慶雲鬼忍外伝〜煉獄〜



――1615年・大阪――

 この夏、世に言う『大阪の陣』をもって、豊臣家は滅亡した。

 主君とも言える豊臣秀頼・淀君の母子は自害。

 そして、大阪方に参戦した数々の武士・浪人には、激しい追討の手が伸ばされた。

 かつてはその名を轟かせた勇将達も、引き回しの恥辱を与えられた上、獄門に晒されると言う無残な最期を遂げていた。

 そして、ここにも1人――

 

 男の名は火邑。

 人気の無い山道を必死で逃げ惑うこの男は、大阪方でも剛の者として知られた武将であった。

 その武勇と苛烈な闘い振りから、人は彼を『鬼火邑』の2つ名で呼び、敵味方問わず怖れた。

 そして、彼が『鬼』と呼ばれるのにはもう1つの理由があった。

「ハァ…、ハァ…」

 かつての勇名虚しく憔悴しきった火邑は、やっとの思いでここ武蔵の地まで落ち延びてきたのだ。

「…おぉ…」

 繁みを抜けた火邑の口から微かな安堵の声が漏れる。

 其処には小さな泉があった。

 大阪城落城から既に数ヶ月、特にこの数日の間は飲まず食わずで逃げ延びてきた彼は、清廉な涌き水にようやく息をついた。

 だが、水面に映った自分の姿を見て、その顔が再び歪む。

 その顔はまさに『鬼』であった。

 目は吊り上がり、頬はこけ、耳まで裂けようかと言う口の端には大きくせり出した犬歯が覗いている。

 そして、前髪がごそりと抜け落ちた頭には左右一対に瘤があり、見ようによっては角にも見えた。

(江戸までは後僅か。だがこの容貌では何処まで持つか…)

 諦めにも似た気持ちで息をつく。

 もっとも、火邑とて生まれ付きこの様な怪異な容貌をしている訳ではなかった。

 元は貧しい農村の生まれだった火邑は、口減らしを兼ねて徳川家に仕えるある武将の足軽となった。

 朴訥で穏やかな性格の火邑は、仲間からも戦に向かないと思われていたが、実は天賦の才に恵まれていた。

 初陣で5つの首級を挙げ、その名は一気に家中に轟いた。

 火邑の主君である武将は彼の勇を愛し、子が居なかった為か火邑を実子の様に扱った。

 また、年端も行かぬ内に口減らしとして家を出された火邑にとってもその武将は父であった。

 主君の期待に応える為、火邑は懸命に戦った。

 常に先陣をきり、数え切れぬ程の敵を殺した。

 その優しき心に軋みが生じ始めても、火邑は己を殺して戦い抜いた。

 自らの心を闇に染めて全てを戦に賭けていた。

 しかし、心が闇に染まるにつれ、当然の様に身体にも異変が起き始めた。

 人はその火邑を『鬼』と呼んで忌み嫌った。

 只1人、彼の主君を除いては。

 彼は益々激しく戦い続けた。

 徐々にその姿を『鬼』と変えながら。

 だが1600年、関ヶ原合戦の直前火邑の主君が死んだ。

 伏見城にて石田光成の急襲を受けた家康を守護する為、重臣鳥居元忠等と共に城に残り、討ち死にしたのである。

 既に人を超えた《力》を持ちつつあるほどに変異していた火邑は、文字通り命を賭けて奮戦した。

 主君を護る為に。

 だが主君の骸を目にして火邑は号泣した。

 そして憎んだ。

 主を護りきれなかった自分を。

 主を身代わりとしてのうのうと生き延びた家康を。

 その日より火邑は徳川家中を出奔し、常に敵方に回っていた。

 しかし、天命は彼に味方せず、その身体は今や満身創痍。

 程なくその命も尽きようとしているかに見える。

「…死ねぬ…。…俺はまだ、このような所で死ぬわけには行かぬ…」

 力無く呟く。

 と、繁みが動いた。

「――へッへッ、オイ居たぞッ!こいつァ兜首だッ!ン?その顔、おめェ『鬼火邑』だな!?こりゃあ大手柄だ。当分遊んで暮らせるぜ」

 確かめるまでもなく、徳川の追っ手だった。

 全部で3人。

「ひひッ、この様子じゃ満足に動く事も出来ねぇだろ。『鬼火邑』もここまでだなァ」

 思わぬ大物を見つけた足軽達がにやけた笑みを浮かべながら近寄ってくる。

「…貴様等に…貴様等如きにこの命、くれてやる訳にはいかぬッ!!」

 残された力を振り絞るかのように、火邑は刀を高々と上段に振り上げる。

「て、てめぇ!まだ、往生際悪く――!」

「雄雄雄雄雄雄―――ッ!!」

『うぎゃーーーッ!!』

 断末魔の絶叫と共に鮮血が舞った。

 

 それからおよそ半刻、火邑は1軒のあばら家を見つけた。

「…この様な山奥に家が…。何にしてもこれで幾ばくかの休息は取れよう…」

 ガタ、ガラガラッ。

 敷居の歪んだ戸を強引に開き、中へ足を踏み入れる。

 人の気配は無い。

(…誰も居らぬ様だな)

 小さく息をつき、火邑は身体の緊張を解いた。

 と、その時――

「この様なあばら家に、何用ですか?」

 突如掛けられた女の声に、火邑は飛び上がった。

「だ、誰だッ!!」

 咄嗟に刀を抜き、辺りを見まわす。

「クスクス。それは私の申す言葉でしょう」

 その声の方を振り返ると、1人の若い尼が座っていた。

 まるで先程からそこで火邑の様子を見ていたかの様に。

「…この俺に気配を気付かせぬとは…。お主、物の怪の類か…?」

 刀を構えてじりじりと間合いを取る火邑。

「フフフ、私は俗世を捨てた只の尼に御座います。私が居た事に気付かなかったのは、貴方がお疲れだからなのでしょう」

 柔らかな笑みを湛えたその尼の顔を改めて見る。

 年の頃は火邑より少し上に見えた。

 おそらく三十路は越えていないだろう。

 美しい顔をした尼だった。

 特に、その瞳は人に安らぎを与えるような、不思議な輝きを持っていた。

「さあ、何も無い所ですがお寛ぎ下さい」

 しかし、火邑は自分を見ても眉1つも動じないその態度に苛立った。

「勿論、そうさせて貰うつもりだ。だが、その前に食い物を出せ。それと金目の物だ。俺はこの先江戸へ行かねばならぬ。その為の路銀が必要じゃ。お主も尼とは言え女子であれば帯留めの1つも持っていよう」

 つかつかと近寄り、彼女の鼻先に刀を突き付けてそう凄む。

「食事はご用意できますが、生憎ここには左様な物は御座いませぬ」

 ところが尼は相変わらず怯えた様子も見せず、僅かに困った様にそう言うだけだった。

 火邑の苛立ちが更に増す。

「女ッ!貴様何故平気な顔をしていられるッ!刃を向けられ、俺の姿を目にしながら何故怯えた様子も見せぬのだッ!!」

「怯えて居るのは貴方様で御座いましょう」

「なッ!?ば、馬鹿なッ!俺の何処が怯えていると言うのだッ!俺は鬼ぞ、この世を煉獄の炎で焼き尽くさんとする地獄の鬼ぞッ!!」

 しかし尼は悲しみを込めた瞳で火邑を見据え静かに言った。

「貴方は人ですよ。その眼は紛れも無く人の眼ですよ。だから、もうお止めなさい。ご自分の心を殺すのは。無理にその身を闇に置こうとするのは」

 不思議な輝きを宿したその瞳が火邑の姿を映し、全てを見通したようなその言葉が彼の心に染み渡る。 彼は自分の中の怨念が氷解して行くのを感じていた。

 手にした刀が落ち、双眸からは大粒の涙が流れる。

「オラ、本当は人なんか殺したくねぇだよッ!戦なんか出たくなかっただッ!オラ…、オラ…本当は村で畑耕して静かに暮らしたかっただッ!!」

 何時しか彼は子供の頃に戻ったかのように、尼の胸に顔を埋める様にして泣きじゃくっていた。

 彼女はそんな火邑を慈しむ様に優しく微笑み抱き締めていた。

 

 それから数日、火邑は尼の小屋に身を寄せ、薪拾いや山菜の収穫等彼女の為に働いていた。

 あれほど彼の心を覆っていた復讐の念は尼との出会いで消え失せ、顔にはかつての穏やかな表情が戻り、今や鬼と呼ばれたその面影すらが無くなっていた。

「火邑殿、少しはお休み下さい」

 薪を割っていた火邑が顔を上げる。

「尼様、もうすぐ終わりますだ。そうしたら一息つかせてもらいますだよ」

 火邑は武士言葉を使わなくなっていた。

「フフフ、無理はなさいませぬ様に」

 その様子を尼は微笑みながら見ていた。

 火邑は尼に対し、絶大なる親愛の情を持って彼女に接した。

 それは男女の想いと言うよりはかつての主君に捧げた忠義にも似ていた。

 ただ、火邑は未だ彼女の名は知らなかった。

 訊いて見た事は有るのだが、

『私は世を捨てた者。名前などその時共に失くしてしまいました』

 そう言って笑っただけであった。

 火邑にはその時の笑みが何時もの彼女と違う、ひどく寂しいものに見え、それ以来その事については触れていない。

 それに口を開けばお互いの意志が通じるのだから、名前など意味の無いものにも思えていた。

 火邑はようやく自分が人に戻れたような、そんな思いを味わっていた。

 しかし、その日の夕方――

 ドカッ!ガタガタガタッ!!

 突如乱暴に戸が蹴破られ、数人の武装した男達が小屋に押し込んできた。

 その中で一段身分の高そうな男が声を張り上げた。

「我が名は徳川家家臣、久保輝元(くぼてるもと)!お上の儀により参上した!」

(徳川の兵ッ!オラを捕らえに来ただか…。なら、せめて尼様にだけは迷惑掛けんよう大人しく…)

 火邑がそう考えた時、久保と名乗った武将が言った。

「ようやく見つけたぞ、菩薩眼の女ッ!!尼となり身を隠していたようだが、お上の目は何時までも誤魔化せはせぬわッ!!さあ、我等と共に来てもらうぞッ!」

 その言葉に驚き、火邑は思わず尼の方を振り向いた。

 彼女は悲しげに目を伏せて答えた。

「幾度も申し上げたはずです。私は家康公の元へは参られませぬ。どうぞお引き取り下さい」

「何を申すかッ!大御所様は身分卑しいその方を大奥でも筆頭の位置に付けられるとの仰せなのだぞッ!光栄にこそ思えども、断る道理など有るはずも無かろうッ!!」

 尼の言葉に、久保が激高する。

 だが、尼はその眼に揺るぎ無い意思を宿し、再び口を開いた。

「徳川様は民よりも己が栄華の方が大切なお人。そのようなお方の元へ参る気は御座いませぬ。お引取りを」

「おのれッ!お上に対する重ね重ねの無礼。ええい、もうよいッ!その方等、この女を力ずくででも引っ立ていッ!!」

 久保の命令で周りの兵達が動く。

 と――

「ま、待てッ!」

 刀を構えた火邑が、男達と尼との間に立ち塞がった。

「尼様に手を出す事はオラが許さねぇッ!!」

「…貴様、何奴じゃ?」

 まるで、火邑がそこに居た事に初めて気付いたとでも言う様に久保が目を細めて訊いた。

「オラの名は火邑、『鬼火邑』だッ!」

 火邑の名乗りに男達は一瞬ポカンとし、同時に失笑を漏らす。

「『鬼火邑』だと?何を言うかと思えば…。誰かは知らぬが名を語るなら覚えておけ。『鬼火邑』と言うのは頭に角を生やし、女子供も平気で殺す本物の鬼だそうだ。お主のような田舎者は大人しく引っ込んでおれ。余計な手出しをせねば命だけは見逃してやる」

「だ、黙れッ!尼様に手出ししないと言うまでここは動かねぇ!」

「…愚かな。構うな、斬れ」

 その言葉に2人の男が火邑へ斬り掛かってきたが――

 バシュッ!ズバッ!

 火邑が刀を一閃すると2人は鮮血を吹き出して倒れた。

「き…貴様…ッ!」

 一同の顔色が変わる。

 其処に居た誰もが気付いたのだ。

 火邑の動きが只者ではない事に。

 鬼を名乗るにふさわしいその技に。

「ええい、全員で掛かれッ!!」

 久保が怒鳴る。

「いけませぬ、火邑殿ッ!貴方はもう闇に囚われてはなりませぬ!」

 尼が火邑を止めようとするが、彼女を護るという想いの方が強かった。

 火邑が兵達との間合いを詰める。

 ザシュッ!ドヒュッ!

 更に2人の男を瞬時に倒す。

 だが、やはり狭い小屋の中での事であった。

 一気に久保に詰め寄ろうとした火邑は、何かに足を取られて転倒してしまった。

「わっはは、愚かな!死ねぃ!」

 久保が火邑に向けて刀を振り下ろす。

 火邑が思わず目を瞑ったその時――

「火邑殿ッ!!」

 ドスッ!

 尼の叫び声と、何か柔らかい物を突き刺すような鈍い音が同時に聞こえた。

 恐る恐る目を開けると、間近に尼の顔があった。

 但し、胸元から鈍く銀色に光る刃を突き出し、そこから紅の液体を溢れさせて。

「あ…尼様…?う、うわああァァッ、尼様ァァッ!!」

「…………」

 尼は数回口を動かしたが、そこから言葉は紡ぎ出される事無く、やがてその身体は力を失って崩折れた。

 その光景に火邑の目の奥が真っ赤になり、身体の中で何かが弾けた。

「チッ、なんと言う事だ。菩薩眼の女を見つけながら、みすみす死なせてしまうとは…」

 久保の呟きがひどく遠い所で聞こえた。

「それと言うのも下郎、貴様の所為だッ!その償い、貴様の命で払って貰うぞ」

 火邑がじっとしているのを、尼が死んだ衝撃で身体が動かない為と見たか、久保は無造作に刀を振り下ろそうとしたが――

 紅いものが久保の目の前をよぎる。

 次の瞬間、彼の両腕は肘から先が真っ黒な消し炭となって崩れ落ちた。

 初め彼は自分の身体に何が起きたのか理解できなかった。

 だが、やがてゆっくりと感覚が甦る。

「うぎゃあああああッ!!」

 絶叫が響いた。

 他の兵達も驚愕をありありと浮かべた表情でそれを見ていた。

 驚いていないのは1人だけであった。

 久保の両腕を焼いた、火邑1人だけ。

 いや、彼は既に“火邑”と呼ばれた人ですらなかった。

 顔には以前の凶相が戻り、髪は何時しか燃え上がるような紅に逆立ち、額には今度こそ本物の角が生えていた。

 火邑は本物の鬼と化していた。

「我が心の闇、呼び覚まさねば…。我等に構わず、大人しく今の天下を味わっておれば、我はここで静かに朽ち果てて逝ったものを…」

 火邑が、いや『鬼』がそう呟き久保に向き直る。

「ひ、ひぃぃぃッ!お、お主等何をしておるッ!斬れッ!この化け物を斬り殺せッ!!」

 だが、そう言った次の瞬間には久保の身体は紅蓮の炎に包まれてこの世から消えた。

「許さぬ…」

 1歩踏み出す。

 同時に別の1人が炎に巻かれて悲鳴を上げるまもなく灰となる。

『うわあああッ!!』

 残った兵達は我先にと逃げ出そうとするが、

「許さぬ…、徳川家康…」

 また1歩『鬼』が踏み出すと、彼から最も離れた場所に居た1人が火柱に呑まれた。

「許さぬ…、徳川に仕えし者ども…」

 また1人、今度は首から上だけが燃え上がる。

 そして――

「我は許さぬ…。この地に住まう全ての人間を…。煉獄の炎となって生きとし生ける者を焼き尽くし、この世を現世の地獄と変えてやろうぞ…。

 我が名は炎角ッ!!」

 生き残っていた全ての人間が燃え尽きた。

 炎角はそれを確かめる様に辺りを見回し、そして尼の亡骸に近寄るとそっと抱き上げた。

「…我に残された最後の人の心…、そなたと共に永遠の眠りにつかせよう…」

 そう呟くと、尼の身体は彼の腕の中で炎に包まれ静かに消えた。

 と、同時に小屋その物が燃え上がった。

 炎角は未だ腕に彼女の重みが残っているかのように暫しその火の中に立ち尽くしていたが、やがてゆっくりと歩き出し何処へかと消えた。

 

 後年、譜代大名九角家の流れを汲むとある武士の家に、1人の娘が産まれた。

 葵の姫と名付けられたその娘は、菩薩眼を持つ者として再び炎角と関わりを持つ事になるのだが、それはまだ先の事である。

 










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