ドンッ

 何かにぶつかる感触。

「うわッ!?」

 声が聞こえたと言う事は人にぶつかったのだろう。

「あん?俺の学校じゃねぇか」

 どうやら同じ学校の人間もいたようだ。

 思わずそちらを見る。

 知っている顔だった。村雨とか言ったか──彼よりも1つ上の学年の生徒である。

 もっとも知らなければとても高校生とは思えない面構えではあるが。

 確か見た目に因らず華道部だかに在籍していたと記憶している。

 だか彼にとってはどうでも良い事である。

 上流階級の子女が集う皇神学院にあって、目の前の男はごく普通の家の出だった筈だ。

 ただ校内でも随一の家柄――場合に選っては理事長クラスよりも上の――である御門家の当主と一緒にいる事が多い為に名は知られているが、それだけの男である。

 ましてやぶつかった当の相手は都立高校の制服を着ている。

 自分とは身分が違った。

 大体こんな所で足を止めている場合ではない。

 そう判断すると彼は再び走り出した。

「あ、おい!手前ぇ人にぶつかっておいて挨拶も無しか!?」

 何か言っているが無視する。それどころではないのだ。

 早く何処かへ逃げなくては『アイツ』が追い付いてしまうではないか。

 既に『アノ時』の仲間が3人も姿を消しているのだ。『アイツ』の所為に違いない。

 ちらりと先ほどの少年達に素直に謝って助けを求めるべきだったかという考えが浮かぶ。

 しかしすぐにそんなのは無駄な事だという決断に達した。

 何故なら『アイツ』は人間ではないのだから。

 いや。

 喩え彼等はダメでも村雨の友人である御門家の当主ならばどうにかしてくれるかも知れない。

 彼なら財力・権力・知力に加えて常人ならざる力まで持っていると言うではないか。

 普段なら眉唾で片付ける噂も、今の少年には溺れる者にとっての藁である。

 そう考えると、少年は後ろを向いて先ほどの場所まで戻ろうとした。

 しかし少しばかり遅過ぎた。

――カラン、コロン─―

 あの音が聞こえてしまったのだ。

 恐怖に身体が硬直する。

 何時しか降り出していた雨の冷たさだけが感じられた。

――カラン、コロン─―

――カラン、コロン、カラン、コロン─―

――カラン、コロン、カラン、コロン、カラン、コロン─―

――カラン、コロン、カラン、コロン、カラン、コロン、カラン、コロン――

 足音が急激に迫って来る。

 そして──『ソレ』の姿を目にしたのを最後に、少年の意識は途切れた。

 

 翌日龍麻は電話の音で目が覚めた。

「んー……ハイ……?」

『もしもし、ご主人様でございましょうか?』

 ハスキーな女性の声。

「ん……ごしゅ……?あー……芙蓉?」

『はい。お休みでございましたか?』

「いや……良いよ、もう起きるところだった」

 本当は寝起きの悪い男なのだが、普段フェミニストを自称しているだけに相手が女性――厳密に言うと彼女は違うのだが─―では文句も言えない。

「で……?」

『はい。それでは晴明様に替わります』

『――もしもし?』

 一瞬の沈黙の後に若い男性の声が聞こえた。無論龍麻にとっては馴染みの声である。

「やあ、おはよう」

『そろそろ正午になろうかと言う時間ですが?』

「――わざわざ嫌味を言う為に掛けて来たの?」

『まさか。私はそれ程暇人ではありませんよ』

「なら早く用を言いなよ。――大体すぐに替わるんならわざわざ芙蓉に掛けさせる事もないじゃん」

『初めから私が電話していればすぐに切られてしまっていたでしょう』

「……。で、用は?」

『それなのですが、電話ではなんですのでこちらへご足労願えますか?』

「えー?今からー?」

『何か問題でも?』

「だって、今起きたばかりなのに…」

『大丈夫です。芙蓉を迎えにやりますので、それまでに仕度をしていて下さい』

「そんな事言ってもさぁ─―」

『芙蓉――』

『――御意。ご主人様、私のお迎えではお嫌でしょうか?』

「う゛…」

 感情を持たぬ筈の芙蓉に、どこか哀しげな口調で問われ思わず言葉に詰まる龍麻。

 そして、暫しの沈黙。

 流石は目的の為に手段を選ばぬ事で裏密を凌ぐと謳われた御門である。

 ここは龍麻の完敗だった。

 結局その数分後、龍麻は身支度を整える事になる。

 

「チェッ、今日は小蒔を誘ってスキーにでも行こうと思っていたのに」

 千代田区にある御門の屋敷へと着き、御門――村雨も来ていた─―の顔を見る早々龍麻がぼやいた。

「あと葵とかマリィとか雪乃とか雛乃とか藤咲とか高見沢とか比良坂とかアン子とか天野さんとか──あ、芙蓉も一緒に行こうね」

「御意」

 龍麻の誘いに肯く芙蓉。

「とにかく用件を言いましょう」

 何故かこめかみを押さえながら御門が口を開いた。

「この少年に見覚えはありませんか?」

 不意に真顔に戻って言いながら一枚の写真を見せる御門。そこには数人の少年達が写っていたが、その中の1人に龍麻の目が留まった。

「あれ?この子…」

 物問いたげに村雨の顔を見ると、向こうも1つ肯く。

「やっぱり昨日僕にぶつかった子だね。でもこの子が一体…?」

「行方不明になりました」

「!?」

「彼の名は橋元信哉。我が皇神学院高校の2年生です。今朝私の下に彼が昨日から行方知れずになっているとの電話が在りました。電話の主は小河直弥と言い、その写真の右端に写っている少年です。写真に写っている5人は普段から行動を共にする事が多かったようですが、その内3人がこの1週間の間に姿を消しています。つまり昨日の橋元君で4人目と言う事ですね」

「じゃあ?」

「無論、電話を掛けて来た少年の身は保護してあります。その写真はその際に彼から預かった物です」

「なるほど、ね」

「ちぃっと話してみたが、身勝手さが滲み出ている鼻持ちならねぇガキだったぜ。晴明もあんなガキ放って置きゃあ良いものをよ」

「我が門を叩いて助けを求める者を見捨てる訳にも行きませんからね」

 しれっとした顔で言う御門。普段政治家や官僚を相手にする事も多いだけに高潔ならざる人間にも慣れているのだろう。もっとも助けた理由は多分に気まぐれなのだろうが。

「で?」

「ええ。感じました」

「そうか…。じゃあ、やっぱりこれは─―」

「俺達の出番って訳だ」

 写真に目を落としながら問い掛ける龍麻に、御門と村雨がそれぞれ肯く。

 いくら助けを求められたとは言え、たかだか一高校生を御門が保護したと言う事は人為らざる者が関わっていると想定するのは当然の事だろう。

「けど何で僕?これぐらいなら御門1人で充分片付きそうに思うんだけど?」

 確かに東日本を纏める陰陽師の棟梁である御門に解決できない事件など、そうあるとは思えない。

「生憎と私は今日から2,3日京都へ赴かなくてはならないのですよ。西日本の陰陽師達の御棟梁であらせられる安倍様と、会談を行う予定がありましてね。相手が相手だけに今回ばかりはこちらへ呼び付ける訳にも参りませんから」

「ふーん、大変だねぇ」

「村雨1人では少々心配なのであなたにもご足労願ったと言う訳ですよ」

「しょうがないね。御門には何時もツケを払って貰っているしね」

「では宜しくお願いします。芙蓉を置いて行きましょう。如何様にでも使って下さい」

 言って踵を返す御門。

「あれ、もう行くの?」

「時間がありませんのでね。では」

 それだけ言うと御門はその場を立ち去ってしまった。

「じゃあ芙蓉、その保護した子の所に案内してくれる?」

「御意」

 芙蓉の案内で龍麻達は御門の屋敷のとある離れの一室に案内された。

 それほど広くはない板張りの間の中心に五芒星を模した方陣が描かれ、その中に1人の少年が不安そうな表情できょろきょろと辺りを見回している。

 彼が小河直弥なのだろう。

 龍麻達に気付くと喚くように言った。

「あ、あんた達は誰だ!?僕は本当に安全なんだろうな!?」

「やれやれ…先輩に対する口の聞き方ってモンを知らねぇのか?しかも俺達はこれからお前さんを護ってやろうって人間だぜ?」

 村雨の口調からは心底呆れている様子が見て取れる。

「な…あんた達が護衛ってどういう事だ!?御門先輩はどうしたんだ!?」

「御門は用事があるらしいんで代わりに僕達が呼ばれたんだよ」

 龍麻の説明に、小河の顔色がみるみる蒼白になる。

「何言ってるんだ!あの御門先輩が助けてくれるって言う話だから来たんだぞ!?僕に何かあったらどうするんだ!」

「ねぇ、村雨。ホントにこの子助けてあげなきゃダメ?」

「俺も限りなくそういう気分ではあるんだがな」

 うんざりした表情で話す2人だったが、結局どうにか小河を宥めて部屋の前で警護についた。

 芙蓉の話ではこの部屋の結界は御門の張った特殊な物で、小河の気配は発しつつも常世の者にはその姿が見えないと言う代物だった。

 それで彼に憑いているという妖(あやかし)を誘き出し龍麻達が倒すと言うのが作戦の概要だった。

 そうして待つ事およそ4時間ばかりか。くつろいでいる龍麻と村雨――龍麻に至っては芙蓉の膝枕に頭を預けている──の耳にぽつぽつと雨音が聞こえて来た。

「先生、どうやら降って来ちまったぜ」

「最近多いね」

 と――不意に空気が変わった。

「来たぜ」

 龍麻も無言で身体を起こす。芙蓉も式神としての本来の姿に戻っていた。

「き…来たって…?」

 結界の真ん中でうずくまって震えていた小河が、村雨の言葉にハッと顔を上げ辺りを見回す。そして緊迫した一同の耳にそれが聞こえて来た。

――カラン、コロン─―

 下駄で地面を蹴りながら歩くような音。

――カラン、コロン、カラン、コロン─―

 徐々にその間隔を狭めて近付いて来る足音。

――カラン、コロン、カラン、コロン、カラン、コロン─―

 やがてバン!!≠ニ音を立てて離れの扉が大きく開いた。

 降り頻る雨の中、そこに立っていた者は─―

「着物――?」

「振袖か?」

「打掛のようですね」

 そう、それは花嫁衣裳の打掛に身を包んでいた。

 顔は目深に被った角隠しに隠されていて見えないが、袖や裾から僅かに覗く手足は骨と皮だけで枯れ木のような印象を与える。

 おそらく顔もあまり想像したくはない御面相だろう。

「先生、コイツは結構――」

「厄介な相手だね。強い想念を感じる」

「だ、大丈夫なんだろうな!?」

 会話に割り込む小河にちらりと目をやり、村雨が答えた。

「さて…な。それよりこの姐さん、よっぽど強い恨みを持っているみてぇだぜ。お前さん、何か心当たりがあるんじゃねぇのか?」

 その言葉に小河は顔面蒼白と言った状態でガクガクと首を横に振る。

「そ、そんな訳ないだろう!?僕が誰かから恨みなんて買う訳ないじゃないか!喩えそうだとしても逆恨みに決まってる。そうに決まってるさ!」

 だが彼の台詞に反応したのか、妖の妖気が一気に膨れ上がった。

「村雨、来るぞ!」

 妖が舞う様に宙を彷徨いながら袖を振ると、そこから青白い光が幾つも飛び出した。

 目を凝らせば光には一つ一つ苦悶に歪んだ人の顔が浮かび上がっている。

「死霊を呼び出した!?」

「ヘッ、あまり趣味が良いとは言えねぇな」

「お前に人の趣味をどうこう言う資格があるとは思いませんでした」

「このアマ…段々主の影響受けて性格曲がってきやがったな」

「晴明様への侮辱は取り消しなさい」

「喧嘩している場合じゃないよ」

「御意。村雨などを相手にしたのが間違いでした」

「手前ぇ…後で泣かす」

 等と言っている間に死霊魂は数回部屋の中を旋回すると龍麻達に向かって襲い掛かった。

「ふッ!」

「赤短・舞炎!」

「春風の舞」

「はあッ!」

「青短・吹雪!」

「霧氷桜!」

 龍麻の拳と村雨・芙蓉の術が死霊魂を次々と落として行く。しかし妖が袖を振る度に新しい死霊が呼び出され、その数は一向に減る様子が無い。

「先生、コイツはキリが無いぜ」

「うん…村雨、芙蓉、少しだけ援護頼むよ」

 その言葉だけで龍麻の意図を察し、2人が同時に肯く。

「ああ、頼むぜ」

「御意」

 そして死霊の群れに対し、2人が最大の技を仕掛けた。

「五光・狂幻殺ッ!!」

「天后不動明斬扇!!」

 瞬間全ての死霊が打ち消された。その隙を逃す事無く龍麻が妖の懐に飛び込んだ。

「おりゃあぁぁぁ─―――ッ!!」

 龍麻の拳の先から凝縮された氣が弾ける様に妖へと突き刺さる。それは鳳凰が翼を広げて羽ばたく姿にも似ていた。

 弾き飛ばされて妖が奥の壁を突き破る。しかし─―

「やったか!?」

 村雨の喚声にも龍麻は首を横に振った。

「氣の入り方が浅かった。寸前で流されたような感覚があった」

 そしてその言葉通り、壁の穴から再び妖が姿を現わす。

 但し、流石に黄龍の器による必殺の一撃を受けていただけあってその身体が小刻みに震えている。

「よし、先生、今の内にトドメを刺すぜ!」

 村雨の声に肯いて、龍麻と芙蓉も構えを取る。

 しかし、妖が更なる動きを見せた。

 おもむろに両手を胸元に当て、打掛の留め紐を解く。そして前を大きく開くとそこから何やら丸い物が転がり出た。

 それは肉玉だった。

 人間の身体の部品が出鱈目に組み合わさり、貼り合わさって人の胸元ほどもある巨大な球体を成しているのだ。

 ごろり、とそれが動き出す。瞬間的に急激な加速を持って転がる肉玉は、目の前に立つ龍麻を弾き飛ばして結界へと向かう。

「うぅあッ!!」

 不意を突かれた龍麻は思いきり壁に叩き付けられた。鉄臭い液体が喉元へと込み上げ、息が詰まる。あばらが折れたのか身動きすると脇腹に激痛が走った。

 慌てて芙蓉が駆け寄る。

 一方肉玉はあちこちに付いている口で小河の気配を探る様にガチガチ歯を噛み鳴らしながら結界の廻りをグルグルと転がっている。しかし結界の効果で彼の姿は見えていない。

 だが小河の恐怖の方が限界に来てしまった。

「う、うわあぁぁぁッ!!」

 結界を飛び出し外に逃げ出す。

「待て!外に出るな!」

 村雨の警告も耳に入らない。

 肉玉が小河の姿を見つけて走り出した。みるみるその背中に迫る肉玉。

「チィッ!紅葉ッ!!」

 村雨の投げ放った札が炎となって肉玉にぶつかる。

 一瞬肉玉が怯んだように震えるが、一拍置いてその口が一斉に開いた。そしてそれぞれが色とりどりの糸を吐き出して小河や、攻撃を仕掛けた村雨に絡み付いた。絹の様に細いにも関わらずその糸はかなりの強度を持っていた。ズルズルと身体が肉玉の方へと引き摺られて行く。

「うわッ!うわああぁぁぁ─―ッ!!」

「クッ…」

 村雨の目の前にも肉玉が迫って来る。口からは鋭い歯と長い舌が覗き、不自然な方向に曲がった腕や脚が彼等を招き寄せる様に蠢く。

「た、助けてェ──ッ!!ごめんなさい、もうあんな事しないから許してェ─―ッ!!」

 小河が絶叫に近い声で肉玉へと向かって懇願する。

 しかしその声に反応したのか、肉玉は益々激しく歯を噛み鳴らして手足を捩る。

「ヒィ─―――――ッ!!」

 そしてその手が2人を捉えると思った瞬間、突然肉玉が大きく震え動きを止めた。身体を縛る糸も僅かにその力を緩める。

 村雨はその隙を逃さず袖口から札を抜き出すと念を込めた。

「絶場・素十九!!」

 空を切って舞う幾枚もの札が彼等の戒めを解き放つ。

 と─―再び動き出した肉玉は小河に襲い掛かるかに見えたが、急激に逆回転を行い妖の下まで戻ると出現した時と同じ様に打掛の中へと吸い込まれて行った。

 そして妖の本体もスゥーッと闇に溶けるようにして姿を消したのだった。

――カラン、コロン、カラン、コロン─―

――カラン、コロン、カラン、コロン─―

――カラン、コロン─―

――カラン、コロン─―

 ただ遠ざかる足音のみがその場に響き渡っていた。

「――急に様子がおかしくなりやがったがどういう事だ?」

「さあ、ね。ただ僕には妖の本体が一瞬咳き込んだように見えたよ」

 村雨の言葉に、芙蓉の手を借りて起き上がった龍麻が答えた。飄々と話してはいるが、その表情は苦痛で僅かに歪んでいる。

「咳き込んだァ?そりゃあ、また随分と人間臭い化け物だな。っと─―」

 首を傾げる村雨だったが、ふと小河の事を思い出して近くへ駆け寄った。

「オイ、大丈夫か?それにさっきの言葉はどういう─―」

 うずくまる少年を起き上がらせながら声を掛ける。しかし─―

「ヒヒ……ヒヒヒ……アハハ……ハハ……」

 恐怖に耐え切れなかったその精神は完全に崩壊してしまっていたのだった。