東京魔人学園蒼神行　＜その壱＞

東京魔人学園蒼神行　＜その壱＞　今年の冷え込みは大変しのぎ易い程度のもので、そのためかはわからないが街中を出歩く人の数も平日とは思えない賑わいを見せていた。街の方々に色とりどりの明かり、心踊らせる軽快なメロディが誰の耳にも優しい。　クリスマス間近の繁華街は人の出入りの絶えることのない不夜城の様子を呈していた。しかし人間がどれだけ明かりを灯そうとも、闇は訪れる。人里や街角だけにではなく、人の心にも。　そして闇と呼ばれるものは必ずしも暗いとは限らない。暗闇とは暗くて何も見えない状態を指す。ならば明るさが過ぎるのはどうだろうか。光も人の目を眩ませることがある、それは闇と同じなのではないだろうか。　２学期の期末試験が本日を以て終了した。青蓮学院はこれから１週間の試験休みを置いて冬期休暇に入る。そのためか校内全体がやけに慌ただしく、開放感に包まれていた。　そんな中、１年生の倉条夕魅那（そうじょう・ゆみな）はそういった気分に乗れず、押し寄せる疲れという波にいまにも呑まれそうだった。何というかこの試験期間中、徹夜続きだったかのような。「徹夜続きだったんですよ・・・」　誰ともなしに答える。遊び惚けていたのではなく、新しい同居人のために力を尽くした結果であった。決して無為な行いに非ず。　少し前、とある事件に偶然巻き込まれた。その事件で敵に利用された少女・御名砂志津華と友誼を交わした夕魅那は彼女を同居させることにしたのだ。　生き方を縛る鎖から解放された志津華は自分のペースで歩き始め・・・るために様々な雑事があったのだ。　親権問題等法律に基づく問題は、事件で知り合った御門家の頭領が全て引き受けてくれた。志津華の才能を食い物にしていた親失格の彼らは２度と「親だから」という免罪符を使えなくされた。結構なことである。　ここからが徹夜に関係した。その人でなしのせいで志津華は高校に通っていなかった。これを機会に通うことを決めたのだが、４月を待てば彼女は１年遅れの入学になってしまう。そこで御門は志津華の扱いを転入であるよう細工した。もちろん、余人の見抜ける類の根回しではない。　そう、巧みにすぎた。不正がないゆえに正式な手筈通り、志津華は編入試験を受けるという事態を迎えてしまったのだった・・・今回の期末試験がまさにそれ。同学年の夕魅那が指導と相成った・・・徹夜で。　幸い志津華は独学でかなりの知識を得ており、時間の無さ以外はトラブルなく勉学は終了した・・・という次第。　常日頃の数倍の手間をかけて試験勉強をした夕魅那。頭の良さも手伝ってか、この期末で学年１位を獲得することは来学期知ることだが、現在知る由もない。　余談はともかく、志津華の出来については全く心配してはいない。筆記の出来も良かったのだが、大丈夫だと思えるもうひとつの理由。それは（志津華さんが音楽科を選んだから、ね）　校内の騒音が遠くから消えていくのがわかった。静けさはゆっくりと、でも確実に学校全体に広がっていく。さらに耳を澄ませば、その静寂は微かなメロディであることがわかっただろう。反響しながら通り抜けた旋律が雑念を奪う。複雑な思考を単純な感動に変えていく。本来なら聞こえるはずのない音楽室からの演奏が校内を渡った。　曲目は＜春の花、夏の陽、秋の葉、冬の風＞。四季を表現した志津華の最初に作った曲。　志津華はかつてピアノの天才と呼ばれた過去を持つ。心ない両親からの仕打ち等のせいで一度は好きだった音楽を捨てた彼女だが、過去と訣別したことをきっかけに改めてマイペースに取り組む事を決めたのだった。その感性が今も健在であるかどうかは言うまでもない。（まあ、私は知ってたんだけど）　曲を＜知覚球域＞でクリアに聞きながら、夕魅那はひとり優越感に浸っていた。実のところ同居をはじめてまもなく、夕魅那は志津華に決意を打ち明けられていたのだ。それをひとしきり喜んだ後、夕魅那は図々しいお願いをした。　小さい頃彼女は＜風の雪＞という曲がとても好きだった。その曲の作曲及び演奏者が志津華だと最近知った彼女は、「ひと月は私が家事洗濯の全てをさせていただきますから、どうか＜風の雪＞を一回、弾いてもらえないでしょうか」　と頼み込み、自宅のピアノで弾いてもらったのだ。もう感想とかどうとか言うレベルを越えた感激ぶりでその日１日彼女は何も手につかない状態だった・・・。　曲が終わった。それに応じて起こる拍手、拍手、拍手。誰が音頭を取ったわけでもないのに校内でスタンディングオペレーション。これで志津華が不合格ならば、それは拍手の騒音が原因だろう。すぐさま校内放送が入り、アンコールを禁止したのは賢明な判断だったと思う。それでも拍手は鳴りやまず、志津華の演奏に惜しみなく与えられた・・・。「・・・にしてもすごかったね、あの騒ぎ」　２０分後、ようやく観客の落ちついた甲子園球場のような校内。自分も例外なく拍手していた楠木優子はいつもの快活さに欠けるような気がした、いや、間違いなく。何というかこの後ろめたいと身体全体が訴えている。＜知覚球域＞にも発汗や鼓動の変化が克明に検出できた。優子の性格では密かに嘘をつく、などというテクニックはとてもじゃないが使えない。白状する前からやましさが溢れ出しているのだから。　ここまでくると気付かないふりすら心苦しい。仕方なくこちらから水を向けた。「優子さん、何か相談事でも？」　未だに敬語が抜けていないことをいつもは抗議する優子も、今日ばかりはそんな瑣末なことを口にしない。それどころではなかったのだ、彼女の心中は。「ごめんっ！！！！」　開口一番はそれだった。何を謝っているのか、そしてどう答えるべきか。むしろその謝罪は夕魅那の困惑を増しただけだった。　優子はただただ話した、自分の心の内、そして展望を、期待を、不安を。　夕魅那はただただ聞き入った。どう口を挟むべきかを思いつけなかったがために。「・・・というわけだから。ホントごめんね、恩に着るよ！！」　説明がなされたあとの夕魅那の後に残されたのは、何だったのだろうか。　夕刻。あれから夕魅那、志津華、マサキの３人は連れ立って夕魅那の家にいた。もちろん護衛を勤める御門・村雨・芙蓉の幾人かもいるのだろうが、この姦しい空間を避けたのか居間にはその姿はない。彼女らは前の事件で知り合ってから友人としてしばしば交友を持った。特にマサキにとって彼女らは女友達として貴重な位置にいた。恋愛対象となることを避ける為に友人を作らなかったマサキにとって、極めて大切な友人といえる。　それはともかく、夕魅那は今日優子から一方的にされた話を２人に聞いてもらっていた。「まず、これを見てもらいたいの」　優子が机に置いたのは一枚のチラシ。「・・・タレントオーディション・・・？」　それは（優子に聞いた話によると）多くの一流芸能プロダクションが一般に門戸を開いている年に一度のタレント発掘イベントだった。夕魅那も詳しくは知らなかったが、何度かその中継を見たことはある。「これが・・・？」「あたしね、一度こういうのに挑戦してみたかったのよ」　事態の掴めない夕魅那の質問は、夢見がちな優子の独り言に打ち消された。「自分がどれだけの存在なのか、こういう大勢の中で確かめてみたいの」「はあ・・・」　応募要綱を見る。一次審査・二次審査は書類選考、三次選考は各地方で行い、最終選考を１２月２４日、武道館で・・・。「これ、もう応募終わってますよ」「もちろん知ってる。申し込んだのはひと月以上前ですもん」　そんなお約束のボケはしないわ、と彼女はやや憤慨し、「それに、もう二次審査の結果も返ってきたし」　そう言って一枚の葉書を見せる。型通りの挨拶から結果を伝える文章までの数行。その赤文字は・・・。「合格したんですか、おめでとうございます」「ありがと。・・・で、次の３次審査が明後日あるんだけど・・・」「がんばってくださいね」「うん、まあ」　急に歯切れが悪くなった。決意と躊躇の双方を何度か夕魅那の目の前で演じ、やがて決意が勝ったのか。「夕魅那も来てほしいんだ、ここに」「審査会場にですか、でも関係者以外来場不可になってますよ？」　葉書の注意書きにそうあった。２次審査クリア段階でも各地方５０名前後の人間が候補に残っていたから、全員が知り合いを連れ込むなどというのは混雑の元になるかららしい。そう指摘すると一層優子は困った顔を見せる。「そこを何とかお願い、ねっ」　何だか言ってることが支離滅裂だ。私の問題ではなく、このオーディションとやらの方針であれば私にはどうすることも出来ない。「演出の手伝いをしてくれる人なら何人か連れていってもいいことになってんの。だから」「はあ」　状況がよく飲み込めない。だから曖昧な返事を重ねていたのだが。「うっうっ・・・ひっく・・・」　優子は突然その場にしゃがみこみ、顔を伏せて泣き出した。あまりにしらじらしい行動だが、事の推移に流されていただけの夕魅那に＜冷静＞さは生じなかった。＜知覚球域＞を使うことすら思いつかなかったのだから。「ひっく・・・夕魅那はあたしがキライなのね・・・部活の勧誘も結局断られたし・・・今度も・・・ううっ・・・」「え、ええ・・・と？」「そしてあたしはひとり・・・誰も知らない人たちの中で恥をかくのね・・・よよよよ・・・」　嘘もシリアスも苦手な優子の嘘泣きが限界に達しつつあった。既に泣き方がろくでもない。次は「るーるるるー」とでも泣くのだろうか。まあそれはわからなかった。他人に優しいというか甘い彼女がいとも簡単に折れたので。「わ、わかりましたから、その、泣き止んで・・・」「ホント！？」　輝かんばかりの笑顔。してやってりという表情を夕魅那は見て取れただろうか。「は、はい」　出来なかったらしい。「よっしゃあ！　いや～、いくらあたしでも心細かったのよね～。夕魅那が来てくれるならもう安心ってもんよ、はっはっは」　優子に一片の暗い影なし。オドオドしていたなどと今の彼女から誰が信じようか。極端にすぎた。「・・・というようなことがあったんです」　それにしてもわからないことがひとつ。私を頼ってくれたのはこれ以上なく嬉しいことだが、優子さんは学年一といってもいいくらいの人気者である。それに比例して友人の数も多いはずだ。にもかかわらずどうしてわたしなのだろうか。「我が弱いからでしょうか？」　そんなことを真顔で問い掛ける夕魅那に、マサキと志津華が苦笑いを向けあった。２人の思いは同じ、（その優子という娘、人を見る目がある）　表現しづらいのだが、夕魅那には他人を安心させるなにかがあった。それは心の冷たきことを司る＜力＞による作用かもしれないがとにかく落ちつくのだ。当然本人にはわからない資質である。「まあ、別に参加しろと言ってる訳ではないのでしょうし、害はないじゃないですか」「ですね。わたしは『実は夕魅那の分まで申し込んじゃってました』とかの展開を期待していました」「そ、それはちょっと」　当日。「う～ん、いい天気よねえ。あたしの前途を祝ってくれてるみたいだわ！」「優子さん・・・元気いっぱいですね」「ですね」　わざわざ夕魅那の自宅まで迎えに来た優子は溢れる精気を漲らせて会場前に立っていた。その様子に夕魅那と志津華はただただ圧倒させるばかりであった。ちなみに何故ここに志津華がいるかというと、「あの、わたしもこういった機会に見聞を広めたいんですけれど」「あははは。是非一緒に来てください」といったようなやり取りがあったからだ。　なお、優子の様にハイテンションなのは彼女だけではない。あちらこちらでやる気に満ちた少女達を見かけることができた。いや、むしろ夕魅那や志津華のような見物を目的にした者の方がいない。「ふっふっふっふ・・・あたしはやるわ。持てる力の全てを出して頑張る！！」　このような状況下で異質な存在を見つけることは出来るだろうか。結果的に言えば夕魅那達にはわからなかった。彼女とても常に＜知覚球域＞を全開にしているわけではないのだ、こういった見落としは夕魅那のせいではあるまい。「ここか？」「御意。間違いありません。ここに現れましょう」「・・・想像より人の数が多いが・・・常日頃に比べれば少ない方か」「被害は最小限に、とのおおせに従い今日を選んでございます」「現し世に完全はない、か。よかろう、今日は顔見せ程度を考えていたからな」「・・・あっ、そうだ！　今日この会場にすごいアイドルが審査員で来てるんだった。彼女を生で見れるんだから、ついてると思わなきゃね」　思いつきで話している優子がそのことを思い出したのは更衣室だった。夕魅那と志津華は別に着替えるわけでもなかったが、やる気全快の優子はステージ衣装を用意していたのだった。「有名な人なんですか？　私、あまりそういうの知らなくて」「わたしも」「あんた達・・・そんなんでよくここに来たよね」「優子さん・・・」「ウソウソ！　冗談だから！！　・・・でも彼女の歌くらいは聞いたことあると思うけどな」　彼女はこのオーディションの出身というわけではない、スカウトされた身だった。所属事務所がスポンサーのひとつであるという関係で審査員の一席を担うことになっているのだが、少し戸惑っていた。どういった基準で良し悪しを定めるのか、そういったことに慣れていない彼女にとって、彼女の一票がその人の人生を左右するかもしれないという位置は精神的に重かった。　浮かない顔の理由はそういう訳である。「さやかちゃん、いる？」　控室のドアをノックする音と、好ましい声。常に自分を支えてくれる彼の声に舞園さやかはそれまでの憂いを断ち切って返事した。「どうぞ、霧島くん」　彼の印象は好青年、このひと言に尽きるだろう。しかし見た目からは想像出来ないほどの剣の達人であり、また前世がスサノオという＜力＞の持ち主でもあった。「どうしたのさやかちゃん、何だか元気ないよ？」　彼は平成の歌姫と呼ばれるトップアイドルとしての彼女ではなく、舞園さやかというひとりの女の子を護る騎士としての誓いを己に立てていた。そのさやかもまたクシナダの転生体として歌に＜力＞を込めることが出来た。ちなみにスサノオとクシナダの関係は騎士と姫ではなく、夫婦である。「・・・やっぱり霧島くんには隠せないね」　見事にカラ元気を看破した霧島に、その悩みを語った。「わたしの一票が今日夢見てここに来る子たちの人生を左右する・・・そう思うと何だか重くって」「うん・・・でもこうも言えるよね。さやかちゃんが選んだからこそ、その子が選ばれたのかもしれないって」　物事の両面性を簡単に説明しただけだが、霧島の思いやりはさやかに充分伝わった。「ありがとう、霧島くん」　カラ元気が本当の元気になった、それは彼のおかげ。彼はいつもさやかに力を与えてくれる。「さやかちゃん・・・」「霧島くん・・・」　それ以上話すこともなく、２人は見つめ合い・・・「さやかちゃん、そろそろスタンバって！」「・・・はーい、わかりましたぁ！」　だいたいこんな感じである。霧島とさやか、友達以上である２人に先はいつ訪れるのだろうか。　有名オーディションといっても中継のない予選である。そのステージは光量もたいしたことのない、参加者の腰掛ける椅子とてパイプ椅子。きらびやかな世界の裏側などこんなものだろう。「あ、志津華さんだ」　ただ舞台の整うことを待たされていた夕魅那が２階席最前列から手を振る志津華を見つけた。夕魅那が何故出場者と同じ場所にいるかというと、優子のコーラスを引き受けたからだった。「審査の前半は出番ないから。歌唱審査は後半だから気楽にしてて」「はあ・・・」「緊張してる？」　優子はかなり落ちついていた。周囲の少女達と比べるとそれはもう顕著だった。マサキや志津華の思った通り、夕魅那はこういった影響をもたらすのだった。「・・・気のせいかもしれないんですけど、何だか物珍しげに見られてる様な・・・」　＜知覚球域＞でも確認出来たので気のせいではないはずだ。はっきり言わないのはこれから大事に挑戦する優子に気を使ったから。　　しかし優子はそんなこととっくに気付いていたのだ。そして理由も。（う～ん、ある程度予想してたけど、ここまで視線を集めるとは・・・）　視線の主はこの場にいる人間のほとんど。出場者からスタッフから審査員から・・・。　当たり前だが今日はオーディションなわけだ。審査員はもちろん、スタッフ一同参加者を見る。様々な意見・異論もあろうが、人間は第一印象をやはり見かけで決める。もちろんその人間と交友関係になり、その人柄に触れたりするなら印象も変わろうというものだが、こんな場所では間違いなく容姿が重要だろう。　優子とて自分の容姿にそれなりの自負はある、そうでなければこんなイベントに参加しないだろう。でも、と居心地悪そうな夕魅那に目を向ければそんな思いは消し飛ぶ。（なんていうか、格が違うんだもん、しょうがないよ）　夕魅那に向けられた視線はそういったものだ。感嘆の方向性を持つのは男、妬み嫉みのそれは女。だいたいそういう内訳で彼女は注目されていた。　彼女の存在は審査員達にひとつの騒動を提供していた。夕魅那のプロフィールを詳しく調べようと手持ちの資料を漁ったが該当者が見当たらなかったのだ。コーラス参加の立場としては当然なのだが、スタッフの不備から連絡が行き届かなかったらしい。幾人かのスタッフとのやり取りが交わされてその事実に辿り着いた彼ら（主に男）は非常に落胆した。（参加者じゃなかったんですか・・・）　舞園さやかもがっかりしたひとりだった。その天性の歌姫、いや神代の昔よりの巫女は夕魅那に何かを感じていたのだ。同調、とでもいうべきだろうか、そういうものを。　そんな騒ぎとは全く無縁の志津華は無人だと思っていた２階席に自分以外の人影を認めた。向こうも彼女に気付いたようで、軽く目礼を寄越した。反射的に礼を返しながら、その少年を一瞥する。（印象としては・・・さわやかな少年、かな？）　陽の気を発散させている彼はおそらく同い年くらいだろうが、その雰囲気が幼く感じさせる。無邪気さは童心の現れなのだ。　このときはそれ以上の関心を彼に持つことはなかった。棒状の包みを手にしていることにも気を払わなかった。　オーディションの前半がつつがなく終了した、そのほぼ同時刻、人気のない玄関ロビーにて。「よろしいのですか？」「かまわない。彼だったら、この程度の障害は切り開いてくるさ」「御意。・・・黄泉路に彷徨う虫怪のものよ、我が閉じし根の奥より現れることを許す」　丁寧な声の導くまま、それは這い出てきた。声の主が持つ掌に乗るくらいの小瓶、それから出てきたのは大百足。姿を現すや否やその身体を膨張させ、その胴体は丸太ほどもある。長さに至っては何メートルだろうか、そういった巨大な百足が現世に呼び出された。その数は一匹や二匹ではない、総数六匹。「彼は二階客席、彼女は一階客席に姿を確認しております。百足の行動は手筈通りで」「それでいいよ」　百足の群れはその姿を希薄にさせていき、やがては完全に空気の中に溶け込んだ。召喚せし者の意を受けて行動するために。　異変は前触れなく起こり始めた。「え～、審査の後半は一時間の休憩を置いて、午後一時から・・・」　今日の審査の司会を務めるディレクターが舞台上で急に倒れこんだ。驚きざわめく参加者や審査員の見守る中、袖で見ていた他のスタッフが彼に駆け寄って・・・そのスタッフも側に並んだ。異常事態にその場の人間がパニックを起こすか、といえばその兆候はまるでなかった。何故ならば彼らふたりを契機に次々と、会場内の人間が意識を失っていったからだ。苦しい様子は全くない、それこそ安らかな眠りにつくかのようだった。「優子さん・・・優子さん！！」　舞台の上で唯一意識を保っていたのはもはや夕魅那だけである。この状況の中、彼女は友人である優子の体調を＜知覚球域＞で測った。心拍数・呼吸ともに異常なし、体内機能の低下確認できず、精神状態極めて安定、緊張状態の緩和すら認められる状態・・・。「安眠状態・・・？」　舞台で倒れた他の人達も知覚してみる。そのいずれも異常は見られない、優子さんと同じリラックスして眠っているだけに思えた。何が起こっているのか、そしてどうして私は彼女らのように意識を失わないのか・・・夕魅那は＜冷静＞さを必要であることを理解した。そう、これはまさしく非日常の影・・・。　審査員席のさやかも、この事態に慌てながらも意識をしっかり持っていたひとり。（霧島くん・・・！）　しかし彼女は夕魅那のように事態の推移を受け止められたわけではなかった。それは彼女が霧島という心の支えを失っているからだけではない、彼女の内側でざわめいている感触があった。胸騒ぎが押し寄せていた。精神を揺らがせる何かがさやかを必要以上に怯えさせていたのだった。見えない恐怖が苦しめていたのだ。（何が、何が起こっているの・・・？）　この非常時を高みから眺めやっていた者もいる。立場ではなく、そのまま高い位置から見下ろしていただけだが。「さやかちゃん！！」　霧島の行動理念は単純だった。理屈などは後から考えればいい、さやかを護る・・・それが彼の意思。彼は手にした長い包みを強く握り締め、そのまま走り出した。一階に向かう階段にではなく、二階席の最前列、そしてその前に広がる空間に。　彼は飛び降りた、一階席に。　二階にはもうひとり、御名砂志津華もいた。彼女は霧島の暴挙を信じられないような顔で見送った。介入する暇もなかったから仕方ない。呆気に取られ、そして正気付く。「うそ・・・」　慌てて身を乗り出す、そして階下で平然と駆け出した霧島を見つける。「・・・」　驚きを無理矢理呑みこむ。今はそんなことに衝撃を感じている場合ではないはずだった。あれくらいはアクションスターならできるだろう、多分。それよりも気にすべきことは生じた非日常。　志津華も階下に急いだ。彼女も二階席から＜力＞を使って降りることを選んだ。その方法とは・・・。　舞台に蒼い光が差す。それはひとりの魔人の降臨を示した。凍える刃を操りし、冷たき心を持った彼女の。　本格的に＜知覚球域＞を展開させる。この状況を少しでも把握することが必要だと判断したからだ。複数の情報が押し寄せる、大気の成分に溶け込んだ＜力＞の存在、その＜力＞を体内に取りこんだ優子達は昏睡状態ではあるが命に別状はないという安心すべき情報は不幸中の幸いだといえる。そしてその＜力＞を行使したモノを探し出すべく・・・。　思索が中断を余儀なくされる。探していたモノとは違うそれを知覚したからだ。　観客席から私を直視する者がいる、その彼女は意識を失ってはいない。汚染された大気の＜力＞はある程度＜力＞を持つ者に対しては有効ではないことが情報として述べられていた。それから察するに彼女は＜人ならざる者＞である可能性が高かった。（敵、味方、中立・・・）　以前の経験から誤解を避ける必要を感じた。「どうされましたか？」　震えながらこちらを伺うその姿は到底何かしでかした人物には思えない。むしろこちらの立場を測っている態度に見えた。「信じてもらう必要はありませんが、私は・・・」　＜冷静＞ながらもできるだけ怯えさせないような口調を保っていたのだが、そうもいかなくなった。新たな存在を感知した。目には映らない、しかし確かにいる。その長い体躯を持つ何かは・・・舞台下の彼女を狙う挙動を示していた。　逃げるよう説得する時間はなかった。「我が力　雹塊となり　道を阻む者を　貫かん・・・」　見えない、という事象は彼女にとって何ら障害となり得ない。夕魅那はその存在を脳裏に描きながら、焦点を合わせた。「雹魔弾！」　鋭い切っ先を伴った氷の塊が無数の砲弾となって放たれた。何が起きたのかわからなかったのだろう、その少女は大きく目を見開いたままで硬直し、砲弾の軌跡はその彼女を横切って何もないはずの空間で炸裂した。　金属同士がぶつかったような重い音が響く、そして「ギャギャギャギャギャギャギャギャギャアアア！！」　それが姿を現した。そこにいた目に見えないモノがその＜力＞を失ったのだろう。鎌首をもたげていたであろうそれは頭部を砕かれて、落雷を受けた大樹のように地響きを立てて倒れた。　そうしてさやかにもその化け物がみえるようになった。頭部を半ば吹き飛ばされてもその場で蠢動している大百足の姿、そのおぞましさに彼女は戦慄した。　さやかは判断を誤った。彼女はさっさと逃げるべきだったのだ、しかし彼女は立ちすくんだ。そして百足も死んではいなかった。それは残った命を振り絞り、さやかに再び襲いかかった。「きゃあああああああ！！」　歌に＜力＞を込める余裕はなかった。彼女は眼前に大きな顎がただ迫るのを怯えた顔で見やって・・・視界が一転した。　不思議な浮遊感を覚えていることにさやかはしばし混乱する。そしていま自分が誰かに抱えられ、その人物があの場から跳躍したのだな、と理解するにはさらに時を要した。（霧島くん・・・？）　彼ではなかった、いや、男性ですらなかった。わたしを助けてくれたのは氷の美貌をした女性。そう、舞台から＜力＞を放ったあの女性、オーディションで最も注目を集めながら参加者ではなかった彼女・・・。　さやかを救い出した夕魅那は舞台の上に戻った。彼女を安全圏に置くため、そして百足を迎え撃つため。「あの・・・」「下がっていなさい」「は、はい」　命令口調なのに居丈高ではない、不思議に安心感をもたらす夕魅那の言にさやかは抗弁せずに従った。未だに状況は掴めない中、彼女はたったひとつだけ信じられるものを見出した。（あの人は、信じられる）　鋭い＜力＞を以て大百足を倒した彼女の背中を見つめながら、信じてもいいと思えた。あとがきを読む次を読む話数選択に戻るＳＳ選択に戻る茶処日ノ出屋書庫に戻る

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