慶雲鬼忍外伝〜水妖之舞〜



 寛永八年 関ヶ原の合戦 東軍・徳川方圧勝

 この後およそ300年にわたる、江戸・徳川幕府の時代が始まることとなる。

 

 江戸の城下町を少しはずれた所にある、木漏れ日あふれる林の中を一組の男女が歩いていた。精悍な顔つきの若武者と、子供を抱いた妖艶ともいえる美しさを持った娘である。

若武者は外様大名黒田長政の家臣で水凪景時(みなぎかげとき)といい、娘の方はその妻で名を雹(ひょう)といった。

「ようやく江戸に着いたな」

 軽く息を弾ませて景時が言った。

「もう足が棒のようですわ。ですからわらわが駕籠で参りましょうと申し上げましたのに」

 少々不満そうに雹が答えた。

「ははは、そのことは幾度も申したではないか。今は関ヶ原の合戦に勝利したとはいえ、徳川家の基盤はこれからという大事な時期。此度の戦では民草にも多いに苦労を掛けた。家を失ったもの、家族を亡くしたものが大勢いる。その者達を救わんとせずに徳川の盤石はない。その様なときに上に立つ者が贅沢をしてなんと示しがつく。そう思えばこそ私はあえて駕籠を使わず、供も付けずに養父上のもとに参ったのであろう」

「その様なことわらわとて分かっておりまする」

 そういってますます頬を膨らませる。

 妻のその仕草があまりに可愛らしく、景時は笑い声を上げた。

「だが今日は養父上に初孫を初めてお目にかける大事な日だ。いつまでもその様なふくれっ面をしていてくれるなよ」

「分かっておりますぅ!ねぇ、波千代」

 そう言って雹は腕の中で眠るわが子に優しくほほえんだ。

 それはどこから見てもただの幸せな親子であった。

 

「おお、景時殿。遠いところをいや良く参られた」

 雹の父、海塚繁昌(かいづかしげまさ)は相好を崩して親子を出迎えた。

「養父様にもおかわり無く、御健勝そうにてなによりでございます」

「ははは、堅苦しい挨拶はよい。それよりも早う我が孫を見せてくれ」

「ふふっ、父上ったら。さぁ波千代、お祖父様にご挨拶なさい」

 そう言って雹は無邪気に笑う息子を父の腕に渡した。

「おおぅ、よしよし。波千代というのか」

「はい。海に漂う波のように、どこまでも強く突き進む男になってほしいと願い名付けました」

「うむ、良い名じゃ。よいか波千代。そなたの父のように立派な武士(もののふ)になれよ」

 繁昌は、満足そうにうなずき言った。

「ところで雹、景時殿も。そなた等に客人を紹介しよう」

 そして繁昌は二人を離れに連れて行った。

「小十郎殿、入りますぞ」

 言うと繁昌は障子を開いた。

 中には一人の武士らしき壮年の男性が寝ていた。

「これは繁昌様、くっ…」

「ああ、そのままで良い。無理はいたさぬことだ」

 繁昌は慌てて起きあがろうとする男を抑えると、

「それより小十郎殿、貴殿に娘夫婦を紹介しようと思うての。これが娘の雹、そしてそちらに居るのが婿の水凪景時殿じゃ。二人とも、こちらは長部行光(おさべゆきみつ)殿、我が家の客人じゃ」

「このような姿で失礼を致します。それがしは大谷吉継が家臣長部小十郎行光と申します。

先の合戦では主は討ち死に、それがしも落ち武者狩りに遭い息絶えようとしていたところ海塚様に救われた次第で御座います」

「黒田長政が家臣水凪景時です。それは大変で御座いましたな。幸い我が養父海塚繁昌は、

内府様の側近であられる榊原康政様と入魂の間柄、また福島正則様や我が主長政公とも親交がござる。代々旗本の家柄で内府様の信頼も厚い。傷が治れば仕官の道も御座いましょう。御ゆるりと召されよ」

「…海塚繁昌の娘で水凪景時が妻、雹と申します。よしなに…」

「皆様には格別の御厚情真に忝う存じます」

「そのような事を気にするでない。さ、傷に障るといかぬゆえそろそろ失礼するとしよう」

 繁昌の言葉に三人は長部の部屋をあとにした。

 すると先ほど殆ど口を開かなかった雹が言った。

「父上、あの長部様は西軍の大谷吉継殿の家臣であったと申されておりました。いわば徳川家にとっては仇敵とも言えるお立場。そのような方を匿うような振舞いをされては当家に災いをもたらすようなことになりますまいか」

「ははは、上様はお心の広いお方。そのような心配は無用じゃ。第一傷ついたものを見殺しにしては人としてもとる行為ではないか。それより雹も疲れたであろう。久しぶりに戻ったのじゃ。今宵はゆっくりと休むが良かろう」

 父のその優しさが誇らしくもある一方、雹は漠然とした不安をぬぐえないで居た。

 

 二日後早朝、突然荒々しく門が叩かれた。

「江戸取締役の宮村俊長(みやむらとしなが)である!お上より取り調べたき儀があってまいった。門をあけられよ!」

 使用人が門を開いたとたん、十数人の武士がなだれ込むように入ってきた。

「何事だ!我を旗本衆海塚繁昌と知っての狼藉か!」

 しかし、繁昌の怒声に怯むことなく宮村と名乗る武士は答えた。

「そのような事は先刻承知して御座る。海塚繁昌殿、謀反の疑いによって取調べ致す。神妙にされよ」

「謀反だと!?馬鹿な!我が海塚家は代々徳川家に仕える譜代の旗本。謀反など企む筈が無い!」

「だが、貴殿が落武者を匿っているとの通報も入っている。それが真なら叛意ありとの疑いを受けるも致し方あるまい」

「なっ!?何故かような事を…。違う!違うぞ!それは上様に二心あってのことでは御座らん。ただ傷ついていたものを見殺しに出来なかっただけだ。それに彼の者が徳川家に仕えるようなことになれば、それは上様にとっても益ある事ゆえ助けたのだ。報告しなかったのはこのような無用な疑いを招かぬため。決して叛意ではない!」

「そのような言い訳など聞く耳持てぬ。とにかく屋敷を検めさせていただこう」

「お待ち下され!」

 繁昌と宮村との言い争いに割って入った声があった。

 長部であった。

「お待ち下さい。宮村様と申されましたか。それがしが共に参り申すゆえ、なにとぞ家人の方々にはおてだしなさらぬで頂きたい」

「小十郎殿…そのような身体で…」

「海塚様、敗残のみであるそれがしの命を救っていただきなおも格別の御厚情、この長部小十郎感謝の言葉も御座いませぬ。この上お家に御迷惑をおかけして恩を仇で返すような真似を致しては武士の名折れ。さぁ、お役人殿それがしを連れて行かれよ」

「ふむ、立派な心がけであるな。ではこちらへ参れ」

 長部はヨロヨロとした足取りで、宮村へ近寄った。が─

「だが、お主が上様の元へ行く必要はない!」

 宮村は突然抜刀し長部を一刀のもとに切り捨てた。

「きゃあぁぁぁっ!!」

「な、なんということを…!」

 様子が気になったのか、いつのまにか来ていた雹と景時が声をあげた。

「貴殿、何をするのだ!これはいかなる了見か!」

 長部の無残な死体を目にし、繁昌が激怒して詰め寄った。しかし、宮村は平然と、口の端に笑みまで浮かべて言った。

「このような落ち武者、どうでも良いのだ。本来のお役目は海塚繁昌、お主とお主の一族全ての誅殺よ」

「何っ!?何故だ!誰がそのような出鱈目な命令を出した!」

「上様だ。もっとも儂が直接言い使ったのは榊原様であるがな」

 愕然とする繁昌に宮村はさも可笑しそうに告げた。

「ばっ…馬鹿な!何ゆえ、何ゆえ上様が…」

「どういうことだ!何故養父上が死を賜らねばならぬのだ!養父上は内府様に対する忠義の念厚く、また志正しく誰からも慕われるお方であるぞ!」

 たまらず横に居た景時が声をあげる。

「ふむ、理由も分からず殺されるはあまりに不憫。よかろう、教えて進ぜよう。いたって簡単な理由である。その誰からも慕われるという、人望が問題なのだ。今はまだ合戦も終わったばかりで各地には未だ上様に楯突こうとする者も少なくないという。そこへお主のような人望のある者がこの江戸で反旗を翻したらなんとする。そのことを上様はことのほか恐れておいでなのだ。この落ち武者のことは単にその口実に過ぎぬのだ」

「馬鹿を申すな!儂が上様を裏切るなど万に一つもあろうはずが無い!」

「いや、その万に一つが問題なのだ。ところで水凪殿」

 宮村は急に景時に向き直っていった。

「貴殿は元々黒田長政公の家臣。長政公は貴殿をいたくお気に入りの御様子。そこで今すぐこの家との縁を切り、黒田家家臣に戻るのであれば貴殿の命だけは助けようとの上様のお言葉であるということなのだが。いかが為されるか?」

「それこそ戯けたことを!私は主君長政公の次に養父上を尊敬している。ここで養父が討たれると言うのであれば私はともに殉じるまで!」

「ならば死ね!!」

 その言葉を合図に宮村の後ろに控えていた役人達が動いた。

 雹はその後何が起こっているのか良く理解できなかった。

 夫が宮村と名乗る役人に斬り倒された。

 父が無数の男たちに斬りつけられている。

 屋敷ではあちらこちらで怒号や悲鳴が沸き起こっている。

 いったい何が起きているのか。

 昨日までの幸せな光景は何処へいったのか。

 この騒ぎの中波千代はどうしているのか。

「波千代!!」

 不意に最愛の我が子のことが思い出された。

「波千代!波千代は何処に!お願いで御座います。息子は波千代だけはどうかお助け下さい!」

 たった今夫を斬り殺したばかりの男に雹はすがりついて懇願した。

「波千代ってのはこれかい?」

 後ろから声が掛けられ、振り返った雹の顔に何か柔らかいものがぶつかった。

 それが血に染まった我が子であると理解するまでにどれほどの時間が立ったであろうか。

 その瞬間、雹の中で何かが弾けた。

「お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛─!!」

「へっ、安心しな。今すぐ同じところへ送ってやるからよ」

 波千代を投げた男はニヤニヤ笑いながら刀を上段へ振りかぶった。

 一瞬視界が揺らいだように感じたのは気のせいだろうか。

 気にせず振り下ろした刀は、しかし全く動かなかった。

「?」

 見ると両肩の先が無かった。

「う、うわぁぁぁぁぁぁ!!!!」

 事態を理解した男が絶叫を上げた。

 次の瞬間、再び視界が揺らぎ同時に男は全身が輪切りになり床へ落ちた。

「何ぃっ!!」

 宮村が驚いて雹を、いやすでに人ですらないそれを見た。

 元々白かった肌は今や青いほどになっている。

 黒目がちだった瞳は紅に染まり、大きく裂けた口からは鋭い牙がのぞいている。

 額からは一対の角が突き出ていた。

 それほどまで変わり果てながらもその姿は以前と同じように、いやますます凄惨なまでの美しさをたたえていた。

 そして何より、その美しさこそがそれを異形の者と認識させている証であった。

 鬼であった。

「お、おのれっ!妖怪が!」

 宮村の声に、美貌の鬼はゆっくり振り返っていった。

「妾を人でなくしたのは誰ぞ。この身を怨念渦巻く地獄に貶めたのは誰ぞ。最早妾には何も残されてはおらぬ。この身に宿るは唯狂おしいばかりの怨讐のみ。海塚繁昌が娘雹はたった今死んだ。我が名は水角」

 宮村は水角と名乗る鬼に斬りかかった。必殺の間合いのはずだった。しかし─

「ぐぎゃあぁぁっ!」

 水角が手を振ると薄い透き通った布のようなもの─その時初めてそれが水の膜だと気付いたのだが─が纏わり付き視界が揺らいだ。

 そしてそれが宮村の全身を深く、しかし致命傷でないほどに切り裂いたのだ。

「そなたはただでは殺さないぞえ。我が恨み、父の痛み、夫の怒り、そして我が子の恐怖を存分に味わってから苦しみのうちに死ぬがいい」

 そこには一片の慈悲も感じられなかった。

「ま、待ってくれ。命令だったのだ。それがしも別に好き好んで─ぎゃっ!」

 まず耳が飛んだ。

「ち、違う。それがしは─ぐわぁぁぁっ!!」

 両肘から先が失くなった。

「た、助けてくれ。何でもする─がぁぁっ!!」

 両目が血を噴いた。

「頼む、命だけは─!!!!」

 最後には血に染まった無数の肉片だけが残った。

 その後はまさに地獄絵図だった。

 先ほどと同じように怒号と悲鳴が響き渡る。

 違うのは悲鳴を上げているのが先には殺していた側の人間であるということだけであった。

 そしてその中心で水角はまるで舞踊るように水をあるときは布のように、あるときは珠のように、またあるときは長い帯のように操り惨殺を繰り返していた。

 僅かの間に最早彼女以外に動くものは屋敷に存在していなかった。

 すると水角は動かぬ我が子をそっと抱き、

「…許さぬぞ、徳川家康…。これがお前の築いた太平の世であるというなら、妾はこの身が朽ち果てるまでこの江戸を徳川の世を呪い、紅蓮の地獄へと変えてくれようぞ」

そう呟くと何処へかと姿を消した。

 

 後に徳川への謀反をたくらみ、異形と化して遂には討ち取られる九角鬼修の乱が起こる。

 その時、最期まで九角に付き従った五人の鬼が居たと伝えられているが、その内の一人に水を自在に操る女怪が居たという。

                                     ─了─

 

 










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