[PR] この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。
君の隣で
「ひーちゃん、行こうよ。この辺りで一番、綺麗なものが見られるところへさっ」
少女は元気良くそう言うと、少年の前に立って軽快な足取りで歩きはじめた。ひーちゃんと呼ばれた少年も、慌てて後を追う。
日は既に沈み、頬を撫でていく風にも夜の冷たさを感じる。空は生憎重たい雲に覆われているが、元々星の瞬きが殆ど見られないこの街では、特に気にする者もいないようだった。その分地上には目も眩むほどの人工の星々が煌いている。殊に今日はその数がいつもより格段に多い。
新宿の街は相変わらず沢山の人でごった返していた。しかし白い息を吐き出しながら歩く顔には嬉しそうな表情が多い。それも今日だからかもしれない。そう言えば、街並みを歩いてる人の殆どが恋人同士のようだ。
「すっごく綺麗なんだよ!きっとひーちゃんも気に入ると思うんだ!」
半ば駆けるようにして歩きながら、彼女は半歩後ろの彼を振り返って言った。少年はその優しい瞳で彼女を見つめながら、
「よっぽどその場所を気に入ってるんだな、小蒔は」
彼女の歩調の速さをはしゃいでいるととったのか、そう言って穏やかに微笑む。しかし小蒔はその誤解を訂正することなく、ただいつもの明るい笑顔を返しただけだった。はしゃいでいる、というのも勿論間違ってはいない。だがそれよりも、緊張ゆえ足を速めたという方が正確だろう。
「ひーちゃんが、今日のクリスマスイブ、お前と一緒に過ごしたいんだってよ」
今朝京一がそう言ってくれたとき、彼女は自分の耳を疑った。信じられなくて、思わず聞き返したほどである。待ち合わせ場所を確認するときも、そのあまりに呆然とした様子に京一に苦笑された。だが、彼女にとってそのくらい意外だったのだ。
無論、彼の気持ちは知っている。数日前龍山の家からの帰り道、突然の雨を避けて二人は公園の東屋に入った。その時小蒔は自分の声が震えるのを感じながらも、彼の気持ちを問うたのだ。彼女の事を好きかどうか、と。すると彼は相変わらずの笑顔で、静かに頷いてくれた。その時の吐く息の白さも、高鳴っていく胸の鼓動も、つい先ほどのことのように鮮明に蘇る。
だがお互いを「恋人」と呼ぶには、二人の関係は未だ曖昧だった。あの翌日に龍麻は柳生の凶刃に倒れ、そのまま何日も意識が戻らなかったのだ。いつ目覚めるとも分からないまま眠り続ける少年の枕元で、彼を失うのではないかという恐怖でくずれ落ちそうになったのを覚えている。あまりの恐ろしさに涙も出ず、ただただその快復を祈り続けた。彼の瞼が動き、優しい瞳がこちらを見つめたとき、安堵のあまりその笑顔が滲んで見えた。
そっと、横を歩く少年の顔を盗み見る。秀でた鼻梁に、彼の意志の強さを表すように固く閉ざされた形の良い唇。長い睫に縁取られた瞳は真っ直ぐに前方に向けられている。車道からの光に照らされ、こちらに向けられた側は淡い影に包まれていた。
今年のクリスマスは家族とすごそうと思っていた。まさか龍麻がこんなに早く退院すると思っていなかったし、たとえ退院すると分かっていても、彼女の方から誘うことはできなかった。もしかしたら、他に予定が入っているかもしれない。仲間内の誰かが既に誘っているかもしれない。少年が困ったような顔で自分の誘いを断る姿を想像すると、ただそれだけで言葉が出なくなってしまったのだ。だから、龍麻から誘ってくれたときは嬉しくてたまらなかった。彼にとっては自分が「女の子」として映っている。何も言わずにただ優しく微笑む彼の前で、小蒔はいつもよりももっと素直な言葉が言えた。──ただ一言をのぞいては。
「あれえ?確かこの辺だと思ったのになあ…」
ふと足を止め、少女は戸惑ったように周囲を見まわす。記憶が正しければ、この辺りに目的のものはあったはずだ。
「どうした?道間違えたのか?」
「ううん、そんな筈ないんだけど…」
彼の言葉に小蒔は首を傾げて見せた。夜になったせいか街は随分と冷え込んできた。頬がしびれるような感覚を覚えながらも、忙しく首を巡らせる。
「…あっ!」
少年をその場に残し、唐突に彼女は駆け出した。
「あ、小蒔?」
背後から面食らったような声をかける龍麻の方を振り返り、無邪気な声で、
「あったよ、ひーちゃん!大きなツリー!」
小さな家屋くらいの高さはあるだろう。一本の大きな木が、北風にその身を震わせながらもある種の威厳をもってそこに立っていた。その枝々に巻き付いた沢山の電飾が輝きを放って、あたかも天にかかる全ての星を集め、その光だけでひとつの木の形を成したかのように見える。
「これか…小蒔が見せたかったものって」
いつの間に来たのか、ツリーの美しさに嘆息する彼女の横に並んで、呟くように少年は言った。
「…綺麗だな」
「うん。何だか…この光の中だけ、違う世界みたいだ…」
これほど大きなツリーだから、やはりそれなりに有名なのだろう。しかし周りにはツリー目当てのカップルの姿は見えず、まるで彼らだけが取り残されたように、光を纏った木を見つめている。本来今日に最も相応しい「神聖な」という言葉は、もちろんこの場の雰囲気には当てはまらない。だが表通りからわずかに外れたこの場所では喧騒も遠く、不思議な静寂が辺りを支配している。
「ボクと、ひーちゃんだけ、違う…世界にいるんだよ」
言ってから、そのあまりに夢見がちな言葉に自分で面映ゆくなってしまう。京一がこの場にいたなら、「似合わない」と笑い飛ばすに違いない。軽い羞恥で頬を染めておずおずと彼の方をうかがうと、その柔和な笑みにぶつかった。そして優しい声音で、そうだな、と呟くと、
「小蒔と一緒なら…それも悪くないな」
「…ひーちゃん…」
何気ないその言葉に、胸の奥が揺さぶられる。気づかれぬように肩からさげた鞄の中に手を入れると、滑らかな手触りのセロハンに指先が触れて、かさりと音を立てた。大きく深呼吸してから、彼の名を呼ぶ。
「ん?」
こちらを向いた少年に突きつけるようにして、手に握った物を差し出す。
「…え?」
「…あのさ、これ…受け取って欲しいんだ」
驚いて目をしばたたかせる龍麻に、俯いたまま少女はそう言った。彼女の手の中で、透明なセロハンに包れた一輪の黄色い薔薇が小さく微かに震えている。それが彼女自身の震えだと気づくと、少年は僅かに微笑んで、手を伸ばした。
固く握り締めていた指を開かれ、小蒔は躊躇いがちに顔を上げる。目の前では少女の贈り物を持った彼が穏やかに笑っていた。
「…ありがとう。嬉しいよ」
いつもの低い、柔らかな声に胸が締め付けられるのを感じる。自分の声が上ずっているのを意識しながら、必死に声を絞り出した。
「…さっき花屋さんで見つけたから。…ちゃんと言える自信がなくて…」
そして少年の瞳を真っ直ぐに見つめると、
「ひーちゃん。…黄色い薔薇の花言葉って知ってる?」
「え?…いや…」
突然の質問に咄嗟に不思議そうな表情を浮かべたが、すぐに首を左右に振る。
「…『愛の告白』…って、いうんだよ」
言葉を紡ぎ出す彼女の小さな唇が小刻みに震えているのは、何も寒さゆえのことではなかろう。彼は瞬きを繰り返し、吃驚した表情で彼女を見つめ返す。一瞬の間の後その口が僅かに開いたが、そこからは笑い声とも嘆息ともとれる、わずかな吐息がもれただけだった。
「…ボクね…、ずっと…ずっと、迷ってたんだ」
まるで独り言のような口調で、少女はそう呟く。
「…『迷ってた』…?」
「うん。…京一から、君が待ってる、って聞いたときも、…花屋で君へのプレゼントを選んでるときも…」
そして目を伏せると小さく息を吐き出した。
「ボク、正直まだ…ふっきれてなかったんだ。龍山のおじいちゃんのところからの帰り道…ああは言ったけど、やっぱり君には葵がお似合なんじゃないかって…やっぱりボクじゃ駄目なんじゃないかって…思ってた」
「……」
「葵は女らしくて、優しくて、…やっぱり、ボクなんかよりもずっと…」
僅かに視線を落とし、足元を見つめる。少年ははあっと大きくため息をつくと、
「小蒔、俺は──」
「…でもね」
言いかける龍麻を遮り、彼女はいつもの明るい笑顔をこちらに向けた。
「でも…ボク、気づいたんだ。…それは、ボクの逃げなんだって…」
彼は黙って、先を促すように少女を見つめている。その澄んだ瞳はツリーのイルミネーションを映して、仄かに輝いていた。
「…ボク、この間の雨宿りの時、ひーちゃんに言ったよね?…怖かったんだって。…君のことを好きになったら…他の大切なものを全部失っちゃいそうで…怖かったんだ…って」
「…ああ」
「…あの日、ボクはもう自分の気持ちに嘘はつかないって言ったけど…やっぱり、まだ怖かったんだ。君がボクを好きでいてくれることは嬉しいけど、でも…このまま友達でいた方がいいんじゃないかって。何も失わずに…誰も失わずにすむんじゃないかって。その方が…ずっと楽なんじゃないかって…」
そこで言葉を切り、彼の方を見上げる。そこにあるのは、相変わらず優しい彼の瞳。あのうららかな春の日に初めて出会った時も、凶津の手から彼女を救い出してくれたときも、…そして、初めて己の心のうちを吐露したあの雨の日も。いつも、龍麻は変わらぬ瞳で見つめてくれた。そして多分、これからも──。
「…でもやっぱりボク、…駄目だよ。やっぱり…これ以上、自分に嘘つけないや…」
ぽつりと、震える声でそう言う。彼は小さく首を傾げ、え、と聞き返した。
「…いつのまにか、君のことばかり見てた。ずっと…友達だと思ってたのに…気が付けば、いつも君の姿を追ってたんだ。認めたくなくて、『友達だ』なんて自分に言い聞かせてきたけど…そうじゃなかったんだ」
つと手を伸ばし、彼の上着の袖口を握り締める。触れていないと、彼が突然いなくなってしまうのではないかと怖くて、言葉を紡ぎだせなくなりそうだった。
「…ひーちゃんを…誰にも渡したくない。他の誰も、ひーちゃんの瞳に映して欲しくない。君が見つめる女の子は、いつだって…ボクであって欲しいんだ」
少年は自分の左の袖口を彼女の小さな手の中に預けたまま、彼女の言葉を聞いていた。その語尾が僅かに湿り気を帯びていることに気づくと、
「…小蒔?」
気遣わしげに名を呼ぶ、その声音に胸が強く締め付けられる。どうすればいいか分からなくて、少女は龍麻の肩口に顔を埋めた。
「…ボク、ひーちゃんの隣にいていいよね…?」
「…え」
「ひーちゃんの背中はボクがちゃんと護るから、…ずっと…傍にいて、いいよね…?」
かろうじて聞き取れるような小さな声で言う彼女がどんな表情を浮かべているのか、少年からは見て取れない。だが痛いほどきつく彼にしがみついている力で、彼女の胸を占めるどうしようもない程の不安が伝わってきた。
「…あ…」
彼の逞しい腕が背に回されて、思わず体を強張らせる。龍麻はそんな彼女の耳元に口を寄せ、囁くように、
「…傍にいてくれ」
一言一言区切るようにして、はっきりとそう言った。思わず目を見開いて、え、と呟く。
「…傍にいて『いい』んじゃない、俺は小蒔に傍にいて欲しいんだ」
何の衒いもなく言うその言葉に、熱いものがこみあげてきて困った。小さく頷いて、更にいっそうきつく彼の胸にしがみつく。
「…好きだ、小蒔」
「…うん…うんっ…」
龍麻の腕の中はとても暖かくて、今が冬だということを忘れそうな程だ。柑橘類の匂いにも似た彼の甘い香りに包まれ、ただ目を閉じて素直にもたれかかる。
「…あ。…ちょっと、ごめん」
突然何か思い出したように少年は腕をほどく。そして上着のポケットに手を入れ、探り始めた。
「はい、これ」
不思議そうに様子を眺めていた彼女に、赤いリボンのかかった小さな包みを差し出す。
「…え…」
咄嗟に意味が分からず聞き返すと、少年は相変わらずの快活な口調で、
「クリスマスプレゼント。…気に入るか分からないけど」
「…ボク、に…?」
その言葉に龍麻は微苦笑を浮かべつつも頷いた。この状況で他の人間へのプレゼントを渡すわけもなく、冷静に考えれば非常に滑稽な質問ではある。だがまさか彼からプレゼントを貰えるとは予想していなかった為、思わず口をついて出たのだ。
「…ありがとう。…開けてもいい?」
「うん、構わないよ」
リボンを解き、破れないように注意しながら包み紙を止めたセロテープを剥がしていく。やがて中から現れた小さな直方体の箱をあけ、小蒔は言葉を失った。
「…気に入らなかったかな?割と無難な色だって聞いたんだけど…」
「…え?…あ、ううん、そういうわけじゃないんだけど…」
心配そうに聞いてくる彼に慌てて首を振ったが、手の中の、円筒状の容器からその淡いピンクの本体をのぞかせた口紅を、途方に暮れたように見つめる。
「ボク、こういうの殆ど使ったことないから。…ほら、ボクって男の子みたいだからさ、何か、こういうの…柄じゃないって言うか、さ」
今までのクリスマスプレゼントといえば、ゲームソフトやプラモデルなど、弟たちと大差ない物が殆どであった。まさか口紅を、しかも好きな男の子から貰うなどとは考えてもみなかったのだ。あらためて「女の子」として扱われると、慣れていないせいか気恥ずかしくて逃げ出したくなってしまう。
「そうかな?俺は小蒔を男みたいだと思ったことはないけど」
自然な口調で龍麻はさらりとそう言ってのけた。そして咄嗟にどう返したものか戸惑っている小蒔の手から口紅を取り上げると、
「ほら、ちょっとこっち向いて」
「えっ──」
「いいから」
左手を心持ち上を向かせた少女の頤に添えると、その花弁のような小さな唇に器用に色をのせはじめた。
「ひ、ひーちゃん!?」
突然のことに慌てる彼女を、少年は、しっ、と制すると、
「喋らないで、歪むから」
そうは言われても息がかからんばかりの距離に彼の顔があるのだ。その澄んだ瞳に真剣に見つめられ、どうしていいのか分からなくなる。視線の遣り場に困って、彼の肩越しに見えるツリーの眩いばかりの電飾を、息を詰めて見つめていた。
「…よし、これでいいかな」
ややあってそう呟くと、少年は満足そうににっこり笑った。彼女の頬から手を放すと、持っていた口紅を持ち主に返し、まるで出来を確かめるかのように少し身を引いて見つめる。
「うん、似合うよ」
急いでコンパクトを取り出し、己を鏡に映した。小さな四角い世界に閉じ込められた少女の顔は見慣れたものであったが、ほんのりと桜色に色づいたいつもと違う唇が、その姿全体を見知らぬものにしている。途端に全身が熱くなり、その頬がさっと朱に染まった。
「や、やっぱり変だよっ。ボクには、似合わないよこんなっ…」
鏡の中の自分を消すように、留め金の音を大きく響かせてコンパクトを閉じる。「らしくない」姿が、何だか恥ずかしくてたまらなかかった。
「そうかな?俺はよく似合ってると思うけど。…今日の恰好にも合ってるし」
その言葉に、更に頬が熱くなるのを感じる。普段は滅多に穿かない黒のタイトミニは、京一の連絡の後、悩んだ末に選んだ物だった。そう言えば今日会ったとき、龍麻は開口一番この服装を可愛いと誉めてくれた。
「まあ、無理に使わなくてもいいよ。ただこれから先、化粧が必要な場面も増えるだろうからと思って」
小蒔の慌てぶりがよほど予想外だったのかもしれない。くすくす笑いながら、彼はそう言った。
「それに、小蒔は化粧なんかしなくてもそのままで十分可愛いしな」
思わぬ言葉に何も言えず、ただ瞬きをして少年を見つめる。だが龍麻はそんな彼女の反応に気づいた様子はなく、ツリーにぶら下がったオーナメントのサンタを指で軽く突いて揺らしていた。
ふと、その火照った頬に冷たいものが触れて、小蒔は空を仰ぐ。その瞳に、頭上を覆う灰色の雲からあとからあとから舞い落ちてくる、白い羽毛のようなものが映った。
「…雪だな…」
隣で同じように空を見上げながら、彼はそう呟いた。
「うん。…ホワイトクリスマス…だね」
この街には滅多に降らない雪を、今日という特別な日に、彼の隣で見られたことが嬉しかった。もしも当初の予定通り家族と過ごしていたなら、こんな幸運にも気づかなかっただろう。
そんなことを考えながら少年の端正な横顔を見つめていたが、ふと、もしも彼女が誘いに応じなかったら彼はどうしたのだろうという疑問が頭をもたげてくる。おずおずとその質問を口にすると、彼はうーん、と呟いて、
「小蒔に断られたら…そうだな、京一にでも付き合ってもらって、ぱーっと騒ごうかと」
意外な言葉に胸がときめくのを感じた。少女は手の中のプレゼントをきゅっと強く握ると、
「そ、それじゃあさ、その場合これ…どうするつもりだったの?」
「え?…まあ、俺が持ってても仕方ないし…ゴミ箱行きだったろうな」
苦笑混じりにそう呟き、それから眩しそうに目を細めて小蒔の方を見つめ、
「だから…来てくれてよかったよ。それもゴミにならなくて済んだから…」
冗談ぽく言ってはいるが、多分それが本音なのだろう。その様子に思わず口許がほころぶ。
「…何か俺、可笑しいこと言った?」
「ううん、そうじゃないけどさ」
彼が声をかければ、唐突な誘いとはいえきっと仲間たちは来てくれるだろう。もしも小蒔に断られたとしても、おそらく誰かしら女の子と過ごすことは可能だったに違いない。だが彼の中にその選択肢は元々なかったらしいことが、礼儀として考えれば当然のこととはいえ、何だか嬉しかった。もちろん、彼女に断られた直後に他の女の子の電話番号をまわすような人間だったら、多分ここまで女の子達の心を惹くことはなかったであろうが。
そっと手を伸ばし、龍麻の上着の袖口を握る。隣を歩くときいつも自然とやってしまう仕種ゆえに、彼も特に反応は示さない。少女は大きく息を吸ってから、殊更に強く袖を引く。
「ん?」
こちらにその穏やかな瞳を向けた少年の頬に、軽くキスをした。
「えっ…」
驚いたように彼女を見る龍麻に、小蒔はへへへっと悪戯っぽく笑って、
「しちゃった」
「……」
対応に困っているのか、彼は何も言わず前髪をかきあげている。心なしか赤く染まっているその頬には、少女の唇の形がうっすらと花びらを描いたように残っていた。
「あはは、ごめん、口紅ついちゃったね」
照れ笑いを浮かべながら彼女はバッグからハンカチを取り出し、淡い色の痕跡を拭おうと手を伸ばす。
「…あ…」
少年の大きな手が自分の手を包み込み、小蒔は戸惑いの色を瞳に浮かべた。彼は何も言わず、薄闇の中に白い吐息を浮かび上がらせながら、彼女の小さな手に口付ける。
「…ひー、ちゃん…?」
かすれた声で名を呼ぶと、彼はただ優しく微笑を返した。そしてぐいっと少女の腕を引く。
「…わっ!?」
気づくと、少年の腕の中に抱きすくめられていた。もの問いたげに彼の方を見上げると、その柔和な光を宿した瞳にぶつかる。
「…好きだよ、小蒔」
静かな口調で、もう一度龍麻はそう言った。甘酸っぱいものが胸の奥から湧き出してくるのを感じながら、ただ頷く。その言葉が真実なのは、もう確かめなくても分かった。彼の言葉も、視線も、笑顔も…今はただ彼女だけに向けられている。仮にまた不安になって訊ねても、きっと彼は苦笑しながらも同じ言葉を繰り返してくれるだろう。何故だか分からないが、確信にも近い気持ちで、彼女はそう考えることが出来た。
龍麻の温かい手が頬に触れ、少女の顎を持ち上げる。瞬きを返す彼女の瞳には、緊張の色を浮かべた彼の整った顔が映った。
高鳴っていく自分の鼓動を感じながらゆっくりと目を閉じていく少女の耳に、遠くから陽気なジングルベルが微かに聞こえた。
-了-
SS選択に戻る
茶処 日ノ出屋 書庫に戻る
店先に戻る