の足しにでもしてね」
「それじゃねー♪」

劉 弦月をして口を挟む余裕を与えぬ3人娘は登場した時と同様唐突に去っていった。
後に残された客家の少年は、ぽつねんと呟いた。

「ばれんたいん……ってなんや?」





「……と、いうわけなんやけど。なあアニキ、京一はん、教えてくれへんか?」

放課後。
大き目の紙袋からこぼれるほどのチョコを手にした弦月は、訳の分からぬままに真神学園を訪れていた。
龍麻と京一を発見し、道すがら相談することに成功したのだが、京一はともかく龍麻はかなり機嫌が悪い。
弦月の預かり知らぬことだが、その理由はごくシンプルな物だった。
京一の方は、葵の『手作りだけど義理』のチョコを始めとして下級生からそれなり以上の収穫があったので、金持ち喧嘩せずの心境か弦月の紙袋を見ても『おお、劉もやるじゃねーか』程度に流していた。
が、龍麻の方は……

「……な、なあ京一はん、アニキ、何やえらい眉間にシワ寄っとるけど……なんぞあったん?」

龍麻から若干距離を取り、京一にこっそりと尋ねる。

「ああ、ひーちゃん、チョコ貰えなかったんだよ」
「???」

バレンタインデーを知らない弦月は、その端的な説明ではまったく理解できなかった。
その表情からそれを察した京一は、取り敢えず一般的な意味でのバレンタインデーのことを弦月に解説する。

「はあ、なるほど。好きな男性にチョコをあげる習慣……で、義理であげるって言うのも存在してるんやね」
「そういうこと。それでひーちゃん、一個も貰えなかったところにお前がその大量のチョコ持ってきたから拗ねてんだよ」
「って、桜井はんは!?」

そういうイベントであるのなら、まさか小蒔が龍麻に渡さぬはずはない!

「小蒔は今日風邪で休みなんだよな」
「あ〜…………合点がいったわ」

が、また別の疑問が湧きあがる。

「せやけど、アニキって人気ないのん? ワイかてこの程度貰うたのに」
「わかんねえか? 小蒔だよ」

そう、実は龍麻はモテている。というか憧れの目で見られている。
京一と連れ立っているせいもあってか注目度は高いし、明日香学園の頃とは違って幾分か社交的にもなった。
チョコの一つや二つや(中略)20個ぐらいは貰えそうなぐらいには、人気はある。
それがこの度収穫0となったのは、ひとえに小蒔のせいである。
ことある毎にぴったりべったりぴっとりと寄り添い、手を繋ぎ肩を抱いて髪を撫でるのが日常茶飯事と化しているカップルの片割れに、誰がどうしてチョコを送ろうとするのか。
葵ですら、京一と醍醐にはチョコを渡しておいて、龍麻には『貴方には、本当に大事な人がいるでしょ』と渡してくれなかったのだ。若干以上のやっかみが混ざっていたのは、その様子を見ていた京一の気のせいではあるまい。

「あ〜、なるほど、そういう事やったか」
「まあ、小蒔にチョコ貰えば、たちまち元に戻るだろうけどな。義理100個よりホントのチョコ1個だろ、やっぱ」
「京一、弦月。なに話してるんだ?」

こそこそと話していたら距離が開き過ぎたようだ。
いつもの声、いつもの表情で龍麻が2人に声をかける。もっとも、その身に纏う≪氣≫は相変わらずフツフツと煮えてはいたが。

「んー、なんでもねえよ。そうだ、劉」

前半を龍麻に、後半を弦月に、京一が声をかける。

「? なんや、京一はん」
「俺達、これから小蒔ン家に行くんだけどよ、一緒に来るか?」
「いや……遠慮しときますわ」
「なんだ、ひーちゃんの機嫌なら気にすんなよ。小蒔の顔見りゃ、コロっと良くなるに決まってんだからよ」
「ま、そらそうやろけど、ワイもちょっと用ありますよって」
「そか? んじゃ、またな〜」

龍麻と京一の背を見送って、弦月は自宅(というか新宿中央公園)へととぼとぼと歩き始めた。





――― なんや、切ないなぁ……

手にした紙袋が、やけに重い。
学校では全然気にならなかったが、先ほど京一の言葉を聞いてから、急に重くなった。

『義理100個よりホントのチョコ1個だろ』

ホントのチョコ。
それがどういう意味かは、弦月でも分かる。

――― アニキは、ホントのチョコを貰える相手がおるねんな。ワイには……欲しい人はおるんやけど、なぁ……

その人からのチョコが貰えれば、いやチョコでなくても良い、こういうイベントに乗じた勢いでもいいから、何か自分を気にかけている、というものを貰えれば、弦月はきっと空も飛べるし湖の水も飲み干せるだろう。
だが、世の中そうそう甘くはない。その事を弦月は知っているつもりだ。
ただ想っているだけで気持ちが伝わるなら、世の中はきっと素敵になる……と一概には言えないが、少なくとも弦月はこうも悩んではいなかったろう。

――― 第一、あの人はワイの気持ちなんて知らんやろうし、って言うか、誰も知らんやろうしなあ。

実のところ、弦月が誰を想っているか、というのは、仲間内では弦月とその想われている女性以外で知らないのはまだ幼いマリィか精神年齢がそれ以下のアランぐらいのものだった。
が、龍麻をして『弦月は鈍感だから……』と言わしめる彼のこと、無論その事実には思いも寄らないのであった。

――― まあ、あの人のことやから、もしかしてバレンタインデーを知らん、っちゅうことも有り得るんやけどな。

と、少々失礼なことを思いながら結界を抜け、家へと入る。

「ただいま」

常に無く低いトーンで、弦月は帰宅を告げた。
が、あばら家同然の道心宅から返事はない。いつもならば、道心が景気良く(或いは酔っ払っただみ声で)返事を返すのだが。

「なんや? じいちゃん、おらんのかいな」

ふと、居間の卓袱台の上を見ると置き手紙がある。
手にとって読んでみる。道心の、丁寧ではないが味のある文字で急の仕事が入ったことが簡潔に書かれていた。

「帰りは遅いんか。ほな、晩飯は……なんか簡単に作ろうかな」

冷蔵庫の中に、何かあっただろうか?
期待をせずに覗いてみると、冷や飯、卵、野菜が少々、奇跡的にカニ缶が残っている。

「炒飯でええか。冷めても食えないわけやないし」

とはいえ、今から作り始めるのもあまりに早い。
時間を潰す意味も兼ねて、いつもの鍛錬でも……と、刀を手に上着を脱いで裏庭に出る。

「さッ……寒うゥゥッ!」

それはそうだ。まだ2月だし。ランニングシャツ一枚では鳥肌が立つのも当たり前だ。
このままではもれなく風邪をひく。とっとと身体を動かそう。
腰を落し気味に立ち、両腕で大きな樹を抱くような輪の形を取る。呼吸を整え、精神を集中させる。立禅と呼ばれる、中国拳法の一種に伝わる修練方法だ。
弦月はもともと氣、ひいては勁の扱いに長けている。それは血筋のせいもあるだろうが、何よりも幼少の頃から正しくつんできた弛まぬ鍛練の成果であることは、間違い無い。
立禅を開始してから間もなく、弦月の全身から陽炎にも似た空気が湧き上がる。清浄で鮮烈な氣の奔流。
緋勇龍麻のような圧倒的な量も、壬生紅葉のような鋭利な鋭さも無いが、弦月の氣は傍にいる者に静かな安心感を与える。
内包する氣のウォーミングアップを終えて、また静かに刀を振り始める。
激しさよりも正しさ。
速さよりも正確さ。
実戦とはまったく逆の、だが修練においては何よりも重要なことを、弦月は決して忘れてはいない。
足の爪先から頭頂部に至るまで糸一条程の乱れも無い ――― とは、まだ弦月も修行中ゆえなかなか行かないが、そうあるように全身に気を配りながらの型稽古はその動きがスローモーに見えても大変神経を摩耗する。
やがて小一時間も動いていたろうか。
全身に汗をかいてそれが滴る頃、ようやく弦月は裏庭の隅に誰かがいることに気付いた。

「あ、あれ……ひ、雛乃はん!?」
「お邪魔しております」

いつのまにか裏庭の片隅にいた織部雛乃が、いつも通りのしなやかな丁寧さでぺこりと頭を下げた。





「おじい様の言い付けで、楢崎様にお荷物を届けに参ったのですが……黙って上がり込んでしまい、失礼いたしました」

ともあれ薄ら寒い庭先で客人を立たせているわけにも行かない。
汗を拭くのもそこそこに、雛乃を居間に招き入れて、茶などを出す。

「い、いや、別に構いまへんて。ワイの方こそ、全然気付かんと待たせてしまったみたいで、えろうすんまへん。あないな寒いとこで……」
「いえ、劉様の演武を見ていたので、寒さなど気になりませんでした。私の方こそ、勝手に稽古を盗み見てしまい……武術家の方の稽古は、みだりに見て良いものではありませんのに」
「いやいやいやいや、ワイの稽古なんて、見られても減るモンと違うし。あないな粗末なモンでええねやったら、いくらでもお見せしますよって」
「まあ、本当ですか? 姉も喜びます」
「あ、雪乃はんも一緒ですか……い、いや、別に構いまへんよ、いつでも」

ハタから見ればなんとも分かりやすい構図なのだが……弦月はその事にすら思いが至っていない。

「あ、と、それで、じいちゃんに届け物て?」
「はい。取り敢えず渡せば分かる、とのことなのですが……それで、お渡しした後に以前頼んでおいた品を受け取ってくるように、と言われて参ったのですが……」
「あー……でも、ワイじゃじいちゃんが何を創ったか分からんしなぁ……今、じいちゃん仕事で出てるさかいに」
「そうなのですか?どうしましょう」
「じいちゃんが帰って来てからワイがひとっ走り届けまひょか?」
「いえ、そこまでしていただくわけにも参りません。それに、私の手で持ち帰るように、と言われておりますし。」
「せやけど……ほな、もし良かったらやけど、じいちゃんが帰るまでウチで待ちます? じいちゃん、そないには遅くならんと思うし」
「よろしいのですか?」
「かまへんて。っちゅうか何もお構いでけへんけど。晩飯ぐらいはご馳走しますよって」
「あら、でしたら私がお作りいたしますわ。待たせていただくのですし……」
「お客さんにそないなことさせられませんて!」
「でも、私が勝手にお邪魔しているのですし。それに、先程素晴らしい演武を拝見させていただきましたから、そのお礼と言うわけではないのですが私も何か……」

弦月の中でずるい部分が囁いた。

『雛乃はんの手作り料理や! 二度とないかも知れんで、ありがたく頂いとき!』



雛乃はんの手作り料理
雛乃はんの手作り料理
雛乃はんの手作り料理
雛乃はんの手作り料理
雛乃はんの手作り料理
雛乃はんの手作り料理
雛乃はんの手作り料理
雛乃はんの手作り料理
雛乃はんの手作り料理
雛乃はんの手作り料理
雛乃はんの手作り料理
雛乃はんの手作り料理
雛乃はんの手作り料理



劉 弦月、陥落。

「ほ、ほな、お願いしよかな」
「はい。お台所、お借りしますね」





とんとんとんとん。
くつくつくつくつ。
幸せの音、という物があるのなら、まさにこれがそうだろう。
少なくとも今この時、劉 弦月にとっては。
台所から聞こえてくる料理の音。
しかも、その調理をしているのが自分の想い人であるのなら……

――― ア、アカン、幸せ過ぎてどうにかなってしまいそうや。

幸せなのはお前の頭だ、と、蓬莱寺京一辺りであれば言ったろうか。
程なく良い匂いが漂ってきた。

「お口に合うかどうか……」

そう言いながら雛乃がお盆に乗せて来たのは、カニ雑炊だった。
冷蔵庫の中身をフルに活用してくれたものらしい。

「うわ、めっちゃ美味そうやん! ほな、頂きますわ!」

興奮と歓喜で震える手を何とか誤魔化し、鍋から取り皿へと取り、口へ運ぶ。

――― 至福。

味の絶妙さもさる事ながら、弦月は既にあちら側の世界に半分トリップしていた。
幸せの飽和状態というものがあるのならば、今の弦月はまさにそれだ。

「美味い! これ、めちゃめちゃ美味いですわ!」
「ありがとうございます」

素直な、そして心からの弦月の賛辞に、雛乃もまたにっこりと心からの微笑みで応える。

「ええなあ、ワイ、こないな美味い雑炊なら、毎日でも食いたいわ」
「えっ…………」

弦月の何気ない一言に、雛乃はうつむいてしまう。雑炊に舌鼓を打つ事に必死な弦月は気付き様も無かったが、頬どころか首筋まで真っ赤になっている。

「……今はまだ駄目ですけど……いずれ、毎日でも……」
「へ? なんか言いましたか、今?」
「いッ、いえッ!」

雛乃の小さすぎる呟きは、雑炊の制服に情熱を傾ける弦月の耳には届かなかったようだ。





夜半過ぎ。
道心が帰宅し、使いの用事を済ませた雛乃を弦月が織部神社まで送っていた。

「今日はホンマ、ご馳走様でしたわ。なんや、結局じいちゃん帰るの遅うなって、こないな時間になってもうてすんまへん」
「いいえ。私も楽しかったですし……」

じれったい以前の会話をしながら歩いて行くと、程なく織部神社に着いてしまう。
もうちょっとゆっくり歩いたり、遠回りをすれば良いような物だが、弦月はにはまだそこまでは望めないようだ。

「ほな、ワイはこれで」
「あ、あの、劉様」

引き返そうとする弦月を雛乃が呼び止める。

「ほへ?」
「あの……これ、よろしければどうぞ。お口にあうか……」
「へ?」
「あ、あの、本日は、バレンタインデーという日らしくて、その、普段お世話になっている殿方に、チョコレートを送る日だとか……」
「え……へ、え、こ、これ、チョコでっか?」
「はい。初めて作りましたので、味の方は自信が無いのですけれど……」
「とっととととんでもない! 雛乃はんの作ったモンなら、ワイ、なんでも喜んで食いまっせ!」
「良かった……」

心底ほっとした表情の雛乃。
異形に囲まれた絶体絶命の危機を潜り抜けた弦月に向けた、あの春の陽射しのような笑顔。

――― ああ、ワイはこの笑顔を見たいから、雛乃はんが好きなんかも知れんなあ……

「ほ、ほな、ワイこれで。おやすみなさい!」
「あ、はい、お休みなさいませ」

これ以上ここにいては抱き締めてしまうかもしれない。
理性が崩壊する前に、弦月はその場から駆け出した。





雑炊作ってもろて、チョコまでもろて。
バレンタインて、ええ日やなぁ……

チョコはともかく雑炊は、というツッコミも、今の弦月には通じないようだった。




SS選択に戻る 茶処 日ノ出屋 書庫に戻る 店先に戻る