ピシャピシャピシャピシャッ

 濡れた夜道を小走りに駆ける足音が響いていた。

 シトシトと冷たい冬の雨が身体を打つのも構わず、少年が1人傘も差さずに走っている。

 少年は走りながら腕時計に目をやり、小さく舌打ちをした。

 彼は急いでいた。

 英文の小テストの結果が思わしくなかったので補習を受けていた為に塾の時間に遅れそうなのだ。

 喩え僅かな遅れとは言え、競争の激しい現在の学歴社会では大きなハンデとなる。

 少なくとも少年はそう思っていた。

 特に彼の通う東京都でも随一の進学校『皇神学院高校』においては。

――カラン、コロン――

「?」

 音が聞こえた─―ような気がした。

 思わず足を止め、暫し耳を澄ますが何も聞こえない。

 そしてすぐにそれどころではない事に気付いた。

 再び走り出す。

――カラン、コロン─―

 また、聞こえた。

 底の高い下駄か草履でも履いて歩いている足音のようである。

 しかし今度は、少年は足を止めなかった。

 大方どこかの上流階級に属する女が、これ見よがしに高価な着物でも着て歩いているのだろう─―彼はそう判断した。

 大体今は余計な事にかかずらっている暇など無いのだ。

 2年生も終わると言うこの時期、今成績を落とせばまた両親の不興を買ってしまうだろう。高級官僚である父には罵声を浴びせられ、母は失望に満ちた眼差しで自分を見るに違いない。

(そんなのは、嫌だ。)

――カラン、コロン、カラン、コロン─―

 足音の響く間隔が若干狭まった。

 無理も無い。

 この雨なのだから。

 着物が濡れるのを厭って足を早めたのだろう。

 と、ここで少年は奇妙な違和感を覚えた。

 しかしすぐにはその理由が浮かばなかった。

――カラン、コロン、カラン、コロン、カラン、コロン――

 更に足音が早まった。

 雨も先程より若干強さを増している。

 アスファルトの道路には所々に水溜りが出来、少年が水を撥ねる音もバシャバシャ≠ニ随分重たくなっていた。

 少年は自分も足を早めようとして─―急に違和感の理由に思い当たった。

(これだけの雨の中を歩いているのに、何故足音の人からは水音がしないのだろう?)

 そこまで考えて少年は全速力で駆け出した。

 恐怖がじわり、と全身を覆い尽くしていく。だが─―

――カラン、コロン、カラン、コロン、カラン、コロン、カラン、コロン─―

 足音はどんどん速度を増してくる。

――カラン、コロン、カラン、コロン、カラン、コロン、カラン、コロン─―

――カラン、コロン、カラン、コロン、カラン、コロン、カラン、コロン─―

 既に少年が走るより遥かに早い速度で足音が迫ってきた。

 肩や首筋を何かが掠る感触を感じる。

 それは細い指先のようにも思えた。

(僕を捕まえようとしている!?)

 咄嗟にそんな考えが浮かび、更に激しい恐怖が襲った。

 声を出して助けを呼ぼうとするが、恐怖と全力疾走で引き攣った喉はヒューヒューと掠れたような音しか出してくれない。

 そして─―どれくらい走ったであろうか?

 ようやく足音が聞こえなくなり、少年は大きく息を吐いた。

 足がガクガクしている。

 ホッとした少年は2,3度深呼吸して息を整える。

 そして急に塾へ行かなくてはならない事を思い出し足を踏み出した。と──

バサッ

 突然背に重い物が覆い被さって来た。

 更に何かが顔を撫でる。

 それが枯れ木のように干からびた人の手だと気づくのには数瞬を要した。

「ぅ…うわああぁぁぁぁぁ!!」

 少年は今度こそ大きな悲鳴を上げた。

 そして、静寂。

――カラン、コロン――

――カラン、コロン――

 暫くして再び足音が鳴り響く。

――カラン、コロン――

――カラン、コロン――

 やがて――足音は遠ざかり、辺りには再びアスファルトに降り注ぐ雨音だけが聞こえていた。

 

 

「ふ、ふざけるなぁッ!イ、イカサマだッ!そうに違いねぇ!」

 男が声を荒げながら、手にした数枚の札をテーブルに叩き付けて立ち上がった。同時に周りに座っていた数人の男達も立ち上がる。

 みな一様に若い。おそらくまだ20歳前――17〜18歳と言うところだと思われる。

 新宿歌舞伎町の片隅に位置する場末のスナック。

 本来ならそんな少年達が出入りするには相応しくない場所である。

 しかし彼等に限ってはその場所が妙に似合っていた。

 革のジャンバーや派手な柄のシャツ、不自然な程あちこち身に付けたアクセサリー等が、彼等が暴走族か或いは暴力団に出入りしているチンピラの類である事を物語っている。

「イカサマだと…?」

 反対側のテーブルについていた村雨は、面白くなさそうに呟くと斜に被った学生帽──流石に彼の学生服姿はこの場に相応しくないと思われる──のつばを人差し指で軽く持ち上げ、その下から男の顔を睨み付けた。

 眼光の鋭さに、男は僅かに怯む。

 もっとも眼光だけではない。

 着ている物こそ学生服――但し裾が膝下まで届く真っ白い長ランで、背中に大きく『華』と言う文字が刺繍されている――ではあるが、無精髭を生やしたその顔は目の前にいる若者達よりもよほど年嵩に見えるし、顎に残る傷痕が彼の表情に更なる凄みを与えていた。

 もしも村雨が本気で凄めば、そこいらのヤクザでも一目置くに違いない。

 とは言えたった1人の相手に気後れしていては自分達の面子が立たないと思ったのか、若者達は更に凄み返して言った。

「あ、当たり前だッ!たかだか10回の勝負で四光が3回に三光が5回なんて出るワケねぇだろうが!挙句の果てには五光だと!?これがイカサマでなくてなんだってぇんだ!」

「やれやれ…運の無ぇヤツほど手前ぇの不運を棚に上げて他人(ひと)をイカサマ師呼ばわりしやがるんだから恐れ入るぜ」

 心底呆れたような口調で答える村雨に、男達が一層頭に血を昇らせる。

「おいおい、そういきり立つのも良いがな、これだけは言っておくぜ。――この村雨祇孔、勝負と名の付くものにおいてイカサマと手加減だけはした事がねぇって事をよ。その意味が判るってぇなら掛かって来な」

 その挑発的な言葉と態度が引き金となって店内は喧騒に包まれた。

 

 

「それにしても酷いな、村雨。普通のヤツがお前と花札なんかやったって勝てるわけ無いじゃん」

 先程の乱闘で離れた席に座り1人高みの見物を決め込んでいた少年──驚いた事に彼はこんな場所で公立高校の制服を着ている──は、長めの前髪を軽く掻き揚げて村雨に言った。

 彼――緋勇龍麻の無邪気とも言える物言いに、村雨は渋い顔を見せた。

「何言ってやがる。けしかけたのは先生じゃねぇか。大体今日の呑み代だってヤツ等からの上がりで払ったんだぜ?その上高みの見物に洒落込んで手も貸しやしねぇ」

「だってあんなヤツ等に村雨が負ける訳ないじゃん」

 事実彼は得意の符術を行使する事も無く、素手で10人近い少年達を降していた。但しその代償に店の中はかなり凄まじい事になっていたが、何時もの様に御門の名前を出せば何処からも文句は出ない。

 いや─―強いて言うなら下らない理由で毎回謝罪をした上に弁償させられる御門からであろうか。

 もっとも彼が幾ら文句や嫌味を並べたところで、この2人には丸っきり馬耳東風なのだが。

「それにさ、下手に僕が手を出したらアイツ等死なせちゃうし」

 それは嘘だ。

 元々武術の達人でもある上、完全なる黄龍の力を手にした龍麻がまかり間違っても加減を誤るなどと言う事はあり得ない。

 手を出さなかったのは見ている方が面白いからと言う理由であるに決まっている。

「そんな事よりさ、僕お腹減っちゃったよ。村雨、その金で何か食べようよ」

「てッ…このガキャア…くそ、好きにしやがれ!」

「じゃああそこが良い」

 見ると新宿でも1,2を争う高級鮨屋だった。

「ちょ、ちょっと待て!幾らなんでも高過ぎるだろうが!」

 確かにあんなチンピラ風情から巻き上げた金などあっと言う間に足が出てしまうに違いない。

「えー。じゃあさぁ――」

「あまり高い処は勘弁してくれよ」

 などと話しながら歩いていると──

ドンッ!

「うわッ!?」

 突然路地の暗がりから飛び出した人影が龍麻にぶつかった。

「痛た…」

 見ると白い学生服を着た少年である。

 あまり良い印象を与えない顔立ちだった。

 甘やかされた育ったのか、どことなく身勝手な傲慢さが表情に浮かんでいる。

 更に特徴的な制服は村雨と同じく皇神学院の物であった。

「あん?俺の学校じゃねぇか」

 村雨の声が聞こえたのか、少年はちらりと彼に目をやると、一気にその場を駆け出した。

「あ、おい!手前ぇ人にぶつかっておいて挨拶も無しか!?」

 無視。

「待たねぇか!」

「良いよ、村雨。大したことじゃない」

 結局そのまま走り去ってしまった少年に向かい、村雨が小さく舌を打つ。

 そして龍麻に振り向いた。

「ん?ああ――先生が良いなら俺は構わねぇけどよ。ま、後輩が悪い事したな」

「気にしなくても良いって。それより早くお鮨を食べよう?」

「そうだな…って、待て!」

「村雨って鮨は嫌いだっけ?」

「確かに嫌いじゃあねぇが――」

「だったら良いじゃん」

「だから金が――」

「後輩の無礼に悪いと思ったんだろ?」

「それは気にしなくて良いと─―」

「僕達親友じゃないか。だったら言葉の裏まで読んでくれないと」

 どうやら先ほど気にするなと言ったのは、彼を追い掛ける暇があったらさっさと鮨を食べに行こうと言う意味だったらしい。

「やれやれ…」

 暫し何か言いたそうに龍麻を見ていた村雨だったが、やがて大きな溜息を吐くと諦めた表情で鮨屋の暖簾をくぐって行った。

 

 事件が起きたのはその翌日の事だった。