りり、りり、りり。
庭から、虫の声が届く。
――― 虫の「声」って思う文化を持つ、日本人は珍しい例なんだっけ。
ふと、柏木耕一は虫の「声」を聞きながらそう思った。
ここは隆山の柏木家である。
夏も終わり、涼しくなる時期に差し掛かっているのだが、耕一はふと空いた余暇を利用してこの隆山に遊びに来ている。
遊びに、と言うには、少々語弊があるかもしれないが ―――
りり、りり、りり。
今耕一がいるのは、柏木家の居間だ。今年の夏、父の四十九日を過ごしにこちらへ来た時に利用した部屋を、そのまま使わせてもらっている。
夕暮れ間近の涼しい風が、開け放たれた窓から優しく流れ込む。
耕一はその風を頬に感じながら、何をするでもなく佇んでいる……様に、はたから見ると見えるだろう。
例えば。
「耕一、悪いんだけどさ、ちょっと買い物に……」
今ちょうどガラリと障子を開け放ち、窓際に佇む耕一に声を掛けた従姉妹などには。
が、その従姉妹 ――― 高校の制服の上にエプロン、片手にはおタマというすっかり若奥様スタイルのまま、柏木梓は再び耕一の名を呼んだ。
「……って、耕一?」
ひとつには、耕一が常に無くぼーっとしているように見えたから。
もうひとつは、耕一の雰囲気にどことなく違和感を感じたから。
「……ん? あ、なんだ、梓。呼んだか?」
「えっ、あっ、うん。あのさ、ちょっと買い物に行って来て欲しいんだけど」
「買い物? そりゃ構わないけど。買い忘れたものでもあったのか?」
「大根が無かったんだよ。てっきり買い置きしてあると思ってたんだけど……」
「珍しいな、お前がそういうミスをするなんて」
立ち上がり、ズボンのポケットに財布を突っ込みながら耕一が言う。
梓はこの柏木家の家事全般を司っている存在だ。何やかやと文句を言うこともあるが、性に合っているのだろう。そして何より、事実梓の家事のセンスは抜群だ。こういったケアレスミスの類は珍しい。
その珍しいミスをした梓は頭をポリポリと掻きながらぼやくように呟いた。
「朝は確かにあったと思ったんだけど……」
「大根が?」
「うん。学校に行く前に今夜は鶏肉と大根のピリ辛煮にしよう、って決めてたし。まさか耕一が大根かじるはず無いよね?」
「俺はそこまで餓えて無いぞ」
「だよね。うーん、おっかしいなァ。あたしの勘違いかなァ……」
「そういう事もあるだろ。じゃあちょっと行ってくる」
「あ、お願いね。一本で良いから。太いの選んで来てよ」
「お前の足ぐらいに?」
ふと軽口を叩いた瞬間に、部屋を駆け出す。
陸上で鍛え抜かれた梓の脚から放たれる必殺の蹴りが耕一の水月に吸い込まれる前に、耕一はどうにか柏木家を出る事に成功した。
商店街からの帰り道。
結局、大根を一本だけ買って帰る自分がなんとなく気恥ずかしく感じたので、ポテトチップスやジュース、団子なども一緒に買って帰ることにした。
夕食前にこういう物を買っていくと梓は良い顔をしないが、初音や楓、そしてなにより千鶴が喜ぶので(カロリーを気にして複雑な表情はするが)耕一としてはついつい買っていってしまうのである。
「もう、日が沈むのが早いなあ」
夕日を受けて長く伸びた自分の影を見ながら、耕一はふと呟いた。
夏が終わる。
父の訃報を聞き、従姉妹達の待つこの隆山に来て、そして ―――
ざわり。
いけない。
あの時のことを思い返すだけで、耕一の中の「鬼」が蠢くようだ。
いや、いけなくはないのかもしれない。
耕一は、この「鬼」と見詰め合うために隆山に戻って来たのだから。
確かにあの時は、自分の中の「鬼」を御することに成功した。千鶴の危機を救うために無我夢中であったとはいえ、確かに耕一は自分の力で「鬼」を抑え込んだのだ。
千鶴が言うには一度制御に成功すれば生涯抑え続けられるとのことだ。
だが ――― だが、耕一はそれでもなお自分の「鬼」を恐れている。
恐れ?いや、あるいは陶酔か。
自分自身の中で訳の分からない存在として蠢いていた時の恐怖と嫌悪感。
だがそれは、自分の『ちから』として制御できた時、この上ない解放感と快感、そして陶酔をもたらしてくれた。
――― そう、俺は確かにあの時、あの鬼を嬲っている時に、自分の力に酔っていた……
それが恐い。
「鬼」の意識に乗っ取られ、暴走して力を縦横に振るうのは確かに恐ろしい。まかり間違えば、自分もあの連続殺人を犯した鬼と同じに成り下がっていたかもしれないのだから。想像するだけで、悪寒が走る。
自分が罪を犯すという事以上に、千鶴に ――― もっとも大事な人に、この上ない哀しみを背負わせることが、何よりも恐い。
だが。
自分の意志で、柏木耕一の意識のままで、あの力を振るうことに悦びを見出してしまったら……?
耕一は「鬼」を制御できる。
制御するとは、無理に抑え付けるということだけではなく、己の意のままに使えるということだろう。あの事件以来試してはいないが、千鶴が自分の意志で「鬼」を解放することが出来る様に、耕一にも出来る筈だと思う。
――― この星で、最も強い生物……その力を、俺は自分の意のままに使える?
途方も無い恐ろしさと同時に湧き上がる倒錯した暗い悦び。
あの鬼と精神がリンクしていた時に感じた狩猟の悦びは激しく狂おしく耕一の心に痕として刻まれている。
じぶんも、あれと、おなじことが、できるのだ。
ゾクリとする。
悪寒と愉悦。
嫌悪と陶酔。
絶望と期待。
『柏木耕一』は「鬼」に呑まれること無く、その力を制御した。その意思を保つことが出来た。
だが『柏木耕一』は「鬼」の力を振るうことに暗い情念を燃やさないと、誰が言い切れる?
『柏木耕一』が自身の力とした「鬼」を喜び勇んで振るわないと、誰が言い切れる?
少なくとも、耕一にはそう言い切る自信はなかった。
兵器を始めとした力は、持つだけで使いたくなる。
その力が強大であればあるほど、だ。
力の行使に伴う悲劇を、耕一は既にイヤというほど思い知っている。何よりも間近で見たし、そして半分以上自身の体験として体感している。
それでも。
「鬼」の力は、あまりに強大すぎた。あまりに甘美にすぎた。あまりに美しかった。
耕一の中の常識的な部分、モラル、理性、道徳観念、そういった物は「鬼」の存在そのものを無くしてしまいたいと思っている。百歩譲っても、この「鬼」の力は自分達を護るためだけに使うべきだと思っている。
それに相反して、耕一の中の原始的な部分はこの力を使って望むがままに行動することを望んでいる。
勿論、今の耕一自身の望みとしては前者が圧倒的に占めている。元来耕一は争い事を好む性格をしていない。
その上で冷静に自分の中を見ると、野蛮な自分が存在することにいやでも気付かされる。
――― こういう不安を抱く事自体、「鬼」を制御できちゃいないんじゃないか?
自嘲気味にそう思う。
だが、いやだからこそ、耕一はこの隆山に戻って来たのだ。
自分と「鬼」とを見詰め直す為に。
西の空を紅く染めていた夕日は既に大地に接吻を始め、一言では言い表せない幻想的な色を天地に写している。
蒼は朱に変わり、朱は紫に、そして紫は藍から夜の闇へと変貌していく。
黄昏時 ――― 逢魔が刻。
昼と夜が、光と闇が、現実と夢の時間が、互いに出会い、混ざり、入れ替わる時。
耕一は、明るくも暗くも無いその時刻に河原に来ていた。
自身の中の「鬼」のことを考えながら空を見ていたら、ふとここに来てしまったのだ。
「……早く帰らないと、梓に怒られるな……」
そう呟くくせに、荷物を足元に置いたまま耕一は動こうとしない。
耕一の目に映る静かに流れる川面は薄闇の中ですら清冽な煌きをたたえていることが分かる。
りり、りり、りり。
虫の声が、耳に届く。
意識を飛ばさずとも、自然に鼓膜を通って脳に響き、心に染みる。
りり、りり、りり。
自然は、美しい。
そんな当たり前のことを、耕一は唐突に思った。
自然は、美しい。
何故だろう?
それは在るがままだからだ。
そこに在るがまま、在り続けているからこそ美しい。
美しさも、醜さも。
優しさも、残酷さも。
生も、死も。
等しくそこに、在るがまま。
相反する矛盾すらも、偽りなく。
そこに嘘はない。全てを含んで。
だから自然は美しいのだろうか。
――― では、俺は?
内なる叫びに目を背け、抑え込み、自分を騙している。
そんな自分は、自然ならざる存在なのだろうか?
――― 自然ならざる、か……
そうした自分の考えに、自嘲気味な笑みが唇の端に浮かぶ。
りり、りり、り ―――
唐突に、周囲から虫の声が消えた。
風も止み、水面の波紋すら静まりかえる。
まるで、何かの目から逃れるために、息を潜めたかのように……
間を置かず、みしり、と空気が哭いた。
耕一の周囲に空気が凝縮したようだった。
ぎ、ぎぎ、ぎぎ。
耳障りな音が、耕一の足元から鳴る。
河原の石が、不当にかけられた圧力に対して悲鳴を上げているのだ。
ぎぎ、ぎ、ぎぎぎぎ。
耕一の身体の外見は変わらず、その質量だけが増していく。
柏木の家に伝わる「ちから」 ―――鬼の力だ。
耕一の中の「鬼」を、ほんの少し解放しただけで、その身体は質量を増し、周囲から生物を遠ざける。
既に今の耕一の膂力は片腕で軽自動車ならスクラップに出来る程に増大している。駆けても跳んでも、人類史上の記録を軽く更新できる能力を備えているだろう。
――― 2割程度解放しただけで、これか……
肉体の能力の向上と、それに伴う確かな快感。
身に付けた力を思い切り解放できる時、人間は確かに喜びを感じる。耕一にしても例外ではない。だが……この力は身に付けたものではない。汗を流し、血を滲ませ、そうして得た力ではない。
言ってみれば、拾ったようなものだ。それも、当人が望んだわけでもないのに。
であるにもかかわらず、確かに内に湧きあがる快感。それ自体に耕一は反吐が出る思いだ。
夕闇に照らされた水面を、耕一の真紅の瞳が見据える。
その双眸に宿る光 ――― 人間のものでは有り得ない深い血の紅は、例え真の闇であっても苦もなく見通す。
細波すら立たない水面の下には、魚影も無い。
耕一の全身から発せられる「鬼」の気から逃れるため、既に周辺から去ったのだろう。
穏やかな夕日も、今の耕一の周囲では死の気配を感じさせる香りに満ち満ちている。
とはいえ、その気になれば気配を消し去ることすら耕一にはたやすい。
今は、それがわかる。
獲物を求める狩猟者としての本能か、外界の気配を感じ取ること以上に、己の身体のことを感じ取れるようになっている。
自分の身体は、何処まで動けるのか。
自分の身体は、何が出来るのか。
自分の身体は、どれだけ強いのか。
これまで意識もしていなかった自分の体の筋肉を、動かさず、触らず、見もせずに、意識出来る。
そうか、と思った。
これが、野生の獣以上の力ということか。
場違いなことに、そう納得が行った。
今まではただ恐れていただけの自分の変貌を、正しく認識できた。
そして、自分の力への恐怖は更に深まった。
そして、自分の力への陶酔は更に深まった。
――― つくづく救い難いヤツだな、柏木耕一って奴は……
この日、何度目かの自嘲を唇の端に浮かべた時。
ぱきり。
その音が耳に届くよりも早く耕一は振り返っていた。
右手が瞬時に変化し、恐ろしい鬼のそれに変わる。
誰かが ――― いや、自分と同じなにかが、背後に来ていた。
あの夏の事件の際、水門で打ち倒した筈の鬼か?
微弱な、だが紛れも無い鬼気を感じ取った耕一はそう危惧し、静かに自分の気配を消しつつ臨戦態勢に入る。
だが ―――
「……あら、やっぱり耕一さん」
木立を抜けて河原に降りてきたのは、耕一の最愛の女性……柏木千鶴だった。
「たまには歩こうと思って。車を降りて散歩がてら歩いてきたんです」
夕闇に映える美貌に少女のような無邪気さを浮かべて、千鶴はそう言った。
二人は今、河原に並んで腰掛けている。
「歩いていたら、何だか……耕一さんがここにいる様な気がして」
嘘だろう。
恐らく、千鶴は先ほど耕一が放った鬼気を感じ取った筈だ。
狩猟者としての自分を、わずかとはいえ解放していた耕一の気配を ―――
「耕一さん……」
「……えッ? なに、千鶴さん」
ふと、千鶴の声に真剣な響きを感じて、耕一は千鶴を見返す。
「……なにか、ありましたか?」
「え…………」
先程、鬼化していたことに対して言われたのだと思い、耕一は言葉に詰まる。
千鶴は何も言っていないが、耕一が、いや、柏木の血を引く者がその内なる鬼を解放することを決して快く思ってはいないはずだ。理由も無く……理由は無いわけではないにしろ、目的もなく耕一が鬼を解放していたことを千鶴が知ったら、良い顔はしないだろう。
だが、千鶴が言及したのはそれとは異なることだった。
「耕一さん、こちらに戻られてから……なにか、ずっと悩んでいたみたいですから……」
そっと伏し目がちに千鶴が言う。
千鶴の長い睫を横から見ながら、耕一は先とは別の意味で言葉に詰まる。
千鶴は、自分をみていてくれたのだ。
「あの、私で良ければ、相談ぐらいには……押し付けがましいかもしれませんけれど……」
従兄弟の『耕ちゃん』に対する言葉では、それはなかった。
否定的な意味ではなく、それよりも更に深い意味で、言葉のかけ方は確かに変化していた。
――― 話したら笑われるかもしれない。
今まで悩んでいたことが、そう思えるほどに、今まで悩んでいたことが、それほど軽く思えるほどに、千鶴の言葉には重みがあった。
そしてなにより、笑われても構わない、そう思えるほどに、暖かさがあった。
「うん……俺さ ――― 」
耕一が話し終わった時、既に陽は落ちて周囲は初秋の闇に包まれ始めていた。
とりとめも無く、思っていたことをまとめもせずに口から流れるままに、自分の形になっていない不安をただ千鶴に話しただけだったが、それでも千鶴は黙って聞いていてくれた。
「……うーん……」
頬に手を当てて、首をかしげながら千鶴は何やら考え込んだ。
その仕草が、ふと千鶴が耕一よりも年上だということを忘れさせてしまう。
「すいません、耕一さん。耕一さんが、どうしてそれで悩んでいるのか、私にはちょっと分かりません」
「え?」
耕一は、思わず間抜けな声を出してしまった。
千鶴は耕一よりも長く、柏木の『ちから』と向き合って来ている。
それだけ、なにがしかの答えを耕一に与えてくれると思っていたのだが……
「だって、耕一さんは耕一さんですもの」
照れも、迷いも、気負いも無い、ごく自然な一言。
「いくら柏木の力を思うように操れるようになっても、耕一さんが間違った使い方をする筈ありませんから」
耕一は、自分が今恐ろしく間の抜けた顔をしているだろうな、と思った。
自分が悩んで悩んで悩み抜いて、それでも答えが出なかったことを、この女性は悩みもせずに、いや悩みだとすら認識せずに、けろっと言ってのけたのだ。
「くくっ……」
唇から、笑いがこぼれた。
「あははははっ……あはっ、あはははははッ」
「? 耕一さん?」
突然、堰を切ったように笑い出した耕一を、千鶴が不思議な表情で見つめる。
「く、くく……ご、ゴメン。うん。そうだよな、俺は、俺だよな」
目の端から流した涙を指で拭いながら、耕一はようやく笑いを止めた。
「千鶴さんの言う通り、自分の中にある違う自分を意識する俺が、俺なんだ。ははっ、何でこんなこと、悩んでたんだろ」
「…………?」
千鶴はきょとんとしている。
自分の言った言葉が、耕一の悩みを霧散させてしまったことに気付いていないようだ。
「それより千鶴さん、そろそろ帰ろう。俺買い物帰りだったんだ」
「あら、いけない。それじゃ、早く帰りましょう」
ぱっと立ちあがって、二人は家への道を歩き始めた。
――― そうだよな。俺は、俺なんだ。「ちから」に振り回されないようにふんばる俺も、「ちから」を振るうことに喜びを見出したらどうしよう、って考える俺も。今こうして悩んでいるという事自体、俺が俺であるっていう証なんだ。
歩き出してしばらくして、荷物を持っていない方の手で千鶴の手をそっと握る。
千鶴はそれに驚いたようだったが、ふわりとした微笑みを浮かべると自分からも指を絡めて来た。
――― 少なくとも……
千鶴の手のぬくもりを感じながら、耕一は心の中で呟く。
――― 少なくとも、そんな俺を信じてくれる千鶴さんのためなら。
握った手に、少しだけ力を込める。
――― この暖かさのためになら。俺は、自分を信じられる。
山の合間から、太陽が最後の煌きを大地に放つ。
黄昏から宵闇へと、天地が衣を着替え始めた光だった。
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