しんと冷えた桜の花芯に、ぬめるがごとき青白い光が宿っている。
 花霞みの内、底深い宵やみが人待ちげに横たわり、時にゆらゆらと一つ二つの花弁が夢幻をたゆたう。複雑に頭上で絡み合う誘うような枝振りは、熟練の遊女を思わせた。中空にかかる月は、おぼろな紗をまとい面をかくしている。
 柳生の庄の晩春であった。
 そんな薄紅の闇の中を音もなく一人、男が行く。
 年の頃は、四十の坂にわずかに足をかけたほどであろうか、唐獅子を思わせる風貌は長い年月と風雨にあらわれて、超然としていなくもない。年を感じさせぬ頑健な体つきと節くれだった手は、男が武に重きをおくことを誰彼となく明言していた。現に泰然自若といった足どりだが、まったく隙というものがない。それだけならば、場所も場所、名の知れた剣法者であろうと推測されるだけなのだが、ただ、男には、男を男として、他の多くの兵法者から明確に分かつものがあった。
 隻眼である。
 左の眼が、刀の鍔を使った眼帯によって隠されている。
 柳生十兵衛三厳。
 それが男の名であった。三代将軍家光の元に出仕していたが、今年より故地柳生の庄に帰ってきている。今宵は酒豪の十兵衛自らが言い出した、花見の宴であったが、一合もあけず何やらにたぶらかされたがごとく、一人そぞろ歩きを始め、ここにいたったという次第である。
 右上手の小高い丘の上ではじける矯声も、戯れにかきならされる三味の音も夜風に紛れ、遠い。十兵衛は、苦笑を刻み込みゆっくりと歩を進めた。
 瞬間、何の一線を越えてしまったか、はらはらと儚げな様子を見せるだけであった花が、おしつつむように頭上にせまり強風にざっとゆれた。
 薄紅の花弁が理に反して、一気に散り急ぎ視界を奪う。反射的に十兵衛は腰に手をやった。老いたりとはいえ、その胆力にはいささかの衰えも見うけられない。
 桜は魔物の花、そこには鬼が住む。
 そう聞いたのはいったいいつのことであったか。
「妖しの手妻か……何奴?!」
 何か、異様な風体をしたものが、闇にまぎれながらゆっくりとこちらへ向かってきている。
 その謎の人物から、とめどなく、異国の響きを伴う言葉がつむぎだされていた。ばてれんの文句に似たそれは、蘭語のようでもあるが、微妙に違っている、そして全体としての美しさを保ちつつも、異様に調子がはずれていた。若い男の美しい声で詠われる歌は、どこかしら凶々しいものをはらみ、天下無双の剣豪をして心胆を寒からせしめた。
 男は、剣に手をかけたまま油断なく立ち続ける十兵衛の前にどんどんと近寄ってくる。それとともに、歌の凶々しさも耐え難いほどになってくる。と、それがすっと消えた。
 二人は二間ほどのあいだをおいて対峙している。遮るものはもう何もない。あくまでも無表情に唇を真一文字に引き結んだ十兵衛に対し、若者がにっこりと紅をはいたような唇で微笑んだ。それまでのいかにも妖怪然とした凶々しさとはうってかわり、どこまでも無垢な幼子の微笑みであった。ロザリオを繰る手が白く細い。
「現世は夢、夢こそ真」
「迷ったか……」
 そう呟いたのもさもありなん、若者には首がなかった。
 否、あるにはある。
 しかし、それが本来あるべきところにないのだ。美しいその花の顔をそなえた頭の部分は、しっかりと少年自身の腕に抱かれていた。すっぱりと切られた首はなにか不透明な赤いもので覆われていて、生々しさよりも、壊れてしまった人形のような、何かあっけなさを感じさせた。
 じりじりと柄へ手をやりながら、苦い声で十兵衛ははるか昔の、ただ一時ほどの知り人に問うた。
「お前は天堂のぱらいそとやらへ行くのではなかったのか?四郎。一人では寂しいと儂を迎えにきたのか?」
 若者は天草四郎時貞であった。
 もちろんもう何十年も前に、反乱をおこした島原は原城で命を落としている。首級をあげたという話も聞き及んでいた。その噂を聞く都度、どこかで一揆が起こったと聞く都度、やりきれない思いにかられ、十兵衛は風のようにそれをやり過ごしてきたのだ。
 幕府の要職にある父をもつものとして、将軍家光の人となりをしるものとして、何も出来ぬのはわかりきっていたからである。巨大な力の前では個々の力など無きに等しい、それが幾星霜を重ねた剣豪の偽らざる本心であった。ならば何故個々の力にすぎぬ剣法を極めようとするのか、と問われると、わからぬとしか応えようがなかったのだが。
 黙して応えを待つ十兵衛に、若者が重い口を開く。
「私はぱらいそには行かれませぬ……何万もの人を殺めてしまったものに天の扉は開かれませぬ。すべて十兵衛様がおっしゃったがごとく、父上が言に踊らされていただけでございました」
 島原の乱はすべてが切支丹というわけではなく、普通の農民もいた。きっかけをつくったのはキリスト教であったが、実際は宗教的な乱ではなく、松倉長門守の圧政に耐えかねた農民による普通の、だが大規模な乱であったのだ。天草四郎の父、益田甚兵衛がこれを扇動した。嫡男四郎を天の使いと称し、切支丹の結束を利用したのだ。
 もちろん、それらすべては四郎の預かり知らぬ所で行われた。
 ほろほろと桜が散る。
 ほろほろと少年の涙が散る。
「皆の怨嗟の声が聞こえまする」
 天草、島原の農民は多額の租税に苦しんでいた。きっかけはごくささいなことでよかったのだ。限界のそのまた限界まで積み上げた石の山にもう一つ小石をのせるだけだ。それだけで、すべては崩れ落ちる。
 善も、悪も。
 敵も、味方も。
 四郎が『神の使い』になる前、十兵衛は剣の道を求めての諸国流浪中に偶然出会い、小太刀を貸し与えた。
 理由は大したことではない、ただ眼が清しく言語が明瞭なのが気に入っただけのことだ。他に何かつけ加えるとすれば何か重い秘密を腹につめている、そんな思い詰めた表情に、親の意にそわねばならなかった自分を重ねて見、少しばかり哀れみを感じたからであろう。結局は十兵衛は、わざと勘気をこうむるようにしむけて、さっさと堅苦しい城務めから飛び出したのだが。
 その必死な面もちだけが記憶に残る少年が、天草四郎だと知ったのはかなり後になってからのことである。かの宮本武蔵が官軍に加わっていたと聞き及び、すべてが終わってしまった後の原城に赴いたのだ。
 そこは、まさしく地獄の残滓であった。
 あの地獄絵図の中で若者が何を考えたのか、何を思ったのか。
 長いものには卷かれろ、大局を見よ、と言った浪人者をどう思い起こしたのか。型にはまることもできず、かといって大局に弓引くことも出来ぬ小人を。ただただ曖昧なままに日々をすごし、とうとうここまで齢を重ねてきた。
 戦の無いこの世で、生きているのか死んでいるのか、剣はそんな己のすがりつくべき蜘蛛の糸であったのかもしれぬ。
 平安が悪いとはいわぬ、だがそれに安住出来ぬ者はどうすればよいのか、それを業というのか。
 そんな心中を知ってか知らずか、若者は言葉をつぐ。
「……あの折りの小太刀をお返しにあがりました」
「使ったか?」
 血を一度でも吸った剣は、もはや二度と最初の輝きを取り戻すことはない、いかに磨こうとも人の魂を喰らった剣は鈍色に光るのだ。
 問を受けて、堕ちた天の御使いは無言で天に見せるように小太刀を引き抜いた。まごうことなき妖気をはらんで、それは、ぬめぬめと青白い輝きを放っている。
「守りたかった……水の手を掘るために泥だらけになった顔で私を見上げて笑った娘、私に残り少ない握り飯を持ってきた若い男……みんな、みんな、死んでしまった。なぜ、なにゆえ、デウス様は何も言ってくださらないのだ? なぜ、救ってくださらない? もしや、神は!」
……Quo ……vadis ……Domine?……
 少年がどんな死にざまを迎えたのかは想像に難くない。おそらく死に瀕して神を呪い、幕府を呪い、運命を呪ったのであろう。それも、わが身のためではなく他の多くの……とるにたらぬとされている……者のために。
 事実、原城では多くの民が死んだ。無抵抗の老人や女子供まで容赦なく弾丸があびせられた。乳離れせぬ幼子すら、胸に剣をつきたてられた。
 それはすでに戦ではなく殺戮であった。
 血みどろの農民の遺体がいたるところに、場所によっては足場もないほどに転がっていた。腐臭に集まった蝿がまた、その哀れな姿を隠した。
 後に、城の前の田に曝された首は一万八百七十……四郎の母も姉も甥も皆殺された。
「それで、迷うたのか」
 十兵衛の声は苦い。
 しかし四郎の答えは清しいものだった。
「いいえ、悟うたのです」
 唇の端がつり上がり、妖気漂う笑みを刻み込んだ。失うものを持たない狂気の笑いだ。
 徐々に掲げた小太刀がさがってくる。
「どのような正義も教えも、力がなければ何もならないと。それを最初に教えて下さったのは」
 ここで、若者の美しい顔は醜くひきゆがみ、体は何倍にもふくれあがったようになった。その背後に、毒々しい深紅の瞳をもつ黒い影が浮かび上がる。驚いた事にそれは、宿主と奇妙に似通った笑いの表情を刻み込んでいた。
 声が、重なる。
「『柳生十兵衛。貴様だ!』」
 瞬間、銀光がきらめき、何か堅い物がぶつかりあう澄んだ音が一度だけ響きわたった。そして、刃物が肉にめりこむ異様な音が続く。
 静けさが辺りを圧した。
 誰も、動かない。
 ややあって、涼しい面を取り戻した少年が、眉間につきたった小太刀を無造作に引き抜いた。
『さすが、と言っておこうか。我が宿体が投げし小太刀を、太刀ではじきかえすなど、とてもとても。お前も使える……』
「十兵衛様……これでは死なれませぬ……」
 眼前で生首が哄い、泣く。
「お前は……お主らは何物だ! 何故儂を狙う?」
『心の中に不満を山ほど持っておるお前に、力を貸してやろうというのだよ。お前の言うたとおり、この世は力のある者が勝利する、その力を貸してやろうというのだ。悪い話ではないはず……どうだ? この世を再び戦乱の世にしとうはないか?』」
「断る」
 即答であった。一瞬の逡巡すらない。
『何故だ? 十兵衛? 大いなる力が手に入るのだぞ? 力を欲していたではないか? お前の剣術が存分に試せるのだぞ? 何故だ?』
 ここで十兵衛は、初めて笑みをみせた。
「お前には、わからぬ」
 四郎が微笑んだ。影なる邪神がゆらめいた。
『……お前は少し危険なようだ……この男の心を乱しすぎる。のう、四郎よ、マルタやレシイナの敵を討つのではなかったか?』
 マルタは母、レシイナは姉の洗礼名である。
 紅い瞳が輝くと、四郎の顔が人形のように表情をなくす。それを見、十兵衛は、マルタやレシイナが何者かわからぬまでも、その名を言霊として四郎が邪悪なものに束縛されたのを感じとった。
『力求めぬ剣士などなんの役にも立たぬ、死ね!』
「化け物の手先などごめんこうむる!」
 邪神の影が怪鳥のごとく広がり、瞳が煌めいた。
 左手に無表情な首をのせ、右手に小太刀を握り、荒々しく一歩を踏み出す。と、その体が激しくよろめいた。
 そして、なんということか、眉間に突き立った小太刀の傷を中心として、少年の頭が無花果のごとく、はぜわれていく。絹糸のように細い深紅の線が、眉間を、鼻梁を、唇を、おとがいを通り、外側にめくれあがった。
 美しい顔が、異様な音をたててえぐれ、砕け散り、ひしゃげていく。断末魔の苦しみを宿した顔からぼたぼたと蛆がこぼれ落ちる。十兵衛ほど剛胆な男でなければとても正視出来ぬ代物であった。
『口惜しや、やはり死人の体! もうもたぬか。だが、命拾いをしたと思わぬがよいぞ。お前を……時のからくりの……狭間に……』
 その時、最後の呪詛をせんと口を開く邪悪の声を退けて、四郎の声が響いた。
「十兵衛様! お助け下さい! 四郎を殺……」
 悲痛な声はやがて小さくなり、十兵衛が見る前で、少年は木乃伊になり、白骨になった。
 そして、どくろだけが、乾いた音をたてて地面に転がった。
 体は幻術だったのであろう、まったく痕跡すらない。細川家家臣、陣佐左衛門に討たれ、曝されたはずのこの首がいかなる道をたどってここまできたのか。
 最後の弔いにでもならぬかと、十兵衛は頭骨に手をさしのべたが、それはむなしく空をきった。救いを拒むようにどくろは、灰と化しそのまま風にさらわれていった。
しばし、無言で十兵衛は佇んでいた。
 手には少年が残した小太刀が握られている。かなり錆び付いていたが、小太刀には人を斬った跡はまったくみうけられなかった。
 四郎は自らの誓いを守ったのだ。決して自らは最後まで人を傷つけぬという誓いを、だがそれゆえに魔物に魂を絡めとられてしまった。おそらくは……実に笑止なことだが……『自らの手を汚さずしてなにが救いだ?』とでも言われたに違いない。
「斬る……か」
 切支丹は自害はできぬ。よって誰かが斬ってやらねばならない。
 それに己を選んだというならば、受けてやるしかないであろう。数多くの命を奪ったこの身、今更一人や二人で地獄の秤が揺らぐとも思えぬ。だが斬らぬことで自らの証をたてたものがいるとするならば、斬る事により自らの証をたてる者がいてもいいであろう。
 人を斬る重みと斬らざる重み、それをあの化け物は決してわかるまい。

 柳生の庄に、ほろほろと桜の散る……






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