──それはただの噂である。

 出所も知れぬ、まことしやかに流れる都市伝説の類。

 例えば、それを耳にした少女。

「──聞いたことあります? その噂」
 不意にクラスメートから投げかけられた、他愛も無い会話に彼女は戸惑う。
 何しろ彼女は、その噂話を知らなかったのだ。
 容姿端麗、文武両道、品行方正……学生として非の打ち所の無さを“演じている”彼女であるが、世間話には疎かった。
 無論興味が無い、というのもある。だがしかし今回に関しては、その噂話が上る舞台こそに問題があった。
 即ち──
「あ、ええ、ごめんなさい。わたし、その方面には疎くて」
「そうですよね! ちょっとアンタ、何つまんない話を聞いてんのよ」
 無縁なのはつまらない噂話ではなく、その噂が広がった媒体そのものなのだが、彼女達はそう受け取らずに無謀な友人を嗜める。
「え、だ、だって加奈子が聞けって言ったんじゃないー」
「ちょ、あたしのせいにするの!?」
 質問を投げかけられた当人を無視し、以後再びグループの輪に戻る少女達。そんな騒がしさが遠ざかるのを意識の外に置きつつ、彼女は先の話を手慰みに分析してみる。

(カテゴリーとしては“魔術”に該当するけれど、魔術で行使する意味は薄いわね)

 “魔法”とはどれほど時間や技術を費やしても実現が不可能な“神秘”を指し、“魔術”はその逆、原理や手段・時間や技術を問わず費やせば誰にでも実現可能な代物を指す。勿論現実的に、一般市民には費やすことの出来ない様々は存在するのだが。
 漫画の世界では当たり前のように実現されているタイムマシン=時間遡行は、今のところ魔法の領域である。だがいずれ天才が現われ、莫大な資金や人員・時間を投入し、技術として確立させた瞬間、時間遡行は魔術となる……魔法と魔術の関係はこのようなモノなのである。
 で、先の話は経過の説明こそ怪しげだが、現実世界には似た話がいくらであるだろう。

(インターネットとかで──よく知らないけど──依頼を募り、高額の条件で依頼人の要望を実現する。非合法な世界に手を染めた人間であれば、案外珍しい職業では無いのかもしれないし)

 自らも“呪い”を扱う彼女だが、

「ま、馬鹿馬鹿しい話よね」
 少女・遠坂凛は一笑に付した。

****
 ──それはただの噂である。

 出所も知れぬ、まことしやかに流れる都市伝説の類。

 例えば、それを耳にした少年。

「──衛宮は知っていたか、あのような都市伝説の類を」
「ん? ああ、まあ噂はな」
 端正な顔を曇らせ、不満を隠そうともしない友人に、少年は苦笑の成分を込めて頷いた。
「全くもってけしからん。他力本願で困難を終わらせようとする考え方も好かんが、そもそも“地獄”の概念を取り違えておる」
「まあ落ち着けよ、一成」
 実家が寺である彼の憤りが向いた大半はその部分なのかもしれない、と少年は生徒会長・柳洞一成をなだめる。
「地獄とはそもそも悪行を為した者が、死後に送られ罰を受ける──つまり生前の生き方を問うものであり、真っ当な生き方を過ごしている者には無縁の世界だ。それを他者の思惑で左右するなど噴飯ものだと思わんか衛宮」
「──そうだな」
 どこか上の空で肯定を返す。彼の脳裏には友の言葉から思い出した、紅く染まった世界が広がっていたからだ。
 彼にとって、あの光景こそが“地獄”。その認識の誤りは一成の言葉が示していたのだが、そう簡単に価値観は変えられない。
 ゆえに彼の想う“地獄”とは夥しい死が横たわる世界であり、救世はそこからの解放、否、そんな世界をも認めない、あんな光景を二度と許さない存在を指した。そう、例えば彼にとっては養父であり──
「喝! 朝からくだらん話に耳を汚してしまった。すまんな衛宮」
 曖昧に頷いて彼は回想する。
 彼の目指すもの、それは亡き養父が挫折し、しかし彼にとっては養父こそがそれであり、そして彼が養父の遺志を継いで目標とするもの。誰も犠牲を出さず、全てを救う者。その想いからすれば、彼としても許容出来る話ではない。

「そうだな、認めちゃいけないよな」
 少年・衛宮士郎は否定した。

****

「“地獄通信”なんて」

****


Fate/stay night 〜闇に舞う蝶〜 第1話



 衛宮士郎は魔術師である。
 その技術は日常と些か乖離した存在であろうとも、過去にどのような経験をしようとも、それ以外はごく当たり前の日常を過ごしていた。
 そんな日常は。

 夕暮れを過ぎた校庭で一変した。

「な────」
 何か、よく分からないモノがいた。
 赤い男と青い男。
 時代錯誤を通り越し、もはや冗談とすら思えないほど物々しい武装をした二人の男が、本当に斬り合っていた。
 魔術師であるとか、そうでないとか、そういう知識の外で彼は瞬時に認識したのだ。
 これが普通の出来事ではないと。
 人間が関わってはいけないモノであると。

 生物としての感性、生存本能とでもいうべきソレが納得よりも行動を促した。

 この場に居ては死ぬ
 すぐさま逃げるべきだ

 彼の肉体は理性を超えたところでそれを実践しようとし──

「運がなかったな坊主。ま、見られたからには死んでくれや」

 無意味な、そして僅かな逃走劇の果てに、死を迎えた。


****
 ……そのはずなのだが……。

 学校の廊下で彼、衛宮士郎は不意に目を覚ました。
 身体はあらゆる不調を投げかけていたが、彼は生きていた。
 唯一己の死をイメージさせるのは制服の胸の部分が破け、廊下と制服をべったりと塗らした血の跡だけである。
「……何が、起きた?」
 当然ながら、そんな自問に応えるモノはその場に存在しない。
 朦朧とする頭を抱えて立ち上がり、彼は手足に力が入らないのも構わずに廊下の清掃を始める。
(……あれ、なにしてんだろ、俺……)
 パニックに陥った頭の命じるままに、廊下を染め上げた自分の血を雑巾で拭き取り、落ちていたゴミを拾い集めてポケットに入れる。それは非日常な出来事に触れたがゆえの、日常を求めた行為なのかもしれない。いずれにせよ現実逃避の類であるのに間違いはないだろう。
「あ……はぁ……はぁ……はぁ……」
 手近な教室から借りた雑巾とバケツを片付けて、ゾンビのような足取りで学校を後にした。
 まだ頭の中は過剰な熱と混乱で正気にはほど遠い、それでも自宅に辿り着けたのは優れた帰巣本能のなせる業か。
「……あ……はあ、はあ、は────あ」
 どすん、と床に腰を下ろし、そのまま寝転がる。帰宅出来た、という思いがようやく彼の気持ちを落ち着けていく。
「…………」
 深く息を吸い込み、
「……ッ」
 士郎の胸にヒビが入っているかのような痛みが、心臓に走る。
 ……いや、それは逆だ。
 実際はヒビどころではなく、穴が開いていたはずだ。それが治ったばかりだからこそ、深呼吸などで胸を膨張させると傷が開きかけ、痛みを発するのだろう。
 そしてその痛覚の刺激が彼に認識を新たにさせる。
「……殺されかけたのは本当か」
 いや、それすらも正確さに欠ける。
 殺されかけたのではなく、本当に“殺された”。
 それがこうして今なお生きていられるのは、誰かが助けてくれたからだ。“死んでいた”身であるが、朧気ながら覚えている、気がする。
「……誰だったんだ、アレ。礼ぐらい言わせてほしいもんだけど」
 あの場に居合わせた、ということはアイツらの関係者かもしれない。それでも彼を殺した青い男の意に反して助けてくれたことに変わりはないのだから、恩人には違いない。
「いつか、ちゃんと礼を言いたいもんだ」
 既に過去のこととして捉えたためか気が緩み、
「あ……ぐ……!」
 再び痛みが舞い戻る。それと共に甦る、胸に槍の穂先がずっぷりと突き刺さる感触。決して許容したくない、不快感のイメージ。
「……くそ。しばらく夢に見るぞ、これ」
 気を落ち着かせようと目を瞑れば、再び湧き上がる死の記憶。それをどうにか振り払い、彼は冷静さを取り戻そうと努めた。
「……よし、落ち着いてきた」
 毎晩の、魔術師としての鍛錬の賜物か。深呼吸を数回するだけで思考はクリアになり、暴走する体温の熱さや嘔吐感も下がっていった。
 それでようやく、彼は自身の身に降りかかった災厄に思いを馳せることが出来た。
「それで、アレのことだけど」
 青い男と赤い男の戦い。
 どう考えても、いや、考えるまでもなく人外と理解した存在同士が校庭で繰り広げていた、非日常の光景。
 それと重なって冬木の町で起こる、不吉な事件の数々。
 この2点に関係があるのかどうかはわからないが──彼にとって判断出来たのは、自分の手には到底負えない事象である、ということだけだった。
「……こんな時、親父が生きてれば」
 殺されたという事実があまりにも彼の心を打ちのめしたのか、彼にとって頼れる大人を引き合いにした弱音が漏れる。
「──間抜け。判らなくても、自分に出来ることをやるって決めてるじゃないか」
 “正義の味方”を目指すものとして、魔術師をその手段として選択した彼は気弱さを恥じる。
 弱音を吐くのは、自分に出来ることをしてからである。

(そう、例えば──これらの件に関わるのか関わらないのか、その選択から──)

 ──この時点で彼は己を事件の外に置いていた。『助かった』から、もう渦中から外れたと錯覚していたのだ。

 衛宮士郎は、それがそもそも誤りだったと気付かされる。

「──!?」

 屋敷の天井につけられていた鐘が鳴った。
 彼の屋敷は腐っても魔術師の家。敷地に見知らぬ人間が入ってくれば警鐘が鳴る、それくらいの結界は張られていた。
「こんな時に泥棒か──」
 そんな呟きは、彼の無意識からきた逃避だったのかもしれない。そして冷静さを旨とする魔術師としての彼が、その逃避を否定する。
「……そんなはず無いじゃないか」
 このタイミング、あの異常な出来事の後で、その程度の異常にまみえるはずがない。
 侵入者は確かにいる。それは理性の囁きだ。
 それは泥棒なんて存在じゃない。これは感性の囁きである。

 だって、あの男は──既に彼は侵入者が誰かを本能で理解していた──槍持つ青い男は言っていたのだ。

『見られたからには殺すだけだ』と。

(ならば、生きていれば、どうする?)

 物音ひとつしない闇の中、確かに──あの校庭で感じた殺気が、少しずつ近づいてくる。
 背中に針刺すような悪寒を感じつつ、漏れ出しそうな悲鳴を懸命に抑える。
(慣れるべきだ)
 そして無理矢理心を落ち着かせようとする。理屈では到底納得いかないだろうことを、なんとか飲み込んで。
(殺されようとしているのは2度目、だからいい加減慣れるべきだ)
 不可能事を、繰言のようにして。
(それだけでもさっきのような無様は見せられないっていうのに、衛宮士郎は魔術師ではないのか)
(なら、こんな時に自分さえ守れなくて、この8年何を学んできたというのか──!)
「……いいぜ、やってやろうじゃないか」
 恐怖を論理で──それも随分と破綻した論理で押さえ込み、生き残るための方策を選び取ろうとした。

 ──その想いが、結局のところ、彼を寸前で生き残らせたのは確かであった。
 それが彼の望んだ道へ続いたかどうかは別として。

****
 彼は確かに“自分に出来るだけのこと”はした。
 修めた魔術“強化”──その名の通り、対象を“強化する”魔術である──を行使し、丸めたポスターに鋼の如き強度を持たせた。
 青い男を出し抜くことが可能な唯一の情報、“彼が魔術師である”という事実を駆使し、士郎は懸命に戦った。
 が。
 彼のアドバンテージは彼の命を長らえさせる以上の事、端的に言えば、彼の命を助からせる──青い男を撃退することには繋がらなかった。
 率直に言えば。
 その程度の有利で、覆せるほどに甘くなかったのである。彼と、青い男の差は。

「ぐッ──!」
 土蔵の壁にぶつかり、背骨が折れたと夢想する程の衝撃を引き摺り、士郎の身体は地面へと叩き付けられた。
 それでも偶然と運はまだ彼に味方していた。強化した武器は失われ、全身は軽傷だらけ。しかしこうして目的地であった土蔵に辿り着けたのだ。
「は────はあ、は」
 霞む視界で士郎は槍持つ男を確認する。
 遥か先──20メートルは離れた先に男を見据え、彼は愕然とする。あの距離から土蔵の壁に衝突するまで、彼は蹴り飛ばされたのだ。
 そんな一瞬の自失の間にも、男は得物を持ち直して突進してくる。その速さは並ではない。
「ぐ──!」
 様々な思いが一点に集約される。
(殺される。
 間違いなく殺される。
 男はすぐさまやってきて、自分を殺すだろう。
 死にたくないのなら、立ち上がって、迎え撃た、なれけ、ば──!)
「──」
 刹那の時間にも男は殺到し、死の穂先は士郎に向かって迸る。
 雷光の如き速さに反応することも出来ず、彼の身体は崩れ落ち──

 鉄同士の打ち付けあう音が鈍く強烈に鳴り響いた。

「チィ、男だったらシャンと立ってろ……!」
 またも悪運が士郎の身を守る。脱力に身体を支えきれず、膝を折ったのが幸いし、死の槍は寸前まで彼の頭があった場所を強打したのだ。
 そして槍が打ち据えたのは、土蔵の重い扉である。その衝撃は軽くない鉄扉を開かせるに充分だった。
「あ──」
 それは予期せぬ、そしておそらく限りなく少ない幸運の欠片。
(土蔵の中に入れば、何か──武器になるようなもの、が)
「ぐッ──!」
 活路を求め、士郎は四つんばいになって土蔵の中へと滑り込む。
 しかし槍の男もそれを黙って見過ごすわけもなく、
「そら、これで終いだ──!」
 避けようのない、必殺の槍が追い越すように放たれた。
 そう、避けることは叶わない。
 なれど。
「こ──のぉぉおおおおお!」
 それを防ぐことは不可能ではなかったのだ。 
 折れ曲がり、辛うじて棒状だったポスターを広げ、一度きりの盾とした。
 ポスターは主の身を、半分守った。
 槍の一撃を受け止めはしたが完全に止める事は出来なかったのだ。槍は貫通し、
「あ、ぐッ……!」
 槍の衝撃に吹き飛ばされ、彼は内壁まで弾き飛ばされた。もう何度目の呼吸停止か、
「ぁ──、づ──」
 床に尻餅をついて、止まりそうな心臓に喝を入れる。今宵既に一度止まった心臓を鼓舞し酷使し、武器になりそうな物を求めて彷徨う視線の先に。

「詰めだ。今のはわりと驚かされたぜ、坊主」

 槍を突き出した男の、鋭い笑みがあった。

「────」
 もはや、この先などない。
 強運と幸運と悪運、そして微量の実力によって生き長らえた彼の命だが、男の槍先は士郎の胸元にぴったりと向けられていた。
 つい数時間前に彼が味わった痛み、容赦なく押し付けられた死の芳香を放つ凶器。
 ──逃れる術は、無かった。

「……しかし、分からねえな。機転は利くくせに魔術はからっきしときた。筋はいいようだが、まだ若すぎたか」
 槍の男が口にした疑問を、士郎は知覚していなかった。彼の意識は今、目の前の凶器に収束してしまっていたがゆえ。
 一度それによって瀕した死に再び直面し、他の何が考えられようか。
「もしやとは思うが、おまえが七人目だったのかもな」
 こうして一晩に2度遭遇した死に、士郎の意識は槍の穂先にのみ向けられていた。
「ま、だとしてもこれで終わりなんだが」
 男の腕が動く。槍を自然な動作で一瞬だけ引き、それを上回る速度で突き出した。
 士郎の目には、今まで一度も見えなかった槍の動きが、スローモーションのように感じ取れた。
 走る銀光。
 彼を殺すべく進む穂先は、一秒にも満たない時間で胸板を貫くだろう。
 それでは、助かった意味が無い。
 助けられた意味が無い。
 既に一度殺された彼が、再び殺されるのだ。
 そのあまりにも無意味な事実の前に。

「ふざけるな、俺は──」 

 それは本当に彼の口をついて出た叫びではなかったのかもしれない。
 しかし意思は、理不尽に怒る意識は、不意に湧き立った感情の迸りは電光よりも早く、あらゆる恐れや怯えを超越して彼の脳裏を焼き尽くした。

「こんなところで、
 おまえみたいなヤツに、
 殺されてやるものか──!!」

 チリン

「え──?」

 あらゆる感情が加熱した中で、

「なに……!?」

 その鈴の音は、どこまでも無慈悲に鳴り響いた。

 土蔵の壁に遮られた月光が生む闇の中、それは、彼の背後に立っていた。

 士郎の思考は、灼熱の奔流は嘘のように静まり返り、ただ現われたそれを見つめる。半ば凍りかけた彼の意識には、それが少女の形をしていることしか判らない。

 そして彼の命を奪うはずの槍は、彼の目の前にて停止していた。それを持つ男の意識も、もはや士郎には無かった。

「──本気か、七人目のサーヴァントだと……!?」

 槍の穂先を士郎から、闇の中に佇む影へと向ける男。
 士郎と男、2対の視線が小さな人影を見据えて、

「!?」
 影の中から何かが飛び出した。その飛び出した何かは、槍持つ男の懐に躊躇う事なく踏み込む。
 男は完全に不意をつかれた。
 何故なら、それは文字通り突然現われたからだ。
 件の少女らしき影は、あの場から動いていない──!

「く──!」
 男が苦鳴を漏らした。己に向かって突進した何かを食い止めるべく槍を手元に引き寄せる。

 ゴッゴグッ!

 鈍い音がした。それは先の、槍が鉄扉を叩いた音に等しい、重く鈍い音である。
 鋭さは無い、しかし軽くない、あの男をして軽視できない重さの乗った攻撃であったのだろう。士郎のあらゆる攻撃に揺らぎもしなかった男が、たたらを踏んだのだ。
「チッ──!」
 形勢の不利を悟ったのか、男は獣のような俊敏さで土蔵の外へと飛び出した。それを追う人影も迷わず飛び出し──

 土蔵に静寂が満ちる。
 佇む闇は、一瞬の活劇にも反応を示さず、ただそこに在り。

 風が吹き抜けた。
 
 冬の夜、強風にあおられた天空の厚い雲は流れ、僅かな時間だけ月の恵みを下界にもたらす。
 土蔵に差し込んだ銀色の光が、闇の中を照らし上げる。

「────」

 士郎は声を失った。
 突然の出来事に混乱したせいも否定は出来ない。だが、もっと根幹の部分で彼は自失したのである。
 冷たい月光が照らし出したのは、月影を凌駕する闇であったから。

 平凡なセーラー服に身を包み、腰にまで届いた長髪はさらりとして美しい、華奢な少女。
 白皙の面、抜けるように白い肌──生気を感じさせない人形めいた眉目は、その凍りつく闇の気配を際立たせていた。
 白と黒、陰陽を織り成す色彩の中、鮮やかな赤が彼を虚ろに見つめる。
 白と黒、黄昏の中に垣間見た幻像のような少女は、床にへたり込む彼を血の色をした瞳で見下ろしていた。

 彼の主観としては随分な時を経た頃、少女は何の感情も映さない、紅い瞳で彼をただ見つめ。

「──あなたが召喚(よ)んだのね」

 微かにそよぐ風のような声で、そう告げた。

「え……呼ん、だ……?」

 鸚鵡返しに言葉を繰り返す士郎。彼は何を問われたのか、何を聞かれたのか、何を確認されたのかを理解出来ていなかったのだから無理もない。
 衛宮士郎に判ることはただひとつ、この小さな、華奢な身体をした少女は、彼ら──外の男と同じ存在であるのだろう──という事だけ。
 この少女は青い男や赤い男と異なり、古めかしい武具に身を固めたりはしていない。
 しかし、それでも“判る”のだ──この少女が、この場にいるだけで異質な存在である、と。

「な、何を……」
 息苦しさと似通った圧迫感を前に、彼は少女の意図を問いただすべく口を開き、
「──ッ」
 左手に走った痛みに途切れさせる。それは例えるなら焼きごてを押し当てられたような熱を伴う痛み、士郎は反射的に左手の甲を押さえつけた。それは特に意味の無い、生理的な反射の為せる行動だったのだが、凍りついた刻を動かす役割を果たした。
 それが合図だったかのように、紅い瞳の少女は僅かに首肯した。
「──あなたは3度、正式な契約に依らず誰かを流すことが出来る……一連の事象に関係する者に限られるけれど」
「な、け、契約ってなんの────!?」
 衛宮士郎は未熟なれど魔術師である。人外の存在、それも何処から現われたとも知れぬ存在が口にした“契約”の意味するところを知らぬわけもない。魔術師における契約という言葉の認識、それは何かを代償に何かを得る事──。
 彼の焦燥を込めた問いに少女は耳を傾けず、むしろ彼の動静にそれ以上の関心を抱くことなく、視線を転じた。
 少女の視線の先は土蔵の外──槍持つ男と、対峙する影の立つ庭先。
「──」
 彼が何かを思うよりも早かった。闇に溶けるように、影に滑り込むように──彼の目の前で、小柄な少女は文字通り忽然と姿を消したのだ。
 呆気に取られ、それを見届けるしかなかった士郎が打撃音を知覚する。
「!」
 それで思い至る。身体の痛みも忘れ、彼は手近の鉄棒を握り慌てて土蔵から飛び出した。少女の雰囲気に飲まれ失念していたが、あの男は居なくなったわけではない。誰かもうひとり、あの少女を庇うように飛び出した誰かが追い出したに過ぎないのだ。
 そしてこの音、未だ争うが続いているような音はまさしく。
「やめ──」
 土蔵から飛び出し、制止の叫びを上げようとした彼の声は、
「な────」
 さらなる驚愕の前にかき消された。

****
 男を捕らえた驚きは小さなものであったが、真実その色に染まった感情であった。
 男は自分の技量に自信と誇り、そして矜持を持っていた。槍捌きに関しての自負を抱き、何よりそれを証明する武勲を挙げてきた。
 確かに今は本気ではない、彼のマスターが命じた通り、彼は本気を出してはいない。
 しかし。
「──爺さん、アンタ何モンだ?」
「さあて、お前さんはランサーってやつなんだろうが、俺は何者なんだろうな」
 一端槍を引き、距離を置く。ランサーと呼ばれた男の対峙するのは、和風の着物を着こなした小柄な老人である。目じりの皺に埋もれるような細い目をし、その目元と口元には好々爺然とした笑みが浮かべている。勇猛さも剽悍さも窺えない、普通の老人に見える。
 されど。
「タダ者じゃねえのは判ってんだ、タダの爺さんがオレの槍をそうも無手で凌げるかよ……柔術ってヤツか?」
 ぎらり、と相手の心を射抜く視線を向けて質す。
 そう。この老人は、彼の繰り出す槍の連撃を素手で捌いたのだ。ランサーの突きは単調な突きではない、得物を絡め取りねじ切るような捻り、横薙ぎに変化して相手を吹き飛ばす一閃なども含まれる。仮に突きの速度に対応し、掌や手の甲で槍を捌けたとして、それらの突きを受ければ皮膚は裂け肉は抉られ、場合によっては腕がもぎ取れてもおかしくないはずなのだ。しかし老人は息こそ切らしているものの、その手には怪我ひとつ見当たらない。
 ──これは柔術云々の話ではない。
「そんな立派なモノじゃないさ……ちょいとばかり長生きの経験を活かした手習いってやつだ」
「ぬかせ」
 両手をぶらぶらとさせる老人の仕草に、ランサーは槍を下げる。それは戦闘を止める意思表示のようでもある。
「ん?」
 老人はランサーの態度に戸惑いを示す。しかし士郎は──激闘を目の当たりにし、言葉を失っていた彼はその構えの意味を知っていた。
 数時間前、夜の校庭で行われていた戦い。その最後を飾るはずだった、必殺の一撃を放つ構え。
「……ついでにもうひとつ訊くがな。お互い初見だしよ、ここらで分けって気はないか?」
「ふむ……」
 老人は構えの意味を知らずか、顎を擦って思案のポーズを示す。
「悪い話じゃないだろう? そら、あそこで惚けているオマエのマスターは使い物にならんし、オレのマスターとて姿をさらせねえ大腑抜けときた。
 ここはお互い、万全の状態になるまで勝負を持ち越した方が好ましいんだが──」
 停戦の申し出、しかし迸る殺気はそのまま。この提案を額面通りに受け取る者はおるまい。発言次第ではそのまま一気に勝敗を決する──そう解釈する方がより正しいに違いない。
 半ば脅しの譲歩に、老人は。
「どうだい、お嬢。この若造の言葉、受けるかい?」
「……あ?」
 その返答にランサーは刹那困惑し、
「──!」
 士郎は驚きに目を見開く。
「!!」
 青の槍兵が跳躍する。彼の鋭敏な感覚、獣じみた勘がそうさせた。中空にて下界を睥睨し──その正しさを確認した。

 ついぞ今まで彼の立っていた場所の背後に、何かが佇んでいた。
 それほどの接近を、彼ほどの英霊に気付かせないままで。

 距離を置く。並の人間であれば充分すぎる間合い、しかしランサーにとってなら一足飛びの間合い。そんな青い死神を、紅い瞳が捉える。
 ランサーの瞳も赤みがかった色合いである。しかし彼のそれは炎の赤であり、少女の赤は紛れも無く血の赤。
 刹那、交錯する視線。

「……テメェ、何だ?」
 “何者だ”ですらない誰何。研ぎ澄まされた殺気を宿したまま、ランサーは警戒の声色を放つ。
 外見こそはまるで威圧感の感じ取れない、平凡な少女の形をした“それ”。
 しかしランサーなどからすれば質の悪い冗談にしか映らないのである。それの発する気配、それの纏う空気、それが漂わせる濃厚な死の匂い……“英霊”である彼には判る、これは少女の形をした“死”。
 だからこそ彼は気付いた。奇妙な老人などより余程異質な少女の正体を。
 だからこそ彼は疑念を抱いた。彼の知るどの英霊の属性にも当て嵌まらぬ少女の本質を。
 だからこそ彼は問うた。代表的なクラスを外れたであろう彼女の分類を。
 が。
 槍持つ猟犬の刺すような視線をまるで意に介さず、少女は老人へと目を向けた。
「──彼はまだ、迷ってる」
「そうかい、なら暫くは待たないといけないわけだ……」
 嘆息まじりに老人は頷いた。
「若造、聞いての通りだ。お前さんがどうしても逃げたいってんなら、止める理由はないとよ」
 ぎり。
 強く噛み締めた歯軋りの音が士郎の耳までに届く。その怒りを湛えたのは、ランサー。燃える瞳で老人を、彼を侮辱したに等しい言葉を吐いた老人を睨みつけていた。
「……今の言葉、オレの槍に誓約(ちか)って忘れん」
 地の底から響く呪詛のような声と、怒りの表情を残し、ランサーは軽く跳躍した。どこまで身が軽いのか、彼の槍にも劣らぬ軽捷さで塀を飛び越え、そのまま一切の気配を残さず消え去った。

 こうして衛宮士郎は、2度目となるランサーの襲撃から辛くも逃れたのであった。彼が予想だにしない、奇矯なる運命を経て。

****
 目の前の脅威が立ち去ったことで、士郎は緊張から一挙に解放される。
 そうなることで彼の肉体は思い出す、殺された時ほどでないにしろ、ランサーの追撃から逃れる過程で大小の打撲裂傷が刻まれた事実を。
「く────ッ」
 痛覚の抗議を受け、反射的に身体を庇うべくその場にしゃがみ込む。そうしても命の危険は無いのだから。
「……おう、大丈夫かい小僧」
「え、ええ、なんとか──!?」
 気さくにかけられた声へ返事をし、そのまま身構える。途端に走る鈍い痛みの数々にうめき声が上がった。
 彼に近寄ってきたのは、あの老人である。ランサーの振るう槍を捌いて見せた、やはり人外であろう存在。
「おいおい、無理すんじゃねえ。おい、小僧の治療を──」
「まだ」
 清流のせせらぎが老人を押し留めた。あまりにも短い一言、しかしその場にいる全員が、少女の漏らした言葉の指す内容を把握する。
「……おい、一目連?」
『──お嬢の言う通りだ、赤い男のサーヴァントと、マスターらしい若い女がひとり』
 老人の誰何にどこからか若い男が応える。士郎が周囲を見渡すも、それらしき男の姿は見当たらない。それに彼のより強い関心は、男の発した単語に向いていた。
 “赤い男”──校庭でランサーなる男と戟を交わしていた、双刀使いの男に違いない。
「どうする、お嬢」
「……契約を破棄するかどうか、彼が答えを出すまでは」
 他人事にも聞こえる少女の回答に、しかし老人達は不平ひとつ漏らすことも無く。
「あいよ。一目連、奴さん達の位置を教えろ。追い返すか倒しちまうかは、そん時に決める」
『──こっちから門の右、塀の前辺りだ』
「骨女、小僧は任せた」
「あいよ」
 またも唐突に、今度は若い女の声──いや、姿を見せた。
 着物を肩の辺りで着崩した、しかしそれが似合う美貌をした妖艶な女性である。かんざしと結い上げた髪が全体の印象として、時代劇の遊女か花魁を思わせる。
「坊や、大丈夫かい? おやおや、こんな傷だらけでよくもまあ」
 手ぬぐいで士郎の傷を拭いだす。格好の奇抜さと相容れぬ手際の良さである。
「──お前達、何者だ?」
 異常事態の連続に飽和しつつある頭で、士郎はそれだけを問う……他に訊きようが無かったとも言えるが。そんな彼を半ば気遣う、半ばからかうように、
「落ち着いたらお嬢が話してくれるさ、坊や。アンタには契約のことも決めてもらわなきゃなんないだろうしね」
 “契約”──またその言葉が出てきた。魔術師として、何かを得ることで何かを失う表現。
「だから何を──」
 この期に及んで、まだ言葉を重ねようとした彼の努力は、夜を照らす赤い輝きによって遮られた。
「な────ッ!?」
 塀の向こう側に立ち登った、赤い輝きとそれに続く女の悲鳴。
「おやおや、輪入道、轢いちまったのかね?」
 秀麗な眉目をやや顰め、暢気な感想を述べる着物の女性。そして士郎は彼女の漏らした言葉を全て飲み込んだわけではない。しかし、これだけは理解出来た。
「──まだ戦ってるのか!?」
「サーヴァントってのが来たんだろ? じゃ、仕方ないさね……って坊や、どこ行くんだい!?」
 女性の肯定を受け取った瞬間、士郎の身体が動いた。後先考えず、全身から発する鈍い痛みを無視して全力で走り出した。引き止める声を無視し、彼はそのまま悲鳴がした場所へと向かって駆け出す。
 誰か、無関係な誰かが巻き込まれたのかもしれない。それも彼が目撃した“何か”のせいで生じた厄介事のせいで。

 それだけは、それだけは──!

****
「……いる。さっきのランサーのサーヴァント……!」
 遠坂凛は唇を噛む。濃密に漂う気配は塀の向こうから──つまりランサーはとっくに屋敷の中に忍び込み、訳も分からず帰ってきただろうアイツを、再び殺そうとしているのだ。
 彼女の決断は早い。
「……飛び越えて倒すしかない。その後のことはその時に考える──!」
 己のサーヴァント・アーチャーに突入の指示を送ろうとしたその時その瞬間。
「────ッ!?」
 不吉な。
 別種の。
 魂が底冷えするような、凍える感触が、屋敷の中から迸った。
「────」
 気配が、静かな殺気が新たな気配に打ち消される。
 ランサーというサーヴァントの力の波が、それを上回る力の波に消されていくのだ。
 ……瞬間的に発せられた膨大なる霊気は刹那の時に収束し。
 幽世にたゆたうソレに肉を与え。
 実体化したソレは、ランサーを圧倒するモノとして召喚された。
「うそ────」
 彼女には、そう呟くことしかできなかった。
 しかし上辺で否定しても、事実は事実として残る。続く。その証拠に、たった今、彼女の目前を。
 塀を飛び越えて出てきたランサーが、屋敷から逃げるように跳び去っていったのだから。
「……ねえアーチャー。これも、もしもの話?」
「さあな。だがこれで七人。ついに数が揃ったぞ、凛」
 正常な判断力を失ったマスターを気遣うでもなく、淡々と事実を告げるアーチャー。
 ただ認めれば済む問題だった。しかし遠坂凛は彼の指摘を上手く頭の中でまとめる、そんな無駄な作業に気を取られた。
 ──それがいけなかった。
 普段の彼女であれば容易に想像できるはずの次なる展開を、考慮することさえ出来なかったのだから。

 一陣、轟と強い風が吹いた。
 傘のような雲が再び空を覆い、明かりのない郊外は一転して闇に閉ざされ。
 “それ”は塀を飛び越えて、現われた──。

「────!」
 その不意打ちに、凛は反応出来なかった。
 それがまず彼女の失点。
 アーチャーは反応していた。
 しかし。
「なんだこれは──ッ!?」
 対応は出来なかった。それがアーチャーの失点であった。

 輪。
 
 見たままを伝えれば、それは大きな輪である。
 全身を炎に包んだ、巨大な車輪。
 そして、そして──その車軸に当たる部分に、人間の顔がある。
 怒りに歪み、燃え盛る炎が憎悪と滾る、そんな表情をした顔。

 サーヴァントの襲来を予想しただろうアーチャーも、眼前に現出した怪異に硬直する。
 襲撃は予想し得た、奇襲にも反応し得た。
 しかし、このような化生が現われると、誰が予想し得ようか──!

 そしてそんな隙を。
 車輪は見逃さなかった。

「おおおおぉぉおおぉおおおおう──!!」
 地響きめいた雄たけびを上げ、炎の車輪が空を滑る。眼下にある者、全てをひき潰さんとして。
 迫り来る重圧を、
「え、アーチャー……!?」
 アーチャーはマスターを守るべく突き飛ばし、
 手にした双剣でそれを迎え撃ち、

 折れ飛んだ。
 彼の剣は圧倒的な質量に抗するには不向き、それを承知で彼は盾となり──その報いを受けたのだ。
 揺らめく炎が歪な歯車にも似た造形を為す巨大な車輪は、彼の剣を砕くに留まらず。

 ピシッ……ギュリッ……!

 嫌な音、何かねじ切れるような音を立てて、凛の足元に降りかかる血の飛沫。受肉化したサーヴァントは肉体を所持する、それは物理的、そして致命的なダメージを緩和出来ないことと同義。
「──アーチャー、消えて……!」
 彼の腕が千切れ飛ぶ寸前に、凛の令呪が発動した。令呪──マスターが用いることの出来る、3度しか使えない強制命令権。その2度目を彼女はアーチャーの命を救うことに使用したのだ。
 彼の姿が掻き消えるのに安堵する暇なく、凛の右腕に走るじくりとした痛み。令呪を行使した反動による痛みである。
 これで残る令呪はひとつだけ、しかし最善の選択であったはずだ。アーチャーにしなれるくらいなら、令呪のひとつやふたつ無くなっても──

「──おおおおおぉおおお──!!」
 そんな述懐はすぐさま中断する。アーチャーを轢き潰そうとした炎の車輪は行き過ぎ、反転し、今度は彼女目指してその巨体を転がし始めたのだ。
「──舐めるな!」
 横腹──彼女から見れば巨大な顔が見える角度を晒した車輪に対し、ポケットから風呪を織り込んだトパーズを取り出し、凛はそのまま何の加工もせずに魔力を叩き付けた。
 威力にして家の一軒や二軒は跡形もなく吹き飛ばせるはずのソレは、彼女が日頃から少しずつ蓄えた風の呪文の固まりである。魔術師として十七年間一日も休まずに織り上げた十の宝石、そのひとつ。切り札の一である。
 それを使い切るのだ、たとえサーヴァントといえど、倒せないまでも足止めくらいにはなるはず──!

 烈風迅風は吹き荒れて炎の車輪に襲い掛かる。
 その刹那。
 暴虐の風は、微風へと化した。
 巻き込んだ物を一瞬にして八つ裂きにするはずの風の群れは、“それ”に触れた途端、黒髪を揺らす空気の流れに堕したのだ。

「──今度は何よ──ッ!」
 自身の側に吹き付けた風の影響で視界が上手く働かない。吐き捨てるような物言いで萎えそうになる心を鼓舞し、闇と塵芥の向こう側に現われた“何か”を睨みつける。

 風の魔術を吹き散らしたのはあの車輪ではない、その間に立ちふさがった“何か”なのだ。
 その“何か”の、黒絹の髪をそよがせるのが精一杯だった。
 あの“敵”、人型をしている以上、あれが七人目のマスターが従えるサーヴァントなのだろう。車輪は宝具なのかもしれない。しかし、しかし……

 ──なんという強力な対魔力か。 

 彼女が漏らしたのは、もはや諦観に近い感嘆である。この戦いはサーヴァントとマスターの連携が物を言う。どちらかが足手まといであれば、それだけ勝率は大きく下がるといっても過言ではない。だからこそ魔術師としての研鑽を積み、このように財貨を投じて切り札を用意していたのだ。
 しかしこのサーヴァントは、彼女の全力ともいうべき貴石の一撃を、手品のように消滅させたのだ。
 このサーヴァント相手に、人間の魔術師程度では傷ひとつつけられない……!
 その絶対的な認識を凛が飲み込んだと同時に。

 気まぐれな風が吹いた。
 曇天の切れ間、螺旋の空に月が覗き、闇夜の中に降り注いだ月光が、彼女の魔力を殺した“敵”を照らし出す。

「──な」
 それは、あまりにも“英霊”のイメージとほど遠い。
 アーチャーやランサーが身につけていたような武具も無く。
 彼らが共通して持っていた独特の威容も無く。
 ──黒いセーラー服を纏った、華奢な少女だった。
 風に揺れる長い髪も、黒。どこか水墨画を思わせる、清流のような黒髪。
 その黒と対照的な、人形のように美しい顔。あらゆる感情が抜け落ちているためか、作り物めいた造形美を保つ、白い顔。
 そして、彼女を見つめる大きな瞳。
 感情の細波を一切映さない、静かな湖面にも似た瞳は、赤。
 遠坂凛の赤を情熱の赤だとすると、この少女の赤は何であろうか。

 ──ぞわり。

 それを考えただけで、彼女の背筋に悪寒が走った。まだ何も思いついていない、ただ思いを馳せただけで、まるでガンドの呪いを受けたかのように──

「……あなたも、マスターなのね」
 水滴が作り出した波紋のような、微かな声。風音で消え入りそうなはずのその声が、不思議と明確に凛の耳へと届く。
 ああ、今はその声ですら彼女にとっては悪夢に等しい。
 当然だろう、この相手が英霊らしくなければないほど、彼女の敗北は彼女自身の実力不足と運の悪さを目の前に突きつけるのだから。
「でも──」
 否定の句が紡がれた。その後の言葉は聞くまでも無かった。
「────」
 遠坂凛は死を覚悟したまま月を見上げる。
 命乞いをするつもりも無く、逃げ出すための方策も見当たらない。
 彼女は諦めたのではなく、打てる最善の手を構築した上でそう結論づけた。
 私はここで死に、遠坂凛の“聖杯戦争”は3日目にて終わるのだ、と。
 そこには屈辱と後悔しかなく、彼女は眼前の敵を憎んだまま消え去るだろう。
 ──と、彼女の理性はそう告げていたのだが、感性はそれを信じられずにいた。
 本当にどうかしている。
 瞬きの間も無く、確実に死を賜るはずだというのに。

 何故か、ここで自分は死ぬことはないのだろう──と彼女は感じていたのだ。

 




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