天使と悪魔と奥様戦隊





「不潔です!」

 ああ、もう7時 ――― 仕事が終わる時間か。
 ハンガーに良く通るその声を聞くと、第5連隊第1大隊第2中隊第1小隊、通称5121小隊(別称、もしくは蔑称としてはまた別の通り名が幾通りかある)のメンバーはそう思う。
 寄せ集めの小隊として発足してからの一ヶ月というもの、ほぼ毎日聞いていればそれは時刻を知らせる鐘のような効果を聞く者にもたらす。

「本当に飽きぬな、あのふたり」

 今日は先に訓練を終えてから仕事に移るべくハンガー外側の階段を昇っていた芝村舞が、傍らの速水厚志に呟くように言った。

「私が耳にしただけで、これで28度目だぞ。日に1度としてもほぼ毎月続いている計算になる。よく口論の種が尽きぬものだ」

 議論は好きでも口論の類はしたことが無い(と、当人は思っている)舞は、若干感心したように言った。

「まあ……あのふたりのは、口論というのとはちょっと違うからね」

 舞の傍らで階段を昇っている速水厚志は穏やかな表情と口調でそう返す。

「口論ではない? するとなんだ?」
「犬も食わない……ってやつかな」
「なんだそれは。私は回りくどい言い方は好かぬ。そなたも芝村ならば簡潔に述べよ」
「意味を言っちゃってもいいの? 舞は色々な俚諺を知りたいんでしょ? 高尚さとは縁が無い、俗っぽい言いまわしだけどね」
「む、待て。しばし意味を考えさせるがよい」

 生真面目そのものの顔で考え込む舞。思考の淵に沈んでいる表情だ。
 こうなると、舞は自分で納得がいくまで数時間でもその場から動かなくなる。

――― まあ、今日の調整は急ぎでも無いからいいかな。

 整備士連中に聞かれたら怒髪天を衝きかねないことを内心で思いながら、速水は相棒の思考が終わるまで、この場でその顔を眺めていることに決めた。





「なあ、原さん。あのふたり、なんとかした方がいいんじゃねえ? ――― ですか?」

 軍隊という組織にあるまじきことに、敬語がまったくもって似合っていない口調で(しかも、仕事の片付け作業をしながら!)1番機整備士、田代香織は直属の上司である原 素子整備主任に言った。
 軍隊というものは徹底して上下関係を貫かせる。
 それは、命令を徹底させる為であり、司令官の意向を的確に末端まで浸透させる為であり、戦闘に勝つ為であり、ひいては部隊の死を避ける為である。
 上下関係と命令伝達がしっかりしていれば戦闘に勝てるというものではないが、そうでない場合よりは勝つ目は増える。
 であるのならば普段からそれを徹底させて骨身に染み込ませる。
 それが軍隊と言う組織の持つリアリズムにして建前である。
 今しがたの田代の物言いは充分に処罰の対象になるものだが、原 素子という人物はおおよその評判に反し、仕事には厳しいがそれ以外の部分には寛容 ――― 要はやることさえやっていれば、大概のことには目をつぶる、という性格をしていた。
 そもそもが原は軍人というよりは技術者であり、技術者というよりは職人だった。
 職人に必要なものはなにか? 建前ではなく腕だ。腕と実績のみが、職人を職人足らしめる。
 部下にもそれを求めているわけでは無いにせよ、原は仕事時間内にきちんとノルマを果たしている人間には、かなりの幅で甘く接するのだった。
 そして田代香織という整備士は、愚痴や悪態は多いがこと仕事に関して手を抜くことだけはしない、真面目ではないが責任感の強い人物だったので、原は「気の良いおねえさん」然として応対するのだ。

「あら、どうしてそう思うの?」

 上品なシャム猫を思わせる、優美な笑みを浮かべながら原が田代の問いかけに質問で返す。
 女性経験の浅い少年であれば照れて言い返せないし、そこそこに積んだ青年ならば微笑みの裏になにかを感じとって恐くて言い返せない、そんな笑みだ。
 しかし田代はこの上司がこの笑みを浮かべる時、言外に軍隊言葉を使わずに良いと言っており、無意識に諧謔を求めていると知っていたのでそのつもりで答えを返す。

「いや、なんつーか。示しがつかねえっていうか、やっぱ俺達も一応軍属なんだし」
「モラルに関わる?」
「そう、それ。いや違うな、別にまあ、あれ聞いててテンション下がるってワケじゃねえし」
「なら、いいじゃないの。やらせておきなさいな」
「ケドよぉ」

 収まりの悪い、赤茶けた髪に手をつっこんで、頭をガシガシとかく。
 女性らしさという言葉をそのまま具現化したような原と対照的に、その粗野にも見える行動が、何故か田代には似合っている。

「フフッ、まあわかるわ、田代さんのいうことも。妬けちゃうわよね、少し」
「へ? 妬けちゃうって……バッ、いや、お、俺はそんな別に!」
「いいのいいの、分かってるんだから」

 何もわかっていないとしか思えない口調で、原が田代をなだめる。
 だが、原 素子の恐いところは、本当に何もかも分かっていながら、平気でこういう口調で相手を安心させるところだ。

「速水くん、芝村さんにべったりだものねえ……あてつけられるひとり身の辛さ、よーく分かるわ」
「…………!」

 やっぱりだ。
 この女狐め、やはり侮れない。

「なっ、お、俺は別に速水なんかッ!」
「ま、それは置いといて」

 トップシークレットであるはずの田代の秘密を、ジェスチャー付きで脇に追いやる原。

「確かにあのふたり、いつまで経っても進展しないものねえ。これは一肌脱ぐべきかしら?」

 頬に手をあて、溜息などつきながら冗談とも本気ともつかない ――― つまりいつも通りの ――― 口調でそう言う原を、田代は思わずギョッとした顔で見た。
 ちらりと耳にしたことのある、怪しげな活動をしている一派に原が荷担しているという噂は、或いは本当のことなのかもしれない、と、田代は内心で多少は尊敬している上司をまじまじと見つめたものだった。





「……………………」

 来須銀河が、グラウンドの端に腰掛けていた若宮康光にペットボトルに入ったアイソトニック系のドリンクを放り投げた。

「おう、遅かったな?」
「……………………」

 野太い笑みを浮かべる若宮の横に無言で座り込み、やはり無言のまま来須は自らも手にしていたペットボトルの蓋を開け、中身を一息で飲み干す。
 戦車随伴歩兵 ――― スカウトであるふたりの仕事場は、戦車の整備が行なわれるハンガーではなく、小隊が間借りしている女子校のグラウンドだ。
 稀に装備の点検などでハンガーに顔を出すこともあるが、仕事時間のふたりはもっぱらグラウンドで汗を流すことだけに時間を費やしていた。
 来須は終業時間になったのをきっかけに、義姉であり整備士であるヨーコ小杉に今日は仕事が遅くなるので先に帰っているように、と伝言をしがてら、飲み物を調達に行っていたのだった。
 慣れているのか、元々返答を期待していたわけではなかったのか、無言の来須に気を悪くした風もなく若宮も来須に習ってペットボトルの中身を2秒足らずで飲み干す。

「…………いつもの、じゃれあいがあった」

 若宮が飲み干すのを待っていたかのように、ぼそりと来須が呟く。

「いつものじゃれあい?」
「……………………」
「ああ、そうか、そういえばもう19時だしな」

 得心したように、逞しい顎が頷いた。
 来須の一言で若宮が納得したところをみると、「いつものじゃれあい」は普段はハンガーにいない人間にも知れ渡っているものらしい。
 コキコキと首を鳴らし、ひとつ大きく伸びをしながら若宮があきれたように呟く。

「しかし、あいつらもよく飽きんなあ。仲が良いのやら悪いのやら」
「……悪くは、ないだろう」
「む? そうか?」
「……………………」
「まあ、俺も何度か見たが、確かに険悪な感じはしなかったが」
「…………ヨーコが、あのふたりは楽しそうだ、と言っていた」
「ヨーコさんが?」
「……………………」

 喋りすぎた、とでも言う様に、来須は帽子を深く被り直す。
 確かに今日の来須はいつもの倍は喋っている。
 小休止は終わり、というように立ち上がる来須に続いて立ち上がりながら、若宮は男っぽい顔に少年のような笑みを浮かべて言った。

「ふむ、ヨーコさんがそう言うのであれば、きっとそうなんだろうな……しかし」

 少年の笑みが、ふと意地悪い色を含む。

「今日のお前はよく喋る。良いことでもあったか?」
「…………放っておけ」

 これもまた珍しいことに、来須は唇の端にかすかに苦笑めいたものを浮かべると、休めた筋肉を再び苛めぬく為、走り始めた。





「やー、あついですなァ」

 小隊司令室に入るなり、事務官である加藤 祭がファイルで顔をあおぎながら怪しげなイントネーションの関西弁でそう言った。
 その声を聞いて、5121小隊司令善行忠孝は、思わず壁にかかっている温暖計を見る ――― 18℃。
 この季節、4月中旬の熊本の夜としては、なるほど確かに気温は高いが、決してエアコン(司令室と職員室にのみ設置されている贅沢品だ)が必要というわけではない。

「走ってきたんですか?」

 一瞬だけ思案したあと、善行はそう尋ねた。
 ハンガーにいる整備主任、原 素子の元へ書類を届けるよう頼んだのは自分で、しかも頼んだ時間は終業2分前であった。
 もし、この陽気で商売っ気はがめついが仕事には無闇に真面目な事務官が仕事時間に間に合わせるようにとハンガーと司令室を走って往復したのならば少々申し訳無いと、そう思っての質問である。
 だが明るい色の髪をした事務官は笑顔で手を振りながら答えた。

「ああいえ、ちゃいますちゃいます。ハンガーで、まーたあの2人がやってたんですわ」

 司令室入り口横に設置された自分の机ではなく、奥の善行のデスクにファイルを置きながら加藤がいう。
 善行という上司が、仕事時間さえ終われば言葉遣いを気にしないと知っているからであろう、通常の軍隊であれば信じられない気安さである。
 これは加藤に限った事ではなく、仕事時間外で堅苦しい軍隊言葉を使う者はこの小隊にはほとんどいない。
 かろうじて、生粋の軍人である小隊付き戦士の若宮にその傾向が見られるが、若宮にしても善行が現在では部下に仕事時間外でまで軍人言葉を強要していないのを知っている為、最近では時間外ではずいぶんと砕けた喋り方をしている。
 自衛軍であれば真っ先に綱紀粛正の対象になっていたであろうが、そこは学兵の気安さと言うべきか。
 善行は善行でこの小隊の雰囲気を彼なりに楽しんでいたし、認めてもいる。
 5121小隊が隊員の戦歴の浅さに反比例して順調に戦果を伸ばし、さらに熊本全体の火消し役という、神経の磨り減ることこの上ない任務に就きながらここまで高い士気を維持し続けているのには、こうした気安い雰囲気が一役買っているのではないだろうか。
 眼鏡を外し、こめかみをもみほぐしながら善行がやはり気安く応じる。

「あのふたり? ああ、なるほど、もう19時ですからねえ」

 なるほど、加藤の言った「あつい」とは、「暑い」ではなく「熱い」だったわけか。
 おそらく加藤は原のもとに行く際、例の「終業時間を告げる鐘」に遭遇したのだろう。

「どうでした、あのふたりは」
「お、委員長、加藤屋情報サービス、御利用ですか? 料金はまかりまへんで」

 なにげない善行の問いかけに、加藤が軽口で答える。いかにも彼女らしい軽口に、善行はつい表情の端に笑みを誘われた。
 善行のことを「司令」ではなく「委員長」と呼んでいる辺り、仕事時間では無いのですから軽く話しましょう、と暗にメッセージをこめてもいるのだろう。
 軽口の内容からも分かる通り、加藤は熊本の部隊の中でも噂に昇るほどに優秀な事務官であるが、とにかく金銭に対してがめつい。
 どうやら小隊の内外の様々な情報すら収集しては金銭次第でやりとりしているらしいが、まあ流石に憲兵に睨まれる類の情報には手を出さずに一般の女子高生が知りたがるような情報のみに留めているようなので、善行も特にとがめだてはせずに黙認のまま放っておいてある。
 ひとつには、加藤のそのがめつさ ――― 守銭奴的、というと言い過ぎか ――― こそが彼女を優秀な事務官足らしめており、さらにはその優秀な事務官がいるお陰で、5121はなんとか小隊としての体裁を保っていられるということもある。
 もっとも、それは現在の戦況が人類側に有利だということも関与はしているのだろうが。天秤は、傾き始めればあっという間だ。

「世間話ということで、お代はまけておいて下さい」

 良い上官の資質とは、飴と鞭を使い分けることである ――― というわけでもないが、善行は加藤の軽口に付き合うつもりで眼鏡をかけ直しながらそう返す。

「仕方ありませんな、他ならぬ委員長の頼みですから、特別サービスですわ」
「……逆に恐い気もしますね」
「あ、わかりますー? 実はこれを餌に、色々と環境とかを改善してもらおうかと」
「お菓子ぐらいは出しますよ」

 結局“サービス”はしてもらえないな、と内心で苦笑を、実際には微苦笑を浮かべてデスクの1番下の引き出しからカリントウの袋を取り出す。
 関東の老舗で作っている品を取り寄せたもので、天然物の黒砂糖を使っている貴重品だ。

「これでどうです? 皆さんでお茶請けにでもどうぞ」
「わ! 高野屋のカリントウやないですか! 嬉しいわー、さすが善行司令、太っ腹ですわ!」
「誉めても、私のデスクにはもうお菓子はありませんよ」

 これは嘘である。
 実は知る人ぞ知る甘いものマニア ――― それも、昔ながらのいわゆる庶民の味を好む善行は、自らの持つ新旧のあらゆるコネを生かして、戦時下にあっても粘り強くお菓子を作り続けている関東のメーカーとパイプを保ち、定期的に商品を搬送して貰っている。
 その為“善行司令のデスクの引き出し”と言えばお菓子をしまってある場所、という意味の隠語として密かに小隊内で通用してしまっている。
 そしてそれは全くの事実で、善行のデスクの一番下の引き出しには常に各種菓子類が半ダース前後は収納されている。
 これらの菓子を取り寄せる為に使っているのは個人の財布から出した金なので善行も後ろめたいことはないはずのだが、それでも特権を利用して一人で美味しい目を見ている、と言われるのはさすがに気分がよろしくないので、取り寄せたお菓子の半分は小隊の皆に(ほとんどは女性陣に)今回のような形で気前よく与えている。

「それで手を打ちまひょ」

 差し出されたカリントウの袋を素早く、しかし失礼に当たらないギリギリの速度で貰い受け、加藤はホクホク顔でお茶などを淹れ始めた。
 別に今ここでカリントウをお茶請けにしようというのではなく ――― 恐らくあのカリントウは明日、午後の小休止の時にでも女性達のお喋りの場で消費されるのだろう ――― 自分の軽口に付き合ってお菓子を供してくれた善行に対するサービスのつもりのようだ。
 いつもよりも3割ほど丁寧さを増して善行に湯呑を差し出して、加藤はやはり業務時間外の口調で喋り出した。

「なんといいますかな、あのふたり、見ててほんっとうにじれったいですわ」
「進展してませんか?」
「うーん、進展、と言えるんですかねえ……毎日毎日、同じ時間に来ては同じような問答の繰り返し。周囲も飽きれるのを通り越して感心してるみたいですわ、今じゃ」
「なるほど」

 一瞬だけ、善行の眼鏡がキラリと光を放ったような気がした。
 が、その直後に湯呑を持ち上げてごくりと中身を飲んだ為、その動きとお茶の湯気にまぎれて眼鏡の奥の表情は確認出来なかった。

「毎日同じ時間に、ですか」
「ええ。委員長も御存知やと思いますけど、最近じゃあのふたりのやりとりが終業の合図代わりになってますからなあ」
「ふむ。他の、ハンガーで仕事をしている人達は特に文句などは言っていませんか?」
「ああ、それはありません。さっきも言いましたが、もう飽きた……慣れているみたいですわ。まあ、もっとも、見ていてじれったいと思うことはあっても、イヤな感じはしませんから」
「そうですか。それで、あのふたりは今も仕事を?」
「いえ、結局おいかけっこになって、そのままいなくなったみたいです。あ、でも、ふたりともキチンと自分の仕事は片付けてるみたいですよ」

 どうも、途中から善行の質問が尋問めいて来ていた為か、加藤の返答が要所要所で件のふたりに対するフォローを入れ始めたものになっている。加藤 祭には、そう言う気配りを無意識にする性格の ――― 要領の良さがある。
 それを感じとって善行は間を取る為にお茶を飲み干し、ひとつ息を付いてから微笑を浮かべて言った。

「ああ、すいません。単なる興味からの質問だったのですが、どうにも仕事上の調査のようになってしまいますね」
「いえいえ、しゃーないですわ」

 多少自嘲気味に見えただろうか、善行の漏らした言葉に、加藤が困ったような微笑を浮かべながら答える。
 善行が、決して軍隊という組織と、その組織である程度の地位と権限を持っている自分を好んではいないということは小隊のメンバーであれば誰もが知っている。
 指揮官としては慎重過ぎるきらいがあるがまず優秀と言って良い人物で、ことに物資の調達とさまざまな根回しの手際良さは階級 ――― 千翼長の分を超えて際立っているものを感じさせる善行だが、ことによると小隊の誰よりも軍隊を嫌っているのでは、と思わせる節がある。小隊内で唯一、正規の士官教育を受けた人間であるにも関わらず。
 今も、自分の立場、常に部下を監督しなければならない小隊司令官というものを知らず知らず口調に乗せている自分を忌避しているように見える。

「ああ、加藤さん、今日の分の報告書は以上ですか?」

 世間話は終わり、とでもいうように、先ほど加藤が自分のデスクの上に置いたファイルを軽くめくりながら善行が言う。
 口調こそ先ほどのままだが、内容が仕事のことに及んでいる為無意識の内に加藤の姿勢が正される。この辺りは、一介の事務官といえどれっきとした軍属であると言えるだろう。

「はい、司令。急ぎで目を通して頂きたいものから順にクリップしてあります」
「結構。ああ、今日はもうあがって良いですよ」

 お疲れ様、の代わりにごちそうさま、と言い、ファイルに目を通し始める善行。
 執務上の挨拶ではなく、お茶に対してお礼を言われたことで、加藤は特に慌てるでもなく、それでも右腕を胸の前で水平にかざす学兵風の敬礼をしてから荷物をまとめて司令室を辞した。
 恐らくこれからハンガーで作業をしているであろう整備士の狩谷夏樹を迎えに行くのだろう、足取りも軽い。
 だから、加藤 祭は気付かなかった。
 自分が背を向けたあと、善行がポツリと

「……思ったよりも、進展が早そうですね……」

 と呟いたことに。





 時刻は22時半を廻った。
 司令室こそ明かりが消えないが、ハンガーからは等に人気がなくなっている。
 仕事熱心な整備班の面々も、最近はこの時間には既に帰宅していることが多い。
 整備班が残業をしないということは、それはそのまま士魂号の状態が良好であるということであり、それはつまり戦闘での被害が非常に少なくなってきているということになる。
 全く以って、訓練マニアの委員長のお陰か、最近のパイロット達の成長は素晴らしい。
 技量の向上よりも戦術の向上が目に見えるのが、善行などにとっては嬉しいようだ。
 整備班からの様々な報告書を見終えて、善行忠孝はまずまず満足そうな笑みを浮かべる。

「何、ニヤニヤしてるのよ」

 こともあろうに司令のデスクに腰掛けて、横目で善行を見ながら原 素子が善行に言う。手にしたカップの中身は紅茶だ。
 入り口の横で湯呑に入った緑茶を飲みながらも衛士よろしく直立していた若宮康光が、原の皮肉めいた口調を受けた善行を助けようかと一瞬思ったようだが、結局口は出さないことに決めた。なんだかんだといって、このふたりのやりとりには触れずに置くのが賢明だ。

「悦に入っていました。いや、部下の成長を見るというのは実に気分が良いものでして」
「気持ち悪いわね、変態」

 原は容赦がない。
 しかし言われた善行は一向に気にした風も無く、こちらはカップに入った珈琲をすする。

「そんなことより、呼び集めた理由を話して頂戴。貴方の仕事が終わるのが一番遅いんだから、こんな時間まで待たされたのよ」

 善行個人の仕事ぶりが遅いような言い方だ。
 実際は全員の仕事が終わってから初めて始められるものも司令の仕事には含まれているというだけなのだが。
 またも若宮が助け船を出そうかと迷ったが、やはりなにも言わない。原もそれを分かって、からかい半分で言っているだけなのだ。

「そうですね。でも、お待たせしただけの価値はある話ですよ」
「何よ?」

 善行から視線を離さず、黒いストッキングに包まれた脚を大胆に組み変える。
 無意識の動作なのだろうが、その見事な脚線美が動く様は見慣れている善行といえど少々どきりとさせられる。女性崇拝傾向にあり、純粋に原のファンでもある若宮は軽く咳払いをして行儀よく視線を逸らした。

「私としては、むしろ貴方が気付いていないことの方が不思議ですがね」
「だから何よ。さっさと言いなさいってば」
「最近恒例の、終業時のじゃれあいですよ」
「……? ああ、あのふたりね。あのふたりが、どうかして?」
「ここのところ、毎日のように起きているのでしょう?」
「ええ、そうね。毎日の様に、というか完全に毎日ね」
「じゃれあったあとのふたりはどうしています?」
「どう、って……私が見た限りでは、いつもおいかけっこになって、結局そのまま外に行っちゃっているかしら」
「しかし、ふたりともノルマ以上の仕事はこなしている模様であります」

 それまで沈黙を保っていた若宮がフォローを入れるように発言する。
 求められていないのに意見を言うのは下士官としては分の過ぎた行為だが、要求をされていないだけで実際には求められている場合は、言われる前に言うのが優秀な下士官の務めだ。そして若宮は、恐らく熊本でも屈指の優秀な下士官であった。
 若宮の言葉を受けて、善行は先ほど閉じたファイルをぱらりとめくる。

「そのようですね。報告書を見る限り、オペレーター、一番機パイロット、共に最近の部署評価は高い。良好といえるでしょう。しかしここのところ、ふたり共毎日のように定時になると同時にハンガーから去っている」
「? どういうことよ?」

 きょとんとした表情の ――― こういう表情をすると、歳相応に少女の顔になる ――― 原に、善行は指で眼鏡を押しあげながら言う。
 唇に自然と浮かんだ笑みを隠す為だ。

「そういうことですよ。あの二人は、定時にあがれるよう、今まで以上の仕事をしている」
「結構なことですな」
「その理由について、若宮君は何か思い当たりませんか?」
「はい、いいえ。自分には思い当たりませんが」
「まあ、仕事場が違いますからね。原さんはどうです?」
「理由って……え、でも、まさか。まだあのふたり、そんな雰囲気じゃないわよ?」
「相手は、自称愛の伝道師です。こちらの予測を上回ったということでしょう」
「考え過ぎじゃない?」
「ふたりがじゃれあう場所はどこですか?」
「それは、いつもハンガー二階の……あッ!」

 そこまで言って原も気付いた顔になる。
 直後に軽くむくれたのは、またも正解を善行に“言わされた”ことに気付いたからだ。

「そうです。オペレーターである彼は、仕事が終わって帰るのならハンガーに寄る必要はない。しかし、ここのところふたりは必ず終業時、ハンガー二階でじゃれあっている。何故か?」
「わざわざ、会いにいっているのね。連れ出すために!」
「そうです。いやあ、見事に騙されてしまいました。しかし、恐らくは追求をくらます為に仕事を完璧にしていたのでしょうが、逆にそこから割れましたね」
「フフ……もうちょっと時間がかかると思ったけれど、案外早く楽しいことになりそうね?」
「違いますよ。楽しくなるんじゃありません」

 シャム猫の笑みを浮かべる原に答えながら、冷めかけた珈琲を喉に流し込んで善行が立ち上がる。
 手には、いつのまにか愛用のデジタルカメラ。
 顔には、凱旋時よりも頼もしく楽しそうな微笑み。

「楽しくするんですよ ――― 私達の手でね」





「 ――― ックシッ!」

 ベッドに仰向けになったまま、瀬戸口隆之はくしゃみをした。

――― 風邪か?

 ふとそう思ったのは、彼が裸のままで横たわっていたからだろうか。
 だが寒さを感じないのは、彼の左腕を枕にしている存在のせいだろう。
 シングルサイズのベッドである為、ふたりで寝るには窮屈である。そのせいか彼の左側で安心しきって寝息を立てている存在 ――― 壬生屋未央は、瀬戸口にしがみつくようにその裸身を絡ませている。
 常日頃から貞淑であり、ベッドの中でも概ね(理性を保っている限りは)それは変わらぬ彼女のことだ、間違い無く無意識の行為なのだろうが、瀬戸口にしてみれば嬉しい拷問である。
 仮に壬生屋の身体がもっと平坦なものであっても瀬戸口にとって拷問であったに変わりはなかろうが、グラマラスな ――― 壬生屋には似つかわしく無い言葉だが、そうとしか言えないボディラインを彼女は持っている ――― 身体を無防備に押し付けられては嬉しさ倍増、苦難は十倍といったところであろう。
 かろうじて手を出さずに頑張っているのは先ほど事を終えたばかりだから ――― というだけではなく、ひとつには彼自身の性格もある。
 どうにも、瀬戸口隆之という男は普段のおちゃらけた軽薄な言動とは裏腹に、相手に無防備に信頼されるとその信頼の度合いに応えなければならない、と思い込む、奇妙な誠実さを持っている。
 いや、世の全ての女性の味方を自称するのであればそれは正しいのだろうが、色事師として名を馳せてもいる男にしてはいささか情けないと言われても仕方の無い体たらくでは無いだろうか。もっとも、その色事師としての評判の方は事実とは異なるのだが ―――
 ここは瀬戸口の部屋である。5121に配属されると同時に官舎として与えられた寮を辞し、ワンルームのアパートを借りている。
 プライベートの時間を過ごすところまで軍の世話になるのは気分が悪い、というのが彼の言い分であったが、実際この部屋をきちんと使うようになったのは壬生屋と“こういう関係”になってからだ。それまでは私物の置いてある、たまに睡眠をとる為だけの場所、というスタンスであった。
 ふと、初めて壬生屋と出会った時のことを思い出す。
 それはドラマティックでもなければロマンティックでも無い出会いだった。
 その時点では運命など感じなかったし、抱いた感情は良いものではなかった。男女の出会い方としては、最悪 ――― でなかったにせよ、良好とは言えないものであったろう。
 それが一ヶ月足らずで“こう”なるに至るのだから、人間とはわからない。
 若干自分に対する皮肉も込めて、瀬戸口はそう思う。
 いや正確には“こういう関係”になるどころでは済んでいない。
 恐らく、自分はもう、壬生屋未央という存在がいなければ生きて行けないのではないか、とすら本気で思う。
 大袈裟かもしれ無いし、誰からも理解は得られないだろうが、壬生屋未央は、瀬戸口隆之にとって大気であり、水であり、そしてそれ以上に“女”であった。
 壬生屋がいるから瀬戸口は呼吸が出来て、血液が涸れずに済み、そして壬生屋がいるから生きることが出来る。
 男は女の為に生きてこそ、本当に生きていると言える ――― 偏った言葉ではあるが、瀬戸口はこの言葉が気に入っていた。
 それはかつては自分が決して望めぬ生き方だったから。
 彼にとっての“女”は儚すぎて、眩しすぎて、そしてとうに喪われてしまっていたから。触れることも見つめることもかなわず、思うことだけしか出来なかったから。
 だから瀬戸口は全ての“女の為に生きる男”の原動力を、至上のものとしていた。
 自分が得られ無いからこそ、それを尊んでいた。
 それは恐ろしく困難であると思っていたから。
 自分がもはや永劫にかなえられない可能性を持つ者達を応援することで、自分を慰めたかったのかもしれない。
 しかし、ふとした弾みで瀬戸口の心の中に“女”としての壬生屋未央が飛び込んで来た。
 あっけない、拍子抜けするほど簡単だった。
 壬生屋が自分を振り向いてくれたのが、ではない。
 自分が、壬生屋に恋に落ちたのが、である。
 そして、更に驚くほど簡単に、まばたきをするほどの労力も必要無く、瀬戸口は壬生屋の為だけに生きられると決意出来た。
 そうか、これか、と思った。
 なんのことは無い、この決意をするのは一見難しいが、実は簡単だったのだ。
 ただ、気付けばよい。
 自らの心の中にある、高潔な思いに。
 自分では無い誰かの為に傷つき、戦える、誰もが持つその純粋なまでに美しい思いに。
 難しいのはそれに気付くきっかけを与えてくれる存在と出会うことだ。
 多くの場合の男がそうであるように、瀬戸口の場合もそのきっかけは“女” ――― つまり、壬生屋未央だった。
 既に無くしてしまったと思っていた思いを、もうこの世界のどこにも存在していないであろう思いを、壬生屋という“女”のお陰で瀬戸口は自らの胸の内に見出すことが出来た。

――― ああ、もう、駄目だな。俺は。

 右手で壬生屋の艶やかな黒髪を弄びながら、そんなことを思う。

――― もう駄目だ。もう俺は死ねない。もうどこにも行けない。こいつがいる以上、俺はもう、駄目だ。前しか向けなくなった。

 かつての自分は、後ろしか見ていなかった気がする。
 それまでは、それでよかった。彼の思いも、心も、そして“女”も、全ては過去にしかなかったから。
 しかしもう駄目だ。
 もう、前を向いて歩いていくしかない。
 それがどんなに辛くても、苦しくても。
 それがどんなに遠くても、果て無くとも。
 昔に戻れず、しかし歩くしかないのであれば、未来に進むしかない。
 それは恐ろしく困難な道であろう。
 しかし、困ったことに、それを全く恐れていない自分がいる。壬生屋未央と一緒ならば、例え何があっても笑ったまま前に進める、そんな自分がいる。

――― でも。

 さらさらと黒絹のような髪を指で梳りながら瀬戸口は少々不満そうな顔をする。

――― こいつはきっと、俺の気持ちなんか気付いて無いんだろうなあ……ったく、幸せそうな顔しやがって。

 髪を梳かれるのが気持ち良いのか、壬生屋は穏やかな表情のまま、更に瀬戸口に密着してくる。
 胸板に当てられる、豊かな双丘。
 瀬戸口の動きが止まる。
 困ったことに脚まで動員して瀬戸口に密着を計る壬生屋。壬生屋のしなやかな脚が、瀬戸口の長い脚に絡まる。
 やばい、やばい、やばい。
 極上の肌触りがいまや瀬戸口の全身を襲う。
 むくりと、自分の中の獣欲が目を覚ましかける。
 待て待て待て、やめろってば、せっかく今、ちょっと真摯な気分に浸って落着いたんだぞ。

「ん…………」

 悩ましげな吐息をつく壬生屋。
 ふと視線をやると、桜貝を思わせる可憐な唇が半開きになっている。
 赤信号だ。
 しかし、車は急に止まれないのだ。
 ナノ単位の時間で悪魔と天使の思考がスパークする。

――― 良いんじゃないか? だって壬生屋は俺を信頼してくれているんだし、それは許してくれるってことだろう?

――― いやそうじゃない、壬生屋は俺の紳士的な部分を信頼しているから、こうまで無防備なんだ。それを裏切られるか!

――― 大丈夫だって。壬生屋だってすること自体が嫌いじゃないんだ。な? お互い好き合っている同士、求めて何が悪い?

――― だが、だがしかしっ、寝ている壬生屋を襲うなんてッ。

――― 襲うだなんて人聞きの悪い。それを言ったら、今俺がされていることだってある意味襲われているんだぜ?

――― そういう問題じゃなくてだな。ぐっすり寝ている壬生屋を起こしたら可哀相だろう!?

――― 大丈夫、まだ時間はあるさ。起こしてからたっぷりとしても、朝までぐっすり眠れば……

 悪魔の囁きが響くが早いか、素早く右腕を延ばして枕元の時計を取り、時間を確認する。
 本来、左手首の多目的結晶を使えば時間の確認は出来るのだが、現在左腕は眠り姫の枕という重要な任務を遂行中なので時間の確認は枕元の時計に頼ったのだ。
 22時57分。
 脳内で素早く計算。
 前はれぐらいの時間でもまだ仕事をしていた。帰宅はもっと遅れて1時2時もザラで、それからシャワーを浴びて寝て、というローテーションであった。
 充分間に合う……かも。
 意を決する。天使が悪魔に屈した瞬間である。

「なあ、壬生……」

 緊張のためか、ややかすれた声が瀬戸口の喉から出たのと、壬生屋の両目がぱちりと開かれたのは、ほとんど同時だった。

「……や、や、やあ、起こしちゃったか?」

 壬生屋の髪をいじったままの姿勢で固まり、やや引きつった笑顔を浮かべる瀬戸口。

「あ、えー、と」

 完全にタイミングをずらされて言葉が出ない瀬戸口を青い瞳で数秒だけ見たあと、壬生屋はふ、と表情を緩める。

「おはようございます、瀬戸口さん」

 百合の様に清楚で、椿のように艶やかで、桜のように可憐な ――― ええい、無理だ、いくら美しさの代名詞である花を並べても、この壬生屋の笑顔を形容するには足りない。
 半ば以上本気でそう思いながら、瀬戸口は鼻の下が伸びそうになるのをこらえて答える。

「おはよう。と、言っても、夜の11時だがな。もうひと眠りしたらどうだい?」

 天使を軽く屈服させた悪魔も、結局は“女”には勝てない ――― この夜、瀬戸口が得た、ひとつの真理であった。