─―もう少し─―
虚空の中で声がする。
――もう少しだから─―
─―あと1人で終わるから――
誰かを慈しむような優しい声。
─―今度は失敗しない――
――安心して見ていておくれ─―
――お前の痛み、お前の恐怖、お前の絶望――
――これであいつ等全員に思い知らせる事が出来る─―
涙が伝う。
カサカサの頬を伝う血の涙。
それがぽつりぽつりと床板に染みを作る。
――全てが終わったら、私もお前の下へ逝こう─―
――だからもう少しだけ待っていておくれ─―
――この身が朽ちて果てるまで─―
――あともう一時――
声が止んだ。
静寂が訪れ、そして――
――カラン、コロン─―
――カラン、コロン─―
――カラン、コロン─―
――カラン、コロン─―
足音が闇の中へと響き、消えて行った。
「どう、先生?」
「さすがのワシでもちょっと難しいかも知れないねぇ」
龍麻の問いに、桜ヶ丘中央病院々長岩山たか子は厳しい表情で答えた。
「いくらワシでも完全に死んでしまった者を生き返らせる事は出来ない。コイツは死者と同じさ。心が完全に死んでしまっている。絶対に蘇る事が無いとは言わんが、それを人の力で行うのは喩え菩薩眼の力を持っていたとしても難しいだろう」
岩山の言葉に、その場にいた人間一同が頭を垂れる。
あの戦いの後、3人は龍麻の治療も兼ねて心の壊れてしまった小河を桜ヶ丘へと運び込んだ。
着いた時には時間もかなり遅くなっており、岩山の薦めもあって、結局3人は病院で夜を過ごす事になったのだ。
生憎と高見沢は非番でいなかった─―仲の良い芙蓉は少し残念そうだった─―が、年明け前より見習い看護婦として勤めている比良坂が出迎え手伝ってくれていた。
「龍麻さんは大丈夫ですか?」
心配そうに自分を見る比良坂に、龍麻が笑顔を浮かべて答えた。
「大丈夫。比良坂が治療してくれたからね」
龍脈に関わる闘いを共にした仲間の内でも最大級の力を秘めている比良坂は、その唄によって敵を討つ事もあれば逆に味方を癒す事も出来るのだ。
「良かった…」
龍麻の笑顔と言葉を受けて比良坂も僅かにはにかんだ笑みを浮かべる。
「仲の良いのは結構なこったが─―コッチはとにかく敵の正体が判らねぇとなァ」
呆れた様に横目で見ながら村雨が口にする。
事実唯一事件の鍵を握っていると思われる小河直弥がこのような状態になってしまった以上、手掛かりとなる物は肉玉が残して行った糸の切れ端のみである。
「流石にこれだけじゃあねぇ」
糸を摘み上げながら龍麻が苦笑する。
しかしふと村雨はそれを手に取ってまじまじと眺め始めた。
「どうしたんだ?」
「いや…気の所為かも知れねぇがな…。何処かで見たような気がしてならねぇんだ」
それは一見ごく普通の絹糸にしか見えないが、赤・青・白・金糸・銀糸と様々な色がある。単色の糸もあれば数色の糸を縒り合わせた物もあった。
「皆さん、とにかく一休みされた方が良いですよ」
言いながら比良坂がお茶と茶菓子を用意して来た。
「ありがとう。――ウン、良いお茶だね」
「そうだろう?私の取っておきの葉だからねぇ」
その時村雨の頭に閃くものがあった。
「まさか─―?だがそうなら……」
「どうしたの、村雨?」
村雨は糸を見詰めながら1人呟き考え込んでいたが、やがて龍麻の方に向き直った。
「――行くぜ、先生」
「行くって…?」
「化物退治だ。――ケリを着けようぜ」
龍麻にどことなく哀しい響きの声を掛けながら立ち上がる村雨。暫しその姿をみていた龍麻だったが、やがて大きく村雨の肩を叩くと後ろに振り返って言った。
「先生、比良坂も彼をお願いします。――芙蓉、行こうか」
「御意」
歩き出そうとした3人を比良坂の声が引き留めた。
「待って下さい!私も一緒に連れて行ってくれませんか?私、何が出来るかは分かりませんけど、龍麻さんのお手伝いをしたいんです!」
ちらりと岩山を見る龍麻。
「連れて行ってやりな。若い時の気持ちは大事にするもんだ」
龍麻が肯き小さく笑う。
「じゃあ一緒に行こうか」
「ハイ!」
比良坂が返事と共に心底嬉しそうに笑った。
妖との戦いの時から降り続いている雨が、今も4人の頭上に冷たく降り注いでいた。
傘は差しているものの、時折吹き荒ぶ北風が容赦なく彼等の身を切り、横殴りに舞った雨粒は少しずつではあるが4人の服を重たく濡らして行く。
そうして歩き続けてどれくらい経ったのか。
一行は1軒の、小さな木造の家の前に立っていた。
「村雨、ここは?」
龍麻の問いにも答えず、村雨は勝手に引き戸を開いて中へと上がり込んだ。
そして入ってすぐ左手の戸を開ける。
果たしてそれは唐突にそこにいた。
奥の仏壇を背に立つ鮮やかな柄の花嫁衣裳。
「……婆さんだったんだな」
息を吐くような声で妖へ話し掛ける村雨。目深に被った学生帽の下の表情は窺い知れない。
暫くの間沈黙が続いたが、やがて妖の口元から微かな笑い声が聞こえて来た。そしておもむろに頭に被る角隠しを外す。
そこには村雨の予想通り─―いや、既に確信だったが─―生方サトの顔があった。
「やっぱりねぇ。兄さんにはバレてしまったかい。まあ、あの時あそこに兄さんがいるのに気付いた時からそんな予感はしていたんだけどねぇ。聞かせておくれでないかい。何処でわたしの仕業だと判ったのか」
サトの顔はどこか楽しげにすら見える。
「糸さ」
「糸?」
「あの時、あの玉が吐いた糸の切れ端に見覚えがあったんだよ。あの玉、婆さんが娘さんに作ってやったって言う手鞠が変化したものだったんだな」
「あんな物で判ってしまうとはねぇ。やっぱり只者じゃなかったんだねぇ、兄さん」
「教えてくれるよな?何故こんな事をしているのか」
「――娘が産まれたのはわたしが42の時だった。それから3年で旦那が死んで、20年間わたしが女手1つで育てて来たんだよ。暮らしは貧しかったけどねぇ。娘は文句1つ言わず、遊びたい盛りにも色々私を気遣って手伝いをしてくれたりねぇ。優しい良い子だったんだ。そんな子がやっと幸せになれるって言う時さ。あとほんの何日か後にはこの打掛を着て幸せそうに笑っている筈だった。それをあいつ等はメチャメチャにしたんだ!」
「小河達か?」
「こんな雨の降る夜だったよ。結婚式を半月後に控えたあの子は婚約者の家から帰って来る途中だった。ほんの偶然さ。たまたまあいつ等はテストの点数が悪くて補習が続いた為にストレスが溜まっていた。そして人通りの少ない道を娘が一人で歩いていた。あいつ等に取っては単なる気晴らしだった。罪の意識なんて感じちゃいない。けどね、弄ばれた娘の方はボロボロに傷ついて…結局その日の内に手首を切って死んでしまったよ」
「それで復讐したのかい」
「ああ、そうさ。あの子の痛みをホンの少しでも感じる様に、じっくり追い詰めて恐怖を与えてから殺してやったんだ。そしてそれもあと1人さね」
「気持ちは分からねぇでもないが─―もう、良いだろう、婆さん?アイツも充分に恐怖は味わっただろうぜ。アイツの心は何処かへ飛んじまった。腕利きの医者に相談したが治る見込みは殆ど無いそうだ。だからよ、もう終わりにしようや」
村雨の呼び掛けにも、しかしサトは首を横に振る。そして口から泡を飛ばしながら言い捨てた。
「冗談じゃないよ!あいつはまだ生きている!あいつを殺すまで私の中では永遠に終わらないのさ」
「そんなの間違っています!」
横から声を掛けたのは比良坂だった。
「私も、たった1人の肉親だった兄を亡くしました。兄は私への愛が強過ぎる為に歪み、力の使い方を誤ってしまった。そして─―だから私は大切な人を亡くしたあなたの気持ちは良く解ります。そしてあなたの娘さんの気持ちも─―。間違った力の使い方で喜ぶ人なんて誰もいないんです!そんな物はあってはいけないんです!」
比良坂の訴えに、サトの目が血走り怒気が膨らんだ。龍麻が警戒して比良坂を庇うような位置に立つ。しかし、不意にサトの身体からその怒気が霧散した。
「判っているさ。私だってねぇ、判ってはいたんだ。こんな事したってあの子が喜ぶ筈なんか無いって事をさ。でも如何しようもなかった。あの子を失ってとてつもない喪失感が身体を覆って、自分じゃどうにもならなかったんだ。私には、もう時間も残されてはいなかった。私はねぇ、癌なのさ」
龍麻達は前日の闘いで彼女が咳き込んだ事を思い出した。
「そこまで……」
「母親っていうものはねぇ、子供の為には簡単に鬼となれるものなのさ」
龍麻の呟きに、疲れたようにサトが答える。
「お願いです、もう終わりにしましょう?」
「そいつは無理さね。もう、後戻り出来ない所まで来てしまっているんだ」
「やり直すのに遅過ぎるって事はないよ。人は間違いに気付いたその時からやり直す事が出来るんだ。僕はそんな人達を知っている。初めは間違っていたけど、その事に気付いてやり直している仲間だっているんだ」
穏やかな声で言いながら、龍麻はこの場にいない少女の顔を思い浮かべていた。苛められて自殺した弟と1人の少年とを重ね合わせ、彼を苛めていた同級生達に《力》を使って復讐していた妖艶な少女。龍脈を巡る闘いからこの東京を護り抜いた現在、彼女は共に命を懸けたかけがえのない仲間である。
「お婆さん、あなただってやり直す事は出来るんだよ」
「私は人ではありませんが、ご主人様や他の皆様方を見ていると、人の持つ強さに何時も驚かされます。そして─―決して叶わぬ事とは言え─―そのような強さを持つ人になりたいと感じる事がしばしば御座います。なのに何故あなた様はその人を捨てようと為されるのですか?そのような力など、人としての強さに比べれば取るに足らぬ物でありましょうに」
芙蓉が龍麻の言葉を引き継いでその想いを語る。
「ああ、ああ、そうさね。人にはそんな力があるものねぇ。でも、わたしはダメさね。わたしはもう、人ではなくなってしまったからねぇ」
言いながらサトが打掛の前を肌蹴た。
そこには骨と皮だけに干乾びた身体に白い学生服を身に付けた4人の屍骸が纏わり付いていた。時折屍骸の口から苦悶に満ちた呻き声が聞こえる。
沈黙が流れた。
「やっぱり、ダメなのかい、婆さん?」
「正直言ってこうして自分の意志を保ち続けているのも辛いのさ。今にも私の身体の中から憎悪が溢れ出し、あんた達を引き裂いて、腸(はらわた)を引き摺り出し、生き血を啜りたくて堪らないんだ。兄さん、あの時知り合ったのも多少の縁と思えば、どうかわたしを止めておくれでないかい?」
「……分かったよ、婆さん。俺が終わらせてやるぜ」
『ああ、ああ──!!』
村雨の言葉にサトが歓喜にも似た声を上げ、同時にその身を瘴気が覆い尽くして行く。
人としての意志を保ち切れなくなったのだろう。
同時に4つの屍骸が、口からげろりと肉片を吐き出しそれが寄り集まって肉玉と変化した。
更に袖口からは死霊が飛び出す。
「いくぜッ!!」
村雨の声に合わせ、4人が闘いの構えを取った。
まず肉玉が龍麻目掛けて転がり出す。それを躱す龍麻だったが、すれ違い様出鱈目に振り回された手足の1本が肩を打った。
「クッ…」
咄嗟に勁を放つがさしたるダメージを与えたようには見えない。
一方数を増やした死霊が頭上を飛び廻って瘴気の塊を飛ばして攻撃して来る。
「牡丹ッ!!」
「神威ッ!!」
2人の術がそれぞれ死霊を1つずつ落とすが、そのぐらいでは殆ど数が減ったように見えない。かと言って大掛かりな術で多くの死霊を捉えようとしても、高速で且つバラバラに飛び廻るそれらに対しては大きな効果を与えられない。逆に術者の方が先に力尽きてしまうだろう。
「チッ、厄介なこったぜ」
村雨が毒づく。
するとそこでスッと前に出る人影があった。
比良坂だった。
「もう、止めて下さい!あなた達はもう死んでいるんです!」
比良坂の声に、死霊の目が彼女へと集中する。
「昏い場所で、独りぼっちであなた達の辛さはよく解ります。私もそんな世界を垣間見た事があるから。でも、そんな事をしてもどうにもならないんです!」
報われぬ死者達の憎々しげな眼差しにも怯む事なく、比良坂が訴え続ける。
「そんな事をしていたら、もっと深く辛い場所へ引き摺られてしまう。だから、待っていて欲しいんです。時間は掛かるかも知れないけど─―何時か必ず、誰かが明るい場所に引き揚げてくれるから。もう一度、光に満ちた場所を歩く事が出来るから。だから今は私の唄を聴いて静かに眠っていて─―」
今にも飛び掛らんとする魂に向かって、比良坂は声高らかに唄い始めた。
透き通るような唄声が、高く低く、彼女の口から紡ぎ出される。
優しい調べが彷徨う魂達を柔らかく包み込んでいく。
そして響き渡る鎮魂歌に応えるかのように、死霊は1つ1つ姿を消して行った。
更に《力》持つ唄は妖本体─―いやサト自身─―と肉玉にも影響を与えたらしく、両者が大きく身体を震わす。
『るおおぉぉぉぉぉ─―――ッ!!』
彼女を危険と判断したのか、肉玉が咆哮をあげながら比良坂へ迫った。
「危ないッ!!」
横から龍麻の掌打が肉玉を弾き飛ばす。しかしそれは空中で軌跡を変え、今度は龍麻へと襲い掛かった。
「悪いけど、そう何度も受ける訳にはいかないよ」
相手の動きを予測して龍麻が跳んだ。
「やッ!」
上昇しながらの龍星脚が肉玉に突き刺さる。高い場所で突き上げるような蹴りを受け、低い天井を突き破った肉玉が今度は落下して床へとめり込んだ。
「はッ、せやッ、たあッ!!」
手を止める事なく連続して技を叩き込むと、弾けて飛び散った一部の肉片が床に落ちる前に塵となって消滅する。
更には村雨と芙蓉も術で龍麻を援護していた。
『るらああぁぁぁ─―――ッ!!』
突如悲鳴にも似た声で吼えると、肉玉はベランダの窓を突き破って庭に飛び出した。
「しまった!」
慌てて龍麻が後を追い駆ける。と─―突如肉玉が動きを止めた。まるで凍り付いたように微動だにしない。
『この家の周りには結界を張りました。これで人為らざる者は一切外へと出る事は出来ません』
聞き慣れた声がした。但し、本来ここにはいない筈の人物の声が。
「晴明様!?」
主の声に、芙蓉が真っ先に反応した。
ほぼ同時に通りの角から御門晴明が長い髪を棚引かせてその姿を現わした。
「少々心配になりましてね。念の為安倍様に事情を伝えて会談を早目に切り上げ戻って来たのですよ。」
「出て来るタイミングを計っていたんじゃねぇだろうな?」
軽口を叩く村雨の顔にも喜色が見える。普段は喧嘩ばかりではあるが、付き合いが長いだけに彼の御門へ対する信頼感は龍麻へのそれ以上と言えた。
「仕事を任せた手前、私が出て行っては貴方達の面子を立てようと思っただけです。まあ村雨程度に任せようとしたのが間違いだったのでしょう」
「御意」
「言ってやがれ。大体芙蓉、手前ぇも同罪じゃねぇか」
「…………。申し訳御座いません、晴明様」
「お前が気にする必要はありませんよ、芙蓉。それよりも龍麻さん、どうやらこの醜悪な肉塊が本体のようですね。さっさとケリを着けてしまいましょうか」
「コイツが本体だと!?」
「おや、お前は気付いていなかったのですか、村雨?もっとも強い想念を吹き込まれていた為に辺りに漂うまつろわぬ魂をこの玉が無差別に引き寄せていた事に。もっとも現世へ存在する為にはその人の身体を仲介しなくてはならないようですが」
驚く村雨に向かい、御門が片眉を上げて呆れ声を出した。
「じゃあ、そろそろ終わらせようか。――比良坂、力を貸してくれるかい?」
「ハイ!」
2人が肉玉を挟むようにして並ぶ。龍麻の構えと向かい合って、比良坂が祈るような姿を取った。
「――黄泉を照らす火之迦具土の炎よ、燃える花となり我が道を照らせ─―!!」
『黄泉迷符陣!!』
比良坂からの力を受け、龍麻の放つ氣が炎を纏って肉玉を包み込む。
『――――!!』
無数の口がパクパクと動き、声にならない悲鳴を上げる。
「では芙蓉、私達も行きましょうか?」
「御意」
「陰陽に使役されし12の式神よ、我が下に集いその力を示せ─―」
『符術・十二神将!!』
召喚された式神達の力が現世に姿を得ている芙蓉に流れ込み、その身体を憑坐として肉玉へと撃ち付けられた。
『おおおぉぉぉぉ─―――ッ!!』
《力》の奔流に耐え切れなかった魑魅魍魎の類が次々と肉玉から剥離してはその姿を消して行く。
最後には小さな手鞠だけがその場に残っていた。
「さて─―」
村雨がサトへと向き直る。
「これで終わりにしようぜ、婆さん」
打掛を振り乱すようにサトが走り、村雨へとその干乾びた両腕を伸ばす。
村雨はそれを避けようともせずにその場に立ちはだかると、胸元から札を取り出し頭上へと放り投げた。
彼の持つ札の中でも最強の力を持つ5枚がサトの周りを舞い踊る。
「――あばよ」
短い別れの言葉。
同時に札がサトの身体へ吸い込まれて行った。
そしてサトの内側から眩い光が漏れ出したかと思うと、徐々にその輝きが全身を包み込んで弾けた。
後に残ったのは小さな数個の骨片。
それが、彼女がこの世に存在した証しの全てだった。
「こんな…姿になる為に…力を手に入れた訳じゃねぇだろうよ──婆さん!」
冷たく降り頻る雨は何時しか雪となり、1人の老婆の死を悼むかのようにこの東京(まち)を白く覆っていった─―