雨が降っていた。
どうと言う事の無いごく普通のにわか雨。
とは言え2月も半ばに差し掛かろうかというこの時期に、雨に濡れて歩くのは少々辛い。
村雨祇孔もそう判断し、民家の軒先へと難を逃れた。
おそらくかなり古くに建てられたのだろう。
この辺りとしては今時珍しい、小ぢんまりした木造の平屋建てである。
「やれやれ…ついてねぇぜ…」
雨を避け、学生服を濡らしている水を拭いながら、独りそうぼやく。
強運を呼び込むと言うのが村雨の《力》ではあるが、人の運勢に波が在る様に彼のそれにも若干の波があった。
勝負事での負けなどはまず無いが、傘を持っていない時に雨が降ったり、箪笥の角に足の指をぶつけたりと言った些細な不幸は彼にとってもそう珍しい出来事ではない。
仕方なく暫し軒下に佇む村雨。
「…上がるまで待っていても良いんだが…晴明か芙蓉にでも迎えに来てもらうか」
呟きながらポケットから携帯を取り出そうとした時、不意に横の引き戸が開いた。
「お兄さん、良かったら中にお入りなさい」
振り向くと小柄な老婆が入り口から身体を半分外に出して手招きしている。
「良いのかい、婆さん?」
「良いよ、良いよ。いつも独りで退屈しているんだ。どうせなら雨が上がるまでの間、中で年寄りの話し相手にでもなっておくれ」
「独り?旦那はいないのかい?」
「ああ、もう20年も前にねぇ」
「そいつは…つまんねぇ事訊いちまったな」
「なぁに、過ぎた事さね。それより早くお上がりよ」
「そうかい。そんじゃあ、ま、遠慮無く邪魔するぜ」
言うと村雨はあまり建付けの良くない戸をガタガタと開き、家の中へと上がり込んだ。
小さな三和土には老婆の物と見られる靴とサンダルが2足。
脇にある棚には置物1つ置かれてはいない。
無駄な物は置かない主義なのだろうか、などと彼らしくもない想像などしてみる。
「さあ、こっちだよ」
細い廊下のすぐ左手がこの家の居間の様だ。
8畳くらいの広さの部屋の真ん中には小さな卓袱台、奥には型の古いテレビとこれまた古めかしい木製の茶箪笥。
そんな中でそれだけ大きく立派な仏壇が目に止まった。
仏前には20代前半と思われる女性の写真が飾ってある。
写真の前には小さな手鞠。
他の物と同様に古ぼけてはいるが、色とりどりの糸で施された精美な刺繍が美しい。
「この写真は?」
「ああ…。娘さね」
卓袱台にお茶と煎餅を置きながら、老婆――生方サトと名乗った――はポツリと答えた。
「美人じゃねぇか」
「そうだろ?遅くに出来た子だったけどね。美人で優しい良い子だった。小さい頃は私の作ってあげたその手鞠で遊んでいたもんさ」
「…病気かい?」
「ああ、いや…ほら、お茶のお代わりはどうかね?」
「ん?ああ、貰おうかな」
サトが言葉を濁したのに気付き、村雨はそれ以上深く訊くのを止めた。そしてお代わりを受け取ると熱い緑茶を一口啜る。
「良いお茶だな」
「だろう?年寄りのささやかな贅沢さ。まあお爺さんの好きだった銘柄なんだけどねぇ」
「そう言えば旦那の写真は飾ってねぇみたいだな?」
「ふぇっふぇっ、お爺さんの写真はわたしが肌身離さず持っているんだよ」
「へぇ。見せてくれねぇか?」
「ダメだよ。見て良いのは私だけさ」
「やれやれ…」
少しばかり照れ臭そうに言うサトに、苦笑を返す村雨。
「そうさねぇ…若い頃は兄さんに良く似た良い男だったよ。美男美女の組み合わせと言われたものさ」
「自分で言うかね?」
「自分しか言わないじゃないかえ」
「違ぇねぇ」
その後は取り留めの無い世間話を小一時間ほど続けただろうか。
「さて、どうやら雨も上がった様だな」
ふと窓から空を見上げ村雨が言った。
「そろそろ行くぜ。婆さん、邪魔したな」
「そうかね。良かったらまた遊びに来ておくれ。私もお爺さんが生き返ったみたいで楽しかったからねぇ」
「ああ、そうさせてもらうさ。元気でな、婆さん。美味いお茶をご馳走さん」
そうサトに礼を言うと、村雨は腰を上げた。
外に出た村雨はもう一度空を見上げて呟いた。
「ヘッ、どうやら当分はすっきりしねぇ天気が続きそうだぜ…」