その異変は、昼休みに起こった。
「ひーちゃんの、馬鹿ァッ!」
教室中に響き渡る声は、紛れも無く桜井小蒔のものだった。
そのあまりの声量と、なによりもその内容が示した意味に、教室内の時が止まった。
―― え、なに、桜井さん、今なんて言ったの?
―― 今、緋勇の事を、馬鹿、とか言わなかったか?
―― 『あの』桜井が、『あの』緋勇を、馬鹿呼ばわり?
―― ……チャンスだわ。
―― 『真神のおしどり夫婦』が、喧嘩か?
若干名の邪念も混ざっているようだが、教室内の生徒の思念はその一点に集約され、動きが取れるものは誰一人としていなかった。
実際には1秒ほどであったのだろうが、永遠にも感じられたその固まった時間を解き放ったのはつい先ほど小蒔に大声で罵倒された緋勇龍麻だった。
「小蒔こそ、何にも分かってないじゃないか……馬鹿はどっちだよ!」
静かな、だが良く透る低い声で龍麻が言い放った。
その声は固まった時を解き放ちはしたものの、今度は絶対零度の氷の中に閉じ込めてしまった。
―― なんだってぇ!? たとえ桜井が怒っても、笑って許す緋勇が!?
―― JESUS!? ドーユウコトデースカ!?
―― なに、なんなの!? 今日は電波が飛び交ってるっていうの!?
―― ああ……そうか、恐怖の大王が降ってくるのか……
―― 常日頃、究極方陣技『ラブラブフィールド(はぁと)』を振り撒きまくっているあの二人が……口論!?
あまりのショックに言語中枢がアラン化してしまった者もいるようだが、今度こそ教室内の空気は固体化してしまった。
誰も動けない、声を発する事も出来ない空気の中、この状況を招いた当事者の二人は言い合いを続けている。
「ボクが、何にもわかってないって!? なんでそんなことが言えるんだよッ!」
「だってそうじゃないか! 僕の事なんか何も考えないで!」
「考えてるよ! ひーちゃんの方だよ、何も考えてくれないのはッ!」
「よく言うよ、大体小蒔は――!」
ぱぁんっ!
周囲の時を止めたままの、短いが激しい口論は派手な音と共に突然の終焉を迎えた。
小蒔の、手首のスナップが見事に効いた平手が龍麻の頬を張ったのだ。
「ひーちゃんなんて……ひーちゃんなんて……もう知らないッ! ダイッキライだぁッ!」
言い捨てるや否や、小鹿のような軽やかな身のこなしで教室を飛び出す小蒔。
はたかれた頬に手を当て、一瞬呆然とする龍麻。
「僕だって……小蒔なんか嫌いだッ!」
が、逡巡はほんの刹那。すぐにそう叫ぶと、龍麻は小蒔とは別のドアから駆け出していった。
ことここに至って、ようやく教室内の生徒達も息を吹き返し、小蒔が駆け出していったドアと、それとは逆の、龍麻が駆け出していったドアを見る余裕が出来た。
だが教室内の誰が動き出すよりも早く、アイコンタクトを取るモノが二名。
―― チャンスよ。
―― あ、ああ。だが、こういったことにつけこむのは……
―― 言っとくケド、この機会を逃がしたらもうチャンスはないわよ?
―― ………し、しかし………
―― 実力で龍麻から小蒔を奪えるつもり?
―― う………
―― それに、これはお願いでも依頼でもないの。命令よ。おわかり?
―― ……………はい。
この間わずか0.2秒。
恐るべきは菩薩眼、四神の一、白虎を屈服させる事など小猫にマタタビを舐めさせるよりたやすいらしい。
―― それじゃあ、俺が桜井を追おうか。
―― いいえ、それじゃあさすがにあざとすぎるわ。まずは私が小蒔を、貴方が龍麻を。喧嘩したそれぞれの気持ちを上手く使って双方を幻滅させるのよ。
悪魔かお前は。この間0.08秒。
―― わかった。では、桜井の方は頼む。
―― そちらもしっかりね。しくじったら、原子のレベルまできざんじゃうわよ?
菩薩眼の娘は本気だ。
それは白虎にもわかったらしく、誰にもわからないように内心で冷汗を垂らした。
ともあれ、千載一遇のチャンスを逃がすわけにはいかない。
ガンダ○ュウム合金よりもAT○ィールドよりも遥かに硬いといわれている二人の絆に生じた亀裂を逃がす手はあるまい。
ようやく生命活動を再開したばかりのクラスメート達に一瞥をくれ、菩薩眼の娘と白虎の化身はそれぞれの恋敵を追ってドアをくぐった。
―― 小蒔は何処かしら……
菩薩眼の娘、美里葵はうかつにも教室を飛び出した小蒔を見失ってしまっていた。
―― あっちへ向かったのはわかるけど……上? 下? 何とかは高いところが好きって言うけどあの娘ったら本能で動く事もあるし……ああ、もう面倒だわ。
「菩薩ビジョン!」
説明しよう! 菩薩眼の娘・美里葵には、半径20Km内のすべての生体反応を見通す千里眼の力が標準装備されているのだ!(※嘘ですゴメンナサイ)
「……屋上ね。ウフフ、待ってなさい小蒔……」
柔らかく微笑んで、葵がゆっくりと登りの階段に歩を向ける。
その微笑みが傷心の親友をいたわるそれではなく、獲物を発見した狩人のものである事は、幸いに誰も居ない廊下では見る者は居なかった。
―― さて、龍麻は何処かな……
白虎の化身、醍醐雄矢は龍麻の氣を探って後を追っていたが、途中で残存していた氣が途絶えてしまい、追跡しようがなくなってしまった。
―― だが、ここで追うのを諦めるわけにはいかん。俺の為に。
幾多の戦いを潜り抜けて大分人間性が磨かれてきた醍醐クン。かつての友人思いな君は何処へ行ったの?
―― 桜井との仲も大事だが、なによりもまず今目前に迫っている生命の危機を脱するのが先決だ……! 龍麻、何処にいる!
どうやら先ほどの『俺の為に』の内訳は『小蒔とラブラブ=1:葵に殺されたくない=4』ぐらいの比率のようだ。
―― やむをえん……あまり使いたくはなかったが……
「白虎変! オオオォォーッ!」
醍醐の身体がみるみる白虎へと化生していく。
いくら今は周囲に人が居ないからって、大丈夫か醍醐。
「グルルゥゥ……クンクン……」
化生を終えるが早いか、床に這いつくばって匂いを嗅ぎ始める白虎。はっきり言って、恐ろしく間抜けな姿だ。子供が見たら泣く程に。
「……クンクン……あっちか……体育館裏だな」
いつもと変わらぬ毅然とした態度。真神の番格として、四神の一・白虎として恥じない威風堂々たる挙措だが、その目的と最前の行動が全てを滑稽なものにしてしまっている事に醍醐は気づいていなかった。
「小蒔――!」
屋上でめそめそと泣いている小蒔を発見した葵は、女神のような優しい微笑みを浮かべながら声をかけた。
「……ぅ……あおいぃ〜〜〜〜」
自分を呼ぶ葵を確認するが早いか、その胸にすがりついて泣きじゃくり始める小蒔。マリィも顔負けの泣きっぷりだ。
「うっ、ひっく、ひ、ひーちゃ、が、ううぅ〜〜〜」
「大丈夫よ、小蒔。落ち着いて……私はあなたの味方だからね?」
「ひー、ちゃん、が、ボ、ボクの事、キラ、キライって、うぅっうえぇ〜〜」
しゃくりあげながらも、葵に告げる小蒔。
どうやら先ほど龍麻が教室から出る際に叫んだ言葉が耳に入っていたらしい。
「落ち着いて、小蒔……良かったら、何があったのか、私に話してくれないかしら……?
「こっ、ここにいたのか、龍麻」
体育館の裏で何故か体育座りをし、膝を抱えたまま陰の氣を悶々と放ってブラックホールを形成していた龍麻を見付けて、醍醐はともかく声をかけた。
ちなみに今は化生は解いている。
「…………小蒔に嫌われた…………」
龍麻がポツリと言った言葉はあまりに小さかったので、危うく聞き逃すところだった。
「た、龍麻……」
「大嫌い、って言われた……僕もカッとなってヒドイ事を言っちゃった……」
「あ、あのな、ええと……」
いかに人間性が磨かれていようとも、やはり生まれ持った男気は簡単には拭えないのか、友人をいたわるべく口を開こうとする。
良いぞ醍醐、男の中の男!
「そんなに気に――」
キザンジャウワヨ?
するな、と続けようとした醍醐の脳裏に先程の菩薩眼の煌きと共に恐ろしい言葉がよぎった。
――スマン、龍麻! 俺はまだ遣り残した事が――!
白虎、陥落。
「……何があったのか、俺で良ければ話してくれないか?」
「うん……聞いてくれる、葵……」
「聞いてくれるか、醍醐……」
「ええ、私達、親友でしょ?」
「ああ、話すだけでも、楽になるかもしれんしな」
「ひーちゃんったら……」
「小蒔ったら……」
「龍麻が?」
「桜井が?」
「卵焼きにお醤油かけるんだよ!? 絶対お塩だよね!?」
「卵焼きにお塩かけるんだよ!? 普通お醤油だよね!?」
「「……………はい?」」
「せっかく、ボクが『あーん』してあげたのにお塩じゃ食べられない、って言うんだよ!?」
「『あーん』してくれるのは嬉しいけど、お塩をかけた卵焼きは食べられないよね!?」
「「………………………いや……どっちでもいいじゃん、そんなの」」
屋上と体育館裏、期せずして異なる場所でまったく同じツッコミを、菩薩眼の娘と白虎の化身が入れた。
「「どっちでも……いい?」」
それに対するリアクションもまったく同じであったのは当然と言うべきか。
「そっか、どっちでもいいよね。よく考えたら、お塩をかけちゃった卵焼きはボクがひーちゃんに『あーん』してもらえばいいんだし」
「そうか、どっちでもいいんだよ。お塩をかけちゃった卵焼きは、僕が小蒔に『あーん』してあげればいいんだから」
「「あ、あっ、いやそのっ……!」」
「ありがと、葵ッ! やっぱり、最高の親友だねッ!」
「ありがとう、醍醐。やっぱり醍醐は頼りになるよ!」
「「あ………………」」
教室にて。
「ひーちゃんったら。最初に言ってくれれば良かったのに」
「ごめんね、小蒔。せっかく小蒔が作ってくれたお弁当、全部食べたかったからさ……」
「やだもう! そんなの、これからいくらでも……食べさせてあげるよ……」
「小蒔……」
神聖な教室で臆面も泣く惚気る二人を、今度は誰も止めもしなければ奇異の視線も向けない。
そう、これはいつも通りの、日常の中の風景なのだから……
めでたしめでたし
〜〜〜蛇足〜〜〜
「ふぅ、もう午後の授業始まっちまったな」
と、既に5時限目が始まって20分ほどしてから呑気な顔で裏門から帰ってきたのは言わずと知れた剣道部部長・蓬莱寺京一、その人である。
学園を抜け出て、外での食事としゃれ込んでいたのだ。
「また美里に怒られちまうかな……ま、仕方ねえよな、これも付き合いだ」
などとまるで奥さんへの言い訳を考えているサラリーマンのようなことを言いながら、体育館の裏手にさしかかる。
教師の監視がゆるい裏門から入る場合、こちら側を通った方が近道なのだ。
と言うよりも、京一の場合は体育館裏の特等席で午後の惰眠をむさぼるつもりもあるのだが。
「さ〜てと、今日も心地よい睡眠をををををッ!?」
京一が素っ頓狂な声を上げたのは、愛用している樹の下に何やら焼けこげた人物がうずくまっていたからだ。
「……う……きょ……ち……」
「だ、醍醐……? 醍醐か!? くっそう、お前ほどの奴をこんな目に……一体誰が!? まさか鬼道衆!?」
「ちが………みさ………」
「何だ? ミサ……裏密か……!? ……スマン醍醐、俺はナニもしてやれねえ……」
「ち……が……みさ………」
「俺はナニも聞かねえ! ナニも見なかった! すまねえ醍醐、授業が俺を待っているんだ!」
「きょ……待っ……………」
京一が去った体育館裏に、やけに淋しい風が吹いていた。
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